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四章 レイブン

レイブン.5

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「レイブンっ!そっちに行ったわ!」

 リリーが私の名前を叫ぶ声より先に、魔物の咆哮が私の鼓膜を震わせる。

 長い毛に覆われた、イタチのような魔物が猪突猛進でこちらに向かってくる。

 全身傷だらけで、特に、つい数秒前にリリーの刀の刺突を受けて負った首の傷は深そうだった。

「はい」

 こんなときでも私は律儀に返事をする。そうしないと落ち着かないからだ。

 ポケットから、何枚かの紙――札を取り出す。ワダツミが私ようにとくれた呪術具である。一見すると何の変哲もない長方形の紙だが、これがあるのとないのとでは全く違った。

 訓練においても、実戦においても。

 物体には、魔力伝導性というものが存在する。小難しい単語だが、その物体がどれくらい魔力を通しやすいかどうかだ。

 そのへんの石ころや棒切でも魔力を通すが、たいした量の魔力を帯びることはない。私程度の魔力では、放物線を描いている間に魔力が抜けてしまうのが関の山だ。これが札との大きな違いだ。

 札なら、飛んでいってくれる。

 真っ直ぐ、奥様の命令の邪魔をするものの元へ。

 息を吸い、一瞬だけ目を閉じる。そうすることで、目蓋の裏側に宿る魔力の川を知覚できた。

 きらきらと黒く光る水。私はそれに手を伸ばし、すくい、そして、札に注ぎ込んだ。
 弾かれるように目蓋を上げ、札を迫りくるイタチ型の魔物へと向かって飛ばす。

 イタチはぴょん、ぴょんと左右に飛んでそれをかわしたが、三投目で顔面に直撃し、小さく黒い閃光を受けて七転八倒、のたうちまわった。

 私はそれが少しだけ哀れに見えた。先日のワニは奴隷同然だったと思うが、こいつは自由だ。ただなわばりを守るために私たちを襲ったにすぎない。

 やがて、追い付いてきたリリーが、のたうちまわるイタチの首筋目掛けて、鋭く切っ先を突き刺したことで、完全に雌雄は決した。

「ふぅ…やっぱり、思ったよりも使いづらいわね、刀っていうのは」

 汗を拭いながら告げたリリーの隣で、私はじっとイタチを見下ろした。

 ワダツミらが言うに、この両腕に鎌を携えた魔物はカマイタチといって、オリエントの松林では頻繁に見られる魔物らしかった。

 凶悪な見た目に対して意外と臆病で軟弱らしく、数も放っておくと際限なく増えるらしいうえに肉は美味しいから、『訓練相手』にはちょうどよいらしかった。

 末期の痙攣があり、カマイタチは動かなくなる。私は最期の瞬間まで、じっとそれを見つめていた。見送る人がいると思ったのである。

「ここ数週間で、随分と使い物になるようになったわね。レイブン」

 どうしてか、リリーは嬉しそうだ。私にはその理由が分からなかった。

「ありがとうございます」

 視線を魔物から逸らさず、ぺこりと頭を下げる。

(…ごめんなさい。人間の都合で、ごめんなさい…)

 見開かれたままの瞳に、死の鳥を彷彿とする黒い影が覗き込んでいるのが映っていた。それがなんだか恐ろしくて、私はそっと魔物の瞳を手で閉ざした。

 命を踏み台にして、私は強くなる。

 それはあまりに分不相応な気がしたけれど、魔物の血と肉は確かに私に経験という力をくれた。

「何をしているの?」

 怪訝な様子でリリーがそう尋ねるから、私は俯いたままで答える。

「送り出してあげようと…」
「送り出す?死出への旅路?」
「…はい」
「ふっ、レイブンの名に相応しい仕事ね」

 リリーがそう笑ったのを聞いて、私は胸がかあっ、と熱くなった。

 レイブンは、カラスの名前は、死に汚れた名前ではない。

 つい、私はじろりとリリーを睨み上げてしまった。奴隷が主人にしていい目つきではないことは間違いなかったが、今日はまるで感情を抑えられなかった。言葉として反感を示さなかっただけマシなぐらいだ。

 リリーは私の眼差しに気付くと、呆れたふうに肩を竦めてから、「悪かったわ。そう怒らないで」と言った。

 それを聞いて、奴隷に謝る主人とは一体…と私は困惑したが、そもそもそうさせたのは自分だということを思い出し、平身低頭して謝った。

「申し訳ございません、その」

「謝らないでいいわ」とこちらが思っていたことを言われる。「大事なものよね。レイブン、貴方にとって」

 穏やかな微笑みを前に私は呆気に取られたが、我に返ると、短く頷いた。

 最近のリリーはこんなふうに穏やかな顔をすることが増えた。いや、基本的には仏頂面か皮肉っぽい顔か、苛立っている顔かのどれかなのだが、ふとした拍子に気品あふれる微笑を浮かべるようになったのだ。

 何をきっかけにしたかは分からなかったが、こうして落ち着いているときのリリーはバックライト夫人にますます似ていた。だから、私もこのほうが懐かしい気持ちになれて嬉しかった。

「レイブン」

 リリーは魔物の死体を回収する担当者を招集するために持ってきていた発煙筒を取り出すと、導線を私のほうに向けた。

「これに火を点けてもらえるかしら」
「え…」

 私は困惑した。マッチを持っていなかったからだ。

 それを正直に伝えたところ、リリーは愉快そうに笑い、「そんなものより便利なものを、貴方は持っているのよ」とほとんど無理やり私の手に発煙筒を持たせた。

「魔力を使いなさい。このタイプは導線に魔力伝導性の高い素材を使っているはずよ」
「あ、はい」

 言われたとおり、やってみる。

 目を閉じ、黒く光る川に意識を傾け、それをすくって円柱へと流す…。

 しかし、何も起きる気配はなかった。

「お嬢様、やはり駄目です。起こりません」
「んー…イメージの問題かしらね。いいでしょう、少しコツを教えてあげるわ」

 お嬢様――アカーシャ・オルトリンデは卓越した魔導士だったと聞く。ずっと幼い頃から魔導の鍛錬に励んだ彼女に教えを請えるのは、多分、力を欲する者としては幸せなことなのだろう。

「魔力をどう捉えようと、根本的な始まりは同じはずよ。まずはそこから自然と引き出せるようにしましょう」

 リリーが静かに私の後方へと動く。それから、私を抱くように両腕を回すと、発煙筒を握る私の手をそっと包んだ。

 ふわっ、とリリーの甘い香りがした。ワダツミが黒百合、と彼女を呼ぶのを想起するくらいに甘い、花の匂いだ。

 つい、体がぎこちなく固まってしまう。

(奥様も、良い匂いがした…)

 郷愁は私をひと時の幸福へと誘うが、すぐにそれは虚しさへとつながった。

 バックライト夫人の腕の中には、二度と戻れない。

「ほら、目を閉じて」新たな主人は、私の虚無感など知らずに続ける。「集中しなさい。まずは、貴方が魔力と聞いて思い浮かべるものに、意識を傾ける」

 それはもうやった、と考えつつも、先ほどと同じことを繰り返す。

「今の私は、もう魔力を感じられないけれど…どう?」
「はい。ここまでは問題ありません」
「へぇ、ワダツミが言っていたようにかなり飲み込みが早いようね。いいわ。じゃあ、次に火を点けたい対象を思い浮かべてみて」
「はい」

 私は返事をすると、頭の中に円柱を思い描いた。

「レイブン、今、どんな形を頭の中に描いているかしら」
「…細長い円柱、です」

「よろしい」嬉しそうに彼女は言う。「目を開けてみて」

 指示された通りに目を開けると、リリーは実際の発煙筒とイメージ図とで何が違うかを覚えておけとアドバイスした。

 黒い導線、赤い色、着火口には白い輪が描かれている…。

「さあ、もう一度。貴方がどこに火を点けるべきかを想像して、そこに火を灯しなさい」

 魔導はイメージが大事だと、ワダツミも言っていた。もっと具体的に想像しなければならないのかもしれない。

 再び目を閉じる。

 魔力を注ぐべき円柱をイメージ。そして、導線を、色を、輪を付け足す。

 まずは導線だ。ここに火を点ける。

 炎は、どうイメージする?馬鹿みたいに燃える炎ではなく、静かに揺れる蝋燭を想像したほうがいい気がする。

 頭の中で、導線に火を点けてみた。すると、どうだろう。あっと言う間に煙の臭いがし始めた。

 目を開ければ、発煙筒はしっかり煙を出していた。

「…やれました、お嬢様」

 抱いていた虚無感にも火が点いていたようで、少しずつ、自分の成長という大きな炎によって燃やされていた。

「ええ、できたわね。それにしても、本当に飲み込みがいいわ…貴方、実はバックライト夫人に教わっていたのではないの?」
「いえ、奥様はそのようなことは教えてくれませんでした。おそらく、リリーお嬢様の教えが良いのではないでしょうか」

 こちらとしてもお世辞のつもりではなかったが、リリーはそれを聞くとやけに嬉しそうに、「ふふっ」と笑ってから、私を抱いたままで首を少しだけ倒し、耳のすぐ後ろで言った。

「よく分かっているわね。そうよ、先生がいいの。覚えておきなさい、レイブン」

 私は途中から、リリーが何を言っているのかよく分からなくなっていた。

 耳朶を打つ、カナリアみたいに綺麗な声。

 背中の柔らかな感触、距離が近くなったことで強くなった甘い香り。

 闇の中をたゆたう、バックライト夫人との綺麗な思い出が顔を出す。

 不意に、体が熱くなった。胸の奥で炎がゆらめいているみたいだった。

(この熱が、お嬢様に伝わったらどうしよう…)

 そんなふうに不安になって、彼女を下から見上げる。私とリリーの身長差はおよそ15センチ弱。リリーは、女性にしてはかなり身長の高いほうだった。

 真紅の瞳が上から私を捉える。ちょっと嬉しそうなままの面持ちが、どうしてだろう、酷く胸を揺さぶった。

「…これからも、迷惑でなければ、よろしくお願いします」

 するり、と自分の左手の薬指と中指を、リリーの手の隙間から外に出して、弱々しく絡める。

 甘えている。
 自分でもよく分かった。
 奥様にすらしなかった甘え方だ。

「え、ええ…」さっと瞳を逸らされたのが、とても残念だった。「こうして一緒に戦う以上、貴方も強くなってもらわないと…私のためよ。私が復讐を成すためなのよ…」

 私の指先は、指輪の硬い感触にぶつかっていた。
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