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七章 さよなら、世界
さよなら、世界.4
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自分の空っぽの肉体に、天使の羽根が降り注いでいる。
どうやら、死の淵にある自分を迎えに来たようだ。
――だが、まだ天使にも、死神にも用はない。
後少しだけ、待っていろ。
「……どこへ行く」
喉から出た声は、とてもではないが満身創痍の女から出るものではなかった。それほどまでに、鬼気迫るものがあった。
背中を向けて自分から遠ざかろうとしていた紫陽花が、動きを止めてこちらを振り向く。
「まだ、決着はついていない……!」
「……本当に、貴方たち『侍』はまともではないわね」
紫陽花はどこか無感情な声で応じた。燐子にはその声が、何か、激しいものを押し殺しているように思えた。
「でも、続きはまた今度にしましょう、燐子。せっかく拾えた命、大事にして?」
「ま、て……!」
再び紫陽花が背中を向けて、歩き出し、馬に跨った。
次?次など、来るか。
今ここで、決着をつけなければ、
(私は、また、剣士として、死に損なうではないか……!)
紫陽花より先に、兵士たちが我先にと丘の上目掛けて一目散に逃げ出していく。その姿を眺めていた彼女は、忌々しそうに鼻を鳴らした。
「腰抜けばかりね、全く……」
それから紫陽花は、こちらの話など聞こうとする様子もなく馬を走らせ、遠ざかって行った。
そして、時を同じくしてカランツの村の門が開き、何十人もの騎士が遥か彼方になった帝国兵の後を追った。
だが、森の中に入られたら騎馬で追いかけるのは難しい。それに、あの女が殿を務めるのだろうから、そうなった場合は、並大抵の兵士では歯が立たず、追討戦のはずがこちらも痛手を負うといった下らない結果になってしまうことは間違いない。
ふらりとまた全身の力が抜けて、後ろに倒れ込む。
あわや、後頭部を地面で打つといったところで、誰かに優しく受け止められ、そのまま膝の上に寝かされた。
「燐子、しっかりして、燐子!」
「ミルフィか」
頭に当たる柔らかい太腿の感覚が、妙に心地良い。
「あれだけでかい口を叩いておいて、負けた……。情けないな」
「そんなこと無い、アンタは……燐子は、この村の英雄よ……っ!」
「……ふ、そうか、英雄か……、うっ……!」
無理に笑ったら、左肩が痛んだ。
「燐子……!お願い、死なないで」
侍にはなれませんでしたが、英雄にはなれました、なんて言ったら、父上はどんな顔をするだろうか。
不安に押し潰されそうなミルフィに、『すまん』と一言謝りたかったものの、もう声を出すのも億劫だった。
ならばせめて、と微笑んだつもりだったが、ミルフィの顔が悲壮に染まったのを見るに、どうやら失敗したらしい。
ミルフィの赤い目から、ぽたぽたと雫が垂れてくる。
こうして健気でもの悲しい表情を見せるミルフィが、何だかとても可愛らしく見える。
柔らかそうな唇が震えていて、目が離せない。
とても魅惑的だった。
自分でも、馬鹿なことを考えているなと思う。
怒って、泣いて、笑って……。
相変わらず忙しい女だ。
一緒に泣きたかったが、それが自分にはできない。
きっと、とても簡単で、誰にでもできる当たり前のことだ。
なのに、私にはそれができない。
それが悔しくて、情けなくて、でも私らしいとも思えた。
人の気持ちなんて、どうせ戦馬鹿の私には分からない。
「燐子さん」嘘みたいに綺麗な声が脳髄を震わせる。「――で、宜しかったでしょうか?」
誰かがゆっくりと近寄って来るのが、空気の振動で分かった。
体の感覚は正常さを失って鈍くなる一方なのに、そうした細かい感覚だけが、普段以上に敏感に稼働しているのが不思議だった。
聞き覚えのある声だ。
気怠さを押し切って、瞳をしっかりと開き、声のしたほうへと視線を移す。
すると、そこには意外な顔があった。たしか、セレーネとかいう、この国の王女だ。
「この数を、本当に一人で……」
彼女の背後に立っていた従者が、信じられないといった様子でこぼした呟きに反応して、ミルフィが金切り声を上げる。
「アンタたちがいつまで経っても来ないから、燐子がこんなことになったんでしょう!?」
際限なくあふれて来る涙。その美しさとは対照的に、憤りでぎらつく臙脂色の瞳に気圧され、セレーネたちは言葉を失っている。
ミルフィの顔が歪む。
「全部、全部!アンタたち騎士団と、王族の怠慢のせいよっ!」
「な、何を無礼なっ!」我に返った従者の女が声を荒げて剣を抜いた。
「殺したきゃ殺しなさい、この役立たず!」
「貴様!」
やがて、それらを静かに見つめていたセレーネが従者の行動を厳しく咎めた。
「やめなさい、ローザ」ローザとは、おそらく従者の名前だ。
「し、しかし……」
「やめろ、と言っているのです」
触れれば斬れるような鋭さで繰り返し命じられた従者は、悔しそうな顔で剣を納めると、深く頭を下げて後退した。
「今は、傷の手当てを」セレーネが両膝をついて、自分のすぐそばにしゃがみ込んだ。「誹りは、後ほど受けます」
ありがたいことだが、どうせ無駄だと燐子は分かっていた。
無数の人間を斬って来た彼女だからこそ、人がどうなったら死ぬのか知っていた。
急所を突かれても死ぬし、血を流しすぎても死ぬ。
「だったら、早く燐子を助けてよ!」王女の言葉に、ミルフィが泣きながら言った。
そんなに泣くな、と伝えたかったが、また失敗する。
それにもう、微笑んで見せることもできそうにない。
自分の眼前に誰かの影が迫った。
闇が深くなっていた。
もう、誰が誰かも分からない。
不明瞭で曖昧な世界の境界。
また一つ、違う世界との境界を越えかけていることが自分でも分かる。
三途の川なんてもの無いではないか、とおかしくなる。
朦朧としていた視界が、激しく明滅する。
消えかけている蝋燭の火みたいに、
点いたり、消えたり、揺れて。
従者の女がまた何か喚いているのが聞こえるが、それはもうほとんど自分にとって意味を成さない、空気の振動にすぎなかった。
そして、音が消えた。
(あぁ……ここは、暗く、寒い)
自分をこの世に繋ぎとめていた痛覚が、とうとう働くのを止めた。
やっと……この体にも暇を与えてやることができそうだった。
どうやら、死の淵にある自分を迎えに来たようだ。
――だが、まだ天使にも、死神にも用はない。
後少しだけ、待っていろ。
「……どこへ行く」
喉から出た声は、とてもではないが満身創痍の女から出るものではなかった。それほどまでに、鬼気迫るものがあった。
背中を向けて自分から遠ざかろうとしていた紫陽花が、動きを止めてこちらを振り向く。
「まだ、決着はついていない……!」
「……本当に、貴方たち『侍』はまともではないわね」
紫陽花はどこか無感情な声で応じた。燐子にはその声が、何か、激しいものを押し殺しているように思えた。
「でも、続きはまた今度にしましょう、燐子。せっかく拾えた命、大事にして?」
「ま、て……!」
再び紫陽花が背中を向けて、歩き出し、馬に跨った。
次?次など、来るか。
今ここで、決着をつけなければ、
(私は、また、剣士として、死に損なうではないか……!)
紫陽花より先に、兵士たちが我先にと丘の上目掛けて一目散に逃げ出していく。その姿を眺めていた彼女は、忌々しそうに鼻を鳴らした。
「腰抜けばかりね、全く……」
それから紫陽花は、こちらの話など聞こうとする様子もなく馬を走らせ、遠ざかって行った。
そして、時を同じくしてカランツの村の門が開き、何十人もの騎士が遥か彼方になった帝国兵の後を追った。
だが、森の中に入られたら騎馬で追いかけるのは難しい。それに、あの女が殿を務めるのだろうから、そうなった場合は、並大抵の兵士では歯が立たず、追討戦のはずがこちらも痛手を負うといった下らない結果になってしまうことは間違いない。
ふらりとまた全身の力が抜けて、後ろに倒れ込む。
あわや、後頭部を地面で打つといったところで、誰かに優しく受け止められ、そのまま膝の上に寝かされた。
「燐子、しっかりして、燐子!」
「ミルフィか」
頭に当たる柔らかい太腿の感覚が、妙に心地良い。
「あれだけでかい口を叩いておいて、負けた……。情けないな」
「そんなこと無い、アンタは……燐子は、この村の英雄よ……っ!」
「……ふ、そうか、英雄か……、うっ……!」
無理に笑ったら、左肩が痛んだ。
「燐子……!お願い、死なないで」
侍にはなれませんでしたが、英雄にはなれました、なんて言ったら、父上はどんな顔をするだろうか。
不安に押し潰されそうなミルフィに、『すまん』と一言謝りたかったものの、もう声を出すのも億劫だった。
ならばせめて、と微笑んだつもりだったが、ミルフィの顔が悲壮に染まったのを見るに、どうやら失敗したらしい。
ミルフィの赤い目から、ぽたぽたと雫が垂れてくる。
こうして健気でもの悲しい表情を見せるミルフィが、何だかとても可愛らしく見える。
柔らかそうな唇が震えていて、目が離せない。
とても魅惑的だった。
自分でも、馬鹿なことを考えているなと思う。
怒って、泣いて、笑って……。
相変わらず忙しい女だ。
一緒に泣きたかったが、それが自分にはできない。
きっと、とても簡単で、誰にでもできる当たり前のことだ。
なのに、私にはそれができない。
それが悔しくて、情けなくて、でも私らしいとも思えた。
人の気持ちなんて、どうせ戦馬鹿の私には分からない。
「燐子さん」嘘みたいに綺麗な声が脳髄を震わせる。「――で、宜しかったでしょうか?」
誰かがゆっくりと近寄って来るのが、空気の振動で分かった。
体の感覚は正常さを失って鈍くなる一方なのに、そうした細かい感覚だけが、普段以上に敏感に稼働しているのが不思議だった。
聞き覚えのある声だ。
気怠さを押し切って、瞳をしっかりと開き、声のしたほうへと視線を移す。
すると、そこには意外な顔があった。たしか、セレーネとかいう、この国の王女だ。
「この数を、本当に一人で……」
彼女の背後に立っていた従者が、信じられないといった様子でこぼした呟きに反応して、ミルフィが金切り声を上げる。
「アンタたちがいつまで経っても来ないから、燐子がこんなことになったんでしょう!?」
際限なくあふれて来る涙。その美しさとは対照的に、憤りでぎらつく臙脂色の瞳に気圧され、セレーネたちは言葉を失っている。
ミルフィの顔が歪む。
「全部、全部!アンタたち騎士団と、王族の怠慢のせいよっ!」
「な、何を無礼なっ!」我に返った従者の女が声を荒げて剣を抜いた。
「殺したきゃ殺しなさい、この役立たず!」
「貴様!」
やがて、それらを静かに見つめていたセレーネが従者の行動を厳しく咎めた。
「やめなさい、ローザ」ローザとは、おそらく従者の名前だ。
「し、しかし……」
「やめろ、と言っているのです」
触れれば斬れるような鋭さで繰り返し命じられた従者は、悔しそうな顔で剣を納めると、深く頭を下げて後退した。
「今は、傷の手当てを」セレーネが両膝をついて、自分のすぐそばにしゃがみ込んだ。「誹りは、後ほど受けます」
ありがたいことだが、どうせ無駄だと燐子は分かっていた。
無数の人間を斬って来た彼女だからこそ、人がどうなったら死ぬのか知っていた。
急所を突かれても死ぬし、血を流しすぎても死ぬ。
「だったら、早く燐子を助けてよ!」王女の言葉に、ミルフィが泣きながら言った。
そんなに泣くな、と伝えたかったが、また失敗する。
それにもう、微笑んで見せることもできそうにない。
自分の眼前に誰かの影が迫った。
闇が深くなっていた。
もう、誰が誰かも分からない。
不明瞭で曖昧な世界の境界。
また一つ、違う世界との境界を越えかけていることが自分でも分かる。
三途の川なんてもの無いではないか、とおかしくなる。
朦朧としていた視界が、激しく明滅する。
消えかけている蝋燭の火みたいに、
点いたり、消えたり、揺れて。
従者の女がまた何か喚いているのが聞こえるが、それはもうほとんど自分にとって意味を成さない、空気の振動にすぎなかった。
そして、音が消えた。
(あぁ……ここは、暗く、寒い)
自分をこの世に繋ぎとめていた痛覚が、とうとう働くのを止めた。
やっと……この体にも暇を与えてやることができそうだった。
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