鬼子の嫁

白木 犀

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第二話/日常

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翌朝、六時過ぎに目が覚めると、顔を洗い歯を磨き台所に向かう。 絢音は先に起きていて、用意されていたトーストを食べて(流石にトーストのような単純極まる料理まで不味いということはなかった)、途中まで絢音と同じ道を、昨日と変わらず無言で歩いていく。

「じゃあ、私はこっちだから」

絢音と別れる場所は、今日から俺が通う小学校の目の前だった。
絢音の通う高校は、この小学校の奥にあるらしい。

「じゃあ、また家で」

「うん」

やはり昨日と比べると、絢音の表情や声音はどこか柔らかい気がする。

だが、家庭のことはとりあえず置いておいて、今は学校に意識を集中しなければならないだろう。
母親から渡されたプリントに書いてあった簡素な地図に従って、職員室に向かって担任の先生である「川上 朱美」先生に声をかける。

「君が蒔片くんか……渡すプリントとか、色々あるけど、もう朝の会が始まるから、一緒に行きましょう」

「はい。 よろしくお願いします」

川上先生は幼い顔の造りをしていて、髪を後ろで結んでいるのが印象的だ。 明るい雰囲気をしていて、生徒から人気がありそうだと思う。

声をかける前、川上先生は書類と向かい合って、酷く疲れた顔をしていたが、声をかけると慌ててすぐに笑顔を繕って三年二組の教室へと向かう。 大人とは大変なものだと思う。

職員室を出て、校舎を移って、階段を上って一つ曲がった先に二組の教室はあった。 HR前だからだろう、各クラスから聞こえる、もはや悲鳴や奇声に近い男子の声が廊下に反響している。

「皆ー! 席についてー! 転校生ですよー」

がらがらと、扉が開けられると川上先生はつかつかと教壇に向かって歩いていく。

生徒はそれを聞くと、素直に自分の席に着きはじめた。
クラス中が「転校生?」と色めき立っているのが廊下からでも聞こえてくる。

「入ってきてー」

言って、教室から川上先生が手招き。
こくりと頷き、俺はゆっくりと教室へと足を踏み入れる。

「男の子?」「女じゃね?」「どこから来たんだろー」

俺の姿が皆の視界に入ると、様々な疑問の声が教室中に充満する。
女と見間違えられるのには、理由があった。

それは蒔片家の習わしで、蒔片の長男は十五まで「髪を肩まで伸ばし、前髪は真っ直ぐ切り揃える」という所謂、おかっぱ頭にしなければならないという決まりがあったからである。
それに加えて母親によく似ている中性的な顔の造りをしていたので、それに拍車をかけていた。 もっとも、物心つくまえに死んだという父親の顔は覚えていないが。

「さあ、自己紹介をして。 まず、名前を教えてくれる?」

川上先生はそう言うと、黒板の凸部の上の白いチョークを巴に渡してきた。

「……蒔片 巴です。 よろしく」

かつかつと、チョークで黒板の真ん中に慣れた動作で名前を書く。
クラス中の視線が集中する。
どこを見ていればいいのか分からなかったので、後ろに掲示されている自己紹介プリントを見ることにした。

宇宙飛行士、芸人、アイドル、パティシエ、獣医、専業主婦、大工、漫画家━━━━

このクラスの人間は一人一人、夢を持っている。 生きていく上での目標がある。
しかし、はたして自分は、何かになりたいのだろうか。
否、何者かにならなければならないのだろうか。

俺は……。

そこまで思考が加速したところで、川上先生の声によって否応なしに意識を変えられる。

「質問がある人はー? 時間がないから先着二名様ねー」

すると、数多の「はい!」が教室中に響き渡る。

「一番早かった喜多さん!」

喜多と呼ばれた、どこか都会の風を漂わせている女子らしい女子はゆっくりと起立すると、口を開いた。

「えっと……蒔片くんはなにか趣味はありますか?」

個性的な彼女にしては、あまりに模範的な質問。

「読書です」

率直に答える。
しかし、喜多はどんな意図か更に質問を加えてきた。

「どんな本を読むんですか?」

答えてもいいが、答えるのに一切、憚らないのかと問われるたら、否である。

「恋愛小説以外なら、なんでも読みます」

なので、適当に暈しておく。
その実、書籍化、シリーズ化するほどの面白さを持っているが、アニメ化するまではいかないようなB級ライトノベル、ライト文芸が好みであった。

喜多はふーんと、何か腑に落ちたような顔を浮かべると再び椅子に座す。 と、静寂を突き破る無数の「はい!」が教室中を木霊する。

「じゃあ次は、一番早かった葛西くん!」

葛西と呼ばれた身長の高い眼鏡をかけた男子は、クラス中の嫉みを受けてばつが悪そうに起立すると、問いかけてくる。

「蒔片くんはなんでそんな髪型にしているんですか?」

デリカシーの欠片もない質問を投げかけられた。

「……家庭の事情です」

事実、家庭の事実でこういった髪型にしなければならないのだから仕方ないだろう。 これで''また''変人として認識されることは避けられないな、と少しへこむ。

川上先生はそんな俺の意図を汲んでか、額に汗をかくと早々に自己紹介を切り上げてくれた。

「蒔片くんは、空いてるあそこの席ね」

川上先生はそう言って窓際の席を指した。

首肯すると、つかつかと窓際まで歩いていった、椅子を引いて座る。 と、隣から声がかけられる。

「なあ、おい蒔片」

声をかけてきたのは隣の席に座っている、日に焼けた褐色の肌が特徴的な、黒い髪を短く切り揃えた顔の濃い同級生だ。 名前は知らない。

「なに?」

いきなり呼び捨てにされたのがなんだか気に食わなくて、愛想悪く答える。

「俺がお前を守ってやるよ。 お前は変なやつだから、いじめられちゃうぞ」

守ってやる、と言った矢先に傷付けてくる。
なんというやつだ。

「そうかい、ありがとう。 だけど、君もなかなかに変なやつだな。 名前をなんと言うんだい」

「俺は中嶋 麗ってんだ、よろしくな」

言って、変なやつと言われたというのに中嶋はにかと白い歯を覗かせてくる。
変な奴に絡まれたな、と思うが否や「類は友を呼ぶ」という言葉が頭を過ぎってネガティブな気持ちになる。

俺は本当に変な奴なのだろうか。
前の学校で、いじめまでは発展しなかったが同級生はおろか、先生からも変な奴という認識だったトラウマが頭を過ぎる。

そんなことを考えていると、ざわざわと、気付けば俺の周りには同級生が、主に女子が群がっていた。

「ねえ、蒔片くんって本当に男子なの?」

一人のツインテールの女子が矯正器具を付けた歯を覗かせて問いかけてくる。

「そうだけど……」

「ちゅうせいてきってやつだねー」

別の女子がそう言うと皆が揃って「ねー」と笑顔を浮かべる。 しかし、それで女子の群れが散っていくことはなく、ざわざわと色めき立ち続けている。

「蒔片くんってどこから来」

「おいおいおーい!! 俺の親友(ダチ)を虐めてくれるなよな!!」

中嶋の蛮声が教室に響き渡る。 クラス中の視線が俺たちに集中する。
女子は皆、驚いて肩を震わせると中嶋を睨みつけて、四方八方に散っていった。 心做しか、散っていった女子達の俺を見る目は軽蔑しているように見えた。

「お前な……」

呆れて、ものも言えない。

「にしし、よろしくな巴」

その笑顔は本当に人助けをしてやったという具合で、とてもではないが、文句を言う気になれなかった。

もっとも、これで女子達の興味、関心を転校生というジョーカーである俺から逸らして、相対的に自分の評価を上げようというのならば、結果はどうであれ大したやつなのだが。 さすがにそういうことはないだろう。

なんだか、この中嶋という男には無根拠にそうだと思わせる説得力があった。 一言で言ってしまえば、俺と同じ変な奴だからだ。

「次の授業は校庭で体力測定でーす。 皆ちゃっちゃと用意してねー」

川上先生が告げると、クラス中に重いネガティブな空気が流れる。 小学生というのは、競技性のある体育の授業は好きでも、こういった記録系まで好きという奴は限りなく少ないから当然だろう。

俺も一元の理由から、体力測定は否、体育の授業の全般は好きではない。
なぜかというと、俺は自分でもおかしいと思うくらいの並外れた身体能力と器用さを持っているのだが、生まれた時から、それらを家の外で使うことを咎められてきたからだ。

短距離走だって本気になれば、余裕で一番になれるっていうのに、意識して下位でいろというのはもどかしいものがある。

「おい、早く着替えろよ。 間に合わなくなっちまうぞ」

しかし、悩んでいる間にも時間は進んでいく。
早々に体育着に着替えて校庭に向かわなければ。



結果は当然、下から数えた方が早かった。
短距離走では運良く肥満体型の男子生徒と一緒になったので、彼にペースを合わせて走ることで、非常識的な記録を叩き出すということは避けられた。

中嶋からは足が遅いとからかわれ、女子からも賞賛されるということはなかったが、これで構わない。
下手に人気になってもかえって困るだけだろう。

一時間目の体育を終えると、とくにこれといった授業はなかった。 三年生の勉強なんて、普通に受けていれば困ることなんてない。
ただ、ひとつ驚きだったのは給食の美味さ。

転校前の学校の給食はお世辞にも美味いとは言えなかった。 もっとも、家では使用人が料理を作っていたのだから、下手な料理より家の料理の方が美味いというのはしょうがないのだけど。

鳥の唐揚げは味がしっかり染みていて柔らかくて、衣はカラッとしていた。
小松菜の胡麻和えは胡麻の主張がちょうど良く、わかめご飯はご飯の炊き具合、味付けが奇跡的で凄く美味かった。

後で聞いた話だが、この小学校の給食はこの辺りで一番美味しいとのことらしい。

それから昼休みと掃除を終えて、退屈な授業を受けると帰宅ということになる。
ランドセルに教科書や文房具、給食セットなどを詰めていると、ランドセルを背負い、黄色い学帽を被った中嶋に声をかけられる。

「よお、一緒に帰ろうぜ」

コイツと一緒にいることで、より一層、変人のイメージが濃くなりそうだと思ったが、帰らないと言って関係が悪くなったり恨まれるよりは、そっちの方がマシだ。
一緒に帰ることにしよう。

「あぁ、けど、お前は俺の家が分かるのか?」

「分からないけど、お前の家まで着いていって、そこから帰ればいいだろう。 ついでに俺がこの街のことを教えてやろう」

中嶋は自慢げな顔を浮かべて腕を組んでいる。 どうやら、自分の住むこの街に自信を持っている様子。

既に準備はできていたので、ランドセルを背負って、早々に教室を後にする。

桜の花弁の落ちた通学路を二人、歩いていく。
小学校を曲がって、真っ直ぐ行ったところで、巴のいた田舎ではまず目にすることのなかったコンビニエンスストアがあった。

興味、関心を隠せなかったのか中嶋は再び自慢げな顔を浮かべると語り出した。

「ここのコンビニはな、実に二週間ほど前に''例の殺人事件''の犯人によるものとだ思われる死体が裏口から発見されたんだ。 俺の母親はすっかり怖くなって、ここのコンビニはもう長らく利用していないな」

中嶋の話の中で一つだけ、看過できないワード。
例の……殺人事件だと?

「……例の殺人事件?」

中嶋ははぁとわざとらしく嘆息を漏らすと、語り出した。

「知らなかったのか? 警察が通学路を巡回しているのは、そのためだよ。 ほら、あそこにもいるだろう?」

忙しげに周りを観察している警察官を指をさして言う。

「半年くらい前から、一週間に一人から三人くらいのペースで死者が出ているんだ。 仮に行方不明者も、死体が見つかっていないだけで犯人に殺されたのだとすると、もっと被害者はいることになるな」

こんな綺麗な街で、殺人をしている者がいる。
その事実は、俺の中に抽象的な感情を生み出した。

「ニュースや新聞では、この冬霞市連続殺人事件は"現代の吸血鬼!?"と話題になっている」

吸血鬼……その非現実的で、いかにもマスコミが事件を脚色するために使っているようなその単語は、オイル汚れのように俺の頭の中に残って、離れなかった。
何度も、吸血鬼という単語が頭の中で反芻する。

「なぜかというと、発見された死体の半数は原型を留めないくらいぐちゃぐちゃに、もう半数は首筋に人間の歯型のような傷があって、それでいて死因は失血死なのに、殺害現場には一切の血痕が出ていないからだ」

吸血鬼による殺人事件。
そんなものは、到底、信じられないけれど、もしもそんなイカれた人間の凶刃が何の罪もない人間向いていると思うと……。

「そんなの……許せない」

己の中で沸騰するほどに加熱した抽象的な感情は、言葉という形になって発露される。

「おい……おーい、聞いてるのか?」

中嶋の声で意識が強制的に現実に引き戻される。
中嶋は俺の周りをきょろきょろ動きながら声をかけていた。

「あぁ……酷い話だと思う」

それから俺は中嶋に家まで送ってもらう形で帰宅した。 道中の会話で気付いたが、中嶋は変な奴だけど、年齢のわりには鋭いように思える。

自分が日常生活では本当の力を隠していること、変わった趣味を持っていることなどを彼の前で露見させないように努めなくては、できる限りトラブルは避けたいし、家族も何らかの意図があって、力を隠せと言っているのだろうから。



帰宅して、家で一時間くらい読書をしていると、ぎぃと門が開く音がした後に鍵が解錠された音。 絢音が帰ってきたらしい。

「ただいま」

居間に入ってきた絢音は確かにそう口にした。

確実に、昨日よりも心を開いてくれている。
少しだけ、安心した。 学校の方はまだ分からないが、少なくとも家庭に全く居場所がないということはないだろう。

「おかえり」

このタイミングで、敬語からタメ口に切り替えることにする。 一度タイミングを見失ったら、以降はもっとタイミングを伺うのが難しくなってしまう。

「ねえ、今日の夕飯、なにか食べたいものはある?」

絢音の方から、話を切り出してきた。

「じゃ……じゃあ、筑前煮がいい」

ただ、筑前煮が食べたい気分だというのを伝えるだけだというのに酷く緊張している。
絢音はその空気を感じ取ったのか、意識的に柔らかい物腰にして、言う。

「……分かった。 スーパーに買い出しに行ってくる」

「……俺も行くよ」

仲を深めるのに良い機会だと思って、提案した。

「別に……いいけど、なんで?」

絢音はちゃんと、人を見る目をして首を傾げる。
俺はそれだけで満足で、頭が空っぽになる。

返す言葉のないままでいる俺の顔を絢音が覗き込んできたことによって、なおさらなんて言葉を返せばいいのか分からなくなってきた。
頬が発火するくらいに熱を持っていく感覚と、心臓が口から飛び出そうなくらい跳ねる感覚だけが高まっていく。

「これから仲良くしていかなければならないのだから、いい機会だと思っただけだよ」

赤くなった顔を逸らして、言う。
ほとんど反射的に出た言葉だが、別におかしくはないと思う。 別に上手いことを言う必要は無いのだ。

「そう……じゃあ、用意して」

言って、絢音は居間に設置されてある引き出しをごそごそと探っている。 財布でも探しているのだろう。

「……うん」

絢音だけでなく、俺の方も変わりつつあるな、と思った。



その日の晩の筑前煮はお世辞にも美味しいと言えるものではなかったが、絢音が俺のために作ってくれたのだと思うと、美味しくないがそれを口に運べることが嬉しかった。

当然かもしれないが、まだ八歳である俺は恋愛を知らない。 だからこれは恋とは少し違う感情かもしれないけど、俺は絢音のことがおそらく好きだ。

何の文脈もなく飛び出した「許嫁が絢音みたいな人でよかった」という言葉は、やはり自分の本心から出たものなんだと思う。

今日も布団こそ別だが、絢音と一緒の部屋で眠る。
なんだか、彼女と一緒にいると疲れるくらいにどきどきしてしまう。 しかし、それによって実家にいた時よりも現実に没入している感覚、所謂、生きている実感というものを感じれるので、それでいいのかもしれない。 子どもの俺にはよく分からないが。

そんなことを考えながら、微睡みに落ちる。
今日は学校初日ということもあって疲れが溜まっていたのか、布団に入ってすぐに眠りに就くことができた。



それから、半年ほどの時が経過した。
その中で、絢音は加速度的に俺に心を開いてくれるようになって、俺も今では実家にいる家族よりも彼女のことを信頼し、心を開いて話せるようになった。

あれだけ咲き誇っていた桜はすっかり散って、蒸し暑かった季節も過ぎて、街は局所的に朱色に染まり、もうすっかり秋という具合。

あれから、連続殺人事件の犯人が逮捕されるということはなく、数こそ少ないが継続して被害者が出ている。
しかし、やはり身近で起きているとはいえ、自分に直接的に関係がないと、関心や憤りは薄れてしまって、不謹慎だが自分の中でそれはもう半ば当たり前のことのような位置づけになってしまっている。

何より、自分の周りが目まぐるしく変化していったので、なおさら外の物事には関心が持てなかったのだ。

今朝も絢音が作ってくれた美味しい朝食を食べて、途中まで一緒の通学路を歩いていく。

「今日は十月の二日だから、とっくんが来てからそろそろ半年くらいになるのかな」

絢音はどういった意図か、俺のことをとっくんと呼ぶ。
こういった愛称で呼ばれることは、絢音以外からは生まれてから一度もなかったが別に変えてほしいとは思わなかった。 なんなら、俺は喜んでいるのかもしれない。

「そうだな、この街に来たのは四月の暮れだから、今月の下旬くらいには半年が経過したことになる」

「なんか私、とっくんがこの街に来てからは時が進むのが早く感じるな」

絢音は薄い笑みを浮かべてそう言った。
「それは楽しい時間ほど短く感じるという通説か?」と言おうとして、口を噤む。 その台詞はあまりに自信過剰で、気持ちが悪く思える。 それに自分はそういう冗談を言うキャラでもない。

「俺も、そう感じる。 なんだか、このまますぐに大人になってしまいそうな気がする」

そう言うや否や━━絢音は俺の意図しない、悲しそうな表情を浮かべて、俺から顔を逸らす。

なにか、いけないことでも言っただろうか。

俺の視線に気付くと、一瞬、絢音は気まずそうな顔を浮かべると、すぐに話題を終わらせて別の話題を振ってくる。

「私も気付いたら女子高生になってたからね。 あ~今日は寒いな~」

と言って、後ろからさして冷たくない両手を俺の頬にふにふにと押し付けてくる。
なにか、この話題は絢音にとって触れてほしくないものらしい。 そんな話題は俺も忘れることにしようと思う。

「手、大して冷たくないけど」

「えへへ~バレちゃったか~」

というような、ベタベタのアベック漫才をしているうちに、小学校の校門の前に辿り着く。

「じゃあ、また家でね」

絢音は手を大きく左右に振りながらそう言うので、俺も手を振り返す。

「……お前は本当にシスコンだな」

いつの間にか後ろに立っていた中嶋に声をかけられる。 まるで忍者の如き気配の殺し方。
思わず、肩がびくんと震える。

「なんだ薮から棒に」

「薮から棒にじゃねーよっ! ずっとお前が話してるの後ろから見てたんだぞ? それになんだあのアベックのようなやり取りは」

中嶋は相変わらず鈍いようで鋭いというか、痛いところを突いてくる。

「アベックって……お前がなんと思うが勝手だが、クラスの連中には言うなよ」

中嶋を初めとした同級生の前では、絢音と俺とは姉弟の関係という設定でいる。
「彼女は俺の許嫁だ」と、説明するのは蒔片家の事情から説明しなくてはならなくなるため骨が折れるからだ。

「あぁ、俺の秘密を守ってくれてるうちはな」

秘密というのは、中嶋が『ドラゴニックヴァルキューレ』を名乗って同級生の女子に六法全書のように分厚い、しかしそれでいてまるで中身のない文章のラブレターを送った結果、ストーカー事件として学校中を巻き込む事件となってしまったことである。
ラブレターを送られた女子は泣きじゃくり、体育館で学級会議が開かれ、放課後になって中嶋が涙目になって俺に「どうすればいい」と泣きついてきた次第である。

「守る守る。 そも、お前の秘密を公にしたところで俺には何のメリットもないから安心しろ」

「いや、お前は食えないやつだ。 悦に浸るために俺の秘密を公にするなんてことだってあるかもしれない」

中嶋はそう言うと、俺を睨めつけてくる。
俺に人の秘密をバラして悦に浸るような趣味はない。
まったく、失礼極まる偏見だ。

「……お前ってやつは、友達になろうって言い出したのはどっちだよ」

「お前じゃないのか?」

そう言った中嶋は冗談を言っているという顔ではない。 なんなら質問の意図も掴んでいなそうに見える。 
おそらく、素で言っているのだろう。

「……」

「まあ、いいさネガチヴな話題はやめよう。 今日の給食はなんだったかな」

俺は以前にこいつのことを意外と鋭いと評価したが、それは誤っていたのかもしれない。

なんてやり取りをしていると、教室に着く。
こうして今日も平凡だが充実した一日が始まるのだ。



今日も一日いつもと変わらぬ授業を受けて、中嶋と帰宅、それから居間で読書をして、時間になったら絢音の作った料理(この半年の間でかなり上達し、最近では母の腕にも肉薄する勢いである)を食べる。
一番風呂にゆっくりと浸かって一日の疲れを落としながら、明日のことから漠然とした未来のことについて漠然と考えていた。

何者かになることを強いられることのないモラトリアムを充分に謳歌していると、自分でも思う。

毎度モラトリアムが終わったあとのことまで思慮が及ぶと、頭の奥に黒い瘴気が溜まるような、形容し難い、もはや怖気に近い不快感を覚える。
将来の夢なんてものもない。 小説家なんて夢も、本心から望んできるわけでは無い。結局、大人に言わされているだけなのだ。

いつかは、直面する問題だと分かっていながらも俺はそこまでいくと思考を打ち切るようにしている。
まだ、結論を出さなくても許される期間内だろう。

もっとも、結論を出そうという考え方はなければならないのだろうが。

嫌な思いを振り切るように、俺は体と頭髪を洗い流し、寝巻きに着替えてドライヤーで髪を乾かすと、台所に行って冷蔵庫の中に入っているキンキンに冷えた二リットルサイズの烏龍茶を小さなコップに移すと一気に飲み干す。

嫌なことを考えてしまった。
意識を切り替えるために、居間に戻って本の続きを読もう。
幸い、明日は土曜日、いつもより遅くまで本を読んでいられる。 今日で読み終えられることだろう。

頁をぱらぱらと捲って、読み進めていく。
時間にして一時間に満たないほど、思ったよりも早く読み終えられた。
しかし、起きている理由もないため、居間の電気を消して寝室に向かい、既に敷かれていた布団に入って眠る準備をする。

よほど必死になって活字を追っていたのか、一定のリズムで刻まれる絢音の寝息を子守唄にすると、すぐに瞼が重くなってきて、意識がだんだんと闇に落ちていく。
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