雪女の約束

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雪女の約束

雪女の約束.2

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 運命の相手ってのは、物語の中だと突然やって来るものらしかった。

 曲がり角でぼんっ、とか。

 深い眠りから、キスで目を覚まさせてくれたりだとか。

 少女が年中蹲っている暗い牢の扉を、開けてくれたりだとか。

 あと、とにかく色々。

 そういう古典的かつロマンティックなストーリーに触れる度に、憧れを抱いてしまう反面、私はいつも思うわけ。

 ――…いや、急すぎだろ、って。

 前方不注意だったり、変質者同然だったり、相手が誰でもそれは惚れるわ、みたいな恩人だったり。

 そうそう人間の人生、急変することなんてない。

 少なくとも、私はずっと信じてきた。というか、夢見がちな現実から、叩き起こされるぐらいの時間は、まだまだ子どもの自分でも積み重ねてきた。

 でも、私のその考えを、確たる証拠をもって否定してみせたのが、昨夜の出来事であった。

 いや、昨夜の出来事で終わりではない。

 私の人生を大きく変える(かもしれない)出会いは、今も確かな温もりを持ったまま、変な動悸と共に早起きした私のベッドに横たわっていた。

 何かの病気にかかったみたいに真っ白な手足や頬。

 それに反発する、黒々とした、カラスの羽を一枚、一枚丹念に仕上げて出来たかのような黒髪。

 目が開いているときでも、アンニュイな雰囲気を放っている彼女――久遠寺玲奈は、まさに私の好みど真ん中だった。

 自分と違って、頭の良さそうな口調も、
 化粧をせずとも、魅力的な光を常にまとう端正な顔立ちも、

 何もかもが、私の夢見ていた、理想の女の子だった。

 確かに、一夜にして世界が変わることは現実としてあったのだ。

 いつもは余計な真似をしてばかりいる美景だったが、今回ばかりは頭を地面に擦り付けて感謝しても良いほどだった。

 まあ、普段かけられている迷惑分の負債を考えれば、そこまでする必要はなさそうではあるが。

 玲奈は、いわゆる家出少女だった。

 詳しいことは教えてくれず、はぐらかされたが、家庭問題か何かで、携帯も持たずに家を飛び出してきたようだった。

 実際、彼女が背負っていたリュックサックの中身は、小難しいタイトルの文庫本が数冊と、薄っぺらい財布と着替え、それから、数日分のカップ麺や缶詰だけだった。

 まあ、私たちの年頃なら、そんなに珍しいことではない。
 でも、本よりもっと持ってくるべきものがあるのでは、とちょっとだけ呆れた。

 年齢を聞くと、歳は私の一つ下で、十六歳という。

 そんな少女が、これだけの荷物でどうするつもりだったのかと尋ねたところ、本人曰く、『行けるところまで、行くんです』ということだった。

 彼女の大人ぶった喋り方も、ぐっとくるものがあった。

 なにはともあれ、私は、無計画かつ無謀な一歩を夜の街へと踏み出していた玲奈に、とりあえず行く宛がないのであれば、私の家に来てはどうかと提案した。

 最初は顔をしかめ、こちらの提案に迷いを示した玲奈だったが、父親の単身赴任に母がついていってしまって、しばらくは自分だけでこの一戸建てで暮らしている、と伝えたところ、その天秤が揺らいだらしく結果的にこうして同じベッドで眠ることとなった。

 …もちろん、指一本触れていない。

 そんな甲斐性はないし、昨日の私は、もしかするとこれから当分の間、この私好みの美少女、久遠寺玲奈と共同生活を送れるのでは…という甘美な時間を妄想するので忙しかったのである。

 とはいっても、昨日はそう多くは言葉を交わしていない。

 電車から降りて、連絡先だけでも、と勇気を出して聞いてみたら、携帯を持っていない、ということであった。

 私たちの年頃では、携帯を持っていないというのは財布を忘れるよりも由々しき事態だ。
 それに対して、また後先考えずに噛みついた美景のおかげで、玲奈が家出少女だということが判明した。

 そのときには、下心抜きで彼女がどうするつもりなのか心配になって、色々と聞いたところ、行く当てなどない、と平然と告げられた。

 まさか、知らない男でも引っ掛けるつもりなのではあるまいか、と地震みたいに急な焦りに突き動かされて、彼女を家に招いたのだった。

 自室を離れ、一階にあるキッチンで朝ご飯の支度をする。シリアルと目玉焼きぐらいの簡素なものだが、カップ麺を食べるよりずっと健康的だろう。

 十分もしないうちに、二人分の食事が完成する。卵の焼ける匂いと、油の弾ける臭いで部屋がいっぱいになる。

 すぐに珈琲を用意できるようにしておき、自室に戻る。すると、さっきまで布団に包まっていた玲奈が、ベッドの縁に腰かけて、薄く開いた目でこちらを見ていた。

 低血圧なのだろうか、と思いながら、私は出来るだけ優しい口調で声をかける。

「おはよう、ちゃんと眠れた?」

 浅く頷いた玲奈は、ラグでも生じたみたいに一拍遅れてから、「それなりです」と答えた。

「そっか、それは良かった。あ、朝ご飯出来てるけど、すぐに食べられそう?」

「え?」とここにきて、初めて彼女は驚いたように目をきちんと開いた。

 その反応は、朝起きて、ほとんど他人と変わらない女の顔を見たときにするものではないだろうか。

 ちょっと、勇み足になって勝手をしすぎたかもしれない。

 そう思って、続く言葉を一生懸命考えていると、玲奈はふいっと顔を逸らして、何の抑揚もない平坦な口調で言った。

「食べます」

 ありがた迷惑なのかどうなのかは分からないものの、すぐに行動を開始したところを見るに、お腹は空いているようだ。

「じゃあ、下りておいで」

 つい早口になって、どこかぶっきらぼうになってしまった気がする。
 言った本人が心配して、何度も玲奈の顔色を窺ったのだが、彼女は何も気にしていない様子で、少しほっとする。

 一階に下りてきた玲奈は、すでに食卓に並べてある食事を目にすると、興味深そうな顔をして立ち止まった。

 その様子が、手抜きの朝ご飯に呆れているようにも見えて、私は慌てて言い訳を口にする。

「いやぁ、いつもはもうちょっとマシなんだけど…。ほ、本当だよ?」

「そうなんですか」

「嘘じゃないからね」

「別に、疑ってませんよ」

 どうでもよさそうなトーンでそう告げた玲奈は、どちらに座ればいいのか悩んだ挙句、奥の座席に腰を下ろした。

 彼女に続いて私も席に着く。それから慣れた動作で手を合わせ、「いただきます」と呟きシリアルをスプーンですくい、口元に運んだ。

 しかし、こちらが何度それを繰り返しても、玲奈が食事を始める気配はなく、ただ、じっと、廃人のように、一つ一つ形の違うシリアルの欠片を見つめるばかりだった。

 毒なんて入ってないよ、と冗談を口にしようかとも思ったが、真面目に返されそうなのでやめておく。

「どうしたの、食べないの?」

 ぴくっ、と眉を動かした玲奈は、本当に言ったのか、幻聴なのか判断のつけようのない声量で、「いただきます」とこぼした。

 食事は淀みなく円滑に、なおかつ、他人行儀な静けさの中で行われた。

 相手との距離感を推し量る静寂をつつくのは、ステンレスのスプーンが陶器とぶつかり立てる高い音と、玲奈が水を嚥下えんかする際にこぼす、言葉を詰まらせたような、艶めかしい声だけだった。

 食事を済ませ、片付けをする段階に入ると、玲奈は自らすすんで手伝いを申し出た。
 実際、その手際は他人の家だというのに鮮やかで、自分一人でしているときの、何倍もスピーディーに終えることが出来た。

 今度はフライング気味にならないように、彼女に確認してから珈琲にお湯を入れる。
 インスタントとはいえ侮れない香気が、目玉焼きの臭いを押しのけ、辺りに広がった。

 珈琲を口に運んだ彼女が、心底落ち着いたような吐息を漏らしたのを見計らって、私は踏み込み過ぎないよう注意して声をかける。

「あのさ、学校はどうしてるの?」

 本日は土曜日ではあるが、人によっては登校する必要もあるだろう。もちろん、通っていない、あるいは、不登校という可能性が高いと思っている。

 玲奈は、しばらく私の意図を探るような目で見つめていて、大した他意がないことを悟ると、窓の外を眺めながら言った。

「もう、ずいぶん行ってない」

 予想していたことだ。家出するような状況なのに、学校は真面目に通っているというのは珍しいケースだろう。

 それじゃあ、月曜日からはどうしよう、留守番しておいてもらうか…。

 そのときの私の頭の中には、玲奈が何か金目のものを盗んで、蜃気楼みたいに消えるなんていう可能性は全く浮かんでいなかったし、事実、玲奈はそういうことをする人間ではなかった。

 一先ず、遠い二日後のことなんて置いておいて、現在の話をしようか、と考えていたところ、やおら玲奈が口を開いた。

「名前、なんて呼べばいいですか」

 思わず、ハッとした。

 彼女の名前はしっかりと確認したのだが、肝心の自分の名前を相手に伝えていなかった。これでは、時折彼女がこちらを不審がるような顔をしても、おかしくはない。

「うわ、ごめん!名前名乗ってなかったね。――私、真平飛鳥まひらあすか。飛鳥って呼んでくれて構わないから。あ、後、敬語もいらないよ」

「あすか…」

 覚えたての言葉を、ゆっくりと噛みしめるように玲奈が呟く。

 小さな子どもみたいで、可愛い。

 言葉を咀嚼中の彼女に、これはチャンスだと、私は間髪入れずに続けた。

「あのさ、貴方のこと、玲奈、って呼んでもいい?」

 三人掛けのダイニングテーブルの上で、半分ほど入った珈琲が、白い湯気を昇らせている。

 直前まで彼女は、窓の外か、窓際に置いてある玩具みたいな鉢に植えられた紅葉か、その白い湯気を見つめていた。

 しかし、私の馴れ馴れしい提案を耳にして、緩慢な動作で面を上げる。

「どうして、ですか」

「え?」

 まさか理由を尋ねられるとは思ってもおらず、急ピッチで、それらしく聞こえる理由を考えようと努めたのだが、上手くいかなかった。

「いやぁ、ほらぁ…、仲良くなりたい、みたいな?親密度を上げたいというか…」

「…あぁ」

 短く返事をした彼女の顔には、納得の光と、呆れたような、どこか、小馬鹿にするような陰りがあった。

 う…、下心全開すぎたか。

「構いませんよ」

 哀れみからか、玲奈が平然とそう答えてくれたのは、私にとっては救いだった。
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