鬼子の嫁

白木 犀

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第一話/出会い

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二〇〇九年、四月の暮れ頃。

俺は人生で初めて乗車する電車に揺られながら、窓の風景が緑色から桜色、桜色から灰色に変わっていくのを目で追っていた。

昨晩、学校から家に帰ると、縁側で緑茶を啜っていた母親からいきなり「埼玉にいる許嫁と同棲するように」と、言われた。 
そうして、半ば追い出されるようにして実家の大きな武家屋敷から地方都市に一人、引っ越すこととなったのだ。

母親から同棲を告げられてから今に至るまで、半日くらい。 あまりにも急すぎると思う。

「急すぎて、情緒が追いつかないな」

もちろん許嫁との同棲や新生活に対する疑問。 不安。 衝撃。 色々な感情が過ぎったし、拒否したかったが、既に私物は全てダンボール箱に詰めて送られていて、拒否する術はない。
それに、どうせ拒否するだけ無駄だと思っていた。

ならば、適当に適応してしまうのが吉といったところだろう。

だが、自分が何をしたいのかが、分からない。
まだ八歳だから言い訳になるが、親の流されるままに生きている。 しかし、それでいいのだろうか。
否、考えるだけ無駄だ。

無駄な考えを振り払うために読みさしの文庫本を深緑色のリュックサックから取り出そうとすると、目的の駅「冬霞駅」の名前がアナウンスされる。

「電車ってのは、思ったよりも早く動くんだな」

俺はリュックサックの内ポケットの中に文庫本を戻した。

電車はホームに到着。 電車から降車。
ホームの階段を上り駅構内を慣れずにきょろきょろと睨め回しながら一歩一歩、慎重に歩いて、冬霞駅の西口改札に到着する。

改札を通って、駅の外に出るとそこには、俺が今まで住んでいた地方の田舎とは段違いの都会が広がっていた。 視界一面にビルや店が広がり、歩く人の数も断然多く、どこからか田舎の匂いとは違った、形容し難い都会の匂いのようなものがする。

今日から、ここで暮らすのか。
少し、いやかなり不安な気持ちになる。

生まれてから八年と半年ほど、世の中には知らないことの方が圧倒的に多いのだろうから。
これから色々と苦労することになるのだろう。

許嫁は、駅前で待っていると聞いていたので、きょろきょろと見回してみる。 もっとも母からは何の特徴も顔も聞いておらず、探すのは無駄なのだが。

しかし、それは思いもよらない効果を発揮したようだった。

「……君が、巴くん?」

人を探している挙動が功を奏した様子。

前髪を目が隠れるほど伸ばした、青色と白色の二色で構成された黄色いリボンのセーラー服を着た、十代前半くらいの整っているがかなり地味な印象を受ける女子が巴に話しかけてきた。 髪型も陰鬱な感じならば、話し方も陰鬱という形でぼそぼそしている、全体的に自己肯定感に欠けている幸薄な印象を受ける。

「はい。 あなたが許嫁の……」

言葉に詰まる。 母親から許嫁であろう、この女子の名前を聞いていなかったのだ。

「……絢音。 七曜(しちよう) 絢音と言います。 よろしくお願いします」

言って、ぺこりと頭を下げる。 前髪から覗ける瞳は酷く寂寥で、自分を捉えていない風に感じて、どうやって接しようものか迷ってしまう。

しかし、挨拶だけは済まさねばなるまい。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「……」

絢音は虫の死骸でも見るような冷たい目で、それでいて全身を舐め回すようにじっくりと観察していた。
どう反応すればいいのか分からず、硬直してしまう。

「あ……ごめん。 家まで連れてくね」

俺の視線に気付いたのかはっ、と目を逸らすとそう言って、体を百八十度回転、つかつかと歩いていく。

「あっ、はい」

出会ってから短いが、絢音はずっと無表情を崩さないでいる。
俺は昔からコミュニケーションが得意な方ではないけど、この人と仲良くするのは特に難しそうだなと思った。



西口の改札を出てから真っ直ぐ進んで、二回ほど曲がった先に俺がこれから住んでいく家があった。 駅までのアクセス、十分くらいといったところか。 その道中、二人の間で交わされた会話は皆無であった。

昨日まで住んでいた武家屋敷には劣るが、立派で広々とした一階建ての和風住宅。
短く切り揃えられた草が生い茂る庭には桜の木やヘビイチゴ、蜜柑などが植えられ、ほとんど紺色と茶色で構成されているシンプルな住宅を彩っている。

広くて綺麗な縁側からは庭の景色が一望できる構造になっていて、縁側に限定すると、殺風景だった実家のものよりも気に入った。

今のところ、これといって特に不満はないのだが、庭に実家にあった馬小屋くらい小さな倉庫がないのが少し寂しい。

実家にいた時は、物置小屋になっていたそこでよく探検ごっこをしたり、わざわざ父親の遺品である古い読書灯を持ち込んではそれを点けて、読めもしない本を読んだりしていたものだ。

つかつかと、彼女なりに気を使っているのか絢音はゆったりとしたペースで門を超え、玄関に向かっていく。 俺は彼女の後を追いながら、今日から生活していく家をめいいっぱい観察することができた。

絢音の歩みが玄関前で停止、鍵を差し込んでがちゃがちゃと動かすと解錠音がして、ドアが開かれる。

「お邪魔します」

これから自分が住む家だというのに、その挨拶はないだろう、と口にしたあとに思う。 思わず顔を赤らめる。

絢音の背中を追ってしばらく歩いていくと、新しい、汚れのない畳の敷かれた六畳ほどの、中心に小さな木造のちゃぶ台が設置されたシンプルな居間に辿り着く。 実家と同じでテレビを始めとした電子機器の類は置いていない様子。

「ここに座って待ってて。 お茶、淹れてくるから」

「はい、ありがとうございます」

女子高生の許嫁という特殊な相手にどう接していいのか分からなかった俺は、とりあえず自分の方が歳下なのでという理由で敬語を使っていた。
いつか、タイミングを見失う前にタメ口で話せる間柄にならなければならないだろう。

ぎぃぎぃと床の軋む音がして、絢音がトレーに二つのシンプルな湯呑みと、赤褐色の急須を乗せて持ってきた。 それらを卓上に置くと、均等にお茶を注ぐ。

「いただきます」

音を立てずに、ゆっくりとお温かい緑茶を口に含んで味わう。 どうにも落ち着かない心をどうにかしなければなるまい。

お茶の銘柄に詳しい、舌が肥えているということはないが、このお茶と実家で飲むお茶は大分、味が違うように感じた。 それは初めて上がる友人の家で出された飲み物が同じものでも違う味に感じる現象に酷似している。

しかし、温かい緑茶は思ったよりも硬い気持ちを和ませてくれた。 これなら、普通の会話くらいはできそうだと思う。

「突然、同棲しろだなんて言われて、困りますよね」

「……別に、前から決まっていたことだし」

絢音はそう言うと、湯呑みを両手で持って口元に運び、舐めるようにちびと少し緑茶を飲む。 いかにも無関心という風でいる。
彼女と自分が亭主女房の関係になれているビジョンがまるで見えない。

「……」

俺には彼女に返す言葉がない。



それからほとんど会話という会話をせずに彼女の作った昼食と夕食を取って、風呂に入ることになる。

食事は、食に関心のない俺であっても、お世辞にも美味いと言えるものではなかった。 それは一日目で実家に帰りたくなるくらい。

彼女とどうやっていくか。
新生活を上手く過ごしていく上で新しい家人とのコミュニケーションはとても大事になるだろう。
なにしろ、小学生は一日の半分以上は家で過ごすのだから。

彼女と同じ空間にいた時間も持ってきた文庫本を読んでいたりと、自分から心を閉ざしていたところもあるが、あまりにも彼女の仲良くなろうという意思が希薄すぎる。 否、何事にも活力的に見えない。

適切な温度の湯に浸かって、彼女との今後のコミュニケーションについて考える。 どうしたものか、愚鈍な頭は全く答えを出してくれない。

思案しながら十分ほどお湯に浸かって、女の子らしいパッケージの洗剤の入った籠とは別の籠に入っていた男物らしき洗剤で体と頭髪を、まるで田舎の匂いを消すかのように入念に洗って、流す。

風呂場を出て、寝巻きに着替え、ドライヤーで頭髪を乾かしている時に、また思考を走らせた。

彼女の機嫌を取ろうとするのが間違いなんじゃないか? 結婚を前提に暮らしていくのだから、遅かれ早かれ、お互いの本心を出さねばなるまい。
それに彼女に好かれようと、必死に取り繕うのはなんか厭だ。
それなら、最初から自分に正直に生きていた方が気楽なんじゃあないか、と。

俺は半ば投げやりになって、そういった結論を出す。

でも、一度その結論を出してしまうとだいぶ楽で、軽い気持ちで居間まで戻ることができた。

「風呂、出たよ」

「……」

絢音は答えないが、静かに立ち上がって居間を後にする。

俺は絢音が風呂に入っている間、家の中を探索することにした。

広い居間と台所にトイレと風呂場、そうして寝室と思われる、タンスの中に布団の仕舞われている部屋。
その部屋には二枚の布団があるが、まさか二人、同じ部屋で寝ろというのだろうか。 齢十にも達していない子どもではあるが、年上の女性と寝ることにはやはり抵抗がある。

最後にお母さんと寝たのなんて、三年は前だぞ……。

あたふたしていると、床のぎぃと軋む音を聞く。
絢音が風呂から上がったのか。 居間に戻ることにしよう。

居間に戻ると、薄い柑橘系の優しい匂いを漂わせた寝巻き姿の絢音がいた。

思わず、ドキドキしてしまう。
初対面の時から、整っているとは思っていたが、改めて綺麗だと思う。

黒目がちで切れ長の大きい瞳に、長い睫毛。 それを細く整えられた綺麗な眉毛が清楚を印象づけている。
綺麗な形をした小さな輪郭。 透明感のある、もはや青白いまでに白い肌。
痩せすぎているくらいに細い体。

余りの美しさに、言葉を失う。
そして、彼女と結婚できる自分はきっと幸せ者なのだと考える。

「でも、絢音さんが綺麗な人でよかった」

何の文脈もなく、そんな言葉を漏らす。 てっきり絢音は怪訝そうな顔をするかと思ったが、彼女は予想の範疇を出て、緊張感から開放された柔らかな表情を浮かべた。

「あ……」

口にしたあとで、自分が何を言ったのか気がついて、顔を赤くして顔を逸らす。
しかし、それ以上に、初めて見る彼女のその柔らかな、美貌の際立つ表情に見惚れて、彼女の目をそれ以上、直視できなかった。

「……そう、それならよかった」

直視できなかったが、視界の端で少しだけ見えた絢音の横顔は口角が少しだけ上がっているように見えた。



案の定、寝室は一つしかなくて、一つの部屋で二人で寝るということになった。

いくら別の布団で寝ているとはいえ、口から心臓が飛び出そうなくらいに緊張したが、絢音のあの時の可愛らしい表情を思い出すと━━━━なおさら興奮して、目が冴えて眠れなくなる。

結局、二十時過ぎに布団に入ったというのに、眠りに就けたのは二十一時過ぎだった。
微睡みに落ちる寸前、ごそごそと隣で布団から出る音がして、それからぎぃと音がしたのはなんだったのだろうか。
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