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一章 鴉の雛鳥

鴉の雛鳥.7

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 大きい、というのが最初の感想だった。

 屋根裏で寝起きしていると、嫌でもこの手の獣とは親しくなる。

 だから、最初に見た瞬間、見覚えのあるフォルムに対して、縮尺が狂ってしまっているこのサイズに私は驚いた。

 ただ、それも最初の数秒だけ。

 そのうち、その魔物が私たちのほうを向いて牙を剥き出しにし、毛を逆立て、威嚇音を発したときには、本能的な恐怖を覚えた。

「あ…」

 動くこともできず、かといって、悲鳴を上げることもできない。段々と立っているという感覚が変になってきて、腰を抜かしかけたそのときだ。

「奴隷っ!」

 ハッ、として足に力が戻る。夫人が極稀に怒ったときの声と、それは似ていた。

「死にたくないのなら、こっちに来なさい!」

 そこから先はほぼ反射的な行動だった。

 刷り込まれた、命令への絶対服従の意志が私にそうさせる。

 私が彼女に駆け寄ると、彼女はまるで私の身を守ろうとするみたいに、自分の陰に私を押しやった。

「あの」

 これではいけない。これでは、あべこべだ。

 奴隷とは、主人のために全てを捧げるべきものだ。それこそ、命だって当然、その一つである。

「じっとしていなさい。この魔物に、私たちが下がっても襲ってくる意志があるか、確認する必要があるわ」

 低い、緊張感に満ちた声。それを聞いてもなお、私は震えていた。魔物が怖いのではない。夫人の命令に反し、私が守られてしまっていることが怖かったのだ。

 じわり、じわりと私は彼女に促されて後退する。

 イタチ型の魔物は、絶えず威嚇音を発しながらこちらを観察していたのだが、今すぐに襲ってくる気配はない。もしかすると、縄張りから出ていきさえすれば、それでいいのかもしれない。

 しかし、私が足元に転がっていた松の枝を踏み折ったとき、事態は急変する。

 バキッ、と乾いた音が緊迫した状況を刺激した。

 ふしゅう!

 枝折れの音に警戒心を刺激されたイタチは、その細長くしなやかな体躯をうねらせて、私たちに飛びかかってきた。

 命を排除しようという明確な敵意を前に、私の身は硬直する。それこそ、彼女がとっさに私を連れて横に動いてくれていなかったら、あの攻撃的な造形の鎌はこの体を引き裂いていたことだろう。

「ぼさっとしないで!」
「あ、申し訳――」
「謝罪は後よ、奴隷!今は…」

 私はまた自然な形で彼女の後ろに隠れてしまう。そして、その華奢ながら頼もしい背中越しに、決然とした声を聞いていた。

「こいつを、なんとかしなくては…!」

 再び、イタチが躍りかかってくる。それを彼女の導きでかわし、また背後に隠れる。

「あの」

 私を囮にして下さい…という言葉が喉まで出かかる。しかし、彼女はそれよりも早く、颯爽と落ちていた棒切を拾い上げると、くるり、と着地と同時に反転したイタチの鼻っ面にその切っ先を真っ直ぐ突き立てた。

「やあっ!」

 ゴッ、と鈍い音がする。それでイタチは驚いたのだろう、ぶるりと体を震わせた。

 さらに警戒心が増したらしいイタチは、目の前で棒切を構える敵を睨みつけると、恐ろしい唸り声と共に右腕を振り払い、その鋭い爪で引き裂こうとした。

 彼女は、それを後退してかわすと、空振ったイタチの鼻っ面にもう一度、棒切を突き立てる。

 やはり、ちょっとは痛いのだろう。きゅう、と可愛らしい声と共に今度はイタチのほうが一歩下がった。

 見事な動き。美しい刺突だった。

 魔導の腕前で有名なアカーシャ・オルトリンデは魔物退治だってすすんでやる人間だと聞いていたから、さぞ強いのだろうと思っていたが、まさか棒切を持たせても強いとは思わなかった。

 しかし、ぞっとする光景だった。華奢な女が、ただの棒切を手に自分の身の丈以上の魔物と交戦しているなんて…。

 私は、我も忘れて戦いに魅入っていた。いや、違う。彼女の恐れ知らずの行動と、優雅な身のこなしに魅入っていたのだ。

 鼻っ面を何度も打たれたイタチは、怒りに身を任せて彼女を噛み殺そうとした。彼女はそれを反射的に屈んでかわしたふうだったが、不運なことに、フードにイタチの牙が引っかかり、そのまま引きずり倒されてしまった。

「ぐっ…!」

 立ち上がろうという彼女に、イタチが鎌のついた上腕を振り上げる。

 駄目だ、これでは死んでしまう。

 飛び出すべきか。しかし、間に合う距離ではない。

 どうしてだ。

 どうして、彼女はアカーシャ・オルトリンデなのに…!

 私はとっさに叫ぶ。

「アカーシャ様っ!」

 ぴくっ、とアカーシャと呼ばれた女の肩が跳ねる。同時に、彼女はなんとか横に転がって攻撃を避けると立ち上がった。

「どうして魔導をお使いにならないのですか!?」

 そうだ、アカーシャは魔導の才で有名な人だ。だからこそ、魔物退治にだってすすんで行くし、その功績も目覚ましいのだ。

 それがどうだ。今の彼女は、棒切なんぞで戦っている。触れるもの全てを断ち切るような剣を鞘に納めたまま、棒切で戦っている。

 彼女は、私の問いを受けて忌々しそうに顔を歪めた。何だろう、何かに苛ついている。何かに屈辱を覚えている、そんな感じだ。

 イタチはなおも敵対の意思を示している。このまま棒切で戦っていては、大怪我するかもしれない。

「アカーシャ様っ!」

 呼ぶなと言われた名前を連呼する。

 命令に背くなど、奴隷失格だ。だが、最重要事項は彼女の命を守ること――付き人としての仕事。つまり、私がバックライト夫人に与えられた最後の仕事だ。

 彼女は美しい顔を再び歪めると、苦い顔のまま左手を天高く掲げた。

「『逆巻く紅蓮よ、我が手に集え!』」

 通る声で短い詠唱がなされる。

 その瞬間、彼女が左手の薬指にはめていた指輪が、きらり、と赤く光った。

 何かのマジックアイテムかと思ったが、光を帯びた指輪は何度か明滅すると、虚しくその光を鱗粉みたいに散らしてしまった。

「くっ…」

 何が起きているのかは分からない。ただ、魔導は発生しなかった。それは間違いなかった。彼女の悔しそうな顔が、それを証明している気がした。

「あぁ、忌々しい、ストレリチアめ…っ!」

 彼女が憎しみに満ちた声で何か言った。

「たとえ、天地がひっくり返っても、あいつだけは、あいつだけはこの手で…!臓腑を引きずり出して、なぶり殺しにしないと気が済まないわっ…!」

 呪詛だ。誰かへの、呪いのことごとくをかき集めたかのような呪詛だ。

 じろり、と彼女はイタチのほうを睨んだ。血涙が出そうな憎悪に満ちた瞳だ。

「その邪魔をするのなら、誰であろうと容赦しない。魔物だろうが、人間だろうが、子どもだろうが女だろうがオリエント人だろうがエルトランド人だろうが、踏み潰す!」

 美しい彼女の顔から、あふれんばかりの殺気が放たれた。それは、イタチにもおどろおどろしいものとして伝わったのだろう。イタチは逆だっていた毛をしゅんとしぼませると、とぼとぼと背中を向けて松の森に消えていった。
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