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一章 鴉の雛鳥

鴉の雛鳥.6

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 私は、大人しく彼女の言葉に従った。

 名前を捨てたのだ。

 奪われたなどとは口が裂けても言いたくない。ちゃんと、彼女は私に選択の余地を与えた。

 俯いていた顔を上げた先にあった顔は、とても無感情だったが、やはりそれは何かを抑え込んでいるように私には思えた。

『全てを選ぶことはできないわ。大事なものを決めて、そのどれかを選ぶしかないのよ』

 彼女はそう言った。

 彼女も、何かを選んだのかもしれない。

 きっと、命だ。尊厳よりも命を選んだのだ。

 そうでなければ、超上流階級であるこの人が、こんな場所で奴隷と森など歩くはずもない。

(奥様…申し訳ございません、私は…)

 どうしたらいいか、分からなかった。

 だが、今更変えられない。一度頷いた以上、言葉を反故にするわけにはいかない。それは、夫人が何よりも嫌うことだった。

 それにしても…と私は顔を上げる。

 行けども、行けども、松の森。右も左も、ずっと、ずっと同じ風景だ。それだけでも気が滅入るのに、この松脂の独特な香りときたら…神経がおかしくなりそうだった。

 さすがに、というかなんというか、彼女のほうも涼しい顔に疲れが滲んでいた。空腹なのかもしれない。だって、昨日の夜から何も食べていないはずなのだ。

 私はこの先どうなるのだろう、と考えかけてすぐに思考を止めた。自分などが考えても仕方がないことだったからだ。

(私はバックライト夫人の最後の言いつけどおり、この方の付き人としてこれからを過ごす…。それしか、ないんだ)

 何かが塗り潰されていくようで、酷く胸がざわついた。だが、その憂いの理由を見極める暇もなく、次の試練が私の前に現れる。

「ん…?」

 肌がぴりつく感覚がした。本能の警鐘を鳴らす、いわゆる敵意、殺気のようなものを感じたのだ。

「どうしたの」

 立ち止まる私を訝しんで、彼女が声をかける。

「あ、いえ…その」おそるおそる、私は問いかける。「何か、感じませんか?その、魔物の気配のような…」

 元来、魔物とは――魔力を帯びる性質を持つ、動物の総称である。

 そのため、ほとんどの場合、襲われる前には何らかの気配を感じ取れる。捕食のためなら魔力を抑えることもあるが、縄張り意識から敵と認識したものを追い払う、倒そうというときはそんなことはしない。そして、多くの場合、人間と魔物の関係は後者だ。捕食対象ではない。

 だが、私はそんな質問をしておきながら、すぐに後悔した。

 前述したように、魔力とは誰でも持っているものだ。その総量や性質には違いがあるが、持っていない人間というのは聞いたことがない。

 つまり、私が感じ取れるくらいだから、魔導と剣の才で有名な彼女が感じ取っていないはずがないのだ。

『当たり前のことを聞かないでちょうだい』。

 私は、そんな言葉を身構えた。しかし…。

「魔物――…っ」

 彼女は、慌てて辺りを見回した。

 明らかに何も感じ取っていなかった人間の態度だった。

「確かなのね」
「え、あ、はい」
「どこかしら」
「え?」
「え、ではなくて…いいから、どっちから気配がするのか言いなさい!」
「あ、はい!えっと――」

 私は命令を受けて、その方角を指で示そうとした。だが、それよりも先に『相手』のほうからその身をさらした。

 ガサツ、と松の枝を折りながら、大きな毛むくじゃらの影が上から降ってくる。

「きゃっ!」

 思わず、悲鳴を上げてしまった。

 想像していたよりも、ずっと大きい。

 それは、イタチに似た姿の魔物だった。

 イタチの何十倍も大きくて、両腕に鋭い鎌のようなものがついていることを除けば。
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