君は十字架を踏みつけて

藤森馨髏 (ふじもりけいろ)

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二億円の誘惑

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  瑠佳が持ち帰った観光用のパンフレットはかなり衝撃的な内容。だって、第二次世界対戦当時に、多くのユダヤ人を収容した施設のパンフレットだもの。

  悪名高き絶滅収容所アウシュビッツとか、その他にも。

  どこで手に入れたのか日本語のそのパンフレットには、一日に六千人のユダヤ人がガス室に送り込まれたと書かれていたの。

  もし私がその収容所にいたら、すぐに順番がきてたかもな人数よね。

  いろんな収容所があったらしいけど、ユダヤ人だけでなく、ドイツ人でもエホバの証人なら収容所に入れられたんだって。

  同じキリスト教なのに、何故ユダヤ人のように収容所に入れられたのかしら。

  私は無神論者だから、そういう情報には耳を塞いできたの。だってはっきり言って煩わしいじゃない、宗教って。

  ああ、そんなだから宗教二世の瑠佳と、根本的に話が合わないのかもしれない。

  でも今はね、ちょっと気になるの。同じキリスト教なのに、何故、エホバの証人だけが収容所送りにされたの。不思議よね。

  もし今の時代に似たような迫害が起きたら瑠佳はどうなるの。バプテスマを受けた証人ではないとしても、危ういのかしら。両親が熱心なエホバの証人で、彼は宗教二世だもの。心配。アウシュビッツのパンフレットと何か関係があるのかな。

  以前、義母とのメールで、エホバ神は人間の自由意思を尊重するみたいな話が出たけど、もしもエホバ神が強制力を行使していれば、ユダヤ人全滅を画したホロコーストもなければアウシュビッツ収容所もなかったわけよね。

  色々な考えに支配されて暗く沈み込んだ私は、瑠佳が何に悩んでいるのかわかるような気がしたけど、実際にはなんにもわからない。

  夫婦になるんだから。そのために一緒に暮らしているんだから。だから問い質すみたいな嫌な感じにならないように、上手く聞かなきゃ。

  リビングで、風呂上がりの濡れた髪の毛をタオル乾燥している瑠佳の横に腰掛けて、缶ビールを手渡す。

「私に何か隠していない?」

「しまった。何もない。サプライズでも用意しておけば良かった?」

  瑠佳は微笑んで缶ビールのステイオンタブを開けた。

  「誤魔化されないわよ」

  膨れて見せると、タオルを首に掛けて「君は僕とお金のどっちを選ぶ?」と私の腰に片手を廻す。

  うっとり眺めたい好みの顔なのにいきなりお金の話?

「え?  え?」

「たとえば、一億円で僕との離婚を勧められたらどうする?」

「離婚?  お金持ちの女の人?」

「いや、女性ではないよ。仕事上のパートナーにならないかと打診された。でもね、年俸二億円の仕事だから、家にも眠りに戻るだけになるかもしれない」

  軽く斜めにした缶ビールからひとくち飲む瑠佳の喉仏が、ごくりと音を立てながら上下する。

「二億……」って呆然としながらも、喉仏から目線を瑠佳の目に引きつけられた。

「どう思う?」

  真剣な表情。

「大金だね。ねえ、眠りに戻るだけって、身体は大丈夫なの?」

「君は大丈夫かい?」

「わ、私は浮気されなければ……いいえ、違う。二億円の仕事って、家で自由に過ごす時間もないなんて、相当無理しなければならないんじゃないの?」

「君は、二億円貰って離婚しようとか思う?」

「うっ……お、お、思っ……。あなたは何にも話してくれないし、話せば訳わかんないこと言うしっ、アウシュビッツのパンフレットなんて置いていくし、第一、あのパンフは何なの?」

  瑠佳の手がするりと離れた。

「あれは、ポストに入っていたんだ。サタンはナチスを使って大量虐殺を行い、エホバには人間を守るつもりはないのだと、世界に向かって神を貶めたんだよ。ドイツ人エホバの証人は、エホバを裏切れば収容所から出られたんだ。明らかに、ホロコーストは神を攻撃するための戦略さ。でも、ドイツ人エホバの証人は裏切らずに死を選択したらしいけどね」

  瑠佳はタオルで髪を掻き上げたあと、缶ビールふたくち目を流し込む。

「二億円とは関係ないのね」

「直接的にはね。でも、世の中は、プロパガンダで貶められるよりも、神を裏切るべきじゃないかと仄めかすのさ。どんな手を使ってでも離れさせようとするんだ。聖書を真面目に学び直そうかと思った矢先に、二億円の話が来たんだ。何だか妙なタイミングだなぁ。お金を選べば、聖書を学ぶ時間だけでなく、君と過ごす時間もなくなる」

  私としては、瑠佳をエホバに取られたくない。仕事にも、誰にも奪われたくない。

「でも、君が離婚を選ぶのなら」

  私は瑠佳のタオルを奪い取った。

「でもっ?  でもって言った?」 とタオルで瑠佳の頭をワシャワシャする。

「 愛し合うなら、結婚するなら、永遠の相手じゃなければ嫌だと言ったのはあなたよね。だのに、私のことをお金で切れる女だと思うの。悔しいっ」

  頭を降り動かされた瑠佳が「あ“あ“あ“」と呻く。

「私たち結婚できるの?  二億円の離婚太りするつもりで結婚するわけ?  私に私を軽蔑させる気っ?  もう早くお式を挙げましょ。そして早くエホバの証人になってよ。そうすれば離婚なんてできなくなるんでしょ」

  思わず首に抱きついた。

「それ、マジ?」

「マジよっ。に、二億円は欲しいけどお金のための無理なんてしないで。しかも、一年で離婚なんて何を考えているのよ。 あなたかお金かなんて、お金なんてあなたと同格ではないもの」

  私は瑠佳に股がっていたことに気づいて立ち上がった。

「ははは。嬉しいな。でも、僕が確かめたいのは、早くエホバの証人になれって、それ本気で言っているの?  世間から迫害されることは知っているよね?」

「勿論よ。ホロコーストを堪え忍んだ夫婦だっていたんでしょ?  じゃあ、大丈夫。今の時代にホロコーストなんてないし。第一、瑠佳以外に私が誰と永遠を誓えるっての?」

  仁王立ちでふんぞり返って見せる。破顔した瑠佳は缶ビールをテーブルに置いて、手を伸ばしてきた。



  

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