復讐の黒い百合~流刑となった令嬢は祖国転覆を企てる~

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六章 復讐の黒い百合

復讐の黒い百合.2

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 夕焼けが沈み切る寸前、宵の口に、残りの二隻は砂浜に到達した。

 一隻目と同じように船の上から魔導を降らされてはたまらないと考えたのか、それとも戦力差を懸念したのか、ワダツミやイトガワの指示により、浜よりだいぶ砦側で迎撃準備をしていた。

 塹壕や起伏に富んだ森に各隊で待ち受け、それより上の位置にいる者たちには弓矢の準備をさせる。浜で真っ向から衝突したときとは大違いの状況だった。

 中央の塹壕がたくさんある場所にはイトガワが、そして、右翼、左翼に広がる松の森にはワダツミを含めたニライカナイのメンバーが指揮を執っていた。

 右翼の森に潜んでいた私たちは、浜へと一斉に降り立つエルトランド軍を見て、鼓動を加速させていた。古月砦の戦力と二隻の戦力とでは、後者に偏りがあるため、地の利を生かさず衝突すれば、敗北は必至だ。

 オリエントは海軍の練度に自負がある。それゆえ、侵略してくる敵は海上で撃破すればいいと上層部は考えているそうだが、今回、それが仇となった形となっている。つまり、以前にワダツミが警告していたとおりの結果になったということだ。

 エルトランドの兵隊が森の入り口へと侵入してくる。すでに中央では戦闘が始まっており、炎の魔導と矢の雨とで、戦場は混沌としているようだった。

「森が焼かれることはないのでしょうか」

 気になってそう尋ねれば、リリーは太刀に手を当て、身を低くしたまま答える。

「これから自分たちが攻めるつもりなのだから、焼かないでしょうね。こちらとしては、守る場所が少なくなるから、焼いてくれたほうがいいくらいよ」
「…そういうものですか」
「ええ、そう。…落ち着いたら、兵法も教えてあげましょうか」

 リリーの提案に頷いていると、そのうち、敵が森の斜面を集団で登って来るのが見えた。

「来るわよ、レイブン。呪いの準備をしなさい」
「はい、取り掛かっております」

 返事をした私は、森の静かな空気と遠くから流れてくる煙の臭いを吸い込んで、魔力を練り上げ始めた。

 本当であれば、目を閉じたほうが上質な魔力を練ることができるのは経験上、間違いないことだったのだが、戦いの中でそれは無謀だとワダツミに言われていたので、敵を見据えたままやれるように意識していた。

 黒い水が、白い紙に注ぎ込まれる。それが複数回繰り返されたところで、遠くからワダツミの声で弓兵へ指示が飛んだ。

「今じゃ、撃てぇ!」

 直後、何本もの矢が、頭上を越えて敵へと降り注いだ。相手もそれを予期していたのだろう、盾を素早く構えて身を守った。

 そうして、みるみるうちに敵が上ってくる。矢で射止められているのは本当に数えるだけしかいなかった。

 味方のうちにざわめきが起きる。不安と焦燥が森を包んだ。

 でも、私は焦っていなかった。主人の沈着さを肌で感じていたからだ。

「レイブン」

 リリーが片手を低く掲げた。

 前方、十メートルほどの距離に敵の群れ。すでに戦っている歩兵もいた。

「今よ」

 淡々とした言葉と共に、リリーの右手が前方に振り下ろされる。

 それに従い、私はまとめていた紙の束を前方に放った。

 魔力の込められた白い紙は、独りでに形を変え、飛翔した。

 拳ほどの大きさをした、一対の翼を持つ生き物。鳥、鳥だ。

 それらは素早い動きで最前列の兵士たちの体や盾に突き刺さった。

 エルトランド人は、魔導に疎いオリエント人と戦う際、あまり対魔導加工が施されている武具を用いない。どうしても、そういった武具は普通のものより頑丈さに劣るからだ。

 だからこそ、私の放った呪いは、不思議なほど敵の出鼻を挫くのに一役買った。

「ま、魔導だ!」と誰かが叫んでいる。

 そのせいで、数秒間、彼らの進行が止まった。

 それが、彼らの命運を分けた。

 困惑した兵隊たちに、次は矢の雨が降り注ぐ。そのうちに、また私が呪いの準備に取り掛かり、進むべきか退くべきか迷っている相手に食らいつく。

「烏合の衆ね。全く…」と呆れたふうに呟いたリリーが、ぽん、と私の頭を撫でてから前線に飛び出して行く。

「よくやったわ、レイブン。そのまま援護をしなさい!」

 銀狐のお面をつけた彼女は、流星の如く、他の仲間たちと共に敵の一団へと躍りかかった。

 舞い散る紅葉を連想する血飛沫の中、彼女とオリエントの同胞らは次々とエルトランド兵を薙ぎ倒す。

 太刀を縦横斜めと振り乱す、荒々しいオリエント兵。彼らと違って、リリーは優雅なものだった。

 一閃、一閃、舞うように振るう。

 後退も踏み込みも鮮やかで、ダンスでも踊っているみたいであった。とてもではないが、つい一ヵ月前まで太刀に触れたことがない人間とは思えない。

 リリーは言っていた。元々、武術の基礎基盤は同じところにあると。

『呪い』と『魔導』が違っても、魔力が根源にあるのと同じようなものかと問えば、リリーは嬉しそうに頷いたものだ。

 その意味を、私は今、ようやく分かった気がした。

 戦局が傾くにつれて、徐々にリリーとの距離が離れる。

 これでは剣にも盾にもなれないと、その背中を追ったとき、不意に、脇の斜面からオリエント人がぬっと身を出した。

「魔導師は、お前か!」
(しまった、こんなすぐそばに…)

 私は急いで足を止め、また白い紙を懐から取り出す。

 こいつの狙いは、私だ。

 リリーの位置は少し遠いし、敵の列を崩すのに集中しているようだったから、ここは自分でどうにかしなければならないところだった。

「オリエント人の癖に、魔導師などと!」

 激昂した面持ちで敵が迫る。私は木の根を飛び越えて相手との距離を離そうと思ったが、相手も必死に食いついてきて、間合いが取れそうにない。

「しつこい…!」

 これでは埒が明かないと、振り返った私は素早く呪いを二発放った。

「ぐっ!」

 これらはきちんと相手の盾と左肩に突き刺さったが、魔力を練る時間もなかったためか、相手の姿勢を崩すだけに留まった。そのせいで、彼はすぐに前進を再開し、私目掛けて剣を振りかぶった。

「…っ!」

 とっさに横に飛ぶも、起伏の激しい斜面のせいで上手く着地できず、私は転げ落ちてしまった。

「逃げるな、鼠め!」

 上から男の声が迫る。急いで逃げなくてはと立ち上がる。

(どうにかしないと)

 すでに健を振りかぶった男の姿がすぐそこにあった。

 悲鳴を上げることなく、私はそれを見つめていた。

 覚悟を決めたとかではない。考える時間がなかったからだ。

 村でお嬢様を庇ったときは、やはり、これもたいして考えなかった。

 奴隷は消耗品だ。たとえ、付き人だとか、従者だとか名前が変わってもこの本質は変わらない。

 消耗品だからこそ、人とは違う扱いが認められているのだ。そうでなければ、同世代が外で自由に駆け回るなか、暗い倉庫で働かされたり、痛めつけられたりする現実が跋扈していることの説明がつかない。

 時に、奴隷制を理不尽だと息を荒くして語る人間に出会うこともあった。エルトランドでもオリエントでも。

 しかし、私からしてみれば、『理不尽』だとかいう言葉こそ『理不尽』の象徴だと思った。

 道理が通っていないこと…そんなもの、この世に無限にある。むしろ、完璧に通っていることのほうが少ないのではないだろうか。

 人間の都合で殺される魔物たち。

 善悪という曖昧な基準のために、悪人として葬られていく賊たち。

 国のために働きながらも、命を狙われ憎まれるストレリチア。

 国の未来のために生きながらも、国に疎まれた末、それと戦い、憎悪を広げていくアカーシャ。

 見た目が少女ではなくなった、と奴隷を放逐するバックライト夫人。

 理不尽こそ、この世界の本質だ。

 それを嘆き、怒り、変えようとするのは、この世界そのものの否定になりかねないのではないだろうか?

「オリエントのくそ鼠がっ!」

 男の怒号で我に返る。そのとき私は初めて、今の思考の波が走馬灯だということに気付かされた。

 私が反射的に目をつむったそのとき、高い金属音がすぐそばで鳴った。

 ゆっくりと、目を開く。

 そこには、血に染めた衣装を身にまとい、件の男と鍔迫り合いをするリリーの姿があった。

「下がっていなさい、レイブン」

 決して振り返らず、リリーが命じる。冷え切った刃、まさに、彼女が今手にしている刀のような切れ味の声だった。

「で、ですが」
「下がれと言っているのよ」

 刹那、火花が爆ぜる。

 その勢いでリリーらは互いに間合いを取ったが、息をつく暇もないままに、再度肉薄した。

「せやあっ!」

 袈裟斬り、逆袈裟斬り。

 男は慌ててそれを剣の腹で防いだものの、音すらも貫く苛烈な刺突を喉元に受けて、呆気なく地に伏せた。

「…ふん。弱い者虐めに熱心な兵士なんて、相手にならないわ」

 リリーが鮮やかな血振るいと共に告げた言葉を聞いて、私は理由も分からない息苦しさを覚えた。

 弱い者虐め…。

 私は、ずっと思っていたことをとうとう口にする。

「…お嬢様」
「なにかしら。おしゃべりしている暇はないわよ」
「これでは、あべこべです」
「あべこべ?」
「はい。お嬢様が私を守って、どうするのですか」

 これには彼女も驚いた顔をして見せた。分かりやすく不満を示したからだろう。しかし、リリーは悪びれる様子もないまま短いため息を吐いて続けた。

「はぁ。そんなことで悩むのは、生きて帰ってからにしなさい。まだ、終わっていない――いえ、始まってすらいないのよ」

 そんなこと、と切り捨てたリリーは、背を向けるとまた戦列に加わった。

 もちろん、私もそれを追いかけ、呪いで兵士たちを援護したのだが…やはり、心に下りた薄暗い帳は残ったままだった。
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