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六章 黎明は遥か遠く
黎明は遥か遠く.1
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作業は想像していたよりも順調に進み、今夜中には、かなりそれらしい形になるものと予測された。
燐子は、黄昏の残光がカランツの村を美しく照らすのを、女児のように瞳を大きく見開き眺めていた。
広がる河川の水面が、蜜柑色にキラキラとした光りを放って、とても郷愁的な気持ちにさせられる。
砦を作るための木材がひたすら往復している大通りには、黒い影と、橙色の道がどこまでも伸びていた。
静かな虫の音が春の夕暮れに響いて、とても落ち着く。
「どう、この景色は」
こちらの返答が分かっているような自信満々の笑みに、「まあ、風情があるな」と素直半分、ごまかし半分で答える。
「そうでしょう、燐子が好きそうだと思ったのよ」
「なぜだ?」
「だって、アズールに向かう途中で、ぼうっと沈む夕日を見てたときがあったじゃない」
両膝を曲げて抱きかかえるようにして座り込んでいたミルフィが、少し子どもっぽく笑った。
「……よく分かったな」
「分かりやすいのよ、あんたは」
「ふん、そうか」
そうして二人は、しばらく眼下に広がる景色を見つめていた。
もうだいぶ暗くなってきたわけだが、それでも、あちらこちらから作業を続けている音が絶え間なく響いてくる。
金槌で釘を打つ音、鋸で木材を切る音、野太い掛け声……。
作業の休憩を告げる鐘の音が木霊したのを契機に、燐子は両腕と膝の間に顔を突っ込むようにしていたミルフィへ尋ねる。
「どうして、わざわざ私をここへ連れてきた。まさか、好きそうだったから、というだけではあるまい」
ミルフィは燐子の問いかけを受けると、口の形を『え』の形に変えて、それからいっそう深く顔を埋めてもごもごと呟いた。
「まあ、そのぉ、森ではごめん、っていうか、んー……ごめん」
「……いや、謝ることはあるまい。私だって、そうだな……気が、利かなかった」
互いに素直に謝られるとは思っていなかったからか、奇妙な居心地の悪さを感じて押し黙る。
だが、そんな時間が数十秒ほども流れてしまえば、段々と気を遣っているのが馬鹿らしく思えてくるものだ。
別に、今更取り繕う必要もないか、と考えて口を開こうとするも、自分のこういう考えなしに発言する癖のせいで、人と衝突するのではないかと省みる。
こういうときに何と口にすれば良いのかが分からない、経験不足が過ぎるのだ。
実際向こうにいたときも、特筆して親しいと表現できるような仲間はいなかった気がする。
話すにしても戦いの話ばかり。そのせいで、歳若い友人はいなかった。
女で戦場に出る物好きなんて、自分以外いなかったし、寄り付く男性も手合わせを頼まれるだけで、恋愛沙汰なんてまるで縁がなかった。
父からは、『刀と婚姻しているのか』と何度もからかわれた。だから私が、『結婚しているのは戦とです』と冗談交じりで言い返すと、哀れみを含んだ目つきで閉口されたのをよく覚えている。
(なぜ、今になって恋愛沙汰のことなど考える……。普通の女のように……)
何となくミルフィのほうを一瞥する。すると、偶然彼女もこちらを見ていたようで、視線が正面から交差してしまった。
普段なら小言の一つでもぶつけてきそうな状況だったが、ミルフィは二度、三度素早く瞬きしてから、目を背けただけであった。
もう一刻もすれば、背後に広がる林からは夜鳥のさえずりが、雨の降り始めのようにぽつぽつと響き出し、月と星の光が淡く辺りを浮かび上がらせることだろう。
宵の明星が、空の果てで輝いているのをぼんやりと目を細めて眺める。
こんなにも穏やかな夜なのに、次に日が昇り、月が沈み、そしてまた日が昇ろうというときには、この村は戦地になっている可能性が高い。
燐子は、この場から動きたくなくなっていることに、自分でも驚きを感じていた。
当然、戦いが怖いのではない。この奇妙な落ち着きと、それとは相反する居心地の悪さがそうさせていたのだ。
その感情が我ながらおかしくて、無意識のうちに苦笑を浮かべていると、ミルフィが小さく笑った。
「燐子って、不思議ね」
「そうだろうか」とあまり感情を込めないよう意識して呟く。「どのあたりが?」
「うぅん……全部?」
「ふ……何だ、それは」
「いいじゃない、別に」その明るい笑顔を見て、今日は本当にミルフィらしくないな、と思った。
不意に、ミルフィが天を仰いだ。
「星が綺麗ね」
「……ああ」
燐子は目を細め、一番星を見つめていた。
遠く、小さい星が必死で輝いているのを見ると、物悲しくなるときがある。
一際強く輝く星でもこの有様なのだ。
あまりにも矮小過ぎる瞬きに、憐憫に似た感情を覚えるのは、父が言っていた話を思い出すからかも知れない。
天命を尽くした人間は、ああして夜空を彩る星になるのだと、父は私に教えてくれた。
その真偽などどうでもよかった。
ただ、仲間が大勢死ぬ度に夜空を見上げた。
そうして、いつもと変わらない星空を睨みつける度に、やり場のない憤りを感じていた。
『信念や誇りのために戦うのが、侍の果たすべき天命……ならば、私の天命とは何だ……?何を成せば、私は星になれる?侍ですらない私は……何を成せば……』と。
仲間の死を嘆く者たちに檄を飛ばしながら、私は怯えていたように思う。
自分の生きる意味を、変わらない夜空に奪われたような気になっていたのだ。
(……だが、ここにはそれすらもない)
日の本で見ることができた星空とは、全く違う景色が仰いだ頭上に広がっている。
たとえ星の数が変わらないように思えても、もう気にする必要はない。
形のないものを、守りようのないものを奪われないよう、必死にかき抱く必要もない。
ここでは、誰もその価値を知らず、奪おうともしないのだから。
「もしかすると、私は……」
「え?何?」ふと、ミルフィが声を上げた。
どうやら心の中で呟いたつもりの声が、口に出ていたようだ。
適当にごまかそうかとも考えたが、結局、続きを語ることにした。
「このような場所に来ても死ねない自分のことを、認めたくなかったのだろうか」
「死ねない、自分を?」
「ああ」
「でも、燐子、あんたは腹を切らせろーってうるさかったじゃない。私たちが止めたから、やめたかもしれないけどさ」
「……それでも、切ろうと思えば腹を切れた」
そうだ。いつだって、チャンスはあった。
それをしなかったのは……。
「誇りや誉のために、侍の娘として恥ずることのないよう死のうと思っているのは、嘘ではない。だが、ここに来てしまってからというものの、私は――」
理由のない焦燥感に襲われて、反射的にミルフィへ身を寄せた瞬間に、頭の後ろのほうで何かが千切れる音が聞こえた。
それと同時に、縛り上げていた後ろ髪が急に緩み、重力に引かれるままに背中へと落ちた。
「……あ」
ミルフィが小さい声を上げ、こちらの顔をまじまじと見据える。
手を背中にやって、何が起きたのかを確かめる。
どうやら、髪をまとめていた紐が千切れてしまったようだ。
その紐は、昔、父から貰った年季の入った一品だった。
別に高価なものでも、特別なものでもない。ただ、太刀、小太刀に加えて元の世界から持って来た数少ないものだった。
それが今千切れてしまったというのは、何か良くないことが起こる予兆に他ならないのではないかと、心がざわついてしまう。
燐子は、千切れた夜緑色の髪紐を拾うと、そっと胸の前で握りしめた。
その姿は、壊れた宝物を抱きしめて、泣き出しそうになっている子どものようだった。
燐子は、黄昏の残光がカランツの村を美しく照らすのを、女児のように瞳を大きく見開き眺めていた。
広がる河川の水面が、蜜柑色にキラキラとした光りを放って、とても郷愁的な気持ちにさせられる。
砦を作るための木材がひたすら往復している大通りには、黒い影と、橙色の道がどこまでも伸びていた。
静かな虫の音が春の夕暮れに響いて、とても落ち着く。
「どう、この景色は」
こちらの返答が分かっているような自信満々の笑みに、「まあ、風情があるな」と素直半分、ごまかし半分で答える。
「そうでしょう、燐子が好きそうだと思ったのよ」
「なぜだ?」
「だって、アズールに向かう途中で、ぼうっと沈む夕日を見てたときがあったじゃない」
両膝を曲げて抱きかかえるようにして座り込んでいたミルフィが、少し子どもっぽく笑った。
「……よく分かったな」
「分かりやすいのよ、あんたは」
「ふん、そうか」
そうして二人は、しばらく眼下に広がる景色を見つめていた。
もうだいぶ暗くなってきたわけだが、それでも、あちらこちらから作業を続けている音が絶え間なく響いてくる。
金槌で釘を打つ音、鋸で木材を切る音、野太い掛け声……。
作業の休憩を告げる鐘の音が木霊したのを契機に、燐子は両腕と膝の間に顔を突っ込むようにしていたミルフィへ尋ねる。
「どうして、わざわざ私をここへ連れてきた。まさか、好きそうだったから、というだけではあるまい」
ミルフィは燐子の問いかけを受けると、口の形を『え』の形に変えて、それからいっそう深く顔を埋めてもごもごと呟いた。
「まあ、そのぉ、森ではごめん、っていうか、んー……ごめん」
「……いや、謝ることはあるまい。私だって、そうだな……気が、利かなかった」
互いに素直に謝られるとは思っていなかったからか、奇妙な居心地の悪さを感じて押し黙る。
だが、そんな時間が数十秒ほども流れてしまえば、段々と気を遣っているのが馬鹿らしく思えてくるものだ。
別に、今更取り繕う必要もないか、と考えて口を開こうとするも、自分のこういう考えなしに発言する癖のせいで、人と衝突するのではないかと省みる。
こういうときに何と口にすれば良いのかが分からない、経験不足が過ぎるのだ。
実際向こうにいたときも、特筆して親しいと表現できるような仲間はいなかった気がする。
話すにしても戦いの話ばかり。そのせいで、歳若い友人はいなかった。
女で戦場に出る物好きなんて、自分以外いなかったし、寄り付く男性も手合わせを頼まれるだけで、恋愛沙汰なんてまるで縁がなかった。
父からは、『刀と婚姻しているのか』と何度もからかわれた。だから私が、『結婚しているのは戦とです』と冗談交じりで言い返すと、哀れみを含んだ目つきで閉口されたのをよく覚えている。
(なぜ、今になって恋愛沙汰のことなど考える……。普通の女のように……)
何となくミルフィのほうを一瞥する。すると、偶然彼女もこちらを見ていたようで、視線が正面から交差してしまった。
普段なら小言の一つでもぶつけてきそうな状況だったが、ミルフィは二度、三度素早く瞬きしてから、目を背けただけであった。
もう一刻もすれば、背後に広がる林からは夜鳥のさえずりが、雨の降り始めのようにぽつぽつと響き出し、月と星の光が淡く辺りを浮かび上がらせることだろう。
宵の明星が、空の果てで輝いているのをぼんやりと目を細めて眺める。
こんなにも穏やかな夜なのに、次に日が昇り、月が沈み、そしてまた日が昇ろうというときには、この村は戦地になっている可能性が高い。
燐子は、この場から動きたくなくなっていることに、自分でも驚きを感じていた。
当然、戦いが怖いのではない。この奇妙な落ち着きと、それとは相反する居心地の悪さがそうさせていたのだ。
その感情が我ながらおかしくて、無意識のうちに苦笑を浮かべていると、ミルフィが小さく笑った。
「燐子って、不思議ね」
「そうだろうか」とあまり感情を込めないよう意識して呟く。「どのあたりが?」
「うぅん……全部?」
「ふ……何だ、それは」
「いいじゃない、別に」その明るい笑顔を見て、今日は本当にミルフィらしくないな、と思った。
不意に、ミルフィが天を仰いだ。
「星が綺麗ね」
「……ああ」
燐子は目を細め、一番星を見つめていた。
遠く、小さい星が必死で輝いているのを見ると、物悲しくなるときがある。
一際強く輝く星でもこの有様なのだ。
あまりにも矮小過ぎる瞬きに、憐憫に似た感情を覚えるのは、父が言っていた話を思い出すからかも知れない。
天命を尽くした人間は、ああして夜空を彩る星になるのだと、父は私に教えてくれた。
その真偽などどうでもよかった。
ただ、仲間が大勢死ぬ度に夜空を見上げた。
そうして、いつもと変わらない星空を睨みつける度に、やり場のない憤りを感じていた。
『信念や誇りのために戦うのが、侍の果たすべき天命……ならば、私の天命とは何だ……?何を成せば、私は星になれる?侍ですらない私は……何を成せば……』と。
仲間の死を嘆く者たちに檄を飛ばしながら、私は怯えていたように思う。
自分の生きる意味を、変わらない夜空に奪われたような気になっていたのだ。
(……だが、ここにはそれすらもない)
日の本で見ることができた星空とは、全く違う景色が仰いだ頭上に広がっている。
たとえ星の数が変わらないように思えても、もう気にする必要はない。
形のないものを、守りようのないものを奪われないよう、必死にかき抱く必要もない。
ここでは、誰もその価値を知らず、奪おうともしないのだから。
「もしかすると、私は……」
「え?何?」ふと、ミルフィが声を上げた。
どうやら心の中で呟いたつもりの声が、口に出ていたようだ。
適当にごまかそうかとも考えたが、結局、続きを語ることにした。
「このような場所に来ても死ねない自分のことを、認めたくなかったのだろうか」
「死ねない、自分を?」
「ああ」
「でも、燐子、あんたは腹を切らせろーってうるさかったじゃない。私たちが止めたから、やめたかもしれないけどさ」
「……それでも、切ろうと思えば腹を切れた」
そうだ。いつだって、チャンスはあった。
それをしなかったのは……。
「誇りや誉のために、侍の娘として恥ずることのないよう死のうと思っているのは、嘘ではない。だが、ここに来てしまってからというものの、私は――」
理由のない焦燥感に襲われて、反射的にミルフィへ身を寄せた瞬間に、頭の後ろのほうで何かが千切れる音が聞こえた。
それと同時に、縛り上げていた後ろ髪が急に緩み、重力に引かれるままに背中へと落ちた。
「……あ」
ミルフィが小さい声を上げ、こちらの顔をまじまじと見据える。
手を背中にやって、何が起きたのかを確かめる。
どうやら、髪をまとめていた紐が千切れてしまったようだ。
その紐は、昔、父から貰った年季の入った一品だった。
別に高価なものでも、特別なものでもない。ただ、太刀、小太刀に加えて元の世界から持って来た数少ないものだった。
それが今千切れてしまったというのは、何か良くないことが起こる予兆に他ならないのではないかと、心がざわついてしまう。
燐子は、千切れた夜緑色の髪紐を拾うと、そっと胸の前で握りしめた。
その姿は、壊れた宝物を抱きしめて、泣き出しそうになっている子どものようだった。
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