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第一話 12月のアイスクリーム
しおりを挟む引っ越し荷物をほどいたあと、十字架を焼きながら、瑠佳は「ゲッセマネで誰に祈ったか知らないんだな」と呟いた。
え? 私に訊いたの?
振り返った瑠佳の爽やかな笑顔に、ごめんなさいね無知な女で、と謝りたくなる。空は青く晴れているのに今夜は雪になるという。クリスマスに初雪。ロマンチックだ。
因みに、瑠佳は自称『エホバの異端児』。宗教二世で弁護士。忙しくて集会には出てないから、バプテスマを受けていない不活発な二世という位置付け。
世間から悪魔崇拝だとか迫害されないかな。だって、燃える十字架を見下げるような冷たい顔をしてるから。
石窯のある庭付きの戸建てにふたりで住むことになったんだけど、寝室の壁に掌に収まるくらいの小さな木製の十字架が掛かってたの。瑠佳はそれを一目見るなり「悪趣味だな」と言ったんだよね。
大家さんが捨て良いよと言うので、瑠佳は契約して直ぐに十字架を取り外したの。財布のなかから取り出した硬貨で、もう一刻も早くって感じでネジを回してた。
その小さな十字架を石窯に投げ入れた瑠佳に、売ればお金になるのにって内心では呟いていた。だって綺麗な彫り物だったから。
元の住人の残していた薪も少しはあったけど、着火が心配だったので、今日はDIYストアで準備してきた木切れを足して火を着けたの。火は一瞬ボオッと燃え上がって、その炎は薪が燃える前に十字架を包んだんだよね。そしてゲッセマネよ。あのセリフ。瑠佳、誰が誰に祈ったって言うの。わかるように言ってほしい。
「ちょっとコンビニに行ってくるから、火を見てて」
「オッケー」
瑠佳の両親はエホバの証人。 それで私も聖書を学び始めたのよね。瑠佳のお母さんに私の実家に来てもらって教えてもらうことにしたの。瑠佳ゲットを狙った神をも畏れぬ理由でね。エホバの証人になるつもりはないけど、お義母さんは期待してるかも。ふふふ。
勿論、私の親はドン引きしたよ。だって両親は、仏壇に供え物もツリーも飾るという信仰心のない宗教観だもの。今は門前の小僧になりきって、瑠佳さんの嫁になるならもっとしっかり学ばなくてはね、とか奨励してくるけどね。
車が出ていく。瑠佳のことは、親の布教活動を手伝っていた子供の頃から見知っていたから。一学年下で、控えめだけど非常に優秀だと聞くとなんとなく気になるものよね。
格闘技をしないとか、クリスマスやお誕生会に参加しないとか、輸血しないとか、親と一緒に布教活動しているとか。中学に進学しても瑠佳については色々な噂を耳にしてた。
宗教は要らないかも、なんて却下事項にしながらも、なんとなく気になる存在だった一学年下の男子に、私はいつしか憧れてた。
だから、足を複雑骨折した彼には悪いけど、看護士の私は飛び上がるほど喜んで、甲斐甲斐しく世話を焼いたのよね。家族も友人も見舞いに来たけど、瑠佳は明らかに退屈していた。だから、あなたの信じている神様について知りたい、と言ってみたの。 そしたら母親を紹介された。笑えるよね。
私は瑠佳にあざとく迫った挙げ句に避けられて、露出の多いセクシーなファッションが嫌いだとはっきり言われて思い切り赤恥かいたし、嘘だろなんて疑ったけど、今は瑠佳という男性を信頼できる。セクシー系には目を奪われることもあるけれど心を奪われる前にシャットアウトするし、哀れみしか感じないと言うのだから。
小悪魔的な誘惑をやめて真面目に接することができたのも、瑠佳が私の人間性を認めてくれたのも、全て運命だと思いたい。子供の頃から惹かれていた相手が今や婚約者なのだから。
重要事項は、エホバの証人の浮気は神と伴侶に対する裏切り行為そのものという点。結婚とは『愛し合うふたりが神と繋がれた永遠の伴侶として生きること』だって。ふふふ、最高っ。瑠佳はまだエホバの証人ではないけれど、この教理で育っているもの。
私の親たちも、永遠の伴侶という考え方には感銘を受けていた。
「無輸血手術って言ってもね、手術前に自分の血液を増やしてパックに取っておいて、手術終わってから体内に戻すわけ。しかも、手術の時には代替液体で血を薄めて臨むから、切られて流れる血はその薄まった血だし、その血も回収して洗浄して体内に戻すから、ほとんど自分の血液で賄えるんだよ。それに安くて安全なのよ。他人の血液は患者の免疫力を下げるからね」
と教えると、何故TVでそのことを教えないかと情報不足をドン引きの言い訳にした。
瑠佳がクリスマス・イヴに引っ越しを決めたのは、互いの両親を招待して引っ越し祝いでもするかというクリスマス代案だ。ふたりとも荷物が少なかったから引っ越し作業は半日で終わった。夜は互いの両親が料理を持ち寄ると言うから、こっちが準備するのはドリンクだけ。楽チンだ。
でもどうして、ゲッセマネで誰に祈ったかなんて意味不明なことを言ったのかな。
ゲッセマネをWeb検索してみた。イエス・キリストが祈った場所、ゲッセマネの園。近くにダグダラのマリア教会があるとか。
聞きかじり情報ではダグダラのマリアは元売春婦って噂だけど、驚きよね。元、と言っても売春婦だった人の名前を冠した教会だなんて。いや、噂だからか。
ダグダラのマリアは悔い改めた娼婦を守護するとか亜天使とされているとか。信仰があれば過去は無いものになるらしい。真っ赤な罪が真っ白に洗われるって、聖書から習ったばかりだ。
で、そのゲッセマネでイエスは誰に祈ったとか、Web検索では出てこないけど。
瑠佳は何を考えているのかな。
私にがっかりしたのかな。
もしかして、エホバの証人になりたいのかな。
集会に行ったり布教活動したりしたいのかな。
瑠佳が熱心に集会に行くようになったらイヤだ。何かに瑠佳を奪われるような気がする。
切ない気分ってこんな感じ……かな。
(お義母さん。教えてください。ゲッセマネでキリストは誰に祈ったのですか。)
直ぐに返信があった。
(メール有り難う。イエスはエホバに祈ったのよ。)
イエスがエホバに祈ったぁ。えぇぇ、衝撃的な答え。
待って待って。イエスって、あのバチカンが中心になって世界中に広めた救世主ですよね。神、ですよね。今、目の前で十字架燃えてるけど、ほら、奇しくも今日は二十四日、クリスマスだよ。今夜は世界中でクリスマスパーティーとか、教会で誕生祭をやるくらいのキリスト教の教祖。神様。
いや、待って。確かに私は神様について少しは知っている。エホバという名前と世界を創ったってこと。それと予言が当たるってこと。
でも、イエスがエホバに祈ったなんてWebになかった情報だ。じゃあエホバの証人が作っている話なんじゃないの。
Web検索したら、エホバは地上に来る前のキリストだとか言ってる教会もあった。
まだ学び初めて三ヶ月にもならないし、旧約聖書が中心だから(キリストが??? エホバに???)って返信するしかないじゃない。
(そうよ。新約聖書にあるけど、イエスは磔刑になることを予見していたから、苦境を退けてほしいけれど父のご意志が優先されるように、と祈ったの。エホバを愛していたのね。)
(死ぬのは嫌だって言ってみれば良いのに?)
(前に、アダムが神を裏切ったことをどう思うか、あなたに尋ねたことがあったわよね。)
(はい。その時は、エホバが全知全能の神ならアダムの裏切りを予見できたはずだから、元々悪いものとして人間を創ったのではないかと疑いました。でも、今はそれがエホバを貶めるためのサタンの策略だとわかってます。)
(良かった。ちゃんと理解してくれてて。完全な人間として創られたアダムが神を裏切ったでしょ。だからみ子イエスはアダムと同じ完全な人間として生まれて、アダムと違って神を裏切らない生き方ができることを証明する必要があったのよ。それは何のためだったと思う。)
(もしかしたら、濡れ衣晴らすためですか。)
(そうね。エホバへの濡れ衣を晴らして信仰の手本になる。その任務を受け入れたみ子は、マリアのお腹に転移させられたのよ。)
「転移っ!! 」
思わず叫び声を上げて口を押さえた。誰もいない庭なのに周りを見てしまう。
転移って異世界転移みたいな?
まるでマンガみたいな話だけどっ。
(でも、イエス・キリストって神様ですよね)
(いいえ。エホバという創造神の被造物よ。イエス本人が『自分の考えではなく、天の父の教えを広めにきた』と明言しているの。エホバとイエスは別個の存在よ。それに、アダムが神を裏切ったからと言って、裏切られた神が人間になって神を裏切らない生き方をして見せるなんて、人間と神を貶めるサタンに対して何の証明にもならないでしょ。本人が本人を裏切ることはないのだから。それに『元々人間は悪い生き物として創られた』というサタンの策略って、普通の人間では覆し得ないじゃない。だって人間は、創造された当初の完全性を失っているのだから。だから、み子を完全な人間として転移させたのよ)
(キャー。イエスは元々天の生き物だったのですね。どうしよう。燃えてる。今、新居にあった十字架を焼いていて、それで瑠佳さんが、ゲッセマネで誰に祈ったかとか、独り言みたいなこと言ったんです。その意味が知りたくて。)
(なるほどね。瑠佳はきっと、十字架崇拝者たちにイエスは神ではないと言いたかったと思う。そもそもイエスが神なら、誰に祈るの。ゲッセマネで自分の迎える苦境ついて、過ぎ去らせてくださいなんて、誰かに祈るわけないじゃない。それ、焼いても構わないわよ。偶像崇拝はエホバ神が嫌うから。)
義母から握り拳の親指を突き立てた大きなスタンプが送られてきた。この親ありき、で納得。ふふっ。
(火の用心 !! )
(了解です。有り難うございます。)
(イエスの任務はまだあるけど、それはまたの機会にね。あなたのような熱心な知りたがり屋さんが嫁になってくれてとっても嬉しい。こっちの方こそ有り難う。)
私は感謝の可愛いスタンプを送った。
車が戻ってきた。車から降りた瑠佳は手にレジ袋を下げて、焚き火の向こうから笑顔を向ける。
「ドリンクとアイス買ってきたよ」
「うわあ、嬉しい。贅沢気分っ」
「うん、この季節に庭でアイス食べるのはちょっと贅沢だな」
「ふふ。十二月とアイスクリームって最高の相性じゃない。うわっ、冷たっ、美味しい。さっきね、クリスチャンが十字架焼くなんて罰当たりじゃないかと思ってお義母さんに聞いたのよ」
「ははは。見に来たいとか言ってなかった」
「喜んでた。ほら」
わたしは義母のスタンプを見せた。
「これからも、偶像は全て石窯行き決定な。ちゃんと覚えておいて。どんな美術品でもそれを神だと偽ってはいけないんだ。祈りの対象にしてはいけない。見ててごらん、あれはただの木片。火から逃れられない」
「霊のようなものが取り憑いていたら?」
「そうなら弱い霊だな。ほら、焼け焦げてやがて灰になる。祈る対象に値しない。霊が取り憑くなら尚更、完全に燃やし尽くして僕らの周辺から追い出してやるさ」
「うん。何だか神様も天使も喜んでいるような気がする」
「ほんとか」
瑠佳がスポーツ選手みたいに私の肩を組む。
「うん。もしもみ子イエスが全知全能の神様だとしたら、誰に祈りを捧げたのかな。ふふ。世間の常識を裏切ってクリスマスに十字架焼いてるの、楽しい」
パチパチと音を立てる石窯の中で、白く煙ながら真っ赤に燃えた十字架は、黒い炭になって灰に変貌していく。
私たちは燃える十字架を他所に、アイスクリームを食べ終えた甘い唇を重ねた。
天の父エホバ、このまま永遠の伴侶になれますように。み子キリスト・イエスのみ名を通して、アーメン。
★★★★★★★★★★★★★★★
ヨハネ14章15節、16節
パラクレートス(弁護者)
もしもあなた方が私(イエス・キリスト)を愛するのなら、私の掟を守り行うでしょう。
そして私は父(エホバ)にお願いし、父は別の助け手をあなた方に永久にとどまるようにしてくれるのです。
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