鬼子の嫁

白木 犀

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第六話/夜の街-2

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今日も川上先生に嫌われるのを覚悟の上、授業中に惰眠を貪った。 新任教師にとって不真面目な生徒ほど困るものはないだろう。
小学三年生の授業など、テストの前に教科書をぱらぱら捲っていれば簡単に百点を取れる。 もっとも、小学校低学年では成績よりも授業に向ける態度の方が評価されるのだろうが、そんなことは今の俺には関係ない。

家に帰って、いつものように行きつけのスーパーに二人、買い出しに行って買ってきた食材で作られた夕食を食べ、絢音が入れてくれた風呂に浸かる。

それから髪を乾かして宿題のドリルを答えを見て、手早く済ますと、すぐに布団に入り三時間ほど眠ったところでアラームで目を覚まし、鉛のように重い体に鞭を打って夜の街に出た。

外に出ると、冷気が否応なしにぼやけた意識の輪郭を縁取っていく。 ポケットに忍ばせている''錐のような鋭利な先端を持つ鉄製の武器''を握ると鉄の冷たさが伝導して更にもう一段階、意識が引き締まる。

家を出てから特定のルートを三十分ほど、舐り回すように周囲を警戒しながら歩く。
一時間が経過━━━━ミカは一向に姿を現さない。

なんだか、嫌な予感がする。
いつもだったら、十分ほど歩いたところで彼女と合流するというのに。

それから二時間ほどが経過しただろうか。
もうそろそろ夜が開けてしまう。 家に帰らなければ。

刹那、じゃりという砂を踏む音がした後にずざざざと、何かを引き摺るような音を聞く。

この方向は━━━━公園だ。

気配を殺すのも忘れて、公園に駆けていく。

公園に近付くにつれて、音はその大きさと具体性を増していった。
絶えず、何かを引き摺るような音が一定の感覚でしている。 そして、まるで戦車でも走っているかのような振動。 ずどんずどんと数多の力士が四股を踏んでいるような鈍い音が続く。

柵を飛び越えて公園に入ると━━━━そこには。

額と口から大量の血を流し、腹部を苦しげに抑え地面に膝をついているミカの姿。 処刑人の制服の白い部分は血塗れで赤褐色に染まり、もはや最初からそのデザインのようだ。

俺の目は彼女の姿以外を映していなかった。

「ミカ!」

やっと気付いたのか、彼女は俺の方を見ると目を剥く。

「こっちに来ちゃダメ!」

その言葉で、初めて意識が彼女以外に向く。

そこには━━━━酷くグロテスクで見るもの全てに等しく生理的な不快感を与える、蝗のような厭なフォルムをした人型の化け物。 ざっと数えてその化け物は百はくだらない数はいた。

「な━━━━」

喉が張り付いて、理解が及ばなくて、言葉が出ない。
なんだ、コイツら、は。

反射的にじりと後退する音で、そいつらの視線が俺に集中する。 俺の鏡像を映す蝗の如く大きな垂れ目はどこまでも赤い虹彩をしていた。 それは、まるで、血に濡れたかのように、ぬらぬらとしていて、酷く気持ちが悪い。

「…………」

そいつらは俺を見つめるだけで動かないが、なにか少しでも動作を取ったら、頭から喰い殺されるという根拠のない確信があった。
それだけの濃厚な殺意がそいつらから漏れ出ている。

呼吸をすることもはばかられるほどに張り詰めた沈黙は、五分だったかもしれないし、一分にも満たなかったかもしれない。

「……間もなく夜が明ける、撤退だ。 唯一神の思し召しに感謝するんだな、女」

その、酷く低い、獰猛な野獣の唸り声のような怖気のする声で初めて俺は化け物の大群の後ろに構えている男の存在に気が付いた。

ボタンが全開、褐色の肌色が露出している、所々が破けたり汚れている砂色のカッターシャツ。
白髪と黒髪がまだらに、不規則に混合した奇妙な色の肩までの長髪。 その髪はぼろぼろと言ってもいいくらいに傷んでいて不潔感を覚える。
顔を額に刻まれた五芒星の刻印を始点として扇状に走る歪な黒い線。
その長い前髪から覗ける狂ったように見開かれた眼球の虹彩は人間のものとは思えない血の色。
開いた瞳孔は蛇のように縦長━━━━もしかして、こいつが。

その男はちらと俺のことを、それこそ路上に落ちているゴミでも見るように見るとまったく表情を変えずに、''文字通り''闇に消えていった。
男が消えると、百余りいた蝗のような化け物も鉛のような色から段々と淡色に変化、公園の地面と同化できそうな砂色に変化すると、タバコの紫煙のように、頭頂部から段々と空気に溶け込んで、五秒もすると全身が公園から消滅する。

その光景はまるで風邪の日に見る夢のように現実味がなくて、どこまでもイカれていて頭が理解しようとしない。

だが、そんなことよりも……。

「ミカ!」

脅威が去ると、痛苦に悶え、蹲り、地面に血の池を作っているミカに向かって駆ける。

これは、失血死は免れない量の出血だ。
医学の知識に乏しい俺でも、これは手遅れだと分かる。

吸血鬼なんて物騒なものと関わっているのだから、それはありえたことなのに、あまりにも急すぎて情緒が追いつかない。

「ミカ……」

ミカは息も絶え絶えに、なんとか仰向けに倒れると俺の方に向かって右手を伸ばしてきた。

「━━━━━━巴……くん……手を、握って……ください」

意図は分からないが、彼女の言う通りにすることにする。 人間のものとは思えないくらいに冷たくなっている右手を両手で温めるように優しく握る、と━━━━

絶えずその面積を広げていた血の池は拡大を止め、呼吸は安定。 死人のように青白かった顔にも生気が戻ってくる。
どういった理屈か、彼女は傷付いた自分の体を治しているようだ。

二分くらいそうしていただろうか。
ミカは口の周りで凝固しつつある血を左手の甲で拭うと、大きく深呼吸をする。

「っ……いっっ……もう離しても大丈夫ですよ」

一瞬、体を起こそうとして痛みに目を細めるが、ミカはすぐにいつもの笑みを浮かべてそう言った。
声音も口調も普段通りで、かえって心配になるが、俺は手を離す。

「もしかして……さっきのヤツがヘイル?」

「えぇ、今回は手痛くやられてしまいましたが、協会に申請して使い魔か神器を送ってもらうので、問題はありません」

ミカは全身の筋肉を使ってやっと立ち上がると、体中についた砂を手で振り払う。

そんなミカを見ていると、いじらしくなる。
止めてやらなければならない、と思う。

だが、どんなことを言ってもきっと彼女は再びヘイルに立ち向かうことだろう。 たとえ相打ちになろうとも……。

だけど、言葉にしておかないと自分の中でその感情が消えてしまいそうで怖くなったので、何の意味がなかったとしても言葉にしておくことにした。

「嘘だ。 アイツは傷一つ負ってなかった」

「あまりにも戦力差が開きすぎている、素直に諦めろ」と言おうとしたところでミカが口を開く。

「大丈夫なんです。 私も化け物なんですから」

ミカは笑いもせずにそう言った。

化け物……? 化け物と殺し合う自分達、処刑人のことを皮肉してそう言っているという解釈もできたが、俺はその言葉が引っかかった。

「……どういうことだ?」

ミカは自嘲的な笑みを浮かべると、近くにあった青く塗装された木製のベンチにゆっくりと腰掛けて、夜空に浮かぶ青白い満月を見上げながら語り出す。

「字義通りですよ。 私の魂の器には''人ならざる魂''が入っている。 だから、こんなやりたくもない処刑人の仕事を「神への贖罪」という体でやらされているし、傷の治りがこんなに早いんです。 治癒魔術に重ねて魔眼での威力増大(ブースト)を使えるからといって、こんなに傷の治りが早いなんてことも、あれだけの血を流して生きているなんとことも、人間ではありえないんです」

「……」

俺は自分から話を広げさせておきながら、なんて返してやったらいいのか分からなかった。
俺には彼女を救ってやったり、気を紛らわせてやるだけの甲斐性もない。

だから、せめて下手な嘘だけはつくまいと、思ったままのことを伝えることにした。
俺にそんなことを打ち明けるということは、どこかで俺の反応を求めているということは間違いないのだろうから。

「協会の皆にとっては化け物なのかもしれない、けど俺からしたらミカは普通の女の子だよ」

言っておいて、どこまでも愚鈍な言葉だと思う。
だけど、これが取り繕いようのない俺の本心だ。

「……」

それを聞いたミカは何の反応をするでもなく、黙ったまま、月を見上げていた。

少しだけでも彼女の考えていることを理解しようと、俺も隣に間隔をあけて座って月を見上げることにする。

「そう言ってくれると、嬉しいです」

十秒か一分か、俺が隣に座ってから少しの時間が経過するとミカはそう言って、笑った。

「あぁ、だから……」

何かを言いかけて、隣に気配がないことに気がつく。 ミカは俺の横から音もなく姿を消していた。
なんだか、彼女とはもう二度と会えないような気がして、酷く寂しくなった。

今日は、もうできることもないので大人しく家に帰ることにする。
ミカと話したりしていて、いつもよりも時間を食ってしまったので家まで駆けていく。

いつものように布団に入ると、急に複数の感情が込み上げてきた。

ミカを救ってやれなかったことへの悔しさ。
ヘイルと絢音が相対してしまった時の不安。
ミカとはもう会えないかもしれないという悲しさ。

ただ、ミカの魔術の行使のサポートをしたためか、疲労だけはいつも以上に溜まっていたので、それらの感情を無視して夢の世界に入門することができた。



夢の中、俺はいつものルートを一人で歩いていた。
いつもと変わらない道なのに、何かが決定的に違っている。

その原因も、歩く理由も分からないままに進んで行く。

何かに突き動かされるままに、あの屍鬼に襲われた路地裏に来た。

そこには、標準の半分くらいの長さしかない短いスカートのセーラー服を着た二人の女子高生。 見覚えがあると思ったら、それは絢音の通う高校の制服だった。
一人は肩まで黒艶の髪を伸ばし、茶フィルターのタバコを咥えている。 もう一人は褐色の肌にもはや白いくらいにブリーチされた肩までの金髪を前で二つに分けている。

所謂、不良というやつらだ。

二人とも、路地裏に侵入していく俺に気が付かないで、キーホルダーなどが目立つ携帯電話を片手に不理解な俗語を使って会話をしている。

ばしゃ、と水溜まりを踏む。

水が跳ねる音を聞いて、二人はやっと俺に気が付く。
その顔は、まるで化け物でも見たように真っ青。

なんで、そんな顔をするのか分からない。 なんで、俺が二人に近付いていくのか分からない。

それらは「夢だから」の一言で片付くはずなのだが、この夢はやけにリアルだから分からないことに違和感を感じてしまう。

金髪の女が俺に肉薄する━━━━━否、俺が恐るべき速度で彼女に近付いていた。 彼女の顔の毛穴の一つ一つまでよく見える。

二人の、耳を劈く喚声が、酷く不愉快。

それを一刻も早く、止めたいと思う。
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