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五章 深夜からの呼び声
深夜からの呼び声.3
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月が天に昇って、だいぶ久しかった。
このまま夜が明けないのではないかと思えるほど、深い夜だ。
月明りははっきりとしているのに、そう感じてしまうのは、きっとこの森が酷く黒々としているからだろう。
空を覆う樹木で、せっかくの月光も立ち入りを禁じられているようだ。
初めてこの森を訪れたときと同じような暗闇の中、あのときとは多くのものが違っていることを、自分でも気づいていた。
(……妙な因果だ)
あのとき出会った少年の姉と、数週間前は名前も知らなかった村のために行動を起こしている。
つい奇妙な笑いがこぼれてしまい、慌ててせき払いをしてごまかす。
「ああは言ったものの」と前置きをして、燐子は隣を歩くミルフィに顔を向けた。
ミルフィはまだ少しだけ目の周りが赤く、時折鼻もすすっているので、あの後、また泣いてしまったようだ。
「今、本隊がこちらに向かっているとは考えにくいな」
「どうして?」
「小さな村一つ潰すのに、兵士を疲弊させて夜戦を仕掛ける必要などない。まあ、一人哨戒に出た人間が戻ってこないのだから、数人ばかりは捜索に出るだろうが」
「そういうもの?」とミルフィが首を捻るので、「そういうものだ」と繰り返した。
「……だからこそ、村の様子を下手に探られるより先に、そいつらを始末してしまわねばならない」
始末、という言葉に、ミルフィが息を呑む。
こんな老人か女しかいない村の哨戒に出た連中のことなど、しばらく戻らずとも本隊は放っておくだろう。
とにかく、少しでも疑いを持たれる時を遅らせる必要がある。今の村の状態で攻められては、赤子をひねるように容易く村は壊滅する。
村のほうでは今、みんなで村を守る準備を必死にやっている。
まともな防護柵は作れないだろうが、幸いあの地形は川さえ上手く利用できれば天然の要塞ができる。
蜘蛛の巣のように張り巡らされた水流は、騎兵では突破できない。
水深は深くもないが、浅くもない。歩兵が突破するのも危険が伴う。
そして、村一つ焼くだけに、そのような危険は普通冒さない。そうして油断している敵の侵攻を一点に絞られれば、活路はある。
(そうなれば後は、アズールの騎士団がさっさと駆けつけてくれるのを待つだけだ。当然、自分にも大仕事があるが……)
念のため馬を貸して、村の者にアズールまで遣いを送っている。ただ、すでに一日走りっぱなしだった馬が、どれほどまともに走ってくれるか分かったものではない。
森はますます闇を濃くしていき、一寸先も見えないほどの暗闇が辺りには広がっていた。
かろうじて、隣を歩くミルフィの影だけは見えたものの、猟師というだけあって気配を消すのが上手だったため、時折、彼女に手を伸ばして確認しなければならなかった。だが、その度に、彼女に触れる前に手を叩き落されて驚いた。
こちらからは全く見えぬのに、ミルフィのほうからは見えるというらしい。夜目が効くようだ。
しばし、沈黙が続いた後、ミルフィが思い出したように口を開いた。
「燐子って、こっちの世界に来る前は何してたの?」
「……どうして、そんなことを尋ねる」
「ずっと聞こうと思ってたのよ。あんた、普通じゃないから」
「……ただの用心棒だ」
正直に答えるべきか迷ったが、燐子はごまかすことに決めた。
戦争を憎んでいるミルフィにとって、戦いを生業に、いや、生き甲斐にすらしていたことが知られれば、また喧嘩するはめになりそうであったからだ。
「ふぅん、それにしては随分とお強いのね」
「そうだろうか」
「そうよ」足元の木が折れる渇いた音が響く。「それって、燐子が侍って奴だから?」
その言葉を聞いて、燐子は自分が呼吸できる生き物であることを忘れたかのように、息を止めた。
やがて燐子は、何かを諦めたかのようにして、力なく首を左右に振ったかと思うと、ほぼ無意識のうちに腰に佩いた太刀に手を伸ばした。
刀は、侍の魂だと父が言っていた。
その言葉を信じて常に太刀と向き合い、その声に耳を傾け戦場を駆け抜けてきた。
(……だが、どれだけ待っても、私の呼び声に応えてはくれないな……)
私が、侍ではないからだろうか。
それとも、所詮は道具に過ぎないのか。
どれほど鋭利に研ぎ澄ましていったとしても、資格のない私には、何も応えてはくれないのだろうか。
「私は、侍ではない」
「えぇ?あれだけ侍、侍うるさいのに?」
ふっと自嘲気味に笑いながら、「そうだ、私にその資格はないのだ」と告げた。
普段とは違う燐子の様子に、ミルフィは何かを察したふうにあえて明るく装い、無理やり言葉を続けた。
「わ、私には難しいことは分からないけど」
ミルフィのフォローも虚しく、燐子は気落ちした様子で呟く。
「私の器は、生まれ落ちたそのときから、すでに割れていたのだ」
燐子の呟きに、ミルフィは何も答えられなかった。燐子自身、彼女に言うべきことではなかったと反省もしていた。
森の深部を抜けたのか、天蓋の代わりを果たしていた木々に隙間が生まれ始め、天から降り立つ青い月光が、ようやくこの森にも届くようになった。
そんな淡い光に髪を照らされて、ミルフィがくるりと燐子のほうを振り返る。
その表情の深刻さ、悲壮さから彼女が何を言わんとしているのかが、大体理解できてしまう。
「ねぇ」と小さく囁くように言う。「あの子、人を殺してしまったわ」
ちゃんと、自分の顔がミルフィからも見えているのを確認してから、ゆっくりと頷いてみせる。
「これから先、あの子がどうなっていくのか、怖いの」
不安そうな顔つきをしたミルフィが、目に見えぬ何かを恐れるように燐子のシャツの袖を掴んだ。
「案ずるな、どうもならない。エミリオはエミリオのままだ」
「そんなわけないじゃない……!人を、殺したのよ?」
「大丈夫だ、きっと。お前やドリトン殿がそばにいてやれれば、エミリオは変わらない」
「魔物を殺すのとはわけが違うわ……」
「たいして違わん」そう告げた刹那、ミルフィの顔がみるみる歪んでいく。
それが何を意味しているのか、自分の迂闊さを悟りつつもよく分かっていた。
さらにもう一度、「違わんのだ」と呟いた燐子の袖から、静かにミルフィは手を離した。
「燐子も、人を殺したことがあるのね」
「……ああ」
「どうして、そんなことを」
燐子はその質問に、「誇りのためだ」と答えて、自分たちの進む先を一点に見つめた。
このまま夜が明けないのではないかと思えるほど、深い夜だ。
月明りははっきりとしているのに、そう感じてしまうのは、きっとこの森が酷く黒々としているからだろう。
空を覆う樹木で、せっかくの月光も立ち入りを禁じられているようだ。
初めてこの森を訪れたときと同じような暗闇の中、あのときとは多くのものが違っていることを、自分でも気づいていた。
(……妙な因果だ)
あのとき出会った少年の姉と、数週間前は名前も知らなかった村のために行動を起こしている。
つい奇妙な笑いがこぼれてしまい、慌ててせき払いをしてごまかす。
「ああは言ったものの」と前置きをして、燐子は隣を歩くミルフィに顔を向けた。
ミルフィはまだ少しだけ目の周りが赤く、時折鼻もすすっているので、あの後、また泣いてしまったようだ。
「今、本隊がこちらに向かっているとは考えにくいな」
「どうして?」
「小さな村一つ潰すのに、兵士を疲弊させて夜戦を仕掛ける必要などない。まあ、一人哨戒に出た人間が戻ってこないのだから、数人ばかりは捜索に出るだろうが」
「そういうもの?」とミルフィが首を捻るので、「そういうものだ」と繰り返した。
「……だからこそ、村の様子を下手に探られるより先に、そいつらを始末してしまわねばならない」
始末、という言葉に、ミルフィが息を呑む。
こんな老人か女しかいない村の哨戒に出た連中のことなど、しばらく戻らずとも本隊は放っておくだろう。
とにかく、少しでも疑いを持たれる時を遅らせる必要がある。今の村の状態で攻められては、赤子をひねるように容易く村は壊滅する。
村のほうでは今、みんなで村を守る準備を必死にやっている。
まともな防護柵は作れないだろうが、幸いあの地形は川さえ上手く利用できれば天然の要塞ができる。
蜘蛛の巣のように張り巡らされた水流は、騎兵では突破できない。
水深は深くもないが、浅くもない。歩兵が突破するのも危険が伴う。
そして、村一つ焼くだけに、そのような危険は普通冒さない。そうして油断している敵の侵攻を一点に絞られれば、活路はある。
(そうなれば後は、アズールの騎士団がさっさと駆けつけてくれるのを待つだけだ。当然、自分にも大仕事があるが……)
念のため馬を貸して、村の者にアズールまで遣いを送っている。ただ、すでに一日走りっぱなしだった馬が、どれほどまともに走ってくれるか分かったものではない。
森はますます闇を濃くしていき、一寸先も見えないほどの暗闇が辺りには広がっていた。
かろうじて、隣を歩くミルフィの影だけは見えたものの、猟師というだけあって気配を消すのが上手だったため、時折、彼女に手を伸ばして確認しなければならなかった。だが、その度に、彼女に触れる前に手を叩き落されて驚いた。
こちらからは全く見えぬのに、ミルフィのほうからは見えるというらしい。夜目が効くようだ。
しばし、沈黙が続いた後、ミルフィが思い出したように口を開いた。
「燐子って、こっちの世界に来る前は何してたの?」
「……どうして、そんなことを尋ねる」
「ずっと聞こうと思ってたのよ。あんた、普通じゃないから」
「……ただの用心棒だ」
正直に答えるべきか迷ったが、燐子はごまかすことに決めた。
戦争を憎んでいるミルフィにとって、戦いを生業に、いや、生き甲斐にすらしていたことが知られれば、また喧嘩するはめになりそうであったからだ。
「ふぅん、それにしては随分とお強いのね」
「そうだろうか」
「そうよ」足元の木が折れる渇いた音が響く。「それって、燐子が侍って奴だから?」
その言葉を聞いて、燐子は自分が呼吸できる生き物であることを忘れたかのように、息を止めた。
やがて燐子は、何かを諦めたかのようにして、力なく首を左右に振ったかと思うと、ほぼ無意識のうちに腰に佩いた太刀に手を伸ばした。
刀は、侍の魂だと父が言っていた。
その言葉を信じて常に太刀と向き合い、その声に耳を傾け戦場を駆け抜けてきた。
(……だが、どれだけ待っても、私の呼び声に応えてはくれないな……)
私が、侍ではないからだろうか。
それとも、所詮は道具に過ぎないのか。
どれほど鋭利に研ぎ澄ましていったとしても、資格のない私には、何も応えてはくれないのだろうか。
「私は、侍ではない」
「えぇ?あれだけ侍、侍うるさいのに?」
ふっと自嘲気味に笑いながら、「そうだ、私にその資格はないのだ」と告げた。
普段とは違う燐子の様子に、ミルフィは何かを察したふうにあえて明るく装い、無理やり言葉を続けた。
「わ、私には難しいことは分からないけど」
ミルフィのフォローも虚しく、燐子は気落ちした様子で呟く。
「私の器は、生まれ落ちたそのときから、すでに割れていたのだ」
燐子の呟きに、ミルフィは何も答えられなかった。燐子自身、彼女に言うべきことではなかったと反省もしていた。
森の深部を抜けたのか、天蓋の代わりを果たしていた木々に隙間が生まれ始め、天から降り立つ青い月光が、ようやくこの森にも届くようになった。
そんな淡い光に髪を照らされて、ミルフィがくるりと燐子のほうを振り返る。
その表情の深刻さ、悲壮さから彼女が何を言わんとしているのかが、大体理解できてしまう。
「ねぇ」と小さく囁くように言う。「あの子、人を殺してしまったわ」
ちゃんと、自分の顔がミルフィからも見えているのを確認してから、ゆっくりと頷いてみせる。
「これから先、あの子がどうなっていくのか、怖いの」
不安そうな顔つきをしたミルフィが、目に見えぬ何かを恐れるように燐子のシャツの袖を掴んだ。
「案ずるな、どうもならない。エミリオはエミリオのままだ」
「そんなわけないじゃない……!人を、殺したのよ?」
「大丈夫だ、きっと。お前やドリトン殿がそばにいてやれれば、エミリオは変わらない」
「魔物を殺すのとはわけが違うわ……」
「たいして違わん」そう告げた刹那、ミルフィの顔がみるみる歪んでいく。
それが何を意味しているのか、自分の迂闊さを悟りつつもよく分かっていた。
さらにもう一度、「違わんのだ」と呟いた燐子の袖から、静かにミルフィは手を離した。
「燐子も、人を殺したことがあるのね」
「……ああ」
「どうして、そんなことを」
燐子はその質問に、「誇りのためだ」と答えて、自分たちの進む先を一点に見つめた。
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