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雪女の約束
雪女の約束.5
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目が覚めてすぐ、愛しい人の寝顔がある喜びを、どう表現すればいいのか。語彙力に欠ける私には、うまく分からなかった。
カーテンの隙間から、私の幸せな起床にあやかろうとする冬の弱い光が入り込んできている。
そして、その薄明かりが照らし出す、玲奈の新雪のような白い肌を見て、いっそう私は胸の奥が温まるのを感じた。
愛に、費やした月日は関係ないと、今なら断言できた。
青臭いと思われるかもしれない。
現実を知らない子どもだと、笑われるかもしれない。
それでも構わない。
私がどう思うかは、私が決めることだから。
「玲奈」と静かに呼ぶ。
一瞬だけ目元が痙攣するように動いたが、やがてすぐまた穏やかな寝顔に戻った。
今度は、頬を撫でた。小さなうめき声と共に、ようやく彼女は覚醒した。
真っ白な顔に二つ並んだ、冬の夜空みたいな瞳が、ぱちぱちと瞬きをする。
「おはよう」
ぎゅっと抱き締めあったまま眠りに落ちていたため、目の前に玲奈の顔があったのだが、不思議なことに、彼女の表情は奇妙な諦めを宿していた。
一体どうしたのだろうか、ともう一度名前を呼ぼうとしたところで、玲奈は半裸のまま起き上がり、思い出したかのように、「おはようございます」と呟いて着替えを始めた。
透き通るような背中には、青白い血管が浮かんでおり、それを見ただけで激しく動悸がしそうになる。
それを誤魔化すために、何でもないことのように私は明るく言葉を発する。
「玲奈って、雪女みたいだね」
自分で口にしながら、しまった、と思う。
案の定、玲奈は顔を歪めてじっとこちらを見つめており、「それってもしかして、褒めているつもりなんですか?」と尋ねてきた。
「ほ、褒めてるって!肌とか、真っ白で、綺麗でさぁ…。あ、しかも、玲奈と会ったのって、冬の夜じゃん?」
「今の時期、朝昼以外に出会えば冬の夜ですよ」
そういうことじゃないってば、と乾いた笑いをこぼす私に、玲奈は静かに笑ってみせた。その顔に、何か、取り返しのつかないようなものを感じ、どこか不安になる。
こんなに幸せなのに、一体何を不安になるというのか。
馬鹿らしい。冬の朝に幸と不幸を同時に感じて、センチメンタルになるなんて、絶対にごめんだ。
私を信じ、体を委ねた彼女を不安にさせるような顔は、天地神明にかけても、絶対にしない。
そういうことを考えるのは、お腹が空いているせいだ、と判断した私は、素早く着替えを済ますと、玲奈を伴って一階に下りて、朝食の支度を進めた。
今日も、いつもと同じシリアルと目玉焼きだったが、初日以降、玲奈が妙な顔をすることはなくなっていた。
食卓を囲み、昨夜の興奮をどうにか抑え込みながら、どこか顔色の悪い玲奈の様子を窺う。
受け答えの感じから考えるに、どうやら、体調が悪いというわけではなさそうではあるが…。
少しでも彼女の心を軽く出来ないだろうかと、私は努めて明るい声で思いつきを提案する。
「ねえ、玲奈。遊園地、好き?」
「え?」と玲奈は眉をひそめた。「遊園地ですか?」
「そう」
「…行ったことないから、分からないです」
相手の解答に、内心、気の利かない自分を罵りつつ、私は頷く。
親から(あくまで推測だが)虐待を受けていた玲奈が、そんな気の利いた思い出を持っていると考えるのは、少し短絡的すぎた。
「じゃあ、今度行ってみようよ」
「遊園地に?」
「んー…、この際、遊園地でも、水族館でも、どこでもいいよ。とにかく、玲奈とデートしたいなって、思って」
そのときの私は、事態を甘く見ていた。
玲奈にどんなつらい過去があっても、懸命に、人が本来与えられるべき愛情と、友愛、親愛を注いでいけば、きっと未来は明るいはずだ、と。
取り返しのつかないことなんて、この世界にはないんだと…。
ここが玲奈にとって、すでにある種の終着を迎えた、最果ての地だということも知らずに。
コトン、とスプーンを置いて、絵本の中の夢物語でも眺めるように目を細めた玲奈は、ぼそりと呟く。
「素敵ですね。とても…」
乗り気に思える返事に、ぱあっと私が破顔したときだった。
突如、がなり立てるような電話の着信音が幸福な食卓をかき乱した。
誰だよ、こんなタイミングに…。
ディスプレイを確認する。そこには、美景の文字が表示されていた。
野暮ったいタイミングだったから、どうせアンタだと思ったけどぉ。
初めは無視しようと思っていたのだが、あまりにもしつこかったためか、玲奈がやけに穏やかな声で出るように勧めた。
最早、感情の木花が、枯死剤でもくらって萎んだかと思えるような、生気のない声だった。
「もう、なに?」
開口一番、迷惑さ全開で電話に出た私に対し、美景はそんなものを気にする余裕もなさそうな、切羽詰まった大声をぶつけてくる。
「ちょっと、今アンタどこにいんのよ!」
鼓膜が破れるかと思うような美景の声に、反射的に携帯を耳から離す。
「うるさ…!朝から何なの、美景。家、家に決まってるでしょ」
「分かった、すぐ行くから!待ってなよ!」
「はぁ…?美景、さっきから何を言って…」
美景は、その問いに、言葉にし難い唸り声を上げたかと思うと、さらに声を大にして告げた。
「あぁもう!テレビ!テレビ見ろって!」
あまりに滅茶苦茶で、一方的な罵られようだったので、いよいよ私は頭にきて、携帯をソファのほうに放り投げた。
何か、ギャーギャー言っている美景の声が聞こえるが、無視して一応言われたとおりテレビを点ける。
別に、面白くもなんともない番組ばかりだった。昨今のテレビなんてそんなものか、と思いながらひたすらチャンネルを切り替える。
「何なの、美景のやつ…。つまんない番組ばかりじゃんか」
世界が切り替わるように、番組が切り替わる。
ボタンを連打しているうちに、ショッピングや、バラエティ、料理番組へと進み、そして、ニュース番組に辿り着いた。
「お」と思わず私は声を上げた。
ニュースは、ここ一週間ずっと騒ぎっぱなしだった、夫婦殺人事件の進展を伝えていた。
先週の金曜日、夫婦が滅多刺しにされた姿で発見され、その一人娘が見つかっていない、という話だったのだが、どうやら警察は、とうとうその未成年の子どもの名前や写真を公開し、本格的に捜索するようだった。
被害者らの娘は、私より一つ年下で、名前を、『雪乃玲那』といった。
「へぇ…」
まさか、自分よりも年下の女の子が、こんなおぞましい事件の重要参考人として警察に追われているとは信じられず、ついつい感心したような呟きがもれてしまう。
しかし、そのことごとくを他人事として処理してしまえる私たちの弱さは、思わぬタイミングで、残酷な現実の前に曝け出されることとなった。
雪乃玲那の顔写真が、テレビの中央にパッと大きく映し出されたとき、一瞬私は眉をひそめた。
「んん…?」
あれ、この顔…。
長い黒髪の隙間から覗く、この世の一切を諦めたような瞳。
カメラの故障かと思えるほど、真っ白い頬。
あぁ、と私はすぐにこの違和感の正体に気づき、間抜け極まりない声で平然と言ってのける。
「この人、玲奈にそっくりだね」
彼女の名前を出したというのに、玲奈は、まるで何も――息遣い一つ漏らさなかった。
無視されたのか、聞こえなかったのか、と私は玲奈のほうを向いた。
彼女は、確かに私の話を聞いていた。
なぜなら、真っ直ぐに、私の瞳を見返していたから。
だがそこには、昨夜、不器用ながらも愛し合った女の面影はなかった。
あまりにも、冷徹。
拒絶に次ぐ、拒絶。
唯一、私の知る久遠寺玲奈と違わなかった部分はといえば、やはり、冷たさの中、諦めに満ちているという点だけだった。
刹那、私はようやく全てを理解した。
握っていたリモコンが、どれほど悲惨な悲鳴を上げてフローリングの床に激突しようと、私は彼女から目を離せなくなっていた。
その白い頬が、緩やかに歪んだ。
「本当に、馬鹿ですね。飛鳥は」
嘆息と同時に囁きをこぼした久遠寺玲奈――雪乃玲那は、幽鬼の如くゆらりと音もなく立ち上がると、テレビのそばに寄って、じっと流れるテロップを読んでいるようだった。
『雪乃玲那さん(16歳)とは、一週間前から連絡が取れなくなっており、携帯も置きっぱなしにされていたことからも、事件と何らかの関係があるのではとされています』
『さらに、雪乃玲那さんは、両親から虐待を受けていたとの報告があり、度重なる虐待の末に、このような犯行に及んだ可能性も示唆されており――』
ぷつん、とテレビの画面が消え、真っ黒い鏡が出来上がる。
いつの間にかリモコンを拾い上げていた彼女と、その黒い鏡越しに目が合った。
ぞっとするほど、冷たく、寂しい目。
彼女を分子レベルで構成する、孤独の微粒子が瞳の奥でたゆたっている。
「私のことなんて、何も知らない連中が…、勝手に過去をあれこれ調べて、動機を妄想して、訳知り顔で私を語る」
くるりと、玲那がこちらを向いた。
「全くもって、虫酸が走ります」
あちこちが歪んでしまった玲那の瞳に射抜かれて、ほぼ無意識のうちに私は椅子から転がり落ちるようにして、彼女から離れた。
それを哀れむような目で追っていた玲那は、ふと、未だに何かをわめきたてている美景と繋がった携帯のほうに移動し、手に取った。
「もしもし…。はい、そうです。ええ、雪乃玲那です。よくお分かりで。…いいえ、馬鹿になんてしていません。…ふぅ、分かりましたから、そうきゃんきゃんと吠えないでください。イライラして、貴方の大事な人を殺してしまうかもしれませんよ?…ふふ、冗談です。ご安心を、絶対に飛鳥を傷つけたりしませんから。本当です、なので、もう少しだけ時間をください。…ええ、お好きにどうぞ。ただ、邪魔をしたり、警察を呼んだりしたら…、分かりますよね?…はい、はい。さようなら、永遠に」
電話が切れる、ブーブー、という音によって、完全にこの世界が、私と彼女だけのものに隔絶されたことを知った。
電話していたときも、片時も離れずに向けられていた視線が、きゅっと、鋭くなる。
「雪女は――」と彼女は朗読するように、私の知らない声で綴った。
「自分と会ったことを誰にも言わない、という約束を破った男を、殺そうとします。しかし、すでに相手を愛してしまっていた雪女は、自らが代わりに消えることを選択し、男の前からいなくなります」
「私は、あの童話を聞かされたとき、馬鹿だと思いました」
「さっさと殺しておけばよかったんです。そうすれば、自分が消えなければならないようなことにはならなかった。そう、アイツらだってそうです。私をさっさと殺しておけば、自分たちが殺されるようなことにはならなかったのに、ふふ」
「でも…、今なら雪女の気持ちが、少しだけ分かります」
玲那が屈んで私を覗き込んだことで、ぎっ、とフローリングが鳴った。
「飛鳥を殺したくない。でも、私だって、アイツらのせいで滅茶苦茶にされた人生を、やり直すって決めたから…」
こつん、と玲那が私と額をすり合わせた。
「――飛鳥は、ちゃんと約束守れますよね?」
カーテンの隙間から、私の幸せな起床にあやかろうとする冬の弱い光が入り込んできている。
そして、その薄明かりが照らし出す、玲奈の新雪のような白い肌を見て、いっそう私は胸の奥が温まるのを感じた。
愛に、費やした月日は関係ないと、今なら断言できた。
青臭いと思われるかもしれない。
現実を知らない子どもだと、笑われるかもしれない。
それでも構わない。
私がどう思うかは、私が決めることだから。
「玲奈」と静かに呼ぶ。
一瞬だけ目元が痙攣するように動いたが、やがてすぐまた穏やかな寝顔に戻った。
今度は、頬を撫でた。小さなうめき声と共に、ようやく彼女は覚醒した。
真っ白な顔に二つ並んだ、冬の夜空みたいな瞳が、ぱちぱちと瞬きをする。
「おはよう」
ぎゅっと抱き締めあったまま眠りに落ちていたため、目の前に玲奈の顔があったのだが、不思議なことに、彼女の表情は奇妙な諦めを宿していた。
一体どうしたのだろうか、ともう一度名前を呼ぼうとしたところで、玲奈は半裸のまま起き上がり、思い出したかのように、「おはようございます」と呟いて着替えを始めた。
透き通るような背中には、青白い血管が浮かんでおり、それを見ただけで激しく動悸がしそうになる。
それを誤魔化すために、何でもないことのように私は明るく言葉を発する。
「玲奈って、雪女みたいだね」
自分で口にしながら、しまった、と思う。
案の定、玲奈は顔を歪めてじっとこちらを見つめており、「それってもしかして、褒めているつもりなんですか?」と尋ねてきた。
「ほ、褒めてるって!肌とか、真っ白で、綺麗でさぁ…。あ、しかも、玲奈と会ったのって、冬の夜じゃん?」
「今の時期、朝昼以外に出会えば冬の夜ですよ」
そういうことじゃないってば、と乾いた笑いをこぼす私に、玲奈は静かに笑ってみせた。その顔に、何か、取り返しのつかないようなものを感じ、どこか不安になる。
こんなに幸せなのに、一体何を不安になるというのか。
馬鹿らしい。冬の朝に幸と不幸を同時に感じて、センチメンタルになるなんて、絶対にごめんだ。
私を信じ、体を委ねた彼女を不安にさせるような顔は、天地神明にかけても、絶対にしない。
そういうことを考えるのは、お腹が空いているせいだ、と判断した私は、素早く着替えを済ますと、玲奈を伴って一階に下りて、朝食の支度を進めた。
今日も、いつもと同じシリアルと目玉焼きだったが、初日以降、玲奈が妙な顔をすることはなくなっていた。
食卓を囲み、昨夜の興奮をどうにか抑え込みながら、どこか顔色の悪い玲奈の様子を窺う。
受け答えの感じから考えるに、どうやら、体調が悪いというわけではなさそうではあるが…。
少しでも彼女の心を軽く出来ないだろうかと、私は努めて明るい声で思いつきを提案する。
「ねえ、玲奈。遊園地、好き?」
「え?」と玲奈は眉をひそめた。「遊園地ですか?」
「そう」
「…行ったことないから、分からないです」
相手の解答に、内心、気の利かない自分を罵りつつ、私は頷く。
親から(あくまで推測だが)虐待を受けていた玲奈が、そんな気の利いた思い出を持っていると考えるのは、少し短絡的すぎた。
「じゃあ、今度行ってみようよ」
「遊園地に?」
「んー…、この際、遊園地でも、水族館でも、どこでもいいよ。とにかく、玲奈とデートしたいなって、思って」
そのときの私は、事態を甘く見ていた。
玲奈にどんなつらい過去があっても、懸命に、人が本来与えられるべき愛情と、友愛、親愛を注いでいけば、きっと未来は明るいはずだ、と。
取り返しのつかないことなんて、この世界にはないんだと…。
ここが玲奈にとって、すでにある種の終着を迎えた、最果ての地だということも知らずに。
コトン、とスプーンを置いて、絵本の中の夢物語でも眺めるように目を細めた玲奈は、ぼそりと呟く。
「素敵ですね。とても…」
乗り気に思える返事に、ぱあっと私が破顔したときだった。
突如、がなり立てるような電話の着信音が幸福な食卓をかき乱した。
誰だよ、こんなタイミングに…。
ディスプレイを確認する。そこには、美景の文字が表示されていた。
野暮ったいタイミングだったから、どうせアンタだと思ったけどぉ。
初めは無視しようと思っていたのだが、あまりにもしつこかったためか、玲奈がやけに穏やかな声で出るように勧めた。
最早、感情の木花が、枯死剤でもくらって萎んだかと思えるような、生気のない声だった。
「もう、なに?」
開口一番、迷惑さ全開で電話に出た私に対し、美景はそんなものを気にする余裕もなさそうな、切羽詰まった大声をぶつけてくる。
「ちょっと、今アンタどこにいんのよ!」
鼓膜が破れるかと思うような美景の声に、反射的に携帯を耳から離す。
「うるさ…!朝から何なの、美景。家、家に決まってるでしょ」
「分かった、すぐ行くから!待ってなよ!」
「はぁ…?美景、さっきから何を言って…」
美景は、その問いに、言葉にし難い唸り声を上げたかと思うと、さらに声を大にして告げた。
「あぁもう!テレビ!テレビ見ろって!」
あまりに滅茶苦茶で、一方的な罵られようだったので、いよいよ私は頭にきて、携帯をソファのほうに放り投げた。
何か、ギャーギャー言っている美景の声が聞こえるが、無視して一応言われたとおりテレビを点ける。
別に、面白くもなんともない番組ばかりだった。昨今のテレビなんてそんなものか、と思いながらひたすらチャンネルを切り替える。
「何なの、美景のやつ…。つまんない番組ばかりじゃんか」
世界が切り替わるように、番組が切り替わる。
ボタンを連打しているうちに、ショッピングや、バラエティ、料理番組へと進み、そして、ニュース番組に辿り着いた。
「お」と思わず私は声を上げた。
ニュースは、ここ一週間ずっと騒ぎっぱなしだった、夫婦殺人事件の進展を伝えていた。
先週の金曜日、夫婦が滅多刺しにされた姿で発見され、その一人娘が見つかっていない、という話だったのだが、どうやら警察は、とうとうその未成年の子どもの名前や写真を公開し、本格的に捜索するようだった。
被害者らの娘は、私より一つ年下で、名前を、『雪乃玲那』といった。
「へぇ…」
まさか、自分よりも年下の女の子が、こんなおぞましい事件の重要参考人として警察に追われているとは信じられず、ついつい感心したような呟きがもれてしまう。
しかし、そのことごとくを他人事として処理してしまえる私たちの弱さは、思わぬタイミングで、残酷な現実の前に曝け出されることとなった。
雪乃玲那の顔写真が、テレビの中央にパッと大きく映し出されたとき、一瞬私は眉をひそめた。
「んん…?」
あれ、この顔…。
長い黒髪の隙間から覗く、この世の一切を諦めたような瞳。
カメラの故障かと思えるほど、真っ白い頬。
あぁ、と私はすぐにこの違和感の正体に気づき、間抜け極まりない声で平然と言ってのける。
「この人、玲奈にそっくりだね」
彼女の名前を出したというのに、玲奈は、まるで何も――息遣い一つ漏らさなかった。
無視されたのか、聞こえなかったのか、と私は玲奈のほうを向いた。
彼女は、確かに私の話を聞いていた。
なぜなら、真っ直ぐに、私の瞳を見返していたから。
だがそこには、昨夜、不器用ながらも愛し合った女の面影はなかった。
あまりにも、冷徹。
拒絶に次ぐ、拒絶。
唯一、私の知る久遠寺玲奈と違わなかった部分はといえば、やはり、冷たさの中、諦めに満ちているという点だけだった。
刹那、私はようやく全てを理解した。
握っていたリモコンが、どれほど悲惨な悲鳴を上げてフローリングの床に激突しようと、私は彼女から目を離せなくなっていた。
その白い頬が、緩やかに歪んだ。
「本当に、馬鹿ですね。飛鳥は」
嘆息と同時に囁きをこぼした久遠寺玲奈――雪乃玲那は、幽鬼の如くゆらりと音もなく立ち上がると、テレビのそばに寄って、じっと流れるテロップを読んでいるようだった。
『雪乃玲那さん(16歳)とは、一週間前から連絡が取れなくなっており、携帯も置きっぱなしにされていたことからも、事件と何らかの関係があるのではとされています』
『さらに、雪乃玲那さんは、両親から虐待を受けていたとの報告があり、度重なる虐待の末に、このような犯行に及んだ可能性も示唆されており――』
ぷつん、とテレビの画面が消え、真っ黒い鏡が出来上がる。
いつの間にかリモコンを拾い上げていた彼女と、その黒い鏡越しに目が合った。
ぞっとするほど、冷たく、寂しい目。
彼女を分子レベルで構成する、孤独の微粒子が瞳の奥でたゆたっている。
「私のことなんて、何も知らない連中が…、勝手に過去をあれこれ調べて、動機を妄想して、訳知り顔で私を語る」
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「全くもって、虫酸が走ります」
あちこちが歪んでしまった玲那の瞳に射抜かれて、ほぼ無意識のうちに私は椅子から転がり落ちるようにして、彼女から離れた。
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電話が切れる、ブーブー、という音によって、完全にこの世界が、私と彼女だけのものに隔絶されたことを知った。
電話していたときも、片時も離れずに向けられていた視線が、きゅっと、鋭くなる。
「雪女は――」と彼女は朗読するように、私の知らない声で綴った。
「自分と会ったことを誰にも言わない、という約束を破った男を、殺そうとします。しかし、すでに相手を愛してしまっていた雪女は、自らが代わりに消えることを選択し、男の前からいなくなります」
「私は、あの童話を聞かされたとき、馬鹿だと思いました」
「さっさと殺しておけばよかったんです。そうすれば、自分が消えなければならないようなことにはならなかった。そう、アイツらだってそうです。私をさっさと殺しておけば、自分たちが殺されるようなことにはならなかったのに、ふふ」
「でも…、今なら雪女の気持ちが、少しだけ分かります」
玲那が屈んで私を覗き込んだことで、ぎっ、とフローリングが鳴った。
「飛鳥を殺したくない。でも、私だって、アイツらのせいで滅茶苦茶にされた人生を、やり直すって決めたから…」
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