25 / 41
五章 深夜からの呼び声
深夜からの呼び声.3
しおりを挟む
月が天に昇って、だいぶ久しかった。
このまま夜が明けないのではないかと思えるほど、深い夜だ。
月明りははっきりとしているのに、そう感じてしまうのは、きっとこの森が酷く黒々としているからだろう。
空を覆う樹木で、せっかくの月光も立ち入りを禁じられているようだ。
初めてこの森を訪れたときと同じような暗闇の中、あのときとは多くのものが違っていることを、自分でも気づいていた。
(……妙な因果だ)
あのとき出会った少年の姉と、数週間前は名前も知らなかった村のために行動を起こしている。
つい奇妙な笑いがこぼれてしまい、慌ててせき払いをしてごまかす。
「ああは言ったものの」と前置きをして、燐子は隣を歩くミルフィに顔を向けた。
ミルフィはまだ少しだけ目の周りが赤く、時折鼻もすすっているので、あの後、また泣いてしまったようだ。
「今、本隊がこちらに向かっているとは考えにくいな」
「どうして?」
「小さな村一つ潰すのに、兵士を疲弊させて夜戦を仕掛ける必要などない。まあ、一人哨戒に出た人間が戻ってこないのだから、数人ばかりは捜索に出るだろうが」
「そういうもの?」とミルフィが首を捻るので、「そういうものだ」と繰り返した。
「……だからこそ、村の様子を下手に探られるより先に、そいつらを始末してしまわねばならない」
始末、という言葉に、ミルフィが息を呑む。
こんな老人か女しかいない村の哨戒に出た連中のことなど、しばらく戻らずとも本隊は放っておくだろう。
とにかく、少しでも疑いを持たれる時を遅らせる必要がある。今の村の状態で攻められては、赤子をひねるように容易く村は壊滅する。
村のほうでは今、みんなで村を守る準備を必死にやっている。
まともな防護柵は作れないだろうが、幸いあの地形は川さえ上手く利用できれば天然の要塞ができる。
蜘蛛の巣のように張り巡らされた水流は、騎兵では突破できない。
水深は深くもないが、浅くもない。歩兵が突破するのも危険が伴う。
そして、村一つ焼くだけに、そのような危険は普通冒さない。そうして油断している敵の侵攻を一点に絞られれば、活路はある。
(そうなれば後は、アズールの騎士団がさっさと駆けつけてくれるのを待つだけだ。当然、自分にも大仕事があるが……)
念のため馬を貸して、村の者にアズールまで遣いを送っている。ただ、すでに一日走りっぱなしだった馬が、どれほどまともに走ってくれるか分かったものではない。
森はますます闇を濃くしていき、一寸先も見えないほどの暗闇が辺りには広がっていた。
かろうじて、隣を歩くミルフィの影だけは見えたものの、猟師というだけあって気配を消すのが上手だったため、時折、彼女に手を伸ばして確認しなければならなかった。だが、その度に、彼女に触れる前に手を叩き落されて驚いた。
こちらからは全く見えぬのに、ミルフィのほうからは見えるというらしい。夜目が効くようだ。
しばし、沈黙が続いた後、ミルフィが思い出したように口を開いた。
「燐子って、こっちの世界に来る前は何してたの?」
「……どうして、そんなことを尋ねる」
「ずっと聞こうと思ってたのよ。あんた、普通じゃないから」
「……ただの用心棒だ」
正直に答えるべきか迷ったが、燐子はごまかすことに決めた。
戦争を憎んでいるミルフィにとって、戦いを生業に、いや、生き甲斐にすらしていたことが知られれば、また喧嘩するはめになりそうであったからだ。
「ふぅん、それにしては随分とお強いのね」
「そうだろうか」
「そうよ」足元の木が折れる渇いた音が響く。「それって、燐子が侍って奴だから?」
その言葉を聞いて、燐子は自分が呼吸できる生き物であることを忘れたかのように、息を止めた。
やがて燐子は、何かを諦めたかのようにして、力なく首を左右に振ったかと思うと、ほぼ無意識のうちに腰に佩いた太刀に手を伸ばした。
刀は、侍の魂だと父が言っていた。
その言葉を信じて常に太刀と向き合い、その声に耳を傾け戦場を駆け抜けてきた。
(……だが、どれだけ待っても、私の呼び声に応えてはくれないな……)
私が、侍ではないからだろうか。
それとも、所詮は道具に過ぎないのか。
どれほど鋭利に研ぎ澄ましていったとしても、資格のない私には、何も応えてはくれないのだろうか。
「私は、侍ではない」
「えぇ?あれだけ侍、侍うるさいのに?」
ふっと自嘲気味に笑いながら、「そうだ、私にその資格はないのだ」と告げた。
普段とは違う燐子の様子に、ミルフィは何かを察したふうにあえて明るく装い、無理やり言葉を続けた。
「わ、私には難しいことは分からないけど」
ミルフィのフォローも虚しく、燐子は気落ちした様子で呟く。
「私の器は、生まれ落ちたそのときから、すでに割れていたのだ」
燐子の呟きに、ミルフィは何も答えられなかった。燐子自身、彼女に言うべきことではなかったと反省もしていた。
森の深部を抜けたのか、天蓋の代わりを果たしていた木々に隙間が生まれ始め、天から降り立つ青い月光が、ようやくこの森にも届くようになった。
そんな淡い光に髪を照らされて、ミルフィがくるりと燐子のほうを振り返る。
その表情の深刻さ、悲壮さから彼女が何を言わんとしているのかが、大体理解できてしまう。
「ねぇ」と小さく囁くように言う。「あの子、人を殺してしまったわ」
ちゃんと、自分の顔がミルフィからも見えているのを確認してから、ゆっくりと頷いてみせる。
「これから先、あの子がどうなっていくのか、怖いの」
不安そうな顔つきをしたミルフィが、目に見えぬ何かを恐れるように燐子のシャツの袖を掴んだ。
「案ずるな、どうもならない。エミリオはエミリオのままだ」
「そんなわけないじゃない……!人を、殺したのよ?」
「大丈夫だ、きっと。お前やドリトン殿がそばにいてやれれば、エミリオは変わらない」
「魔物を殺すのとはわけが違うわ……」
「たいして違わん」そう告げた刹那、ミルフィの顔がみるみる歪んでいく。
それが何を意味しているのか、自分の迂闊さを悟りつつもよく分かっていた。
さらにもう一度、「違わんのだ」と呟いた燐子の袖から、静かにミルフィは手を離した。
「燐子も、人を殺したことがあるのね」
「……ああ」
「どうして、そんなことを」
燐子はその質問に、「誇りのためだ」と答えて、自分たちの進む先を一点に見つめた。
このまま夜が明けないのではないかと思えるほど、深い夜だ。
月明りははっきりとしているのに、そう感じてしまうのは、きっとこの森が酷く黒々としているからだろう。
空を覆う樹木で、せっかくの月光も立ち入りを禁じられているようだ。
初めてこの森を訪れたときと同じような暗闇の中、あのときとは多くのものが違っていることを、自分でも気づいていた。
(……妙な因果だ)
あのとき出会った少年の姉と、数週間前は名前も知らなかった村のために行動を起こしている。
つい奇妙な笑いがこぼれてしまい、慌ててせき払いをしてごまかす。
「ああは言ったものの」と前置きをして、燐子は隣を歩くミルフィに顔を向けた。
ミルフィはまだ少しだけ目の周りが赤く、時折鼻もすすっているので、あの後、また泣いてしまったようだ。
「今、本隊がこちらに向かっているとは考えにくいな」
「どうして?」
「小さな村一つ潰すのに、兵士を疲弊させて夜戦を仕掛ける必要などない。まあ、一人哨戒に出た人間が戻ってこないのだから、数人ばかりは捜索に出るだろうが」
「そういうもの?」とミルフィが首を捻るので、「そういうものだ」と繰り返した。
「……だからこそ、村の様子を下手に探られるより先に、そいつらを始末してしまわねばならない」
始末、という言葉に、ミルフィが息を呑む。
こんな老人か女しかいない村の哨戒に出た連中のことなど、しばらく戻らずとも本隊は放っておくだろう。
とにかく、少しでも疑いを持たれる時を遅らせる必要がある。今の村の状態で攻められては、赤子をひねるように容易く村は壊滅する。
村のほうでは今、みんなで村を守る準備を必死にやっている。
まともな防護柵は作れないだろうが、幸いあの地形は川さえ上手く利用できれば天然の要塞ができる。
蜘蛛の巣のように張り巡らされた水流は、騎兵では突破できない。
水深は深くもないが、浅くもない。歩兵が突破するのも危険が伴う。
そして、村一つ焼くだけに、そのような危険は普通冒さない。そうして油断している敵の侵攻を一点に絞られれば、活路はある。
(そうなれば後は、アズールの騎士団がさっさと駆けつけてくれるのを待つだけだ。当然、自分にも大仕事があるが……)
念のため馬を貸して、村の者にアズールまで遣いを送っている。ただ、すでに一日走りっぱなしだった馬が、どれほどまともに走ってくれるか分かったものではない。
森はますます闇を濃くしていき、一寸先も見えないほどの暗闇が辺りには広がっていた。
かろうじて、隣を歩くミルフィの影だけは見えたものの、猟師というだけあって気配を消すのが上手だったため、時折、彼女に手を伸ばして確認しなければならなかった。だが、その度に、彼女に触れる前に手を叩き落されて驚いた。
こちらからは全く見えぬのに、ミルフィのほうからは見えるというらしい。夜目が効くようだ。
しばし、沈黙が続いた後、ミルフィが思い出したように口を開いた。
「燐子って、こっちの世界に来る前は何してたの?」
「……どうして、そんなことを尋ねる」
「ずっと聞こうと思ってたのよ。あんた、普通じゃないから」
「……ただの用心棒だ」
正直に答えるべきか迷ったが、燐子はごまかすことに決めた。
戦争を憎んでいるミルフィにとって、戦いを生業に、いや、生き甲斐にすらしていたことが知られれば、また喧嘩するはめになりそうであったからだ。
「ふぅん、それにしては随分とお強いのね」
「そうだろうか」
「そうよ」足元の木が折れる渇いた音が響く。「それって、燐子が侍って奴だから?」
その言葉を聞いて、燐子は自分が呼吸できる生き物であることを忘れたかのように、息を止めた。
やがて燐子は、何かを諦めたかのようにして、力なく首を左右に振ったかと思うと、ほぼ無意識のうちに腰に佩いた太刀に手を伸ばした。
刀は、侍の魂だと父が言っていた。
その言葉を信じて常に太刀と向き合い、その声に耳を傾け戦場を駆け抜けてきた。
(……だが、どれだけ待っても、私の呼び声に応えてはくれないな……)
私が、侍ではないからだろうか。
それとも、所詮は道具に過ぎないのか。
どれほど鋭利に研ぎ澄ましていったとしても、資格のない私には、何も応えてはくれないのだろうか。
「私は、侍ではない」
「えぇ?あれだけ侍、侍うるさいのに?」
ふっと自嘲気味に笑いながら、「そうだ、私にその資格はないのだ」と告げた。
普段とは違う燐子の様子に、ミルフィは何かを察したふうにあえて明るく装い、無理やり言葉を続けた。
「わ、私には難しいことは分からないけど」
ミルフィのフォローも虚しく、燐子は気落ちした様子で呟く。
「私の器は、生まれ落ちたそのときから、すでに割れていたのだ」
燐子の呟きに、ミルフィは何も答えられなかった。燐子自身、彼女に言うべきことではなかったと反省もしていた。
森の深部を抜けたのか、天蓋の代わりを果たしていた木々に隙間が生まれ始め、天から降り立つ青い月光が、ようやくこの森にも届くようになった。
そんな淡い光に髪を照らされて、ミルフィがくるりと燐子のほうを振り返る。
その表情の深刻さ、悲壮さから彼女が何を言わんとしているのかが、大体理解できてしまう。
「ねぇ」と小さく囁くように言う。「あの子、人を殺してしまったわ」
ちゃんと、自分の顔がミルフィからも見えているのを確認してから、ゆっくりと頷いてみせる。
「これから先、あの子がどうなっていくのか、怖いの」
不安そうな顔つきをしたミルフィが、目に見えぬ何かを恐れるように燐子のシャツの袖を掴んだ。
「案ずるな、どうもならない。エミリオはエミリオのままだ」
「そんなわけないじゃない……!人を、殺したのよ?」
「大丈夫だ、きっと。お前やドリトン殿がそばにいてやれれば、エミリオは変わらない」
「魔物を殺すのとはわけが違うわ……」
「たいして違わん」そう告げた刹那、ミルフィの顔がみるみる歪んでいく。
それが何を意味しているのか、自分の迂闊さを悟りつつもよく分かっていた。
さらにもう一度、「違わんのだ」と呟いた燐子の袖から、静かにミルフィは手を離した。
「燐子も、人を殺したことがあるのね」
「……ああ」
「どうして、そんなことを」
燐子はその質問に、「誇りのためだ」と答えて、自分たちの進む先を一点に見つめた。
10
読みづらかったり、もっとこうしたほうが良い、という意見がありましたら、是非お寄せください!ご意見・ご感想、ブックマーク、評価が私の力になりますので、応援よろしくお願いします!
お気に入りに追加
11
あなたにおすすめの小説



とある高校の淫らで背徳的な日常
神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。
クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。
後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。
ノクターンとかにもある
お気に入りをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。

ユーヤのお気楽異世界転移
暇野無学
ファンタジー
死因は神様の当て逃げです! 地震による事故で死亡したのだが、原因は神社の扁額が当たっての即死。問題の神様は気まずさから俺を輪廻の輪から外し、異世界の神に俺をゆだねた。異世界への移住を渋る俺に、神様特典付きで異世界へ招待されたが・・・ この神様が超適当な健忘症タイプときた。
セクスカリバーをヌキました!
桂
ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。
国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。
ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……

おっさんなのに異世界召喚されたらしいので適当に生きてみることにした
高鉢 健太
ファンタジー
ふと気づけば見知らぬ石造りの建物の中に居た。どうやら召喚によって異世界転移させられたらしかった。
ラノベでよくある展開に、俺は呆れたね。
もし、あと20年早ければ喜んだかもしれん。だが、アラフォーだぞ?こんなおっさんを召喚させて何をやらせる気だ。
とは思ったが、召喚した連中は俺に生贄の美少女を差し出してくれるらしいじゃないか、その役得を存分に味わいながら異世界の冒険を楽しんでやろう!
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
完結【進】ご都合主義で生きてます。-通販サイトで異世界スローライフのはずが?!-
ジェルミ
ファンタジー
32歳でこの世を去った相川涼香は、異世界の女神ゼクシーにより転移を誘われる。
断ると今度生まれ変わる時は、虫やダニかもしれないと脅され転移を選んだ。
彼女は女神に不便を感じない様に通販サイトの能力と、しばらく暮らせるだけのお金が欲しい、と願った。
通販サイトなんて知らない女神は、知っている振りをして安易に了承する。そして授かったのは、町のスーパーレベルの能力だった。
お惣菜お安いですよ?いかがです?
物語はまったり、のんびりと進みます。
※本作はカクヨム様にも掲載しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる