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四章 水の都

水の都.5

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 詰め所を出て、ようやく一人で真っすぐ歩けるようになったミルフィは、鮮やかさを失った唇で、自分に言い聞かせるように言った。

「急がなきゃ」その瞳が、灰の中から蘇った炎を宿して瞬く。「早く村に帰って、みんなを避難させるのよ。今ならまだ、間に合うかもしれない」
「そうだ。その意気だ」

 完全にとは言えないが、立ち直ったミルフィを見つめて、燐子は小さく頷いた。

 早くスミスのところに寄って武器を受け取り、馬屋に行って町を出よう。

 きっと、一日も駆ければカランツに到着できるはずだ

 ほとんど駆け足で先を急ぐミルフィの隣に並んで、「まずは鍛冶屋だ」と言った、その瞬間だった。

 なだらかな下り坂を上って来る、騎馬に跨った二つの人影。

 逆光になっていて、その表情は薄ぼんやりとしか分からなかったが、片方は線の細い女性だということが、遠めからでも分かった。

 残りの人影は、その照り返し具合から鎧を身に着けていることが予想できた。

 その佇まい、醸し出す雰囲気から、詰所の騎士団連中ではないことが、この距離からでも分かる。

 それどころではないというのに、意識が吸い込まれそうになる存在感だ。

「嘘」とミルフィが一瞬だけ足を止める。「王女様だ」
「王女?」
「ええ、一度見たことあるのよ」
「なるほどな……あれが、この国――聖ローレライ王国の領主か」

 ミルフィにならって燐子も端に避けるが、その目は猛禽の眼光のごとく、鋭く相手の姿を捉えていた。

 次第に近づいてくる二人に、先刻まで惰性で哨戒任務に当たっていた騎士たちが、姿勢を正して頭を下げる。

 彼らの瞳には羨望や畏怖、それから真っすぐな忠誠が見られ、王女が尊敬されているということだけは分かった。

 王女、と言うが、絢爛な装飾を身にまとうわけでもなく、また傲岸不遜な様相もない。低頭する民衆にも優しく声をかけているところを見るに、ミルフィが毛嫌いするほどの相手ではなさそうに思える。

「彼女は王族の中でもまともよ」ミルフィが表情を変えず言う。「まとも?」
「イカれてないってこと――ちょっと燐子、ちゃんと頭下げて。怪しまれるでしょ。流れ人だって知られたら、色々と調書を取られるわよ」
「……なんのためにだ」
「さぁ?帝国の間者か何かじゃないかって疑われるんでしょ、きっと」
「……今は面倒事を避けるべき、か」

 相手は、自分の世界で言うところの将軍の娘みたいなものだ。きちんとした礼儀を尽くさねば、目をつけられるかもしれない。

 そう考えた燐子が、さっと膝を地面に着いて頭を深く下げたところ、突然、ミルフィに激しく背中を叩かれ、跳ね上がるようにして中腰になった。

「何をする!」あまりの痛みに、片目をつむりながら怒鳴りつける。「この馬鹿力め!」
「いいから、早く立ちなさいよ!」
「何……?頭を下げろと言ったり、立てと言ったり、言っていることが滅茶苦茶ではないか」
「あんたは騎士団でもないんだから、膝なんてついたらおかしいのよ」
「私は侍の娘だ」ムッとした顔で返す。
「はいはい、知ってるわよ。だけど、それもこっちじゃ、『ただの人』よ!」

 ただの人……、と頭の中で虚しい響きが反芻する。

 数分前のミルフィのようにふらりとよろめくも、何とか足に力を入れて立ち尽くす。

 分かってはいた。分かってはいたが、いざそれを口にされると心が張り裂けそうな気持ちになる。

 それこそ、自分の墓穴と知ってもなお、穴を掘り続ける墓掘りのように自壊的な虚しさがあった。

 顔面蒼白になった燐子を心配そうに見つめたミルフィは、さすがに罪悪感を覚えたようで、「冗談よ、冗談」と繰り返したのだが、うなされたように、「ただの人……」という言葉を連呼し続ける燐子には、全く聞こえてはいなかった。

 可愛そうなことをしたかも、と肩を揺さぶるミルフィと燐子の間に大きな影が差した。

 何だろうか、とぼんやりとした思考で燐子は面を上げた。



 白い雲の隙間からあふれる幾条もの光を背にして、この世のありとあらゆる可憐さをも凌駕する微笑みが、蒼と白のキャンバスの中に浮かび上がった。

 その絵画じみた優美さを放つものが、生きた人間の顔だと気がついたとき、燐子は無意識に息を飲んだ。

 見た目の美しさだけではない。細身に込められた、意思の強靭さもありありと伝わってきた。

 毛先を緩く波打たせた王冠のような金糸を戴き、血色の良い白い肌に乗った赤い華のような唇。

 その身を包む衣も、決して派手ではないという点が、いっそう彼女の美しさを際立たせていた。

 風に吹かれているはずの水色のスカートは、むしろ風を従えているという印象さえ感じさせる。その細い胴を覆う真っ白の服も何の違和感もなく、彼女そのものに浸透している。

 彼女はすでに女王としての片鱗をこの華奢な体に宿している。

 立場としては自分も一国の姫であったはずだが、それがいかに分不相応の称号だったのかが今ならば分かる。

 戦いにばかり染まって、政や品というものに興味を示さなかったことによる差、といって片付けるには、あまりにも大きく深い溝だ。

「大丈夫ですか?」透明感のある声が、真っすぐ天上より降り注ぐ。

 あまりの驚きに言葉を失っていた燐子であったが、今日だけで、もう何度目かになるミルフィの物理的制裁を受けて、何とか我に返り、閉ざしていた口を開く。

「はい、ご心配をおかけしてしまい申し訳ございません」

 恭しく頭を下げながら、立ち上がる。

「貴方は……」とその整った眉がかすかに歪む。
「どうかされましたか?」
「いえ……珍しい髪の色。それに瞳も真っ黒だと思って」
「これは……」

 思わず言葉が詰まった自分の迂闊さに、腹が立つ。

「よく言われます」

 動揺を悟られぬように、ミルフィの真似をして愛想笑いをしてみる。果たして上手くいったのかどうかは分からない。

 彼女の言う通り、自分と同じ黒髪黒目の人間は、未だ、この世界に来てから見たことがない。つまり、それだけで自分は異質に見えるということだ。

 彼女の質素さと、優雅さを兼ね備えた容姿とは違って、その足で跨っている白馬は派手な装飾が各所に散りばめられており、多少視覚的にうるさかった。

 馬を燐子に寄せて、少しだけ体を屈めた彼女は、燐子の黒の瞳を珍しげにじっと眺めた。

 後ろで従者らしき女性が低い声でその行動を諌めるが、王女は「少しだけだから」と振り返った。

 王女はそのまま人好きのする柔らかい笑顔を浮かべて、燐子の前に降り立った。

「いけません!セレーネ様」と従者が彼女の――セレーネと呼ばれた王女の少し後方から鋭く声をかける。「得体の知れない女と並ぶなどと……」

 得体が知れなくて悪かったな、と普段なら相手の無礼さに憤るところだったのであろうが、今の燐子にはそれだけの余裕は無かった。

 可憐な少女だと思ったのだが、いざ面と向かって並んでみると、無駄な肉がなく、思いのほか毅然とした印象を受ける。

 慌てた様子で自分の袖を引くミルフィを無視して、じっと相手の瞳を覗き込む。

(まるで、灰のようだ)

 燐子は、セレーネの瞳を見て、そう思った。

 こんなにも美しい灰を、未だかつて自分は見たことがない。

 屍の後に残る遺灰も、

 暮らしの全てを焼き尽くして天に昇る灰も、

 戦場で血飛沫とともに舞う灰も、

 このような静寂や、穏やかな美しさは持ち得なかった。

 セレーネ王女は、臆する様子もなく燐子の瞳を真っすぐに覗き返す。

 互いの瞳の底に眠る深淵を見つめ合った彼女らは、しばらくの間黙っていたのだが、忘れ物を思い出したかのように自然とセレーネのほうから口を開いた。

「不思議な方」ぽつりと呟き、陽光を反射するまつ毛を動かす。「まるで、夜空のよう」
「どういう、意味でしょうか」
「真っ暗で、でも優しい。そして――」
「そして?」何かを期待するように、セレーネの言葉を繰り返す、
「落ちてきたみたいに寂しい。星が、ね」

 その甘い声を聞いた途端、全身がぞわりと鳥肌を立てたのがはっきりと分かった。

 そして、直感的にそれがなぜなのかも、燐子には分かっていた。

 セレーネには、説明しようのない不思議な魔力がある。

 自分のように、何かのために死にたいと願って止まない人間を従わせる、途方も無い何かが。

 これが、本来国を治める資格を持つ者たちの素質なのかもしれない。

 ぐいっ、とミルフィに腕を引かれ、燐子は自分たちが急いでいることを思い出した。

 さっと頭を下げ、無感情な声音で言う。

「せっかくお声掛け頂いたのに恐縮ですが、もう戻らなければなりません」
「あの、この町に住まわれているのですか?」
「いいえ」
「ならば、首都のほうですか?」
「いいえ」
「それでは、どこへ戻られるのでしょうか?」

 その問いに、少し考える素振りをする。

 ――…そんなことは、私のほうが知りたい。

「帰る場所などありません」

 そう寂しそうに笑う燐子は、何か言いかけているセレーネに一礼して背を向ける。

「それでは、失礼します」

 馬に乗ったままの従者が、大声で燐子の態度を咎めるも、その行動を逆に王女に叱責されて不服そうに押し黙った。

 不用意な発言を繰り返す燐子に、文句を言いたいような、しかし、慰めたいような、そんな複雑な表情を浮かべていたミルフィは、燐子の着ている白いシャツの背に刻まれた皺に向けて、「急ぐわよ」とだけこぼした。

 それに対して燐子も何の反対もせずに、町の東側へと足を向ける。

「待ってください!」

 燐子の背中にセレーネが呼び声を投げる。

 すると、先にミルフィが立ち止まって、聞こえぬふりをして先に進もうとする燐子の腕を掴んで制止した。

「なんだ」
「なんだ、じゃないわよ。さすがに無視はまずいって」
「……そうか」

 ミルフィの忠告に従い、仕方がなく振り返った。

「お名前を、お聞きしてもよろしいでしょうか?」

 セレーネの後方で待つ従者は、自分の主君に忠言を伝えるのを諦め、呆れ果てたようにため息を吐くだけになっている。

 燐子はその問いに答えるべきか否か迷っていたのだが、ミルフィが、「名前で気取られるかも」と告げたことで、やめておくか、と頷く。

 とはいえ、セレーネの真剣な面持ちを前にして、適当な嘘を吐く気にもなれなかった。

「名乗るほどの者ではありません」

 我ながら、気が利かない言葉だと、内心で燐子は笑った。
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