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一章 鴉の雛鳥

鴉の雛鳥.4

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 オブライエンの言ったことに、嘘偽りはなかった。

 行き止まりだと思ったところは、変色した煉瓦を押し込めば隠し扉になったし、坂道を下り終える前から、海も桟橋も、なんなら船も見えた。

 郊外の森に出ていたらしく、外の空気はとても綺麗だった。どうやら、かなりの間、隠し通路を歩いていたようだ。

 魔物でも出たらどうしようか、と私は外に出るや否や不安に駆られたのだが、罪人はそうではないらしく、つかつかと月明かりが照らす坂道を下り始めていた。

 私も慌ててその後を追う。

 正直、罪人が私と二人だけになった後、老人たちが出した指示に従うのか不安だったが、どうやら杞憂だったようである。

 彼女は恐れを知らぬのか、それとも、よほど暗闇に目が慣れているのか、迷いのない足取りで進んでいく。

 私は何も言わず彼女の後ろをついていった。罪人も、ついて来い、などとは一言も口にはしなかった。

 天を仰げば、眩しくも儚い星が瞬いている。永劫にも近い距離があってもなお、その輝きは地を這うしか能のない者に優しく降り注いでいる。

 五分も歩けば、私たちは桟橋にまでたどり着いた。潮の臭いがむせ返るように立ち込めており、それを嗅いでいると、私は酷く陰鬱な気分にさせられる。今はもう忘れたに等しい事故の記憶を思い出すからだろうか。

 ドン、とこれまた躊躇なく罪人は船に飛び込んだ。船は大きく揺れていたが、いつしかまた、静かに波の上に佇んでいた。

 揺らぐ水面を見ていると、やはり、ムカムカしたものが込み上げてくる。それが恐怖だと気づいたのは、ずっと後のことだ。

「何をしているの、乗りなさい」

 ふと、罪人が厳しい声で言った。我に返るよりも先に、反射的にそれに従う。船は酷く揺れたが、それだけだ。

 ぼうっと、私はまた指示を待っていた。

 船を動かすために、罪人は船のオールに付いた魔導石に触れる。しかし、数秒しても何も起きない。やがて彼女は、「ちっ」ととても大きな舌打ちをしてから、背中越しに私に命じた。

「魔導石に触れなさい」

「え」ここで初めて、私は返事以外の言葉を発した。

「聞こえなかったかしら。オールに付いた魔導石に触れろと言ったのよ」
「申し訳ございません。はい」

 命令に従えない奴隷に価値はない。

 私は速やかに魔導石に触れた。

(…だけど、この人が触れても起動しないなら、壊れているんじゃ…)

 組み込まれた術式を発現させるために存在するのが『魔導石』。そして、その起動には、命あるものなら誰でも持っている『魔力』が使用される。

 つまり、『私』である必要はない。誰でもいいのだから、当然のことである。

 しかし…。

 私が魔導石に触れて数秒後、パッ、と石に輝きが灯った。

 弱々しい光だが、間違いない。きちんと起動したのである。

 ぎこ、ぎこ、とオールが独りでに動き出し、暗い海を進み始める。

(どういうことだろう…確かに、あの人は魔導石に触れたはず…)

 理屈は分からないが、聞くこともできなかった。

 ただ、無言の時間が過ぎていく。時間が流れれば流れただけ、船は、私たちは、陸地から遠のいていった。

 私はそれを見て、言いようのない不安に駆られた。

 もはや、どこにも行くことはできない。ここは孤独な海の上だ。

 投げ出されれば、暗い海の底に沈むか、海に住まう魔物の餌になって、それでお終いである。

 罪人は何も語らず、微動だにしない。何を考えているのか、そのやたらと真っ直ぐ伸びた背中からは想像もできない。

 やがて、船の周りには水以外は何も見えなくなった。水にしても水であるか覚束ない、月明かりを浴びて光る黒い液体になっていた。

 そこからまた数時間が経った。

 私は、その間もずっとうねる水面を見つめていたのだが、ふと、水平線がオレンジ色に染まり始めていることに気がついて、顔を上げた。

 夜明けが来たのだ。一体、どれくらいの間、船に揺られていたのだろう。

 水平線に近いところから、水がキラキラと光を帯び始める。

『今日』が死に『昨日』となり、同時に『明日』という何の保証もなかった存在が『今日』へと生まれ変わった。

 その光景に、私は魅入っていた。

 死んだものが別の形となって生まれ変わる。

 夫人が私に見せた物語の中に、こうした事象を示す言葉があった。たしか…そう、『輪廻転生』だか、『永劫回帰』だか、『リーンカーネーション』だ。

 錆びていた心が何かを感じて、黎明に耽溺していた。

 そのときだった。

 バサリ、と目の前で背を向けて座っていた罪人がフードを取った。

 朝日すらも跳ね返す、美しい銀細工のような髪。それから、陶磁器のように白いうなじ。

 その時点ですでに、彼女が『ただの罪人』でないことは容易に理解できた。さらに次の瞬間、彼女がこちらを振り向いたときには、それは確信に変わった。

 陽光を蹴散らすのは、銀のロングヘアだけじゃなかった。

 夕暮れを想起する、赤い瞳。

 私は唖然として、夢遊病者みたいに無意識のうちに口だけを動かした。

「――アカーシャ・オルトリンデ…」

 彼女はその名前を聞いて、美しく、そして皮肉っぽく頬を歪めた。
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