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四章 雨溶
雨溶.3
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祈里の保護者だから。
その言葉を耳にした私は、怒るより先に深く暗い海底に放り込まれたような気持ちになって言葉を失ってしまった。
夜重も私とおんなじ気持ちなんだって信じていたものが、瞬く間にして揺らいだ。やっぱり、夜重にとって私は単なる手間のかかる幼馴染にすぎなかったのかな?
期待を引き剥がされたことで、俯きがちになっていた私を、莉音は当初の予定通りファミレスへと連れて行ってくれた。ちょっと前の私がしたかったことがようやく叶った。皮肉なことだ。
「祈里、何か食べるかい?」
飲み物を注いできてくれた莉音が私を気遣ってそう言ってくれるけど、紅茶なんて、私は飲まない。夜重だったら、ちゃんと私好みの飲み物を――あぁ、ダメだ。莉音の優しさを分かっているのにこんなこと…。
私は顔を上げることもできず、ただ首を左右に振るだけしかできなかった。
「そうか。じゃあ、私が適当に頼むよ」
莉音はウェイトレスに声をかけると、バーでお酒でも頼むみたいなスマートさでチョコケーキとショートケーキを頼んだ。まあ、バーなんて当然ながら行ったことないんだけどね。
数分後、二人の席にケーキが運ばれてきた。ウェイトレスはどちらのケーキがどちらのものなのかと逡巡している様子だったんだけど、莉音が両方とも受け取ってみせたことで頭を下げて戻っていく。
「さあ、祈里はどっち派かな?チョコ?それともショート?」
「…どっちでもいいよ」
「それはダメだ。僕は選ばないというスタンスが一番好きじゃなくてね」
そう言って笑った莉音の目は、どことなく鋭い光を放っているような気がした。だから、私もそれ以上は粘らず、「じゃあ、チョコがいい」と選択する。
「うん」
莉音は満足げに微笑むと、片手に持っていたチョコケーキを私のほうへと差し出し、カラン、と音を鳴らしてフォークを皿の上で滑らせる。
「人間、生きている限り選び続けなければいけないよ。もちろん、選ばないというのも選択の一つではあるけれど、そうして与えられた道では、何か都合が悪いことが起こったときにそれを言い訳にして他人のせいにしてしまうものだ。ちゃんと選べることは人として正しいことだよ」
饒舌に語る莉音の言うことは、なんとなくしか分からなかった。ただ、なんか褒められているような気がしたので、一先ず頷いておく。
チョコケーキはとても甘く、知らず知らずのうちに強張っていた私の肩をほぐしてくれた。甘いもの、最強。
黙々と食べ続けている間も、莉音はなにか高尚な感じのことを語っていたけれど、私の頭ではチンプンカンプン。きっと、夜重がここにいたらちゃんと相手をしてあげられるんだろうなと、また彼女を羨ましく思った。
「ごちそうさまです」
ふぅ、と口元を紙で拭きながら完食。糖分を摂取できたおかげで、だいぶ気力が回復してきた。
「美味しかったかい?」
「うん。もちろん!」
「それは良かった。それじゃあ、本題に入ろう」
莉音はどこからか手帳とボールペンを取り出すと、素早く両手に構えて身を乗り出す。
「え」
「え、じゃないよ。祈里と夜重ちゃんの関係、きちんと言語化してほしいかな」
「そんなの…さっき見たと思うけど…」
莉音に連れ出される前の、夜重と離れる瞬間のことを思い出す。夜重は、とても不安そうに私たちを見送り、最後に少しだけ手をこちらへと伸ばしていた。
「言葉にこそ、目に見える以上のものが宿っていると、私は信じている。――だから、言葉にしてくれ。君と夜重ちゃんは、今、どうなっているんだい?」
「私と夜重は…」
長い沈黙が横たわる間に、私はない頭を使ってじっくりと考えた。
ただの友だち――は、無理がある。友だち同士で、『ドキドキする?』とかしないでしょ、普通。
じゃあ、恋人?んー…いやぁ、それも変だよねぇ。だって、『好き』だとか、『付き合おう』とか、何も言ってないもん。
友だち以上、恋人未満――なんていう、手垢のついた言葉が頭に浮かんだ。そしてそれは、いっそ笑えてしまうほど、今の私たちにとってぴったりな関係だと思った。
それをありのまま莉音に伝えたところ、莉音はやたらと嬉しそうに何度も頷き、それから、おもむろにフォークでケーキの上のイチゴを刺した。
何をするのだろう、と赤い果実と莉音を見比べていると、彼女は、くいっとフォークの先端をこちらへと向けて、「あーん」なんて言った。
「え、え…?」
「ほら、あげるよ。間接キスだ。あーん、してくれ。ドキドキするか試してみよう」
「えー…うぅ」
間接キス。そりゃあそうだ。んー…ちょっとだけ困ってる。
「り、莉音。私、申し訳ないけど…今はもう、お試しでも莉音とそういうことしようとは思えないっていうか…」
言わずもがな、私なんぞがそんな贅沢なことを…と思えるくらいに莉音は美人だ。彼女に好きだと言われて、悪い気がする人間はそうそういないだろう。
だけど、やっぱりもうそんな気分にはなれない。それが本音なんだ。
「うん。そうだろうね。祈里は素直で良い子だ」
くるり、と向きを変えたフォークの尖端を莉音がぱくりと咥える。イチゴはあっという間に消えていた。
「だけど、これが夜重ちゃんからの申し出だったらどうしたかな?」
「夜重からの…」
“あーん”
照れ臭そうに頬を染めて、頬杖をつきながら私を横目にする夜重を妄想する。自分でもびっくりするくらいスムーズに、その幻想は現れた。
うん。かわいい。腹が立つくらいにかわいい。
「恥ずかしいけど、ビビったら負けなので…飛びついてやるかな」
「ふふっ」
笑われた…。でも、引かれたりはしないんだ。
私は調子に乗ってそのまま続ける。
「そんでその後、べろってフォークを舐めてあげて、思わぬ反撃に怯む夜重を鑑賞したい」
「え…――あ、うん。いいんじゃない?趣味嗜好は人それぞれだし」
呆気に取られた表情の後、手帳の上を遅れて走り出すボールペン。言わなきゃよかった。今、絶対に引かれてたよ…。
「まあ、ともかく。私とできないことが夜重ちゃんとはできる。これの意味、なんとなくでも理解してるよね?」
「…うん。それは、してる」
「『それ』、言葉にできる?」
「えぇー…?恥ずかしいんですけど」
「頼むよ。女子高生の生の声で、『それ』が聞きたい」
薄々分かってたけど、莉音って、ちょっと変態だ。ボールペンに手帳を構えて私に『それ』を言わせようとしている感じなんて、特に。
私は抵抗しても無駄であることを悟ると、小さな溜息を吐いてから息を吸った。
「…私、いつからか分かんないけど、夜重のこと好きなんだと思う」
言葉にしてみると、想像以上にしっくりときた。その感覚は私の中の躊躇や疑念を容易く払いのけると同時に、私、なにやってんだろ、っていう気持ちにもさせた。
「あー…」
「どうしたの?思ってたより恥ずかしくなった?」
「違う。違うよ、莉音。十七年間付き合い続けてきた自分の馬鹿さ具合に、いい加減、うんざりしてただけ」
ガタン、と立ち上がり、ケーキがいくらだったか莉音に尋ねる。しかし、彼女はそれに答えず、じっと私を見つめていた。
「ごめん、莉音。私は行かなくちゃ」
「行って、どうするの?」
「伝えるよ。私の気持ち」
「だけどもし、夜重ちゃんの気持ちが祈里の抱く気持ちと違ったら…どうするの?」
間髪入れずに続く問い。なんだかこういうところは夜重っぽいなぁ、なんて勝手に思う。って、なんでも夜重を重ねて見ている私も、相当重症なんだろうな。
私はちょっとだけ困った表情を浮かべて、首を横に倒す。
「別に、どうもしないよ。落ち込むだけ。恋って、みんなそういうもんなんでしょ?」
同性愛って、私が思っているよりも難しいものなのかもしれない。だけど、私と夜重のことを決められるのは、どう転んだって私と夜重だけだ。そうじゃないと、なんか変だと私は思うから。
それに、たとえ夜重が私の気持ちに応えられなかったとしても…夜重が私を嫌ったり、突き放したりすることはきっとない。それぐらいには、私は夜重のことを信じている。
莉音は私の返答を聞いて、ふっ、と嬉しそうに微笑んだ。それから、コーヒーのグラスを手に持ち、その透過しようのない液体越しに窓の外を見やると、「気をつけて行くといいよ。雨が降りそうだから」なんて呟いた。
「ありがとう。その…話、まとめてもらって助かったよ」
私も馬鹿じゃない。莉音がただ単に私の話を聞くためだけに、私を呼び出したわけじゃないことぐらい理解している。
「どういたしまして」
「えっと、それで…ケーキは――」
「いや、お金はいい」
すっと、莉音は手帳に目を落とすと、それを大事そうに眺めながら続ける。
「取材料とでも思ってくれ」
その言葉を耳にした私は、怒るより先に深く暗い海底に放り込まれたような気持ちになって言葉を失ってしまった。
夜重も私とおんなじ気持ちなんだって信じていたものが、瞬く間にして揺らいだ。やっぱり、夜重にとって私は単なる手間のかかる幼馴染にすぎなかったのかな?
期待を引き剥がされたことで、俯きがちになっていた私を、莉音は当初の予定通りファミレスへと連れて行ってくれた。ちょっと前の私がしたかったことがようやく叶った。皮肉なことだ。
「祈里、何か食べるかい?」
飲み物を注いできてくれた莉音が私を気遣ってそう言ってくれるけど、紅茶なんて、私は飲まない。夜重だったら、ちゃんと私好みの飲み物を――あぁ、ダメだ。莉音の優しさを分かっているのにこんなこと…。
私は顔を上げることもできず、ただ首を左右に振るだけしかできなかった。
「そうか。じゃあ、私が適当に頼むよ」
莉音はウェイトレスに声をかけると、バーでお酒でも頼むみたいなスマートさでチョコケーキとショートケーキを頼んだ。まあ、バーなんて当然ながら行ったことないんだけどね。
数分後、二人の席にケーキが運ばれてきた。ウェイトレスはどちらのケーキがどちらのものなのかと逡巡している様子だったんだけど、莉音が両方とも受け取ってみせたことで頭を下げて戻っていく。
「さあ、祈里はどっち派かな?チョコ?それともショート?」
「…どっちでもいいよ」
「それはダメだ。僕は選ばないというスタンスが一番好きじゃなくてね」
そう言って笑った莉音の目は、どことなく鋭い光を放っているような気がした。だから、私もそれ以上は粘らず、「じゃあ、チョコがいい」と選択する。
「うん」
莉音は満足げに微笑むと、片手に持っていたチョコケーキを私のほうへと差し出し、カラン、と音を鳴らしてフォークを皿の上で滑らせる。
「人間、生きている限り選び続けなければいけないよ。もちろん、選ばないというのも選択の一つではあるけれど、そうして与えられた道では、何か都合が悪いことが起こったときにそれを言い訳にして他人のせいにしてしまうものだ。ちゃんと選べることは人として正しいことだよ」
饒舌に語る莉音の言うことは、なんとなくしか分からなかった。ただ、なんか褒められているような気がしたので、一先ず頷いておく。
チョコケーキはとても甘く、知らず知らずのうちに強張っていた私の肩をほぐしてくれた。甘いもの、最強。
黙々と食べ続けている間も、莉音はなにか高尚な感じのことを語っていたけれど、私の頭ではチンプンカンプン。きっと、夜重がここにいたらちゃんと相手をしてあげられるんだろうなと、また彼女を羨ましく思った。
「ごちそうさまです」
ふぅ、と口元を紙で拭きながら完食。糖分を摂取できたおかげで、だいぶ気力が回復してきた。
「美味しかったかい?」
「うん。もちろん!」
「それは良かった。それじゃあ、本題に入ろう」
莉音はどこからか手帳とボールペンを取り出すと、素早く両手に構えて身を乗り出す。
「え」
「え、じゃないよ。祈里と夜重ちゃんの関係、きちんと言語化してほしいかな」
「そんなの…さっき見たと思うけど…」
莉音に連れ出される前の、夜重と離れる瞬間のことを思い出す。夜重は、とても不安そうに私たちを見送り、最後に少しだけ手をこちらへと伸ばしていた。
「言葉にこそ、目に見える以上のものが宿っていると、私は信じている。――だから、言葉にしてくれ。君と夜重ちゃんは、今、どうなっているんだい?」
「私と夜重は…」
長い沈黙が横たわる間に、私はない頭を使ってじっくりと考えた。
ただの友だち――は、無理がある。友だち同士で、『ドキドキする?』とかしないでしょ、普通。
じゃあ、恋人?んー…いやぁ、それも変だよねぇ。だって、『好き』だとか、『付き合おう』とか、何も言ってないもん。
友だち以上、恋人未満――なんていう、手垢のついた言葉が頭に浮かんだ。そしてそれは、いっそ笑えてしまうほど、今の私たちにとってぴったりな関係だと思った。
それをありのまま莉音に伝えたところ、莉音はやたらと嬉しそうに何度も頷き、それから、おもむろにフォークでケーキの上のイチゴを刺した。
何をするのだろう、と赤い果実と莉音を見比べていると、彼女は、くいっとフォークの先端をこちらへと向けて、「あーん」なんて言った。
「え、え…?」
「ほら、あげるよ。間接キスだ。あーん、してくれ。ドキドキするか試してみよう」
「えー…うぅ」
間接キス。そりゃあそうだ。んー…ちょっとだけ困ってる。
「り、莉音。私、申し訳ないけど…今はもう、お試しでも莉音とそういうことしようとは思えないっていうか…」
言わずもがな、私なんぞがそんな贅沢なことを…と思えるくらいに莉音は美人だ。彼女に好きだと言われて、悪い気がする人間はそうそういないだろう。
だけど、やっぱりもうそんな気分にはなれない。それが本音なんだ。
「うん。そうだろうね。祈里は素直で良い子だ」
くるり、と向きを変えたフォークの尖端を莉音がぱくりと咥える。イチゴはあっという間に消えていた。
「だけど、これが夜重ちゃんからの申し出だったらどうしたかな?」
「夜重からの…」
“あーん”
照れ臭そうに頬を染めて、頬杖をつきながら私を横目にする夜重を妄想する。自分でもびっくりするくらいスムーズに、その幻想は現れた。
うん。かわいい。腹が立つくらいにかわいい。
「恥ずかしいけど、ビビったら負けなので…飛びついてやるかな」
「ふふっ」
笑われた…。でも、引かれたりはしないんだ。
私は調子に乗ってそのまま続ける。
「そんでその後、べろってフォークを舐めてあげて、思わぬ反撃に怯む夜重を鑑賞したい」
「え…――あ、うん。いいんじゃない?趣味嗜好は人それぞれだし」
呆気に取られた表情の後、手帳の上を遅れて走り出すボールペン。言わなきゃよかった。今、絶対に引かれてたよ…。
「まあ、ともかく。私とできないことが夜重ちゃんとはできる。これの意味、なんとなくでも理解してるよね?」
「…うん。それは、してる」
「『それ』、言葉にできる?」
「えぇー…?恥ずかしいんですけど」
「頼むよ。女子高生の生の声で、『それ』が聞きたい」
薄々分かってたけど、莉音って、ちょっと変態だ。ボールペンに手帳を構えて私に『それ』を言わせようとしている感じなんて、特に。
私は抵抗しても無駄であることを悟ると、小さな溜息を吐いてから息を吸った。
「…私、いつからか分かんないけど、夜重のこと好きなんだと思う」
言葉にしてみると、想像以上にしっくりときた。その感覚は私の中の躊躇や疑念を容易く払いのけると同時に、私、なにやってんだろ、っていう気持ちにもさせた。
「あー…」
「どうしたの?思ってたより恥ずかしくなった?」
「違う。違うよ、莉音。十七年間付き合い続けてきた自分の馬鹿さ具合に、いい加減、うんざりしてただけ」
ガタン、と立ち上がり、ケーキがいくらだったか莉音に尋ねる。しかし、彼女はそれに答えず、じっと私を見つめていた。
「ごめん、莉音。私は行かなくちゃ」
「行って、どうするの?」
「伝えるよ。私の気持ち」
「だけどもし、夜重ちゃんの気持ちが祈里の抱く気持ちと違ったら…どうするの?」
間髪入れずに続く問い。なんだかこういうところは夜重っぽいなぁ、なんて勝手に思う。って、なんでも夜重を重ねて見ている私も、相当重症なんだろうな。
私はちょっとだけ困った表情を浮かべて、首を横に倒す。
「別に、どうもしないよ。落ち込むだけ。恋って、みんなそういうもんなんでしょ?」
同性愛って、私が思っているよりも難しいものなのかもしれない。だけど、私と夜重のことを決められるのは、どう転んだって私と夜重だけだ。そうじゃないと、なんか変だと私は思うから。
それに、たとえ夜重が私の気持ちに応えられなかったとしても…夜重が私を嫌ったり、突き放したりすることはきっとない。それぐらいには、私は夜重のことを信じている。
莉音は私の返答を聞いて、ふっ、と嬉しそうに微笑んだ。それから、コーヒーのグラスを手に持ち、その透過しようのない液体越しに窓の外を見やると、「気をつけて行くといいよ。雨が降りそうだから」なんて呟いた。
「ありがとう。その…話、まとめてもらって助かったよ」
私も馬鹿じゃない。莉音がただ単に私の話を聞くためだけに、私を呼び出したわけじゃないことぐらい理解している。
「どういたしまして」
「えっと、それで…ケーキは――」
「いや、お金はいい」
すっと、莉音は手帳に目を落とすと、それを大事そうに眺めながら続ける。
「取材料とでも思ってくれ」
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