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七章 さよなら、世界

さよなら、世界.3

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 状況は緊迫し、膠着状態が続いていた。

 男が人質を取ってだいぶ時間が経過していたが、幸いまだ誰も死人は出ていない。

(間違いない。僕が突き落とした帝国兵だ……!)

 エミリオは草むらの陰から、その粗野で、不衛生な装いをした男の顔を観察した。

(僕のせいだ。僕がちゃんと殺せなかったから、みんなに迷惑がかかっているんだ)

 エミリオは、ぎゅっと歯を食いしばって、心の中で何度も唱えた。

(僕が、何とかしなくちゃ)

 まだ、距離がある。

 エミリオは過剰に緩慢な動きで、草むらの間を獣みたいに這った。

 腰に差したミルフィに借りているナイフがやけに重く感じられる。

 カタカタと指先が震えているのをごまかすように、土を掴む。

 指の跡が残った土を自分の体が平らにする。

 ついさっき、ようやく蝋燭のような山の頂に朝日が炎を灯したわけだが、まだ騎士団の蹄の音は聞こえないままだ。

 少しずつ、少しずつ影から影へと渡り、男の背後に回る。

 流れる川の音がやけに大きく耳に響いて、叫び声を上げる心臓の音に重なっている。

 高台のほうを見ると、取り乱した様子で周囲を見回しているミルフィの姿があった。きっと、自分を探しているに違いない。

 とても心配しているだろうと、胸が痛くなったエミリオであったが、それでも自分が何とかしなければ、という使命感のほうが強く、今更後戻りする気にはなれないとますます気炎を上げた。

 燐子を助けに行った姉の姿を思い出し、少年は少し大人びた様相で微笑んだ。

(燐子さんが来てから、お姉ちゃんも楽しそうだもんなぁ……。言葉には出さないけど、馬が合う、ってやつだね)

 自分のお願いを蹴って、他の人のために動くなんて、初めてかもしれない。

 男は気でも狂ったのか、ひたすら何事かを喚き散らしているが、何かを要求する様子はなかった。

 だが、逆にそれが恐ろしい。合理性を欠いた人間の行動ほど、恐ろしいものは無い。

 エミリオも、幼いながらそれが自然と理解できていた。

 だからこそ、慎重に近付いていた。そして、やっと四メートル、といった距離まで来た。

 掌や背中を冷たい汗がつたっている。

 ついに指先だけではなく、歯までカタカタと鳴り始めた。

 怖い。突き落としたときとはまるで違う。ナイフで刺すというのが、こんなにも恐ろしいなんて思いもしなかった。

(り、燐子さんは、いつもこんなことをしているの……!?)

 失敗すれば、自分が殺される。人質も殺される。

 もっと自分は勇気がある人間だと思い込んでいたのだが、結局は臆病者なのかもしれない。

 まだ、様子を見るべきだろうか。

 すると、突如、男が一際大きな声を出して、剣を女性の首に当てた。

 (殺されちゃう)

 戦わなければならない。

 祖父も姉も戦う中、自分だけが指を咥えているわけにはいかない。

 気が付いたら、走り出していた。

 絶叫を上げそうになったが、自分の中のありったけの勇気をかき集めて、必死に喉の奥に押し込んだ。

 残り一メートルといったところで男が振り返るも、エミリオはスピードを緩めず、男の腰のあたりに両手でナイフを突き立てた。

「エミリオ!」ミルフィの声が高台から響く。

 そのままの勢いで三人揃って地面に転がり込む。

 巻きあがった砂煙が朝日に反射して、白っぽく見える。

 みんなが一様に息を飲んで見守る中、最初に立ち上がったのは、大柄の男だった。

 エミリオのナイフは、腰の防具に阻まれてしまっていたのだ。

 再び大きな声でミルフィが叫び、弓矢を構える。

 しかし、すさまじい焦燥感で手先が震え、矢を落とした。

「お、お前、俺を突き落としたガキだろう!」

 男が般若の形相で立ち上がろうとしたエミリオを見下ろし、蹴りつけた。

 その背後では、人質になっていた女が悲鳴を上げて門のほうへと走り去っていた。

「うっ」と悲痛な声を漏らし、エミリオが門とは反対の方向へ転がっていく。

 酷く痛い。肋が折れたのかも知れない。

 自分の体がこんなにも脆く、軽いことに情けなさを感じる。

「コイツ、殺してやるからな!」

 男の黄色く血走った目を咳き込みながら睨みつけたエミリオは、人質の女性は何とか助けられたんだ、と達成感を感じ昂揚していた。だが、すぐに体を踏みつけられた痛みで現実に引き戻され、悲鳴を上げる。

 息が詰まっていく苦悶と、骨が軋む痛みに目元から涙が滲む。

(怖い、死にたくない……!)

 先ほどとは比較にならないぐらいの速さで手足が震え、歯が鳴る。

 とうとう男が剣を振りかぶったとき、ふっと、朝日を覆う影が二人の上に姿を落とした。



 一体何だろう、とエミリオが視線を動かすのと、男が天を仰ぐのはほぼ同時であった。

 白い、翼。

 朝日を乱反射させる、雪のような羽根。

 最初は、女神様なのかと思った。だが、じっと見据えているうちに、それが天馬に跨った女性だということが分かった。

 ペガサスなんて初めて見たが、こんなにも綺麗な人間も初めて見た。

 いや、綺麗なだけではない、髪の毛も自分と同じ金色なのに、まるで違うものみたいだ。

 こっちが麦の稲穂だとしたら、あの人は純金の糸だ。

 彼女の天馬はほんのわずかに上体を反らすと、そのまま、とてつもない勢いで急降下し、呆然と立ち尽くしていた帝国兵のすぐそばをかすめるように飛んだ。

 そして、すれ違いざまに女性が槍を一薙ぎして、男の体を弾き飛ばした。

 ようやく呼吸ができるようになったかと思ったら、今度は咳が止まらなくなって、苦しくなる。

 夢中になって咳き込んでいると、いつの間にか先ほどの女性が天馬と共にそばに佇んでいて、思わず息を呑んだ。

「大丈夫ですか?」美しい、灰色の瞳。「遅くなってしまい、申し訳ありません」

 そんなことはどうでもよくて、とにかくお礼を伝えたかった。だが、どうにも呼吸することすらままならなくて、それが出来ずにいた。

「う」という呻き声と共に、吹き飛ばされた男が四つん這いになって起き上がる。

 それを警戒するように女性も天馬も真っすぐ相手を見つめていたのだが、男が二本の足で完全に直立するよりも先に、そのこめかみに矢が突き刺さり、男はそれ以降全く動かなくなった。

「くたばれ、くそ野郎!」

 殺意をみなぎらせた女の声が背後から聞こえてきて、二人は振り返った。

「お姉ちゃん」

 エミリオの瞳に映ったミルフィの表情は鬼のようだった。

「ご、ごめんなさい」

 先手を打って謝罪すると、彼女は無言のままに座り込んでいたエミリオを起き上がらせた。

 叩かれる、とエミリオが目をぎゅっとつむったとき、ふわりと嗅ぎ慣れた姉の匂いとその両腕にくるまれて、目を開けた。

「あぁ、もう。馬鹿、馬鹿ね、本当に」

 涙声になって耳元で囁いたミルフィに、「本当にごめんなさい」と少年が返す。

 心配かけすぎたなぁ、と安堵からか、罪悪感からか、自分も涙を流す。

 ミルフィは少ししてから、身を離すと、慈しみに満ちた表情から一転、先ほどと同じ鬼の形相に変化し、容赦なく拳骨を振り下ろした。

 殴られたところが割れて、脳味噌が垂れてくるのではないか、と思えるほどの激痛に再びしゃがみ込む。

「え……」と突然の鉄拳制裁に女性が驚きの声を上げた。
「どうかされましたか」

 ミルフィの刺々しい声に、女性は不思議そうに目を瞬かせる。

「あ、あの、騎士様、ありがとうございます」

 何よりもまずお礼を、と思って口を開いたエミリオの頭上に、再び鉄拳が振り下ろされる。

「痛ぁい!何するの筋肉女!」

 再び拳骨。

「馬鹿!燐子はともかく、何でアンタまで知らないのよ!」

 ミルフィは困ったような、引いているような顔をしていた女性のほうを向き直り、ぺこりと頭を下げた。

「助かりました、セレーネ様」だが、言葉とは裏腹にその表情は不服そのものだ。「でも、騎士団はどこですか」

 天馬から降りた女性――王女セレーネは、真剣な面持ちだった。

「騎士団なら、もうそこまで来ているはずです」

 そう言ってセレーネが振り返った草原の先に、確かに蠢く集団が見える。

「無理を言って、私だけ先行させてもらったのです」
「姫様自らですか……」
「ええ、その甲斐もありました」とエミリオの頭を撫でる。「あ、ごめんなさい」
「いえいえ、とんでもないです!」

 ミルフィは、満更でもない様子で満面の笑みを浮かべた弟に、鋭い視線を向ける。

 やがて、エミリオが思い出したように大きな声を出して、セレーネに詰め寄った。

「セレーネ様!燐子さんを早く助けてあげて!」
「燐子さん?」

 その言葉に素早く頷いたエミリオは、門のほうを指さして、「今も門の向こう側で、一人だけで帝国兵と戦ってるんだ!」と言った。

「ひ、一人で……ですか?」
「とっても強い人なんだけど、いくら何でも死んじゃうよ!お願い!」

 王女はもう二百メートルほどの距離に迫った騎士団を一瞥すると、深く頷き、騎士団が来たら門を開くように告げてから天馬に飛び乗り、間もなくふわりと宙に浮いた。

 やっぱり女神様だ、と朝日をその身に受け、自らの内側から光り輝くようなセレーネと天馬の姿を見て、エミリオは愚直にそう思った。

「待って!」とミルフィが上を見上げる。「私も乗せて!」



 驚きの声を発したエミリオには、さっさと開門の準備をするように命じる。それから、渋る弟の背中を叩いて、もう一度セレーネに呼び掛ける。

「お願い!」

 初めは逡巡するような姿を見せたセレーネだったが、数秒ほどで天馬を降下させ、その背中に柔らかく微笑んだ。

「大丈夫ですね?リリ」

 どうやら、天馬の名前のようである。

 天馬はほんの少しセレーネのほうに首を寄せると、小さく声を漏らした。

 それを聞いたセレーネが、ミルフィに手を伸ばしながら言う。

「乗ってください」伸ばされた手を掴む。「お名前は?」
「名乗るほどの者じゃないです」と燐子の真似をしてみせると、彼女は一瞬不思議そうに眉を曲げて、それから目を丸く見開くと、「もしかして、この間の……?」と尋ねた。

 気づいてなかったのか。

 だとしたら、余計な真似をした。

「でしたら、燐子という方は……」

 王女は真面目な凛とした面持ちを浮かべると、勢いよく正面を向いて、天馬に声をかける。

「リリ、行ってください!」

 今まで感じたことがない強烈な浮遊感と共に、体が空中に浮き上がる。

 不意のことでバランスが崩れそうになったミルフィは、慌ててセレーネの腰に手を回したのだが、無礼なことだったと謝罪する。

「すいません、セレーネ様」

 しかし、セレーネはぐっと前を見据えたままだ。

「……聞いちゃいないわね」

 リリと呼ばれた天馬は、加速度的にスピードを上げて、暁の空を切り裂くように飛んだ。

 その勢いが想像以上に速くて、ミルフィは相手が王女だということも忘れ、思い切りしがみついた。

「く、苦しいです」セレーネが本気で苦しそうに言う。「すぐそこなので我慢してください」

 その言葉の通り、十数秒で門の向こう側まで出た。すると、眼下におびただしい数の死体と、力なくうつ伏せになって倒れている燐子の姿が見えた。

 これをほとんど彼女一人でやったのだから、とんでもない人間だ。

 とはいえ、燐子も無事ではない。燐子の白いシャツが、左肩から肘にかけて血で染まっている。かなりの出血に見える。

「こ、これを一人で……?」王女も、唖然とした目つきで眼下を見つめている。「やはり、あの人ならば……」

 ミルフィは自分が置いてきた燐子の悲惨な姿を見て、唇を震わせ、その名を叫んだ。

「燐子!」

 しかし、燐子は一切反応しない。

 すでに炎は消え、今や、燃えかすと灰だけが残っている。

 無意味に燃える篝火だけが、バチバチと弾け、風に負けまいと必死に燭台にしがみついている。

「降下します」セレーネがいやに落ち着いた口調で言う。
「急いで、こんなに揺れるんじゃ狙いをつけられない」

 ミルフィが切羽詰まった様子で早口で告げる。

「分かっています。焦らせないでください」

 無礼な言葉遣いに苛立ったのか、セレーネは冷たい語調になったが、視線が燐子一点に注がれていることからも、それどころではないというのが本音だろう。

 天馬の白い羽根が舞い散り、燐子の上に降り注ぐ。

 天の遣いのように仰々しく舞い降りてくる姿を見た帝国兵は、あからさまに動揺していた。そんな中でただ一人、大きな鎌を持った女だけが愉快そうに口元を歪めていた。

 地表に近づくにつれて、燐子の姿がハッキリとした輪郭を帯びる。

 全身切り傷だらけ。しかも、左肩はだいぶ深く斬られているようで血が止まっている気配がない。

 これでは、出血多量で死んでしまう。

「もっと速く下りられないの?」
「ですから、急かさないでください!」

 ようやく天馬が地表から数メートルといった距離まで来たとき、大鎌を携えた女が高く、鈴が鳴るような声を発した。

「こんな僻地に王女自らお出ましなの?暇なのねぇ、貴方は」
「黙りなさい、帝国の一将兵が、軽々しく私に喋りかけるなどと……!」

 途端に別人のような口調に変わったセレーネを横目に、地表までの距離を測る。

 飛び降りるには、まだ少し高い。

「ふふ……やっぱり面白くないわね、貴方たちローレライの王族は。高いところから自分の足元だけを見下ろしているから、こうしてすくわれるのではなくて?」
「これだけの犠牲を出しておいて、負け惜しみですか」
「まぁ、大局が見えない方なのね。この状況は、燐子が偶然この村に居合わせたから生まれたにすぎないわ。この子がいなかったら、こんな村、十分も経たずに征服できたでしょうね」

 紫陽花は一気にまくし立てた後に、ふぅっと息を吐いて肩を竦めた。

「それとも貴方たち高潔なるローレライ王族にとっては……こんな村、初めからどうでも良かったのかしら?」
「黙りなさい!それ以上の無礼は許しませんよ!」

 セレーネの激昂を受けても、女は飄々と微笑んだままだ。

 やがて、彼女は門のほうへと視線をやると、くるりと三人に背を向けた。

「もうすぐ騎士団が来るわ。各員、死にたくなければ撤退しなさい」
「逃げるのですか?」と嘲るような調子でセレーネが言う。
「うふふ、お安い挑発、痛み入るわ。でも、残念ね。私は貴方と違って子どもでもなければ、暇でもないの」
「そちらこそ、安い挑発ですね」

 ミルフィは、いつまでも続くやり取りに苛立ちを覚えつつも、地面を見やった。

 すると、下で横たわっていた燐子がぴくりと動いた。

(まだ息があるわ!)

 ミルフィがそう喜んだのも束の間、驚いたことに燐子は、空中から糸で引き上げられているかのように少しずつ体を起こして、声を発したのだ。
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