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マリアンヌ編
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「あっ、あっ、あんっ、ノーマン、いいっ、もっとぉ!」
「マリー、出そうだ…っ、中に、中に出すぞ…っ」
「きてぇ…っ!あ、あああああ…っ!」
睦み合う男女の喘ぎ声、そして私の隣に立ちニヤニヤと嗤う義母。ああ、これ、…初めてじゃ、ない。ぶわっ、とものすごい量の映像、記憶が、一瞬のうちになだれ込んできて、マリアンヌはクラリと眩暈を起こし膝を付いた。
「あら、そんなにショックだった?でもねぇ、早くわかって良かったでしょ?ノーマンは貴女ではなくマリエラを愛しているの。でも、従妹では外聞が悪いから貴女を仮の妻にしたのよ。マリエラが生む子どもを、ノーマンと貴女の子どもとして届け出るから。貴女は籍が入っているだけのお飾りの妻よ…ある程度したら離縁して出て行ってもらうからそのつもりでね」
蔑むように、そしてさも嬉しそうに声を落として話す義母。
(そうね。前回はおおよそその通りだった)
いまマリアンヌの腹に宿っている娘、シャロンは、生まれてすぐに分家に養子に出された。追いかけるようにマリエラが息子を生み、その子はノーマンとマリアンヌの子どもとされた。ただしマリエラが生んだのはその息子だけで、妊娠がわかったその日から当然のように侯爵家で生活していたマリエラは、ある日突然姿を消した。その一年後には義母が亡くなり、養子に出されていたシャロンが戻ってきてマリエラの息子が代わりに養子に出された。マリアンヌの預り知らぬところですべてが淡々と進んでいった。
生まれてすぐに離されたシャロンは2歳になっていて、まったく懐いてくれなかった。自分の生んだ子どもなのに愛情を感じられず、養育やら生活やらをすべてメイド任せにした。シャロンが戻ってくるのと時を同じくして夫に求められるようになったが、あの夜聞いた夫とマリエラの生々しいやりとりを思い出すと素直に受け入れることができなかった。拒み続けるマリアンヌに、ノーマンは家に帰らない日が増えていった。
そんな、家族などと言えない書類上だけの関係が続いていたある日、第1王子の12歳の誕生日パーティーに公爵家と侯爵家の、年齢が釣り合う令嬢が招待を受けた。カーディナル魔法国の王族、そして貴族はよほどの事情がない限り婚約を早期に結ばない。学園の高等部で出会い親睦を深め、自由恋愛で結ばれる者が多い中、明らかに王家の嫁を選ぶ前提のその招待に国中がざわめいた。
シャロンも招待を受け、偽りの微笑みを貼りつけた親子3人で出席したその夜、シャロンが第1王子の婚約者に選ばれた。なんの交流もなかったシャロンがなぜ選ばれたのか、マリアンヌにはまったくわからなかったがノーマンに聞くのは憚られ、気づけば婚約式になっていた。
交流が頻繁に持たれるわけではなかったが、月に一度のお茶会で侯爵家を訪れる第1王子は穏やかでシャロンを大切に扱っているのがよくわかった。マリアンヌにとって、壁一枚隔てたような関係性のシャロンでも娘であることには代わりなく、積極的に関わることはなかったが幸せそうでホッとした。自分のような結婚生活を送るようにはなってほしくなかったから。それなのに。
学園の高等部に入って、すべてが崩れ落ちた。シャロンを婚約者にした第1王子は、入学式でぶつかり助け起こした男爵家の令嬢と恋に落ち、シャロンを虐げるようになった。冷遇されているのを見て周りも追随し、シャロンは惨めでツラい学園生活を送っていたらしい。マリアンヌはまったく気づけなかった。生活時間をズラしていたし、話をきくことも、シャロンから話をしてくれることもなかったから。だから、幸せなまま結婚したのだと信じていたのだ。シャロンが結婚後半年で亡くなってしまったあの日まで。
突然城に呼び出され夫と共に向かった先で目にしたのは、王子妃とは思えないボロボロの服を身に纏い、干からびるように痩せ細った息絶えたシャロンと、そのシャロンを腕に掻き抱き慟哭する第1王子、そして傍らには顔を滅多刺しにされ事切れた水色の髪の女性…。
ガタガタ震え出すカラダを止められずノーマンに視線を向けると、ノーマンは「…なぜ愛妾が死んでいる?」とポツリと呟いた。愛、妾…?
思わず掴みかかるマリアンヌにノーマンは淡々と説明した。学園に入ってからシャロンが冷遇されていたこと。身分の問題と婚約を解消すると王家に不満が向く可能性があり、下の王子たちの将来のためにシャロンとの婚約は続行したこと。ただし第1王子の不満を押さえるために、王子の希望通り彼の男爵家の令嬢を公的に愛妾として認めたこと。シャロンは名ばかりの妃だったこと…。
「な、んで、」
「…おまえだってシャロンを娘だなどと思っていなかっただろう。俺だってそうだ。俺はおまえが、」
夫が吐き出した言葉に頭を殴られたようになる。そうだ、私は、シャロンを娘だと思っていなかった。生んですぐに取り上げられ、いつの間にか戻され、でもまったく懐いてくれなくて、…義母や、マリエラや、他ならぬ夫への不満を、私はシャロンにぶつけた。シャロンを無視し続けることで、我が身の鬱憤を晴らし、我が身を守ることに固執した。何も聞かず、何も知ろうとせず、関わらず、表面だけは幸せな親子を装おってきて、そして、私は、…私が、シャロンを殺してしまった。
震えるカラダで第1王子に近づく。足に力が入らず這うように進む中、女王陛下と魔術師団団長が入室してきたのが見えた。そちらに視線を向けて初めて、部屋の中にもう一人、シャロンと同じ年頃の男性がびしょ濡れで倒れていたのに気付いた。その男性に魔術師団団長が近づいた途端、第1王子が何かを叫び団長を持ち上げ女王陛下に投げつけた。たぶんあれは風魔法だろう。続けて何かを叫んでいるが内容はまったく入ってこなかった。シャロンを、返してほしくて。
シャロン。生まれたあの日、守ると決めたはずなのに。周囲の悪意に耐えられなくて、私は貴女の手を離してしまった。懐いてくれなくても、根気よく貴女に向き合い抱き締めるべきだったのに、自分が守ってほしくて、傷つきたくなくて、貴女を犠牲にしてしまった。もう謝れない。シャロン。私が生んだ娘。
震える手を必死に伸ばし、シャロンに触れる直前、第1王子のカラダから炎が立ち昇った。ものすごい熱と轟音に包まれて、…あの時、私は死んだのだ。ついぞシャロンに触れることができないままに。
義母が言うことを頭の中で否定して、現実から目を逸らしたりしたから。私の弱さがシャロンを殺した。こんなバカげた生活を守るために必死になって。ノーマンの私への愛など、初めからなかったのだ。あまり接点がなかった私を選んだのは、魔術の勉強ばかりで女性らしくもなく、ちょっと優しく、愛しているフリをすれば簡単に騙せると、そう思ったからなのだろう。現にこうしてまんまと騙されたのだから。
マリアンヌは立ち上がると、義母を一瞥し目の前の扉を開けた。「ちょ、…マリアンヌさん…っ!?」
扉から室内に入ってきた明かりに、室内の人影が動きを止める。中に充満するのは酒と、爛れた特有の臭い。マリアンヌはそのまま室内灯をつけた。
「キャア…ッ」
「マ、リアン、ヌ、…え?」
わざとらしく悲鳴を上げて、ノーマンにしがみつくマリエラの唇はイヤらしく弧を描いている。呆然とマリアンヌを見るノーマンとの結合部からは白濁が零れ落ちていた。こんな男にすがりついて…自分の生活を守ろうとしたせいで。
ツカツカと近づいて、マリアンヌはノーマンの頬を打った。
「何するの…っ」
声を上げるマリエラの頬も打つ。
「キャ…ッ!ノーマン、見た!?マリアンヌさんたら私のこと、」
「どけ…っ!」
しなだれかかるマリエラをベッドから突き落としたノーマンは、自分も転がり落ちるとマリアンヌの足にしがみついた。
「マリアンヌ、違う、これは違うんだ…っ!俺は、」
「何が違うのですか?」
マリアンヌの今まで聞いたことのない冷たい声に、ノーマンは青ざめて顔を上げた。その視線の先には、冷ややかに、…美しく微笑む、自分の妻が。
「おふたりが愛し合っていること、よくわかりました。ただしそれと、私が利用されるのは話が別です。お飾りの妻?まっぴらごめんですわ。今日を限りにこの家から出ていきます。離縁しましょう、いますぐに」
マリアンヌの言葉に目を見開いたノーマンは、「…利用?」と震える声で絞り出すように呟いた。
「愛するマリエラ様が貴方の従妹だから、子どもを作るのは憚られる、結婚もどうかと思ったからそれを解消するための隠れ蓑として私を利用したのでしょう、お飾りの妻にするために」
そうだ。あの日私は、この部屋の前から黙って去った。夫にも、何も告げなかった。妊娠がわかると夫には魔術師団を辞めさせられた。だから余計に、先行きが不安で、…流されて、しまったのだ。このまま、生活していけるならそれでいいと。見ないフリをすればいいと。
今はまだ、妊娠を告げていない。だから魔術師団も辞めていない。この子は、シャロンは、今度は私が守る。一人親でも、働いていければなんとかなる。こんなクズどもに、獣にも劣る畜生どもに、しっぽを振って従順な奴隷でいるなどまっぴらだ。
踵を返そうとするが、ノーマンに足を掴まれ動けない。
「離してください」
「マ、マリアンヌ、違う、そんな、」
「離してください」
離さないノーマン目の前に、マリアンヌは氷の刃を降らせた。それでも離さないどころか、ノーマンは立ち上がるとマリアンヌに抱き付いた。
「…なんの真似ですか?」
冷たい声にハッとしたノーマンは、自分の格好に思い至り、「す、まない、」とだけ洩らしたが離れようとしなかった。
「…私はもう無理ですよ。お金を払って、堂々と契約婚なされませ、今度は。お金のためなら、こんなバカげた生活であっても割りきって付き合ってくださる方がいるやもしれませんから。離縁届は後程でよろしいですか。私、こんな穢れた場所に一秒もいたくないので…今夜、お暇いたします」
「い、やだ、いやだ、マリアンヌ、いやだ、離縁しない、イヤだ!!」
マリアンヌは何も言わず、ノーマンのカラダから逃れると姿を消した。そのまま自室に飛び、シールドを張る。ノーマンの魔力には破られてしまうだろうが、時間稼ぎにはなるだろう。持ち出したい荷物もあるが、それは後からでもいい。魔術師団の建物に入るための団員証を大事に首にかけたところで、案の定シールドがミシミシと音を立てる。「マリアンヌ、出てきてくれ…っ!!」
「代わりの方を探すには時間がかかるやもしれませんが、その時は最悪平民の方にお願いしては?どこかに…分家の養子にでもすれば身分としては問題ないでしょう」
「そんなのイヤだ…っ、俺はマリアンヌがいい…っ!」
「私はイヤですわ、これ以上はお断りです」
破られたシールドと共に入ってきたノーマンは裸のままだった。マリエラと愛し合ったそのカラダを見せつけられ、なぜこんな嫌がらせをされなくてはならないのか情けなくなる。…あの日確かに、私と貴方は愛を誓ったはずなのに。
汚らわしいと思えたら、嫌いになれたら、憎めたらどんなに良かっただろう。ここまできても、マリアンヌはノーマンを「嫌いだ」と思えなかった。様々な想いがごちゃ混ぜになり胸をギュッと締め付ける。その痛みに、涙がポロリと零れた。目を見開くノーマンに、「さようなら」と告げる。
(さようなら。私の愛したノーマン・ジェンキンス様。貴方はもう要らない…私が一人でこの子を幸せにしてみせる)
「マリアンヌ…ッ!!」
最後に視界に入ったノーマンの表情は、溢れる涙でよく見えなかった。
「マリー、出そうだ…っ、中に、中に出すぞ…っ」
「きてぇ…っ!あ、あああああ…っ!」
睦み合う男女の喘ぎ声、そして私の隣に立ちニヤニヤと嗤う義母。ああ、これ、…初めてじゃ、ない。ぶわっ、とものすごい量の映像、記憶が、一瞬のうちになだれ込んできて、マリアンヌはクラリと眩暈を起こし膝を付いた。
「あら、そんなにショックだった?でもねぇ、早くわかって良かったでしょ?ノーマンは貴女ではなくマリエラを愛しているの。でも、従妹では外聞が悪いから貴女を仮の妻にしたのよ。マリエラが生む子どもを、ノーマンと貴女の子どもとして届け出るから。貴女は籍が入っているだけのお飾りの妻よ…ある程度したら離縁して出て行ってもらうからそのつもりでね」
蔑むように、そしてさも嬉しそうに声を落として話す義母。
(そうね。前回はおおよそその通りだった)
いまマリアンヌの腹に宿っている娘、シャロンは、生まれてすぐに分家に養子に出された。追いかけるようにマリエラが息子を生み、その子はノーマンとマリアンヌの子どもとされた。ただしマリエラが生んだのはその息子だけで、妊娠がわかったその日から当然のように侯爵家で生活していたマリエラは、ある日突然姿を消した。その一年後には義母が亡くなり、養子に出されていたシャロンが戻ってきてマリエラの息子が代わりに養子に出された。マリアンヌの預り知らぬところですべてが淡々と進んでいった。
生まれてすぐに離されたシャロンは2歳になっていて、まったく懐いてくれなかった。自分の生んだ子どもなのに愛情を感じられず、養育やら生活やらをすべてメイド任せにした。シャロンが戻ってくるのと時を同じくして夫に求められるようになったが、あの夜聞いた夫とマリエラの生々しいやりとりを思い出すと素直に受け入れることができなかった。拒み続けるマリアンヌに、ノーマンは家に帰らない日が増えていった。
そんな、家族などと言えない書類上だけの関係が続いていたある日、第1王子の12歳の誕生日パーティーに公爵家と侯爵家の、年齢が釣り合う令嬢が招待を受けた。カーディナル魔法国の王族、そして貴族はよほどの事情がない限り婚約を早期に結ばない。学園の高等部で出会い親睦を深め、自由恋愛で結ばれる者が多い中、明らかに王家の嫁を選ぶ前提のその招待に国中がざわめいた。
シャロンも招待を受け、偽りの微笑みを貼りつけた親子3人で出席したその夜、シャロンが第1王子の婚約者に選ばれた。なんの交流もなかったシャロンがなぜ選ばれたのか、マリアンヌにはまったくわからなかったがノーマンに聞くのは憚られ、気づけば婚約式になっていた。
交流が頻繁に持たれるわけではなかったが、月に一度のお茶会で侯爵家を訪れる第1王子は穏やかでシャロンを大切に扱っているのがよくわかった。マリアンヌにとって、壁一枚隔てたような関係性のシャロンでも娘であることには代わりなく、積極的に関わることはなかったが幸せそうでホッとした。自分のような結婚生活を送るようにはなってほしくなかったから。それなのに。
学園の高等部に入って、すべてが崩れ落ちた。シャロンを婚約者にした第1王子は、入学式でぶつかり助け起こした男爵家の令嬢と恋に落ち、シャロンを虐げるようになった。冷遇されているのを見て周りも追随し、シャロンは惨めでツラい学園生活を送っていたらしい。マリアンヌはまったく気づけなかった。生活時間をズラしていたし、話をきくことも、シャロンから話をしてくれることもなかったから。だから、幸せなまま結婚したのだと信じていたのだ。シャロンが結婚後半年で亡くなってしまったあの日まで。
突然城に呼び出され夫と共に向かった先で目にしたのは、王子妃とは思えないボロボロの服を身に纏い、干からびるように痩せ細った息絶えたシャロンと、そのシャロンを腕に掻き抱き慟哭する第1王子、そして傍らには顔を滅多刺しにされ事切れた水色の髪の女性…。
ガタガタ震え出すカラダを止められずノーマンに視線を向けると、ノーマンは「…なぜ愛妾が死んでいる?」とポツリと呟いた。愛、妾…?
思わず掴みかかるマリアンヌにノーマンは淡々と説明した。学園に入ってからシャロンが冷遇されていたこと。身分の問題と婚約を解消すると王家に不満が向く可能性があり、下の王子たちの将来のためにシャロンとの婚約は続行したこと。ただし第1王子の不満を押さえるために、王子の希望通り彼の男爵家の令嬢を公的に愛妾として認めたこと。シャロンは名ばかりの妃だったこと…。
「な、んで、」
「…おまえだってシャロンを娘だなどと思っていなかっただろう。俺だってそうだ。俺はおまえが、」
夫が吐き出した言葉に頭を殴られたようになる。そうだ、私は、シャロンを娘だと思っていなかった。生んですぐに取り上げられ、いつの間にか戻され、でもまったく懐いてくれなくて、…義母や、マリエラや、他ならぬ夫への不満を、私はシャロンにぶつけた。シャロンを無視し続けることで、我が身の鬱憤を晴らし、我が身を守ることに固執した。何も聞かず、何も知ろうとせず、関わらず、表面だけは幸せな親子を装おってきて、そして、私は、…私が、シャロンを殺してしまった。
震えるカラダで第1王子に近づく。足に力が入らず這うように進む中、女王陛下と魔術師団団長が入室してきたのが見えた。そちらに視線を向けて初めて、部屋の中にもう一人、シャロンと同じ年頃の男性がびしょ濡れで倒れていたのに気付いた。その男性に魔術師団団長が近づいた途端、第1王子が何かを叫び団長を持ち上げ女王陛下に投げつけた。たぶんあれは風魔法だろう。続けて何かを叫んでいるが内容はまったく入ってこなかった。シャロンを、返してほしくて。
シャロン。生まれたあの日、守ると決めたはずなのに。周囲の悪意に耐えられなくて、私は貴女の手を離してしまった。懐いてくれなくても、根気よく貴女に向き合い抱き締めるべきだったのに、自分が守ってほしくて、傷つきたくなくて、貴女を犠牲にしてしまった。もう謝れない。シャロン。私が生んだ娘。
震える手を必死に伸ばし、シャロンに触れる直前、第1王子のカラダから炎が立ち昇った。ものすごい熱と轟音に包まれて、…あの時、私は死んだのだ。ついぞシャロンに触れることができないままに。
義母が言うことを頭の中で否定して、現実から目を逸らしたりしたから。私の弱さがシャロンを殺した。こんなバカげた生活を守るために必死になって。ノーマンの私への愛など、初めからなかったのだ。あまり接点がなかった私を選んだのは、魔術の勉強ばかりで女性らしくもなく、ちょっと優しく、愛しているフリをすれば簡単に騙せると、そう思ったからなのだろう。現にこうしてまんまと騙されたのだから。
マリアンヌは立ち上がると、義母を一瞥し目の前の扉を開けた。「ちょ、…マリアンヌさん…っ!?」
扉から室内に入ってきた明かりに、室内の人影が動きを止める。中に充満するのは酒と、爛れた特有の臭い。マリアンヌはそのまま室内灯をつけた。
「キャア…ッ」
「マ、リアン、ヌ、…え?」
わざとらしく悲鳴を上げて、ノーマンにしがみつくマリエラの唇はイヤらしく弧を描いている。呆然とマリアンヌを見るノーマンとの結合部からは白濁が零れ落ちていた。こんな男にすがりついて…自分の生活を守ろうとしたせいで。
ツカツカと近づいて、マリアンヌはノーマンの頬を打った。
「何するの…っ」
声を上げるマリエラの頬も打つ。
「キャ…ッ!ノーマン、見た!?マリアンヌさんたら私のこと、」
「どけ…っ!」
しなだれかかるマリエラをベッドから突き落としたノーマンは、自分も転がり落ちるとマリアンヌの足にしがみついた。
「マリアンヌ、違う、これは違うんだ…っ!俺は、」
「何が違うのですか?」
マリアンヌの今まで聞いたことのない冷たい声に、ノーマンは青ざめて顔を上げた。その視線の先には、冷ややかに、…美しく微笑む、自分の妻が。
「おふたりが愛し合っていること、よくわかりました。ただしそれと、私が利用されるのは話が別です。お飾りの妻?まっぴらごめんですわ。今日を限りにこの家から出ていきます。離縁しましょう、いますぐに」
マリアンヌの言葉に目を見開いたノーマンは、「…利用?」と震える声で絞り出すように呟いた。
「愛するマリエラ様が貴方の従妹だから、子どもを作るのは憚られる、結婚もどうかと思ったからそれを解消するための隠れ蓑として私を利用したのでしょう、お飾りの妻にするために」
そうだ。あの日私は、この部屋の前から黙って去った。夫にも、何も告げなかった。妊娠がわかると夫には魔術師団を辞めさせられた。だから余計に、先行きが不安で、…流されて、しまったのだ。このまま、生活していけるならそれでいいと。見ないフリをすればいいと。
今はまだ、妊娠を告げていない。だから魔術師団も辞めていない。この子は、シャロンは、今度は私が守る。一人親でも、働いていければなんとかなる。こんなクズどもに、獣にも劣る畜生どもに、しっぽを振って従順な奴隷でいるなどまっぴらだ。
踵を返そうとするが、ノーマンに足を掴まれ動けない。
「離してください」
「マ、マリアンヌ、違う、そんな、」
「離してください」
離さないノーマン目の前に、マリアンヌは氷の刃を降らせた。それでも離さないどころか、ノーマンは立ち上がるとマリアンヌに抱き付いた。
「…なんの真似ですか?」
冷たい声にハッとしたノーマンは、自分の格好に思い至り、「す、まない、」とだけ洩らしたが離れようとしなかった。
「…私はもう無理ですよ。お金を払って、堂々と契約婚なされませ、今度は。お金のためなら、こんなバカげた生活であっても割りきって付き合ってくださる方がいるやもしれませんから。離縁届は後程でよろしいですか。私、こんな穢れた場所に一秒もいたくないので…今夜、お暇いたします」
「い、やだ、いやだ、マリアンヌ、いやだ、離縁しない、イヤだ!!」
マリアンヌは何も言わず、ノーマンのカラダから逃れると姿を消した。そのまま自室に飛び、シールドを張る。ノーマンの魔力には破られてしまうだろうが、時間稼ぎにはなるだろう。持ち出したい荷物もあるが、それは後からでもいい。魔術師団の建物に入るための団員証を大事に首にかけたところで、案の定シールドがミシミシと音を立てる。「マリアンヌ、出てきてくれ…っ!!」
「代わりの方を探すには時間がかかるやもしれませんが、その時は最悪平民の方にお願いしては?どこかに…分家の養子にでもすれば身分としては問題ないでしょう」
「そんなのイヤだ…っ、俺はマリアンヌがいい…っ!」
「私はイヤですわ、これ以上はお断りです」
破られたシールドと共に入ってきたノーマンは裸のままだった。マリエラと愛し合ったそのカラダを見せつけられ、なぜこんな嫌がらせをされなくてはならないのか情けなくなる。…あの日確かに、私と貴方は愛を誓ったはずなのに。
汚らわしいと思えたら、嫌いになれたら、憎めたらどんなに良かっただろう。ここまできても、マリアンヌはノーマンを「嫌いだ」と思えなかった。様々な想いがごちゃ混ぜになり胸をギュッと締め付ける。その痛みに、涙がポロリと零れた。目を見開くノーマンに、「さようなら」と告げる。
(さようなら。私の愛したノーマン・ジェンキンス様。貴方はもう要らない…私が一人でこの子を幸せにしてみせる)
「マリアンヌ…ッ!!」
最後に視界に入ったノーマンの表情は、溢れる涙でよく見えなかった。
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