雪女の約束

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雪女の約束

雪女の約束.4

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 まさか、これほどまでに自分が飛鳥に好かれているとは、想像もしなかった玲奈だったが、決して悪い気はしていなかった。

 ほとんど無理やりされた口づけに関しても、どうしてか、嫌悪感もなかった。ただ、あまりに不意打ちだったことだけは、無性に腹が立った。

 飛鳥との共同生活も、すでに六日が経過していたわけだが、確かに彼女が言う通り、両親が帰って来る気配は微塵もなかった。

 夜、時折飛鳥が電話している姿を見ることが出来る以外は、その存在を感じることすら出来ない。

 彼女が学校でいないときは、穏やかで、孤独な時間が流れていた。
 例えるなら、シロアリに柱を食い尽くされかけている家だ。

 そう遠くない未来に、崩れ去ることが分かっていても、どうすることも出来ない孤独がすぐ目の前に蠢いている。

 ある種の死を待つハゲタカのような影が、起きていて、一人でいる間はずっと部屋の隅に立っていた。

 その影から逃れるという意味だけでも、飛鳥の存在は非常に大きなものとなっていて、彼女がいない時間は、可能な限り眠って過ごそうとも考えていた。

 しかし、それを許さない、呪いに身を染めた影が、ベッドに潜り込む度に同じ布団に潜り込んで来るので、結局眠ることは叶わず、本の隙間に逃げ込むしか、玲奈に出来ることはないのだった。

 飛鳥が家に帰って来ると、すぐに夕食に取り掛かった。事前に準備しておいて、可能な限り彼女との会話の時間を確保した。

 自分の作った料理を、彼女が美味しそうに頬張り、お礼を口にする度に、玲奈は不思議な浮遊感を味わった。

 実のところ、その浮遊感が一番強かった日は、初めて彼女の家で迎えた朝のことだった。

 飛鳥がはにかんだ表情で、ご飯が出来ていると告げたとき…。
 そして、実際それを目の当たりにしたとき…。

 誰かが何かを自分のためにしてくれる、という感覚に、あまりに不慣れであったため、玲奈の怜悧れいりな頭脳は一時活動を停止してしまうという事態にまで陥った。

 何もかもが、当然のようにふりまかれる愛情や善意に満ちたこの家が、かえって恐ろしくも感じた。

 自分の元居た場所と違い過ぎて、途方もない息苦しさを味合わされることも、少なくはなかった。

 濁った川で生きてきた魚が、澄んだ水では生きられないのと同じように、一日経つごとに、玲奈はこの環境への順応が不可能だと思い知らされた。

 それを感じずにいられるのは、唯一、飛鳥と一緒にいる間だけだった。

 彼女が必死で堪えながら示している好意の一つ、一つが、玲奈の中の奥底に沈んでいるおりをさらってくれたので、それを続けてもらうためにも、出来るだけ彼女の求めに応えた。

 抑えきれず、彼女が顔を寄せて来るときは、獣を躾けるように一旦待たせて、必ず想いを口にするよう伝えた。

 若く、自分の欲求に素直な彼女はすぐに、どうすれば唇を重ねられるのかを学んだ。

 しかし、ウィンウィンであると思えたその関係も、じきにそう長くは続けられなくなった。

 人間は際限なき欲望の生き物で、飛鳥もその例外ではなかった。

 触れられなければ、手を重ねるだけでもと願い。

 手を重ねる日々を続ければ、次は唇を重ねたいと思うようになる。

 そして、キスが済めば、今度は体に触れたいと思う。

 そうして最後は、体を重ねることを望むようになる。

 いくらでもお金を持っていて、餓死することのない、安逸的な環境を手にしたとして、それでも金儲けのことしか考えられない人間の、多いこと多いこと。

 人間という存在を、漢字一文字で表すなら何か。

 答えは簡単だ、『欲』である。

 愛、信、誠、義、善…これらはみんな全て、『欲』の破片、あるいは排泄物だ。

 飛鳥のように、邪悪さをまるで感じられない相手でもそうなのだから、およそ、真理だと玲奈は思っていた。

 それを証明するように、飛鳥は玲奈の体に触れたがった。というよりも、その一歩前段階で、まずは触れられずとも、見てみたいと思うようになったらしい。

 玲奈が風呂に入るとき、彼女も一緒に入りたいと言い出した。当然、彼女は断ったが、珍しくしつこく食い下がる飛鳥に、正直なところ辟易としていた。

 そして、そうなってくると、同じベッドで眠る、という行為に危険がつきまとうようになった。

 眠りに入る前の、飛鳥の雷鳴を抱いたような、ぎらぎらした目を一度目撃してしまってからは、彼女が寝た後からでないと、安心して目をつむれなくなった。

 断っておくが、玲奈は飛鳥に触れられることが不快だったわけではない。

 むしろ、彼女の温かで、思いやりに富んだ指先に身を委ねたとしたら、一体どんな心地になるのかと興味が尽きなかった。

 ただ、彼女の場合、裸体を見られるということに激しい拒否感があったのだ。特に、親しくなればなるほど、その傾向は顕著に表れた。

 飛鳥も、それに薄々勘付いてはいたものの、たいしたことだと思っておらず、だからこそ、あの事件が起きたといえよう。

 玲奈と飛鳥の奇妙な同棲生活が始まって、一週間が経った金曜日の夜のことだ。

 ここ最近の玲奈は、飛鳥が眠るのを確認するまで起きている、という睡眠欲との戦いを連夜続けており、限界が来ていた。

 そのため、自分の上に飛鳥が馬乗りになっている、という状況になるまで、玲奈は気付くことが出来なかった。

 最早、反省も後悔も見られない、欲に支配されつくし、頬を獣のように上気させた飛鳥と目が合う。

 彼女が袖を通していた、子どもっぽい、パステルカラーのパジャマと、相手を制圧したがっている瞳とが、酷くアンバランスに感じる。

 一時間前までは、石油ストーブが点火されていた飛鳥の寝室は、今では半端な温もりだけが漂っており、天井から暖色の光を降らすシーリングライトほどの熱しかなかった。

 玲奈が起きたことを察した彼女は、ごくりと喉を鳴らして、ほんの一瞬だけ目を逸らしたが、すぐにまた玲奈を真っ直ぐ見下ろした。

 視線は、じわじわと、這うように玲奈の瞳から鎖骨、胸まで下ってきて、最後に身じろぎしたせいであらわになっている、白いお腹辺りで止まった。

 飛鳥を押しのけようと、その両手を掴んだことで、かえってその情欲の炎をたぎらせてしまったようで、とうとう、飛鳥は玲奈の借り物のパジャマの上着を無理やりめくり上げた。

 一度だけ抵抗した玲奈だったが、その手を強く振り払われたことで、もう何をする気も起きなくなった。

 慣れていたのだ、彼女は。

 抵抗してもどうにもならないことが、世の中には多すぎる。

 現実とかいう、つまらないものを大いに含んだものも、それの代表的な仲間の一人だった。

 自分のパジャマだというのに、飛鳥は何の躊躇いもなく、その白いボタンを千切り飛ばした。

 ほとんどのボタンホールが形骸化してしまったところで、ようやく彼女は次を考えたらしく、思い切りパジャマと、肌着を上にずらし上げた。

 声もなく、抵抗もない玲奈の動きを、あろうことか受け入れてもらっていると勘違いした飛鳥は、呼吸を一人だけ荒げて、その病的に白い肌に口付けを落とした。

 そして、彼女はようやくそのときになって違和感に気付いた。

 唇に触れた際とは、まるで違う、奇妙な感触。

 その正体を探るように、薄闇に目を凝らしたとき、飛鳥は絶句してしまった。

 自分の目にしたものが、他にもないかと不躾にも探し回るため、玲奈の体を右に、左にと傾けた。

 そうして、その数が十を超えた辺りで、数えるのをやめた。

 ぴたりと動きを止めて、必死になって頭を回転させている飛鳥を、玲奈は今度こそしっかりと押しのける。

 ぐらりと、放心して倒れ込むようにベッドに仰向けになった彼女を見下ろし、乱れた肌着を整え、口を開く。

「これで、満足しましたか?」

 冷淡というわけでもないが、もちろん慈悲を感じられる声音でもない。

「…本当にごめん、玲奈」

「いいんです。別に」

 強がりでも何でもない。本当に、玲奈にとっては、『もう』どうでもいいことだった。

 トン、と弱々しくも、確かな温もりと重みが玲奈の背中を包んだ。

 つい数秒前までは、獣同然だった飛鳥が、今や聖女じみた哀れみに満ちた涙を堪えきれず、すすり泣いているのが分かって、玲奈は驚愕した。

「何で、飛鳥が泣くんですか…?」

 何を問いかけても、飛鳥はもう、ごめんね、という言葉しか発さない。

 飛鳥が見たのは、玲奈の真っ白い肌に残る、円形の禍々しい痣だった。彼女の境遇を知るものであれば、それが虐待の痕だとすぐにピンとくるだろう。

 おそらくは、煙草の火を押し付けられたであろう痕は、全てが遠い過去の傷ではなかった。明らかに最近つけられたであろう痕も、そこには混じっていたのである。

 白い肌の上から、何かを消そうとしたかのような、歪で、不気味な痣。

 上半身だけではなく、全身に及んだその傷痕が、久遠寺玲奈という人間が生まれ出でた世界の全てを象徴していた。

 醜くて、どうにもならなくて。

 痛くても、届かなくて。

 身勝手で、独りよがりで…。

 諦観の嵐が自分自身のことごとくを――未来さえも奪い去るのを傍観しながら、時間を浪費して、意味もなく生きてきた。

 だからこそ、玲奈には、飛鳥のような人間が解せなかったのである。

 無関係な相手のために、想像もできない過去のために、涙を流す彼女が…。

 ただ、同時に、酷く愛おしく思えたことも事実であった。

 謝罪を繰り返す出来の悪いロボットみたいな飛鳥の顔を、肩越しに振り返り、その頭を撫でる。

 その優しい手付きに、驚いたような表情で顔を上げた彼女に、玲奈は静かに告げた。

「馬鹿な人ですね…本当に」

 頬を指でなぞり、顎を上向きにして、初めて玲奈のほうから顔を近づけた。

 ごめん、と言いかけた飛鳥の口を無理やり塞ぐ。
 今度はこちらの番というわけだ。

 そうすることで、この理解不能な温みに満ちた刹那が途絶えず、どこまでも激しく光を放ち続けると信じたかった。

 ただ、彼女の明晰な頭脳は、そうならないことを知っていた。

 ――もう少し、早く飛鳥に出会えていたなら…。

 私もきっと、彼女の隣を歩けていただろう。
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