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三章 光、駆ける
光、駆ける.4
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「こ、こんなに揺れるの!?」
自分の後ろに乗ったミルフィが叫ぶ声が、風を切る音に混じって燐子の耳に聞こえてくる。
「あぁ、だから言っただろう。しがみついておけと」
「嫌よ!アンタにしがみつくなんて、絶対に嫌!」
駆け出す前に、振り落とされると危ないから背中にしがみついておけと命じたのに、道理の通らない意地を張って、ミルフィは鞍に両手で掴まっている。
普段なら、小言の一つも言いたくなるミルフィの態度であったが、今はそんな気分にはならなかった。
随分と久しぶりに、馬で大地を駆けている。
彼らは、人間では到底及びもしない速度で、この世界を巡る風に追いつこうと駆けていくのだ。
こうして馬の背に跨り、風を感じていれば、あの頃も、嫌なことは一切合切忘れることができていた。
思わず上機嫌になって、燐子は背後を振り返る。
「風が気持ちいいな、ミルフィ」
ミルフィはきょとんとした表情でこちらを見つめた後、優しくも、呆れに満ちた笑みを刻んで燐子の目を見据えた。
「ええ、ちょっと揺れるのが怖いけど」
「それがいいのだ。……今は、何もかも忘れられる」
「忘れるのはいいけど、気は抜かないでよ、燐子」
ミルフィがそう言った瞬間に、二人の姿を幾重にも広がる濃い影が覆った。
例の道に入ったのだ。
生い茂る木々が頭上に広がり、やけに冷たい湿気を帯びた空気が、泥の隙間からあふれ出してきている。
燐子は細心の注意を払いながら、段差やぬかるみを避けて、奥へ奥へと巧みな馬術で駆けていく。
結局、元来た道を引き返すよりも、湿地の出口側から抜けて、逆側から例の林道に入っていくほうが確実に早いという話になって、燐子たちはそれに従った。
どこまで戻る必要があるのかは分からないが、商人たちの話が本当なら、分かれ道まで戻る前に馬車の残骸くらいは見つかるだろうと、燐子は予測していた。
記憶の底をさらうのは、ここまでだ。
足場が悪くなるにつれて、馬上の揺れも激しくなっていく。
ついに耐えられなくなったのか、ミルフィもようやく素直に燐子の腰に手を回して、辺りの様子を窺い始めた。
どれだけ目を凝らしても、広がる限りの泥の森。
その粘着質な重みに塞がれるかのように、二人の間から会話がなくなっていた。
もう三十分も駆けているだろうか、というところで、事態に動きがあった。
「見て、燐子!」
「ああ」
数十メートル先の光景に焦点を合わせ、渋い顔をしてみせる。
眼前に近づきつつある一つの残骸。
車輪も馬もいなくなってしまった、馬車とは呼びようのないそれを凝視し、ゆっくりと馬の速度を緩める。
「……やはり、間に合わなかったか」
馬が横たわっていただろう溝には、夥しいほどの鮮血がこぼれ、泥に混じっていた。
思わず、身震いをする。
(馬を跡形もなく食ったのか?なんという……)
周辺に人の姿はない。
ミルフィが辺りを警戒しながら地面に降りた。血溜まりに顔をしかめつつも、彼女はそろりと馬車の残骸に近づき、中の様子を確認した。
「気をつけろ」
「分かってるわ」
それからすぐに彼女が残骸の裏から顔を出し、悲壮感にあふれた顔で首を左右に振った。
「誰もいないわ……」
情けのない声で、「やっぱり、もう……」とぼやいたミルフィを馬上から見下ろした燐子は、もう一度周囲の確認をすると、地面に鮮やかに降り立ち、馬をなだめながら自分も残骸の周りを観察した。
やはり、何かが暴れたようだ。木製の馬車は歪み、金具も吹き飛んでいる。
泥についた足跡や爪痕などの痕跡も、その持ち主の大きさを物語っており、燐子はごくりと無意識のうちに喉を鳴らした。
(本当にこのような巨躯を持つ生物が存在しているのか……?万が一、こんなものに襲われれば、人間などひとたまりもないぞ……)
もはや、生存は絶望的、せめて遺品の一つでも持って返ってやるのが、せめてもの情けかと思い、再び捜索を始めた燐子だったが、そこであることに気がついた。
人間のものらしき血痕がない。
それに襲われたのであれば、服の残骸なんかも残るはずだ。
「燐子」
考え事をしていた彼女は、名前を呼ばれてすぐに声のしたほうへと移動した。
「これ見て」
ミルフィが地面に向けた指先を追うと、そこには、明らかに巨体が通っただろう獣道ができあがっていた。
泥と木々を押しのけ、へし折り、進んだ痕跡だ。
「まだ、間に合うかもしれんな」
「早く行きましょう!」
燐子は馬の鼻面を撫でて、危険なときは逃げるように優しく囁いたあと、ミルフィとその道の奥へと進むことに決めた。
「油断するなよ」
「そっちこそ」
お互いに全神経を集中させつつ、忍び足で奥へと進んでいく。
先へ行けば行くほどぬかるみは酷くなり、天井に広がる木々もその密度を増して、夕方のような闇を辺りに充満させている。
(……死地の匂いがする)
燐子は、自然と察していた。
それを悟ると同時に心臓の鼓動が激しくなり、彼女の五感を獣じみた高さまで研ぎ澄ましていく。
かすかに漂ってくる、様々な生き物の気配。
光の濃淡が生み出す死角。
つい最近まで、自分が身をおいていた戦場とはまた趣が違うが、ここもきっと似たようなものだ。
ぺろり、と舌なめずりする。
気が急いていることが自分でも分かった。
獣道らしきものが途絶えれば、大きな木が立つ、少しだけ開けた場所に出る。
ここで終わりなのか、と不審に思って燐子ははたと足を止める。
周囲を見渡していたミルフィに無言で目配せをして、警戒を怠らないように伝える。
(奇妙だ。確かに生き物らしきものの痕跡はここまで続いていたはずだが……)
人が死んだような痕跡も見当たらない。
上手く逃げたのか?
いや、そんなはずはない。道中、人に会わなかったし、すぐさま逃げ帰っていたのだとしたら、すでにキャンプ場に到着しているはずだ。
ふと、燐子の視界に妙なものが映った。
それは、とても鮮やかな色をしていたため、彼女の注意を引いた。
泥の少ない地面に膝をついて、それを手に取る。
「人形か?」
不意に、頭上に何者かの気配を感じ取って反射的に顔を上げる。
「あ」と小さく声が漏れたのが聞こえた。
不自然に動きを止めた燐子の視線を素早く追ったミルフィが、ぱぁっと明るい顔つきをして大声を出す。
「良かった、無事だったのね!」
自分の後ろに乗ったミルフィが叫ぶ声が、風を切る音に混じって燐子の耳に聞こえてくる。
「あぁ、だから言っただろう。しがみついておけと」
「嫌よ!アンタにしがみつくなんて、絶対に嫌!」
駆け出す前に、振り落とされると危ないから背中にしがみついておけと命じたのに、道理の通らない意地を張って、ミルフィは鞍に両手で掴まっている。
普段なら、小言の一つも言いたくなるミルフィの態度であったが、今はそんな気分にはならなかった。
随分と久しぶりに、馬で大地を駆けている。
彼らは、人間では到底及びもしない速度で、この世界を巡る風に追いつこうと駆けていくのだ。
こうして馬の背に跨り、風を感じていれば、あの頃も、嫌なことは一切合切忘れることができていた。
思わず上機嫌になって、燐子は背後を振り返る。
「風が気持ちいいな、ミルフィ」
ミルフィはきょとんとした表情でこちらを見つめた後、優しくも、呆れに満ちた笑みを刻んで燐子の目を見据えた。
「ええ、ちょっと揺れるのが怖いけど」
「それがいいのだ。……今は、何もかも忘れられる」
「忘れるのはいいけど、気は抜かないでよ、燐子」
ミルフィがそう言った瞬間に、二人の姿を幾重にも広がる濃い影が覆った。
例の道に入ったのだ。
生い茂る木々が頭上に広がり、やけに冷たい湿気を帯びた空気が、泥の隙間からあふれ出してきている。
燐子は細心の注意を払いながら、段差やぬかるみを避けて、奥へ奥へと巧みな馬術で駆けていく。
結局、元来た道を引き返すよりも、湿地の出口側から抜けて、逆側から例の林道に入っていくほうが確実に早いという話になって、燐子たちはそれに従った。
どこまで戻る必要があるのかは分からないが、商人たちの話が本当なら、分かれ道まで戻る前に馬車の残骸くらいは見つかるだろうと、燐子は予測していた。
記憶の底をさらうのは、ここまでだ。
足場が悪くなるにつれて、馬上の揺れも激しくなっていく。
ついに耐えられなくなったのか、ミルフィもようやく素直に燐子の腰に手を回して、辺りの様子を窺い始めた。
どれだけ目を凝らしても、広がる限りの泥の森。
その粘着質な重みに塞がれるかのように、二人の間から会話がなくなっていた。
もう三十分も駆けているだろうか、というところで、事態に動きがあった。
「見て、燐子!」
「ああ」
数十メートル先の光景に焦点を合わせ、渋い顔をしてみせる。
眼前に近づきつつある一つの残骸。
車輪も馬もいなくなってしまった、馬車とは呼びようのないそれを凝視し、ゆっくりと馬の速度を緩める。
「……やはり、間に合わなかったか」
馬が横たわっていただろう溝には、夥しいほどの鮮血がこぼれ、泥に混じっていた。
思わず、身震いをする。
(馬を跡形もなく食ったのか?なんという……)
周辺に人の姿はない。
ミルフィが辺りを警戒しながら地面に降りた。血溜まりに顔をしかめつつも、彼女はそろりと馬車の残骸に近づき、中の様子を確認した。
「気をつけろ」
「分かってるわ」
それからすぐに彼女が残骸の裏から顔を出し、悲壮感にあふれた顔で首を左右に振った。
「誰もいないわ……」
情けのない声で、「やっぱり、もう……」とぼやいたミルフィを馬上から見下ろした燐子は、もう一度周囲の確認をすると、地面に鮮やかに降り立ち、馬をなだめながら自分も残骸の周りを観察した。
やはり、何かが暴れたようだ。木製の馬車は歪み、金具も吹き飛んでいる。
泥についた足跡や爪痕などの痕跡も、その持ち主の大きさを物語っており、燐子はごくりと無意識のうちに喉を鳴らした。
(本当にこのような巨躯を持つ生物が存在しているのか……?万が一、こんなものに襲われれば、人間などひとたまりもないぞ……)
もはや、生存は絶望的、せめて遺品の一つでも持って返ってやるのが、せめてもの情けかと思い、再び捜索を始めた燐子だったが、そこであることに気がついた。
人間のものらしき血痕がない。
それに襲われたのであれば、服の残骸なんかも残るはずだ。
「燐子」
考え事をしていた彼女は、名前を呼ばれてすぐに声のしたほうへと移動した。
「これ見て」
ミルフィが地面に向けた指先を追うと、そこには、明らかに巨体が通っただろう獣道ができあがっていた。
泥と木々を押しのけ、へし折り、進んだ痕跡だ。
「まだ、間に合うかもしれんな」
「早く行きましょう!」
燐子は馬の鼻面を撫でて、危険なときは逃げるように優しく囁いたあと、ミルフィとその道の奥へと進むことに決めた。
「油断するなよ」
「そっちこそ」
お互いに全神経を集中させつつ、忍び足で奥へと進んでいく。
先へ行けば行くほどぬかるみは酷くなり、天井に広がる木々もその密度を増して、夕方のような闇を辺りに充満させている。
(……死地の匂いがする)
燐子は、自然と察していた。
それを悟ると同時に心臓の鼓動が激しくなり、彼女の五感を獣じみた高さまで研ぎ澄ましていく。
かすかに漂ってくる、様々な生き物の気配。
光の濃淡が生み出す死角。
つい最近まで、自分が身をおいていた戦場とはまた趣が違うが、ここもきっと似たようなものだ。
ぺろり、と舌なめずりする。
気が急いていることが自分でも分かった。
獣道らしきものが途絶えれば、大きな木が立つ、少しだけ開けた場所に出る。
ここで終わりなのか、と不審に思って燐子ははたと足を止める。
周囲を見渡していたミルフィに無言で目配せをして、警戒を怠らないように伝える。
(奇妙だ。確かに生き物らしきものの痕跡はここまで続いていたはずだが……)
人が死んだような痕跡も見当たらない。
上手く逃げたのか?
いや、そんなはずはない。道中、人に会わなかったし、すぐさま逃げ帰っていたのだとしたら、すでにキャンプ場に到着しているはずだ。
ふと、燐子の視界に妙なものが映った。
それは、とても鮮やかな色をしていたため、彼女の注意を引いた。
泥の少ない地面に膝をついて、それを手に取る。
「人形か?」
不意に、頭上に何者かの気配を感じ取って反射的に顔を上げる。
「あ」と小さく声が漏れたのが聞こえた。
不自然に動きを止めた燐子の視線を素早く追ったミルフィが、ぱぁっと明るい顔つきをして大声を出す。
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