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六章 黎明は遥か遠く
黎明は遥か遠く.2
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「大事なものだったの?」
ミルフィがゆったりとした唇の動きでそう尋ねる。
「……なぜ、そう思う」
「だって、そういう顔をしているわ」
心配そうな目つきで返された燐子は、掌を閉じて紐を握りしめ長息を吐き、ぽつりぽつりと返事をした。
「向こうから持ってきた、数少ないものだ。それが壊れるとなると、どんどん元の世界から切り離されていく、そんな気がして……」
不安なのだ、という言葉は飲み込む。
すると、ミルフィがそっと、燐子の固く握った掌に自身の手を乗せた。
「少し、見せて」
思いのほか硬い指先で燐子の掌を軽く押して開くと、中から夜緑色の紐をつまみ上げた。
「うーん……」
ミルフィは、妙に高く間延びした声を出したかと思うと、何かに納得した様子でふわりと微笑んだ。
「これくらいすぐに直せるわ。任せておきなさい」
「本当か?」
「ええ、少し短くなるでしょうけど、誤差の範囲よ。明日中には直すから、それまでは……」
一度口を閉じたミルフィは、じっと燐子の顔を見つめて何やら逡巡した後、「まあ、いいか」とほんのり頬を染めた。
それから、ミルフィは垂れ下がった自身の三編みの毛先をまとめているヘアゴムを外した。
燐子のようにそれだけで髪が解けるわけではなく、彼女の赤色の髪は一本に束ねられたままだ。
「後ろを向きなさい。これで結ってあげるわ」
「だが、また汚れてしまうかもしれぬぞ」
「別に、ヘアゴムぐらい構わないわよ」
そう言われては反論のしようもなく、燐子はされるがままになってミルフィに背を向けた。
烏の濡れ羽色をした髪を、ミルフィが一本、一本、丁寧で、優しい手付きでまとめる。
「……髪、綺麗ね」
「あ、ああ……そうか……」
その優しさに、燐子はむず痒いような、心苦しいような、でも、どこか懐かしいような……そんな感覚を抱かされて、なぜか泣きそうになってしまった。
人前で泣くなんて、侍の名折れだ。
いや、自分は侍ではないのか。
だったら、何のための誇りだ。
あぁ、こちらに来てから、迷いばかりの自分が情けない。
ミルフィの繊細な手付きが、水筒の中の、最後の一滴のような涙を加速させる。
燐子は、それがこぼれてしまわないようにぎゅっと瞳を閉じた。
「こうしとかないと、落ち着かないのよ」やたらと優しい口だ。
「誰がだ?」
「私がよ」
「妙なことを言う。なぜだ」
「そ、それは……」
背中越しに響いてくるミルフィの声が、かすかに揺れる。
言うか言わないか、迷っているようだった。
たいして時間も経たないうちに髪を束ね終えたミルフィが、やがて、燐子を向き直らせると、消えそうな声で呟いた。
「――……髪を下ろしてると、意外にも、その、ちゃんと可愛い女の子なんだなぁと思っちゃって……」
「じょ、冗談はよせ。そういう女ではないことぐらい、自分でも分かっている」
「……冗談で、こんなこと言わないわ」
うっ、と息が詰まった。収縮する心臓に、切ない息切れを覚えそうだった。
一瞬流れた妙な空気を厭うように、ミルフィが手を鳴らした。
「はい、これでお終い」
ミルフィは少しだけ燐子から体を離して、上手く結べているかどうか確認した。上手くできたと思っているのだろう、どこか得意げな微笑を浮かべている。
「……あ、結んだことは内緒にしておいてね」
「なぜだ」
「いいから、色々面倒なのよ」
山と空の境界が朧気になり始めた頃合い、うっすらと貼り付けられたような空に、月が浮かび上がってきていた。
(もう夕食の時間だ。そろそろ帰らなければ……)
頭ではそう分かっているのに、動き出すのが億劫になっていた。
欲を言えば、月に照らされる村も一望してみたい。
だが、月明かりが辺りを本格的に照らし出すには、もう少し時間がかかりそうだ。
「夕飯の支度をしなきゃいけないし、戻りましょうか」
そう言って立ち上がりかけたミルフィの手を、名残惜しさから無意識に掴む。
急な出来事に彼女も驚いたような顔で燐子を見下ろしたのだが、同じように困惑した顔をしていた燐子と目が合ってしまい、互いに目を瞬かせた。
「な、何?急にどうしたの」
「あ、いや……」
自分でもよく分からなくなっていた燐子は、何と言うべきか必死で考えた挙げ句、別に、『自分はもう少しここに残る』と伝えればいいのだと気がついて、手を離そうとした。
しかし、その瞬間、見上げるミルフィが小首を傾げたのを見て、思わず違うことを言ってしまう。
「もう少し、いいだろう」
「ええ……燐子はまだいてもいいわよ、でも、もう半刻もしたら」
そこから先の言葉が想像できて、早口でそれを塞ぐ。
「お前もだ、ミルフィ」
自分でも気が付かないうちに、手に力が入ってしまう。
痛くはないだろうか、と妙な心配が浮かぶ。
「ど、どうして?」
「分からん」
燐子は、ミルフィの赤らんだ顔から少しだけ視線を逸し続ける。
「だが……許されるなら、もう少しそばにいてくれ」
自分は寂しいのだろうか、それとも、話し相手が欲しいだけなのか。
いや、どうせ考えても無駄だ。
考えてもどうしようもないことが、この世界に来てから増えた気がしてならない。
燐子はもういっそのこと開き直って、はっきりとした口調と瞳でミルフィに告げた。
「お前との時間は、やけに落ち着く」
ミルフィはしばらくぽかんとして、燐子の真剣そのものの表情と向き合っていたのだが、ややあって吹き出すと、「素直に寂しいって言いなさいよ」と母のような表情で微笑んだ。
ミルフィがゆったりとした唇の動きでそう尋ねる。
「……なぜ、そう思う」
「だって、そういう顔をしているわ」
心配そうな目つきで返された燐子は、掌を閉じて紐を握りしめ長息を吐き、ぽつりぽつりと返事をした。
「向こうから持ってきた、数少ないものだ。それが壊れるとなると、どんどん元の世界から切り離されていく、そんな気がして……」
不安なのだ、という言葉は飲み込む。
すると、ミルフィがそっと、燐子の固く握った掌に自身の手を乗せた。
「少し、見せて」
思いのほか硬い指先で燐子の掌を軽く押して開くと、中から夜緑色の紐をつまみ上げた。
「うーん……」
ミルフィは、妙に高く間延びした声を出したかと思うと、何かに納得した様子でふわりと微笑んだ。
「これくらいすぐに直せるわ。任せておきなさい」
「本当か?」
「ええ、少し短くなるでしょうけど、誤差の範囲よ。明日中には直すから、それまでは……」
一度口を閉じたミルフィは、じっと燐子の顔を見つめて何やら逡巡した後、「まあ、いいか」とほんのり頬を染めた。
それから、ミルフィは垂れ下がった自身の三編みの毛先をまとめているヘアゴムを外した。
燐子のようにそれだけで髪が解けるわけではなく、彼女の赤色の髪は一本に束ねられたままだ。
「後ろを向きなさい。これで結ってあげるわ」
「だが、また汚れてしまうかもしれぬぞ」
「別に、ヘアゴムぐらい構わないわよ」
そう言われては反論のしようもなく、燐子はされるがままになってミルフィに背を向けた。
烏の濡れ羽色をした髪を、ミルフィが一本、一本、丁寧で、優しい手付きでまとめる。
「……髪、綺麗ね」
「あ、ああ……そうか……」
その優しさに、燐子はむず痒いような、心苦しいような、でも、どこか懐かしいような……そんな感覚を抱かされて、なぜか泣きそうになってしまった。
人前で泣くなんて、侍の名折れだ。
いや、自分は侍ではないのか。
だったら、何のための誇りだ。
あぁ、こちらに来てから、迷いばかりの自分が情けない。
ミルフィの繊細な手付きが、水筒の中の、最後の一滴のような涙を加速させる。
燐子は、それがこぼれてしまわないようにぎゅっと瞳を閉じた。
「こうしとかないと、落ち着かないのよ」やたらと優しい口だ。
「誰がだ?」
「私がよ」
「妙なことを言う。なぜだ」
「そ、それは……」
背中越しに響いてくるミルフィの声が、かすかに揺れる。
言うか言わないか、迷っているようだった。
たいして時間も経たないうちに髪を束ね終えたミルフィが、やがて、燐子を向き直らせると、消えそうな声で呟いた。
「――……髪を下ろしてると、意外にも、その、ちゃんと可愛い女の子なんだなぁと思っちゃって……」
「じょ、冗談はよせ。そういう女ではないことぐらい、自分でも分かっている」
「……冗談で、こんなこと言わないわ」
うっ、と息が詰まった。収縮する心臓に、切ない息切れを覚えそうだった。
一瞬流れた妙な空気を厭うように、ミルフィが手を鳴らした。
「はい、これでお終い」
ミルフィは少しだけ燐子から体を離して、上手く結べているかどうか確認した。上手くできたと思っているのだろう、どこか得意げな微笑を浮かべている。
「……あ、結んだことは内緒にしておいてね」
「なぜだ」
「いいから、色々面倒なのよ」
山と空の境界が朧気になり始めた頃合い、うっすらと貼り付けられたような空に、月が浮かび上がってきていた。
(もう夕食の時間だ。そろそろ帰らなければ……)
頭ではそう分かっているのに、動き出すのが億劫になっていた。
欲を言えば、月に照らされる村も一望してみたい。
だが、月明かりが辺りを本格的に照らし出すには、もう少し時間がかかりそうだ。
「夕飯の支度をしなきゃいけないし、戻りましょうか」
そう言って立ち上がりかけたミルフィの手を、名残惜しさから無意識に掴む。
急な出来事に彼女も驚いたような顔で燐子を見下ろしたのだが、同じように困惑した顔をしていた燐子と目が合ってしまい、互いに目を瞬かせた。
「な、何?急にどうしたの」
「あ、いや……」
自分でもよく分からなくなっていた燐子は、何と言うべきか必死で考えた挙げ句、別に、『自分はもう少しここに残る』と伝えればいいのだと気がついて、手を離そうとした。
しかし、その瞬間、見上げるミルフィが小首を傾げたのを見て、思わず違うことを言ってしまう。
「もう少し、いいだろう」
「ええ……燐子はまだいてもいいわよ、でも、もう半刻もしたら」
そこから先の言葉が想像できて、早口でそれを塞ぐ。
「お前もだ、ミルフィ」
自分でも気が付かないうちに、手に力が入ってしまう。
痛くはないだろうか、と妙な心配が浮かぶ。
「ど、どうして?」
「分からん」
燐子は、ミルフィの赤らんだ顔から少しだけ視線を逸し続ける。
「だが……許されるなら、もう少しそばにいてくれ」
自分は寂しいのだろうか、それとも、話し相手が欲しいだけなのか。
いや、どうせ考えても無駄だ。
考えてもどうしようもないことが、この世界に来てから増えた気がしてならない。
燐子はもういっそのこと開き直って、はっきりとした口調と瞳でミルフィに告げた。
「お前との時間は、やけに落ち着く」
ミルフィはしばらくぽかんとして、燐子の真剣そのものの表情と向き合っていたのだが、ややあって吹き出すと、「素直に寂しいって言いなさいよ」と母のような表情で微笑んだ。
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