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第七話/闘争
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一刻も早く、止めなければ、じりりりりと耳元で鳴り続けている目覚まし時計を。
時計のスイッチを手探りで探し当てると、押して音を止める。
なんだか、凄くリアルな夢を見ていた気がするが具体的な内容は思い出せない。
思い出そうとも思えない。
なぜならと問われると、思考はすっかり日常の裏側に向いてしまっているからだ。
「とっくんー朝ごはんはパンでいい?」
それでも時というものは常に変化して、人を動かしてくる。 万物流転だ。
「いいよ、マーガリンで頼む」
こんな会話ができるのも、今日が最後かもしれないというのに、あまり現実に没入できなくて淡白な返事をしてしまう。
二人が屍鬼を狩り続けた結果、彼らの大元であるヘイルがついに姿を現した。
二人のどちらか、または両者はヘイルとの衝突を避けられないだろう。
絢音であろうと、ミカであろうと、失うのは嫌だ。
陰鬱な気持ちで洗面所に行って顔を洗って、歯を磨く。
朝食の味などはほとんど覚えていない。
通学中の会話も、「絢音の通う高校から例の殺人事件の被害者と思われる、二人の女子生徒の死者が出たというメールが届いた」という話題以外は、俺が絢音に生返事を返しているだけだったような気がする。 これが最後の機会なのかもしれないのだから、じっくりと脳に発音の一つ一つまでもを覚えさせるように堪能しておくべきなのだろうが。
教室に着いて、ほとんどの授業を思考に費やして六時間目の授業を終えると、中嶋に声をかけられる前に一人で帰宅。
答えの出ないことについてひたすらに考えながら、絢音の作った麻婆豆腐を食べて、風呂に浸かる。
本来ならば、仮眠を取っておくべきなのだろうが、脳が加速、すっかり興奮してしまって寝られない。
布団に入って三時間ほど経過すると、ごそごそと布団から抜けて着替える音がした後にぎぃと床の軋む音がして絢音が家を出て行く。
俺はただただ、二人が心配でいても立ってもいられず、バレるのも覚悟の上でほとんど時間差を開けずに絢音の後を追うことにした。
目の前で殺されるのを見るのも嫌だが、自分の知らないところで殺されているなんてもっと嫌だ。
絢音の二百メートルほど後ろを音を殺して歩いていく。 視力にはなかなかの自信があるが、街灯もない夜の道だとこれくらいの距離が限界だ。
十分ほど歩くとふと、遠くからどどどどと一トンほどある巨石が地面を転がっているような轟音を聞く。
間違いない━━━━俺は音のした方向、公園へと駆けていった。
公園には案の定というか、立っているのが不思議なくらいに傷付いているミカとヘイル、そして蝗のような化け物の大群がいた。
ミカは喀血を吐いたのか、口の周りには凝固しつつある血がこびりつき、彼女から見て左側から化け物が噛み付いてくるのを避ける動作もどこかぎこちない。 間一髪で噛み付かれるのを避けるが、後ろに構えていた化け物に背中を大きく蹴られて真っ直ぐ吹き飛び、ジャングルジムに衝突して止まる。
凹んで形状が変化したジャングルジムに沈み込んだミカは勢いよく喀血を吐いて、俺の存在に気が付くと傷が痛むのも構わず、笑いかけてきた。 骨も何本か折れているだろう。
風前の灯火というところか。
俺は……。
そんな彼女がいじらしくてたまらない。
だから。
右手に武器を逆手に構え、化け物の大群に駆ける。
百メートル、五十メートル、十メートルと大群との距離を縮めていった。 ほとんど自殺行為、死が目前に迫っているというのに、心は動揺すらなく鉄のように冷たくて硬い。
「巴……くん?」
ミカが左目だけを辛うじて開けてこちらを見ている。
「おおおおおおおおお!!」
化け物は迫ってくる俺の姿を見るときしゃあと奇声をあげ、口を大きく開く。 化け物の前で大きく跳躍、攻撃を避けるとGに任せて地面に落ちていく勢いと体重をかけた一撃で頭蓋を穿つ。
頭蓋を貫通された化け物はぎぃぃぃと黒板を爪で擦るような不快な断末魔をあげ地面に倒れると、全身の色が淡くなりやがて粉化、風に溶けていった。
「━━━━なに?」
今まで俺のことを視界に入れようとすらしていなかったヘイルは、前髪から覗ける左目を見開き、驚きを露にする。
「……使い魔、否。 使い魔如きがこの私の『黙示の蝗害(アバドン)』を殺すなど、ありえない話だ。 ……女、こんな''化け物''をどこで拾ってきたというのだ?」
ミカは痛苦に苦しみ、喀血を吐きながらもヘイルを嘲る笑顔を浮かべて語り出した。
「蒔片 巴……彼は蒔片というまだ日本に存在していた『退魔機構』の最後の戦士。 その技術の純度は一千年前から変わることなく受け継がれている。 ''借り物''の蝗如きじゃ、『技術の極点』に肉薄する彼は殺せません」
ヘイルはそれを聞くとバツの悪い顔を浮かべて舌打ちをし、俺を睥睨する。
……退魔機構……技術の極点……?
俺は、ミカがなにを言っているのかよくわからない。
だが、やるべきだけはハッキリとしている。
この迫る蝗の大群を一匹残らず殺せばいい。
幸い、こういう手合いの殺(や)り方は感覚的に分かる。
頭蓋に凶器を突き立てて少し掻き混ぜてやれば、容易に殺せる。
昨日、こんなヤツらに怯えていたのが馬鹿みたいだ。
俺の横腹を食い千切らんと迫ってきたヤツはそいつの低く構えられた頭部に手を当て、そこを起点として宙に舞う形で攻撃を避け、そのまま後ろに着地、後ろから頭蓋に凶器を突き立てて仕留める。
もう一匹、着地した俺に一矢報いてやろうと正面から強靭な顎を飛ばしてきたが、それを横に避けてそのまま一回転、凶器を顎から突き立てて頭蓋を貫通させる。
更にもう一匹、四方向からの化け物の攻撃を逃れるために空中に逃れた俺に羽根を羽ばたかせて飛んでくる。 だが、俺はそいつの頭部を蹴り上げ、更に高く舞い空中で一回転、回転の勢いをつけて頭蓋を貫通させて殺す。
僅か五秒の間に三匹、仕留められた。
なんだ、思っていたよりもよっぽど簡単に殺せるじゃないか。 赤子の手を捻るよりも容易い。
理性が段々と、血の色に染まっていく。 それに比例して、本調子が出てくる。
その調子でざくざくと、確実に仕留めていく。
その数が数十に達するところで、絶えず俺を睨みつけてきていたヘイルが叫ぶ。
「もういい! 退け!」
死にかけの老人みたいに細い褐色色の手を前に突き出すと、鉛色の化け物の大群は段々と淡色に変わり、粉化すると風に溶けていった。
肩で息をしているヘイルの虹彩は血の色に染まり、瞳孔は縦長に伸びる。 どこかの誰かみたいに、すっかり興奮している様子。
「……先代のヘイルを十支から降ろしたこの私が直々に貴様を殺す」
そう言ったヘイルは病人みたいにふらふらした足取りで前にやってくる。 なにか呪詛のようなものをぶつぶつと呟きながら、やってくる。
「巴くん!」
もう動けるくらいに回復したのか、ミカははっと顔色を変えるとこちらに駆けてくる。
が、既に遅かった様子。
「━━━━『永遠の痛苦(エターナル・ペイン)』ッ!!」
ヘイルがそう叫ぶや否や、右肩と左胸を鞭で激しく打たれるような激痛。
痛む部位を抑えても、痛みは止むことはなく、むしろ加速度的に痛みは増していく。 痛む面積は広がっていく。
「が━━━━あ」
流石に耐えられなくなって、地面に膝をつき声を漏らす。
全身が痛くて、ありえないくらいに熱くて、心臓は飛び出しそうなくらい暴れている。 いっそ、死んでしまえたら楽だと思うほどの苦痛。
熱く、紅く燃えていた心は再び鉄のように冷めていく。
なんだ、これ━━━━
痛みに耐えられなくて、大の字に伸びて痛む部位を闇雲に地面に打ち付けている。
俺に近付いてきたミカが必死になにかを訴えている。
が、聞こえない。
痛みとその面積は加速度的に増していて、理性は痛みから逃れるために意識を放棄することにしたらしい。
段々と、意識が、ブラックアウトしていく……。
◇
気付けば、激しい熱と痛みからは解放されていた。
空に浮かぶ三日月は満月に変わり、周りの風景は非常に見覚えのある場所へと変わっている。
辺りを見回すと━━ここは、引っ越す前に住んでいた武家屋敷の広い庭だ。
夢でも、見ていたのだろうか。
はたまた、これが夢なのだろうか。
たったったっと下駄を履いた誰かが駆けてくるような音。 段々とその音は近付いてくる。
その音を聞くと、酷く胸が苦しくなる。
まるで、誰かから後ろめたいことを叱責されているような気持ち。
たったったっと、音は段々と近くなっていく。
ぽたぽたと地面に液体が零れ落ちる音。 ぬらぬらと、自分の手が紅い液体に濡れていることに気が付く。
これは……血液?
風に乗って鉄錆のような臭いが鼻を通るがその臭いも、手の濡れた感覚も、不思議なことに嫌な気持ちにはならない。
それらは逆に、俺の気分を高揚させる。
たったったっと、音の正体が分かった。
それは、二年前……俺が六歳の時に死んだ祖父の「蒔片 昭貴(あきたか)」であった。
後ろには祖母の「蒔片 衣子(きこ)」と母親である「蒔片 香苗」の二人がわなわなと体を震わせ、顔をこわばらせている。
そうして二人とも、数珠を手に握っていた。
何の意図か、昭貴は鬼のような形相で腰に携帯していた日本刀を抜くと、構えて叫ぶ。
「鬼の子がぁ!!」
昭貴はそう言うと音速の如き速度で俺に肉薄、刀を振り下ろさんとする。
目前まで殺意のこもった凶刃が迫っているというのに、驚きに声をあげる間もなく、否、喉が張り付いたたいに声をあげることは出来ず、両手での抵抗も虚しく勢いのついた刀で肩口から深く斬り込まれる。
傷口が訴える灼熱と激しい痛みに悶える━━━━ということはない。
ただ体が冷たくなっていく感覚と、母親の啜り泣く声を聞き取る聴覚だけがあって、冷静な精神状態のままに視野が狭窄、果てに意識がブラックアウトしていった。
思えば、俺の肩口には━━━━完全には治癒することはなかったのか、歪な形をした傷痕があった。
それは、刀で斬られたものの痕だと言われてもおかしくはないだろう。
……鬼の子。
その言葉が頭の中で何度も反芻する。
クソ……こんなところでくたばってたまるかよ。
クソ野郎が……死ね。
殺す……俺をこんなにも苦しませて、許せない。
許せない。 許せない。 許せない。 許せない。 許せない。 許せない。 否、許さない。
何かに触れた理性は段々と、灼熱に縁取られていく。
ただ、憎しみと怒りだけが蓄積していった。
そうして、それらの感情は一つの殺意という衝動に姿を変える。
その矛先が向かうのは……。
◇
「……くん!」
最初に戻ったのは視覚ではなく聴覚だった。
耳元で誰かが、なにかを訴える声が聞こえる。
「……巴くん!」
はっきりと、俺の名前が呼ばれるのを理解した。
それを引き金にしたように、意識の輪郭は段々と縁取られていく。
段々と、視界が広がっていって、ミカに肩を揺らされているのに気が付く。
そして、全身に筆舌に尽くし難い、この世の地獄としかいえない激痛が走る。
思わず声が漏れそうになる、歯は食いしばりすぎて折れてしまいそう。
これを止めるには……俺は覚束無い意識のまま、自分の左胸、心臓のあるところに凶器を突き立てた。
「え━━━━」
その動作と、服越しに噴き出すように勢いよく漏れ出てくる紅い液体を見たミカの顔色が真っ青に染まる。
衝撃から、思わず両手に持っていた俺の肩を地面に取り落としてしまう。 ごとんと頭蓋が地面にぶつかって、視界が揺れる。
「なにを……してるんですか!」
たしかに、イカれた行為だ。
自分で、自分の胸を突き刺すなんて。
だけど、確実に激痛と灼熱は後を引かずに俺の体から消えていった。
それらが無くなってしまえば、残るものは純粋な殺意だけ。
自分の手が汚れるのも構わず、治療の魔術でも使っていたのか俺の胸に触れていたミカの手を振り払って、立ち上がる。
「……てめぇ、吸血鬼。 この俺がこんな三流の呪術も殺せねぇと思ったか?」
自分でも意味の分からない言葉を吐いて立ち上がると、右手に持っていた自分の血でぬらぬらと濡れている凶器を掌と指を使って器用に回し、逆手に構え直す。
「な━━━━」
それを見たヘイルは目を剥いて、立ち尽くしていた。
自分の眼前で常識を真っ向から否定される現場に直面したかのように、呆然と立ち尽くす。
「まさか……この私の魔術を無効化したのか……!?」
ヘイルが再び俺に攻撃をしかけるよりも速く━━━━俺はヤツの懐に忍び込み、凶器を頭蓋に突き立てて貫通させた。
鼻と口から盛大に吹き出した喀血の一部が俺の頬にかかって、紅く染める。
まだだ、こんなことでは、殺せない。
ヘイルの頭蓋の穴から垂れた血液は腹を伝い足を伝い地面に広がり、小さな血の池を作った。
俺は自分の衝動の従うままに、後方転回をして後退。
思った通りヘイルの足元の血液は凝固、三次元的に拡大し、先端の尖った角笛のような形に変形、俺の体を穿たんと伸びる。
しかし、後退していたので間一髪で避けることができた。
ヘイルはちっと舌打ちをすると、貫通した頭部に手を当てながら問うてくる。
「……貴様、先程までとは''中身''が違うな?」
「さぁな、俺自身よくわかんねぇんだ。 だけど、お前みたいな鬼のなりそこないを解体(バラ)すのは初めてじゃねえからよ、舐めてっと死ぬぞ」
自分でも、よく分からない言葉が次から次へと、口から滑るように出ていく。 だけど、それを発現しているのは紛れもなく自分の意思だ。
「ふふ……はははははははは!! 面白い! こんなに面白い事象は二千年ぶりよ! 人生とはこうでなくてはな、共に全てを燃やし尽くそうぞ!」
ヘイルは狂笑を漏らすと、眼球を真っ赤に染め、腰を深く降ろし、両腕を広げて構えた。
「へっ……てめぇ一人で死にな、俺が引導をくれてやる」
決着の時は近い。
俺とヘイル、二人の間に極限まで張り詰めた空気が満ちる。 いつ、どちらの首が落ちてもおかしくない。
先に動いたのはヘイルだった。
ヘイルは歯を食いしばり顔中に血管を寄せ、右腕に黒い瘴気を纏わせると、急所を潰さんと歪に形作った右手を伸ばし、地面を蹴りこちらに音速で跳ぶ━━━━しかし、音速を凌駕する速度で俺の右手はヤツの残り六つの急所、体内に血液を循環させている六つの心臓を穿つ。
「が━━━━あ」
急所を掴み損ねたヘイルの右腕は虚空を掴む。
跳んだ勢いを殺せず、十メートルほどしたところでやっと動きが停止したヘイルは全身に空いた七つの穴から大量の血液を噴き出し、地面に倒れる。
「……まさか、死に意味を見出す時が来るとはな」
ヘイルはふふと不気味に笑うとそう漏らした。
俺は自分の仕留めた獲物の断末魔を聞くべく、近付いていく。
それは、こんなやつでも一人で死んでいくのは可哀想だと思っての行動だった。
「私の生涯……三千年の時に終止符を打った気分はどうだ?」
死を間際にしたヘイルの表情は、憎しみに満ちているでも、怒り狂っているでもない。
自分の子孫に囲まれて死ぬ老人のように、実に満足感に満ちた表情をしていた。
「……お前に吸い取られていった命が報われないと思う。 けど、人間の人生も大して変わんないだろ」
「そうか……そうだな。 吸血鬼といっても、命の分類が人間と違うだけで、本質的には人間とはなんら変わらないのだな」
ヘイルは少し寂しそうにそう言うと、全身が淡色に染まり水分を失い粉化。 ボロ布のような服を残して風に吹かれて消えていった。
「……」
成すべきことを成した俺の体は思い出したように重くなって、気付けば受け身も取れずに無様に地面に倒れていた。
ざっと砂の上を駆ける音が聞こえてくる。
「と……ん!」
「も……く……ん!」
必死に呼びかけてくるミカの声が聞こえるが、答えるだけの体力は残されていない。
疲労の蓄積に大量の出血。 今、こうして意識があることが不思議なくらいだ。
「……くんったら!」
激しく肩を揺らされる感覚があるが、彼女の意図とは正反対に意識は目覚めるどころかどんどんブラックアウトしていく。
すっかり狭窄した視界はもう、死にかけの俺を嘲るような三日月しか映していなかった。
◇
最初に視界に飛び込んできたものは、二つの色合いの異なる紺色だった。 夜空と、もう一つ見覚えのある紺色。
微かに血の臭いに混ざってする、柑橘系を想起させる後を引かない爽やかな甘い香り。 そしてラクダのコブのような二つの曲線の間では三日月が輝いていた。
後頭部は柔らかくて暖かいいものに沈んでいる。
紺色で……暖かくて……柔らかい……二つの曲線。
ん?
脳の処理が追いついて、顔が真っ赤になった。
俺は今、ミカに膝枕されているのか。
緊張の余りに、声をあげるということはなかったので、ミカはまだ俺が意識を取り戻したことに気が付いていない。
「うっ……」
わざとらしくたった今起きましたよという風に声をあげる。
「あっ! よかった、もしかしたらと思ってたけどちゃんと生きていたんですね! 治療の甲斐がありました」
言って、ミカはふらふらと頭が揺れ動いて、倒れかける。 あれだけの怪我をしておいて、それから人の怪我を治していたのだから疲れていて当然だろう。
「俺よりもミカの方がヤバくないか?」
「大丈夫、当面は死にませんよ。 巴くんがヘイルを倒してくれたお陰で」
ミカはそう言うとにこといつもの笑みを浮かべる。
それにしても……。
いつまで、膝に頭を乗せているつもりなんだ?
「……起きるよ」
そうして体を起こそうとすると、ミカの手によってその動作は停止させられる。
「……」
ミカの意図は読めないが、心臓は今にも飛び出しそうなくらいにばくばくと暴れていた。
「……ミカ?」
これでは赤くなった顔を隠すこともできない。 けれど、ミカは俺の顔ではなく夜空に浮かぶ三日月だけを見ていた。
「少し、お話をしましょう」
ミカはどこか申し訳なさそうな顔色を浮かべて俺の目を見つめてくると、そう言ってきた。
「……」
「巴くんがヘイルと戦ってる時に言いましたよね、あなたの実家が日本に現存する唯一の『退魔機構』であるということ」
「あぁ、にわかには信じがたい話だけど、たしかに聞いたよ」
ミカは俺を抑えていた手を胸から離すと、額の方に持ってきて俺の頭を撫でてくる。 はたして何の意図があるのだろう。
「私が左目に持つ『翡翠色の魔眼』は視た対象の過去の情報を読み取り、その情報から妥当な未来を計算するという能力です。 その性質上、見ただけでその人の過去を視ることができてしまうんです。 その能力の応用で、あなたのお母さんの記憶を少し、いやかなり覗かせてもらいました」
語り終え、俺の額から手を離すとミカは指で左目を指差した。 彼女の左目はそれを合図にしたようにアロマライトのような綺麗な翡翠色に輝き出す。
首肯して、続きを話すように促す。
「私は、そんな蒔片家、しいてはあなたを尾行、場合によっては殺害するのが私の所有権を持つ唯一神教の大修道士「アメリア=エルウィン」から課せられた第二の目的でした」
殺害という大きすぎる二文字は、自分が思っているよりも容易に受け入れることができた。
「俺を、殺さないのか? 多分、唯一神教は俺みたいなヤツを野放しにはしておかないだろう」
「蒔片 巴から充分な退魔能力が確認された場合は殺害するように命じられています。 十人いる邪神の眷属『十支』の一人である先代のヘイル=ローケストを倒し、その名前と眷属の蝗の行使権を奪った二代目ヘイルを倒したその実力、充分に退魔能力があると言えるでしょうね」
ミカはそこで言葉を区切ると、再び三日月に顔を向けて、はぁと嘆息を漏らす。
俺は続く言葉が気になって、短い空白の時間が何分にも感じられた。 だけど不思議と、殺されるかもしれないという恐怖はなかった。
それは俺が愚鈍なだけか。
「……だけど、殺せないんですよ」
言って、ミカは自嘲気味に笑う。
「……なんで?」
相手の気持ちを考慮しない、愚鈍な言葉だとは思いつつも俺はそう言った。
「普通の人は、命の恩人を殺すことなんて簡単にはできませんよ。 それに、そんなことよりも私はあなたと接触していくうちに自分でも気付かないままに惹かれてしまっていたみたいです。 私と同じような境遇なのに、前向きでいられるあなたに」
照れくさそうに笑うミカはとても吸血鬼や屍鬼といった人外のみならず、人をも殺す処刑人なんかには見えない。 ただの一人の少女にしか見えかった。
惹かれてしまった……その言葉を聞いて、俺はドキドキした。 それは、年頃の女の子に好かれるというのは、誰だってドキドキするだろう。
しかし、それとは違う。
俺は━━━━━ミカのことが好きだった。
彼女のその言葉で初めて、自分の感情を理解することとなった。
だけど、俺は八歳だ。 恋愛経験なんて欠片もない、なんて言葉を返せばいいのか分からない。
沈黙のまま、時が流れてゆく……。
だけど、好きな人の膝に埋まって過ごす沈黙は全く、苦痛ではなかった。 この沈黙を安寧にカテゴライズすることができる。
沈黙を破ったのは、ミカの方だった。
「私とあなたはどうせ結ばれない運命なので、あなたのことを想っていた女の子がいた程度に受け止めておいてください。 さぁ、起きてください。 そろそろ夜が明けてしまいますよ」
再び健気に笑うとそう言った。
俺は、彼女のことを幸福にしてやれない自分のことを憎く思う。
処刑人と処刑対象……コインの表と裏、必ず結ばれるということはないだろう。
ミカの体温が離れていくのは惜しいが、俺も彼女を見習ってすっきりと別れることに決めた。
「俺も……ミカのことが好きだったよ。 多分、異性として」
その言葉がかえって尾を引くと分かっていても。
言っておかないと、その気持ちは自分の中でも無かったことになってしまいそうで怖かったから、言っておくことにした。
「巴くん」
後ろに立っていたミカに声をかけられて反射的に振り返る、と━━━━ミカの艶のある唇が俺の頬に撫でるように優しく押し当てられる。
「あ━━━━」
唇が離されて、体温が上がる。脈拍が早くなる。
遠くからばくばくと、自分の心臓の音が聞こえてくる。
「巴くんは既に絢音さんの男なので、これだけで済ましておきます」
ミカははにかむ顔でそう言うと、ではといつものように手を振って闇に消えていった。 おそらく、彼女とは二度と会うことはないだろう。
もちろん、寂しいし気持ちの整理もつかない。
だけど、俺の口から出た言葉は実に淡白なものだった。
「あぁ、じゃあな」
最後にそんな言葉が出るあたり、俺は自分が思っている以上に愚鈍か、男らしいのだと思う。
また、蒔片家の秘密や同じ境遇というところについて聞いておこうかと思ったが、晩節を汚すような結果にはしたくなかったので、その疑問は心の奥にしまっておくことにした。
まだ頬にキスの感触が残っているうちに、帰って布団に入ろう。
俺は足早に家に向かった。
時計のスイッチを手探りで探し当てると、押して音を止める。
なんだか、凄くリアルな夢を見ていた気がするが具体的な内容は思い出せない。
思い出そうとも思えない。
なぜならと問われると、思考はすっかり日常の裏側に向いてしまっているからだ。
「とっくんー朝ごはんはパンでいい?」
それでも時というものは常に変化して、人を動かしてくる。 万物流転だ。
「いいよ、マーガリンで頼む」
こんな会話ができるのも、今日が最後かもしれないというのに、あまり現実に没入できなくて淡白な返事をしてしまう。
二人が屍鬼を狩り続けた結果、彼らの大元であるヘイルがついに姿を現した。
二人のどちらか、または両者はヘイルとの衝突を避けられないだろう。
絢音であろうと、ミカであろうと、失うのは嫌だ。
陰鬱な気持ちで洗面所に行って顔を洗って、歯を磨く。
朝食の味などはほとんど覚えていない。
通学中の会話も、「絢音の通う高校から例の殺人事件の被害者と思われる、二人の女子生徒の死者が出たというメールが届いた」という話題以外は、俺が絢音に生返事を返しているだけだったような気がする。 これが最後の機会なのかもしれないのだから、じっくりと脳に発音の一つ一つまでもを覚えさせるように堪能しておくべきなのだろうが。
教室に着いて、ほとんどの授業を思考に費やして六時間目の授業を終えると、中嶋に声をかけられる前に一人で帰宅。
答えの出ないことについてひたすらに考えながら、絢音の作った麻婆豆腐を食べて、風呂に浸かる。
本来ならば、仮眠を取っておくべきなのだろうが、脳が加速、すっかり興奮してしまって寝られない。
布団に入って三時間ほど経過すると、ごそごそと布団から抜けて着替える音がした後にぎぃと床の軋む音がして絢音が家を出て行く。
俺はただただ、二人が心配でいても立ってもいられず、バレるのも覚悟の上でほとんど時間差を開けずに絢音の後を追うことにした。
目の前で殺されるのを見るのも嫌だが、自分の知らないところで殺されているなんてもっと嫌だ。
絢音の二百メートルほど後ろを音を殺して歩いていく。 視力にはなかなかの自信があるが、街灯もない夜の道だとこれくらいの距離が限界だ。
十分ほど歩くとふと、遠くからどどどどと一トンほどある巨石が地面を転がっているような轟音を聞く。
間違いない━━━━俺は音のした方向、公園へと駆けていった。
公園には案の定というか、立っているのが不思議なくらいに傷付いているミカとヘイル、そして蝗のような化け物の大群がいた。
ミカは喀血を吐いたのか、口の周りには凝固しつつある血がこびりつき、彼女から見て左側から化け物が噛み付いてくるのを避ける動作もどこかぎこちない。 間一髪で噛み付かれるのを避けるが、後ろに構えていた化け物に背中を大きく蹴られて真っ直ぐ吹き飛び、ジャングルジムに衝突して止まる。
凹んで形状が変化したジャングルジムに沈み込んだミカは勢いよく喀血を吐いて、俺の存在に気が付くと傷が痛むのも構わず、笑いかけてきた。 骨も何本か折れているだろう。
風前の灯火というところか。
俺は……。
そんな彼女がいじらしくてたまらない。
だから。
右手に武器を逆手に構え、化け物の大群に駆ける。
百メートル、五十メートル、十メートルと大群との距離を縮めていった。 ほとんど自殺行為、死が目前に迫っているというのに、心は動揺すらなく鉄のように冷たくて硬い。
「巴……くん?」
ミカが左目だけを辛うじて開けてこちらを見ている。
「おおおおおおおおお!!」
化け物は迫ってくる俺の姿を見るときしゃあと奇声をあげ、口を大きく開く。 化け物の前で大きく跳躍、攻撃を避けるとGに任せて地面に落ちていく勢いと体重をかけた一撃で頭蓋を穿つ。
頭蓋を貫通された化け物はぎぃぃぃと黒板を爪で擦るような不快な断末魔をあげ地面に倒れると、全身の色が淡くなりやがて粉化、風に溶けていった。
「━━━━なに?」
今まで俺のことを視界に入れようとすらしていなかったヘイルは、前髪から覗ける左目を見開き、驚きを露にする。
「……使い魔、否。 使い魔如きがこの私の『黙示の蝗害(アバドン)』を殺すなど、ありえない話だ。 ……女、こんな''化け物''をどこで拾ってきたというのだ?」
ミカは痛苦に苦しみ、喀血を吐きながらもヘイルを嘲る笑顔を浮かべて語り出した。
「蒔片 巴……彼は蒔片というまだ日本に存在していた『退魔機構』の最後の戦士。 その技術の純度は一千年前から変わることなく受け継がれている。 ''借り物''の蝗如きじゃ、『技術の極点』に肉薄する彼は殺せません」
ヘイルはそれを聞くとバツの悪い顔を浮かべて舌打ちをし、俺を睥睨する。
……退魔機構……技術の極点……?
俺は、ミカがなにを言っているのかよくわからない。
だが、やるべきだけはハッキリとしている。
この迫る蝗の大群を一匹残らず殺せばいい。
幸い、こういう手合いの殺(や)り方は感覚的に分かる。
頭蓋に凶器を突き立てて少し掻き混ぜてやれば、容易に殺せる。
昨日、こんなヤツらに怯えていたのが馬鹿みたいだ。
俺の横腹を食い千切らんと迫ってきたヤツはそいつの低く構えられた頭部に手を当て、そこを起点として宙に舞う形で攻撃を避け、そのまま後ろに着地、後ろから頭蓋に凶器を突き立てて仕留める。
もう一匹、着地した俺に一矢報いてやろうと正面から強靭な顎を飛ばしてきたが、それを横に避けてそのまま一回転、凶器を顎から突き立てて頭蓋を貫通させる。
更にもう一匹、四方向からの化け物の攻撃を逃れるために空中に逃れた俺に羽根を羽ばたかせて飛んでくる。 だが、俺はそいつの頭部を蹴り上げ、更に高く舞い空中で一回転、回転の勢いをつけて頭蓋を貫通させて殺す。
僅か五秒の間に三匹、仕留められた。
なんだ、思っていたよりもよっぽど簡単に殺せるじゃないか。 赤子の手を捻るよりも容易い。
理性が段々と、血の色に染まっていく。 それに比例して、本調子が出てくる。
その調子でざくざくと、確実に仕留めていく。
その数が数十に達するところで、絶えず俺を睨みつけてきていたヘイルが叫ぶ。
「もういい! 退け!」
死にかけの老人みたいに細い褐色色の手を前に突き出すと、鉛色の化け物の大群は段々と淡色に変わり、粉化すると風に溶けていった。
肩で息をしているヘイルの虹彩は血の色に染まり、瞳孔は縦長に伸びる。 どこかの誰かみたいに、すっかり興奮している様子。
「……先代のヘイルを十支から降ろしたこの私が直々に貴様を殺す」
そう言ったヘイルは病人みたいにふらふらした足取りで前にやってくる。 なにか呪詛のようなものをぶつぶつと呟きながら、やってくる。
「巴くん!」
もう動けるくらいに回復したのか、ミカははっと顔色を変えるとこちらに駆けてくる。
が、既に遅かった様子。
「━━━━『永遠の痛苦(エターナル・ペイン)』ッ!!」
ヘイルがそう叫ぶや否や、右肩と左胸を鞭で激しく打たれるような激痛。
痛む部位を抑えても、痛みは止むことはなく、むしろ加速度的に痛みは増していく。 痛む面積は広がっていく。
「が━━━━あ」
流石に耐えられなくなって、地面に膝をつき声を漏らす。
全身が痛くて、ありえないくらいに熱くて、心臓は飛び出しそうなくらい暴れている。 いっそ、死んでしまえたら楽だと思うほどの苦痛。
熱く、紅く燃えていた心は再び鉄のように冷めていく。
なんだ、これ━━━━
痛みに耐えられなくて、大の字に伸びて痛む部位を闇雲に地面に打ち付けている。
俺に近付いてきたミカが必死になにかを訴えている。
が、聞こえない。
痛みとその面積は加速度的に増していて、理性は痛みから逃れるために意識を放棄することにしたらしい。
段々と、意識が、ブラックアウトしていく……。
◇
気付けば、激しい熱と痛みからは解放されていた。
空に浮かぶ三日月は満月に変わり、周りの風景は非常に見覚えのある場所へと変わっている。
辺りを見回すと━━ここは、引っ越す前に住んでいた武家屋敷の広い庭だ。
夢でも、見ていたのだろうか。
はたまた、これが夢なのだろうか。
たったったっと下駄を履いた誰かが駆けてくるような音。 段々とその音は近付いてくる。
その音を聞くと、酷く胸が苦しくなる。
まるで、誰かから後ろめたいことを叱責されているような気持ち。
たったったっと、音は段々と近くなっていく。
ぽたぽたと地面に液体が零れ落ちる音。 ぬらぬらと、自分の手が紅い液体に濡れていることに気が付く。
これは……血液?
風に乗って鉄錆のような臭いが鼻を通るがその臭いも、手の濡れた感覚も、不思議なことに嫌な気持ちにはならない。
それらは逆に、俺の気分を高揚させる。
たったったっと、音の正体が分かった。
それは、二年前……俺が六歳の時に死んだ祖父の「蒔片 昭貴(あきたか)」であった。
後ろには祖母の「蒔片 衣子(きこ)」と母親である「蒔片 香苗」の二人がわなわなと体を震わせ、顔をこわばらせている。
そうして二人とも、数珠を手に握っていた。
何の意図か、昭貴は鬼のような形相で腰に携帯していた日本刀を抜くと、構えて叫ぶ。
「鬼の子がぁ!!」
昭貴はそう言うと音速の如き速度で俺に肉薄、刀を振り下ろさんとする。
目前まで殺意のこもった凶刃が迫っているというのに、驚きに声をあげる間もなく、否、喉が張り付いたたいに声をあげることは出来ず、両手での抵抗も虚しく勢いのついた刀で肩口から深く斬り込まれる。
傷口が訴える灼熱と激しい痛みに悶える━━━━ということはない。
ただ体が冷たくなっていく感覚と、母親の啜り泣く声を聞き取る聴覚だけがあって、冷静な精神状態のままに視野が狭窄、果てに意識がブラックアウトしていった。
思えば、俺の肩口には━━━━完全には治癒することはなかったのか、歪な形をした傷痕があった。
それは、刀で斬られたものの痕だと言われてもおかしくはないだろう。
……鬼の子。
その言葉が頭の中で何度も反芻する。
クソ……こんなところでくたばってたまるかよ。
クソ野郎が……死ね。
殺す……俺をこんなにも苦しませて、許せない。
許せない。 許せない。 許せない。 許せない。 許せない。 許せない。 否、許さない。
何かに触れた理性は段々と、灼熱に縁取られていく。
ただ、憎しみと怒りだけが蓄積していった。
そうして、それらの感情は一つの殺意という衝動に姿を変える。
その矛先が向かうのは……。
◇
「……くん!」
最初に戻ったのは視覚ではなく聴覚だった。
耳元で誰かが、なにかを訴える声が聞こえる。
「……巴くん!」
はっきりと、俺の名前が呼ばれるのを理解した。
それを引き金にしたように、意識の輪郭は段々と縁取られていく。
段々と、視界が広がっていって、ミカに肩を揺らされているのに気が付く。
そして、全身に筆舌に尽くし難い、この世の地獄としかいえない激痛が走る。
思わず声が漏れそうになる、歯は食いしばりすぎて折れてしまいそう。
これを止めるには……俺は覚束無い意識のまま、自分の左胸、心臓のあるところに凶器を突き立てた。
「え━━━━」
その動作と、服越しに噴き出すように勢いよく漏れ出てくる紅い液体を見たミカの顔色が真っ青に染まる。
衝撃から、思わず両手に持っていた俺の肩を地面に取り落としてしまう。 ごとんと頭蓋が地面にぶつかって、視界が揺れる。
「なにを……してるんですか!」
たしかに、イカれた行為だ。
自分で、自分の胸を突き刺すなんて。
だけど、確実に激痛と灼熱は後を引かずに俺の体から消えていった。
それらが無くなってしまえば、残るものは純粋な殺意だけ。
自分の手が汚れるのも構わず、治療の魔術でも使っていたのか俺の胸に触れていたミカの手を振り払って、立ち上がる。
「……てめぇ、吸血鬼。 この俺がこんな三流の呪術も殺せねぇと思ったか?」
自分でも意味の分からない言葉を吐いて立ち上がると、右手に持っていた自分の血でぬらぬらと濡れている凶器を掌と指を使って器用に回し、逆手に構え直す。
「な━━━━」
それを見たヘイルは目を剥いて、立ち尽くしていた。
自分の眼前で常識を真っ向から否定される現場に直面したかのように、呆然と立ち尽くす。
「まさか……この私の魔術を無効化したのか……!?」
ヘイルが再び俺に攻撃をしかけるよりも速く━━━━俺はヤツの懐に忍び込み、凶器を頭蓋に突き立てて貫通させた。
鼻と口から盛大に吹き出した喀血の一部が俺の頬にかかって、紅く染める。
まだだ、こんなことでは、殺せない。
ヘイルの頭蓋の穴から垂れた血液は腹を伝い足を伝い地面に広がり、小さな血の池を作った。
俺は自分の衝動の従うままに、後方転回をして後退。
思った通りヘイルの足元の血液は凝固、三次元的に拡大し、先端の尖った角笛のような形に変形、俺の体を穿たんと伸びる。
しかし、後退していたので間一髪で避けることができた。
ヘイルはちっと舌打ちをすると、貫通した頭部に手を当てながら問うてくる。
「……貴様、先程までとは''中身''が違うな?」
「さぁな、俺自身よくわかんねぇんだ。 だけど、お前みたいな鬼のなりそこないを解体(バラ)すのは初めてじゃねえからよ、舐めてっと死ぬぞ」
自分でも、よく分からない言葉が次から次へと、口から滑るように出ていく。 だけど、それを発現しているのは紛れもなく自分の意思だ。
「ふふ……はははははははは!! 面白い! こんなに面白い事象は二千年ぶりよ! 人生とはこうでなくてはな、共に全てを燃やし尽くそうぞ!」
ヘイルは狂笑を漏らすと、眼球を真っ赤に染め、腰を深く降ろし、両腕を広げて構えた。
「へっ……てめぇ一人で死にな、俺が引導をくれてやる」
決着の時は近い。
俺とヘイル、二人の間に極限まで張り詰めた空気が満ちる。 いつ、どちらの首が落ちてもおかしくない。
先に動いたのはヘイルだった。
ヘイルは歯を食いしばり顔中に血管を寄せ、右腕に黒い瘴気を纏わせると、急所を潰さんと歪に形作った右手を伸ばし、地面を蹴りこちらに音速で跳ぶ━━━━しかし、音速を凌駕する速度で俺の右手はヤツの残り六つの急所、体内に血液を循環させている六つの心臓を穿つ。
「が━━━━あ」
急所を掴み損ねたヘイルの右腕は虚空を掴む。
跳んだ勢いを殺せず、十メートルほどしたところでやっと動きが停止したヘイルは全身に空いた七つの穴から大量の血液を噴き出し、地面に倒れる。
「……まさか、死に意味を見出す時が来るとはな」
ヘイルはふふと不気味に笑うとそう漏らした。
俺は自分の仕留めた獲物の断末魔を聞くべく、近付いていく。
それは、こんなやつでも一人で死んでいくのは可哀想だと思っての行動だった。
「私の生涯……三千年の時に終止符を打った気分はどうだ?」
死を間際にしたヘイルの表情は、憎しみに満ちているでも、怒り狂っているでもない。
自分の子孫に囲まれて死ぬ老人のように、実に満足感に満ちた表情をしていた。
「……お前に吸い取られていった命が報われないと思う。 けど、人間の人生も大して変わんないだろ」
「そうか……そうだな。 吸血鬼といっても、命の分類が人間と違うだけで、本質的には人間とはなんら変わらないのだな」
ヘイルは少し寂しそうにそう言うと、全身が淡色に染まり水分を失い粉化。 ボロ布のような服を残して風に吹かれて消えていった。
「……」
成すべきことを成した俺の体は思い出したように重くなって、気付けば受け身も取れずに無様に地面に倒れていた。
ざっと砂の上を駆ける音が聞こえてくる。
「と……ん!」
「も……く……ん!」
必死に呼びかけてくるミカの声が聞こえるが、答えるだけの体力は残されていない。
疲労の蓄積に大量の出血。 今、こうして意識があることが不思議なくらいだ。
「……くんったら!」
激しく肩を揺らされる感覚があるが、彼女の意図とは正反対に意識は目覚めるどころかどんどんブラックアウトしていく。
すっかり狭窄した視界はもう、死にかけの俺を嘲るような三日月しか映していなかった。
◇
最初に視界に飛び込んできたものは、二つの色合いの異なる紺色だった。 夜空と、もう一つ見覚えのある紺色。
微かに血の臭いに混ざってする、柑橘系を想起させる後を引かない爽やかな甘い香り。 そしてラクダのコブのような二つの曲線の間では三日月が輝いていた。
後頭部は柔らかくて暖かいいものに沈んでいる。
紺色で……暖かくて……柔らかい……二つの曲線。
ん?
脳の処理が追いついて、顔が真っ赤になった。
俺は今、ミカに膝枕されているのか。
緊張の余りに、声をあげるということはなかったので、ミカはまだ俺が意識を取り戻したことに気が付いていない。
「うっ……」
わざとらしくたった今起きましたよという風に声をあげる。
「あっ! よかった、もしかしたらと思ってたけどちゃんと生きていたんですね! 治療の甲斐がありました」
言って、ミカはふらふらと頭が揺れ動いて、倒れかける。 あれだけの怪我をしておいて、それから人の怪我を治していたのだから疲れていて当然だろう。
「俺よりもミカの方がヤバくないか?」
「大丈夫、当面は死にませんよ。 巴くんがヘイルを倒してくれたお陰で」
ミカはそう言うとにこといつもの笑みを浮かべる。
それにしても……。
いつまで、膝に頭を乗せているつもりなんだ?
「……起きるよ」
そうして体を起こそうとすると、ミカの手によってその動作は停止させられる。
「……」
ミカの意図は読めないが、心臓は今にも飛び出しそうなくらいにばくばくと暴れていた。
「……ミカ?」
これでは赤くなった顔を隠すこともできない。 けれど、ミカは俺の顔ではなく夜空に浮かぶ三日月だけを見ていた。
「少し、お話をしましょう」
ミカはどこか申し訳なさそうな顔色を浮かべて俺の目を見つめてくると、そう言ってきた。
「……」
「巴くんがヘイルと戦ってる時に言いましたよね、あなたの実家が日本に現存する唯一の『退魔機構』であるということ」
「あぁ、にわかには信じがたい話だけど、たしかに聞いたよ」
ミカは俺を抑えていた手を胸から離すと、額の方に持ってきて俺の頭を撫でてくる。 はたして何の意図があるのだろう。
「私が左目に持つ『翡翠色の魔眼』は視た対象の過去の情報を読み取り、その情報から妥当な未来を計算するという能力です。 その性質上、見ただけでその人の過去を視ることができてしまうんです。 その能力の応用で、あなたのお母さんの記憶を少し、いやかなり覗かせてもらいました」
語り終え、俺の額から手を離すとミカは指で左目を指差した。 彼女の左目はそれを合図にしたようにアロマライトのような綺麗な翡翠色に輝き出す。
首肯して、続きを話すように促す。
「私は、そんな蒔片家、しいてはあなたを尾行、場合によっては殺害するのが私の所有権を持つ唯一神教の大修道士「アメリア=エルウィン」から課せられた第二の目的でした」
殺害という大きすぎる二文字は、自分が思っているよりも容易に受け入れることができた。
「俺を、殺さないのか? 多分、唯一神教は俺みたいなヤツを野放しにはしておかないだろう」
「蒔片 巴から充分な退魔能力が確認された場合は殺害するように命じられています。 十人いる邪神の眷属『十支』の一人である先代のヘイル=ローケストを倒し、その名前と眷属の蝗の行使権を奪った二代目ヘイルを倒したその実力、充分に退魔能力があると言えるでしょうね」
ミカはそこで言葉を区切ると、再び三日月に顔を向けて、はぁと嘆息を漏らす。
俺は続く言葉が気になって、短い空白の時間が何分にも感じられた。 だけど不思議と、殺されるかもしれないという恐怖はなかった。
それは俺が愚鈍なだけか。
「……だけど、殺せないんですよ」
言って、ミカは自嘲気味に笑う。
「……なんで?」
相手の気持ちを考慮しない、愚鈍な言葉だとは思いつつも俺はそう言った。
「普通の人は、命の恩人を殺すことなんて簡単にはできませんよ。 それに、そんなことよりも私はあなたと接触していくうちに自分でも気付かないままに惹かれてしまっていたみたいです。 私と同じような境遇なのに、前向きでいられるあなたに」
照れくさそうに笑うミカはとても吸血鬼や屍鬼といった人外のみならず、人をも殺す処刑人なんかには見えない。 ただの一人の少女にしか見えかった。
惹かれてしまった……その言葉を聞いて、俺はドキドキした。 それは、年頃の女の子に好かれるというのは、誰だってドキドキするだろう。
しかし、それとは違う。
俺は━━━━━ミカのことが好きだった。
彼女のその言葉で初めて、自分の感情を理解することとなった。
だけど、俺は八歳だ。 恋愛経験なんて欠片もない、なんて言葉を返せばいいのか分からない。
沈黙のまま、時が流れてゆく……。
だけど、好きな人の膝に埋まって過ごす沈黙は全く、苦痛ではなかった。 この沈黙を安寧にカテゴライズすることができる。
沈黙を破ったのは、ミカの方だった。
「私とあなたはどうせ結ばれない運命なので、あなたのことを想っていた女の子がいた程度に受け止めておいてください。 さぁ、起きてください。 そろそろ夜が明けてしまいますよ」
再び健気に笑うとそう言った。
俺は、彼女のことを幸福にしてやれない自分のことを憎く思う。
処刑人と処刑対象……コインの表と裏、必ず結ばれるということはないだろう。
ミカの体温が離れていくのは惜しいが、俺も彼女を見習ってすっきりと別れることに決めた。
「俺も……ミカのことが好きだったよ。 多分、異性として」
その言葉がかえって尾を引くと分かっていても。
言っておかないと、その気持ちは自分の中でも無かったことになってしまいそうで怖かったから、言っておくことにした。
「巴くん」
後ろに立っていたミカに声をかけられて反射的に振り返る、と━━━━ミカの艶のある唇が俺の頬に撫でるように優しく押し当てられる。
「あ━━━━」
唇が離されて、体温が上がる。脈拍が早くなる。
遠くからばくばくと、自分の心臓の音が聞こえてくる。
「巴くんは既に絢音さんの男なので、これだけで済ましておきます」
ミカははにかむ顔でそう言うと、ではといつものように手を振って闇に消えていった。 おそらく、彼女とは二度と会うことはないだろう。
もちろん、寂しいし気持ちの整理もつかない。
だけど、俺の口から出た言葉は実に淡白なものだった。
「あぁ、じゃあな」
最後にそんな言葉が出るあたり、俺は自分が思っている以上に愚鈍か、男らしいのだと思う。
また、蒔片家の秘密や同じ境遇というところについて聞いておこうかと思ったが、晩節を汚すような結果にはしたくなかったので、その疑問は心の奥にしまっておくことにした。
まだ頬にキスの感触が残っているうちに、帰って布団に入ろう。
俺は足早に家に向かった。
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