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第三章 純愛と天使と悪霊

(104) 悪霊の枯渇

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  メンデが珍しく腹が痛いと言って休んでいる。ネイトは今日も黄色いリボンでもじゃもじゃの頭を後ろに結わえていたが、モーナスの目には辛そうに映った。

「ネイト、親父の様子を見てこい。俺も気になる」

  シアノが作らせた滋養の高い料理を持たせる。ネイトは心配顔のまま頭を下げて、ガレに「悪いね」と小声で言った。

  ネイトの代わりにガレは二倍働かなくてはならない。それでも笑って「伯父さん、早くよくなると良いね」と送り出す。

  ガレは、自分も親父のモーナスが病気になったら気が気ではないだろうと、ネイトの気持ちを察して泣きたくなる。

  井戸の引き縄を肩に巻いて後ろ向きになる。一歩一歩と歩いて水のたっぷり入った釣瓶つるべを引き上げる。井戸から遠く離れたら、縄を胴体に巻きながら井戸に近づいて釣瓶を井戸の縁に置き、斜めにしてたらいに水を注ぐ。ネイトと二人で力を合わせてやってきた仕事だ。

  ガレは死に物狂いで土まみれのジャガイモや人参を洗う。井戸の水を何度も汲む。八才の子供が一人で井戸水を汲み上げるには、釣瓶の半分の量でなければ足を取られそうになる。水疱マメがつぶれたばかりの手に新しい水疱ができた。

  縄を引きながらふと後ろを振り返った。軽くなったからだ。水の入った釣瓶を黒騎士が持ち上げている。国境警備の巡視から戻った兵士だ。兜を片手に抱えて、笑顔で釣瓶を井戸の縁に置く。

「今日はひとりか。偉いな、いつも。着替えてから手伝ってやるよ」

  ガレの顔がパアッと輝いた。


  畑の脇の小さな家は、メンデの妻がハーブ水で力一杯磨き上げた清潔な匂いがした。入り口からそっと入る。台所のかまどにまだ温かい小鍋をおいて、ネイトは父親の様子を見に両親の寝室を覗いた。

  メンデは寝ている。眼窩が青黒く皮膚は生気を失い唇も血の気がない。心配顔のネイトの横に人影が立つ。

「あ、アール様……」

「ネイト、君の様子が気になったから声をかけたんだけどね」

  いつも優しくいろんな話を聞かせてくれる金髪の美しい貴族は、やはり身を隠すように黒いマントを纏った姿で現れて、にっこり微笑む。

  ネイトは「す、済みません。何も聞こえませんでした」と訝りながらも謝った。

「親父さんは、病気なんだね」

「治りますか」

「そうだ。君の力を試してみよう。ネイト、親父さんの額に手を当てて……」

  ネイトは言われた通りに父親の額に手を置く。その手の甲に金色の光が集まる。

「あっ」

「驚かなくて良いんだよ。私はこの力が憎まれて、隠れて暮らしているけれど、ネイトは特別だから助けてあげよう」

  温かな人柄を感じて、ネイトは涙を溢した。

「ゆっくり温かくなるよ。ネイトは私と一緒にいたから、力が移りやすいんだ」

  ネイトの手に宿った金色の光は、熱いものとなってメンデの身体にじわじわと滲みていく。手の指の一本一本、足の爪先までも熱い。メンデは身体が宙に浮くような感覚にとらわれて目を開けた。

「ネ、ネイト……」

「お父さんっ」

  ネイトはベッドにあがって父親の首に抱きついた。幾つになっても父親の存在は大きいものだが、その父親が病に倒れ、まだ八才のネイトにのし掛かった不安は計り知れない。

「お父さん、顔色が……」

  青黒く萎んでいた眼窩に張りのある肌が戻り、白かった唇も血の気を取り戻した。ほんの一瞬に、奇跡が起きた。ネイトは明るい表情で金髪の黒マントを振り返っだが、影すら見えない。

アール様……
一言のお礼も言えなかった
とても優しいアール様
あなたのお陰で
お父さんが元気になりました
どうやって感謝の気持ちを
表せば良いのかわかりません
僕にできることなら
アール様のお役に立てるなら

  ネイトは父親が元気になったことを喜んだ。

「お父さん、モーナス叔父さんが滋養の高い食事だって、持たせてくれたよ。食べてみて」

「おお、有難い」

  メンデは笑顔になって半身を起こす。ネイトはバネのようにテーブルにすっ飛んで行った。

  ルネの容貌を借りた悪霊はほくそ笑み「これでネイトは取り込めた。完全に私の手駒だ」とネイトの後ろ姿を眺める。八才にしては知恵も力もある。そして、うぶな柔らかい心は惑わされ易く、恩義に対しては弱い。父親メンデを病にしてネイトを取り込む悪霊の作戦は成功をおさめた。

  不可視光線が立ち上がる

ベルエーロ
お前のやったことは罪だぞ
メンデを病にしたのはお前自身だ

  ベルエーロは答えた。

ザカリー領の兵士は強者ぞろいですが
先ずは騎兵の駒を射殺いころせば
落馬させることができましょうぞ
私はそれをしただけです

ベルエーロ、神を侮るな
良いことのように見せかけて
人心を弄ぶな

そんなことを仰られても
私には私の歩む道があります故に

お前に道などない
人間から神への崇拝を
奪おうとの魂胆だろう
くれぐれも言っておく
神を侮るな

ですからそれは……
おっと……
立ち去るのは素早いですね
私はもっと
あなたと語り合いたいのに
あなたの口から聞く
神への賛美は
何と神々しく神聖に響くことか
胸が奮えるほどですよ
肉体を持たない私でさえも
あなたの信仰に触れると
この身の何処かが
斬られて仕舞いそうなくらい
あなたの信仰は
抜き身の剣のように美しい
愛おしくなって……激しく憎む
私は肉体を持たない生き物
それでも
天から堕ちなかったあなたの
神への崇拝と賛美、信仰によって
この身を一刀両断にされる思いのする
あなたの言葉が、その精神が……
ああ……私に思い知らせるのです
私は神に焦がれると
だから孤独だと

  ネイトが明るく笑った。

「アール様ってとてもお優しい方なんだよ。僕には凄く親切にしてくださるんだ。ガレと僕とを見分けるんだよ。凄いでしょ。貴族の方なのに、僕と友達になってくれるなんて」

  メンデは、館に新しく逗留している貴族の話だと勘違いした。

「あまり馴れ馴れしくするのではないぞ」

「うん。貴いお方だからね。神様とか天使みたいだよ」

  部屋の片隅の孤独な影は成果を手にして嗤った。

神様とか天使みたいだと……
ふははは……良く言った、ネイト
お前は私を既に崇拝しているのだな
しかし、まだまだだ
私の枯渇感を満たす為には
まだまだ足りない



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