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二章 切腹の意味
切腹の意味.5
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獣が荒らした残骸の片付けを終えた村人たちは、即座に獣の解体に取り掛かった。
そうして生きてきたことが容易く想像できるほどに見事な手さばきで、中でもミルフィの手際は目を見張るものがあった。
獣をあっという間に皮と骨と肉と、臓器とに分解したため、もうそれが元々どんな姿だったかを思い出すのも苦労するほどだ。
ミルフィが一匹さばき終わる間に、他の村人たちは何人がかりかでようやく半身という有様であったのだが、全くそういった経験のない燐子にとっては、どちらが一般的な基準なのかも分からなかった。
しかし、それに対して燐子が特別興味を引かれることはなく、ただミルフィの技術に頭の中で称賛を唱えただけに留めた。
燐子は別に、動かなくなった獲物に興味などなかったのである。
(それにしても、良い匂いだ)
パンとはまた違った、肉が焼ける香ばしい香りが調理場に充満している。
その匂いにつられ、全身の臓器が活性化していくのをありありと感じる。
燐子は、ミルフィが料理しているのを横からじっと見ていた。
「ちょっと、そんなところに突っ立てられると集中できないんだけど」
「別に構わんだろう」
「構うわよ」
エプロンに身を包んだミルフィは、「邪魔」と付け足してから、再び調理に意識を戻した。
燃え上がる竈の火を不服そうに睨んだ燐子は、ミルフィに小言を重ねられる前にリビングへと戻った。
すっ、と音もなく、燐子は椅子に腰を下ろす。それから、自分の襟元に手を伸ばして煩わしそうにボタンをいじった。
獣を葬った後、返り血で染まった全身を洗い流すために、燐子は素っ裸になって川へ入ろうとした。だが、すぐにミルフィに止められて、渋々家の裏手で彼女が風呂を沸かすのを待ってから、その身を洗った。
心地よい疲労感と共にそれを流した燐子は、風呂の文化がこの世界にもあったことに跪いて感謝したい気分を味わいつつ、脱衣所に向かったのだが……。
燐子はもう一度自分が着ている服を観察して、わざとらしくため息を吐いた。
「つくづく不思議に思うが、異界の人間はこんな息苦しい服装に身を包み平気なのか?」
白いシャツの下に、薄い肌着。さらに黒のズボンを身に着けた燐子は、シャツの一番上のボタンを千切るように外して、口をへの字にする。
「はぁ?なに、文句?しょうがないじゃない、アンタが元々着てた服は、ちょっと洗ったら破れたんだから」
「破った、の間違いだろう」とミルフィを睨みつける。「それにな、私は燐子だ。アンタではない。何度言えば分かるのだ」
ミルフィはそれを聞くと、困ったように視線を泳がせてから適当な相槌を打った。
「あぁ、はいはい……。で、それ、動きやすくていいでしょ」
「いいものか。やたらと窮屈で、サラシのような頑強さもない」
「馬鹿ね。頑強さなんて服にいらないでしょ。それに何よ、サラシって」
「これだから異世界人は……」
鼻を鳴らして、自分たちの縮尺ばかりを押し付けてくるミルフィを浅ましく思った燐子は、唐突にシャツと肌着をまくり上げてから、「これがサラシだ、馬鹿者」と言い放った。
ミルフィは、そんな真似をする燐子を見ると顔を赤らめて、「ちょっと、恥を知りなさいよ!」と怒鳴りつけた。
すると、『恥』という言葉に敏感に反応した燐子が苛烈な剣幕で反論する。
「恥?恥だと、これのどこが恥だ!由緒正しい戦装束だぞ!」
立ち上がる際に叩かれたテーブルの天板が、痛々しく悲鳴を上げる。
やけに興奮した様相で詰め寄って来る燐子に、両手を構えて拒絶の意思を示すミルフィだったが、彼女の熱弁は留まることを知らない。
「こうして何重にも巻くだけで、刃を通さず、急所を守ってくれる防具になる。そのうえ、鎧などの何十倍も軽い、これがどれだけ私にとっての生命線になるか分かるか?」
「知らない、知らない、近いって!お肉が焦げちゃうでしょ、どきなさいよっ!」
「どうして分からないのだ!男に比べて力のない私たちは、他のもので補うしかないのだ。敏捷性、指先の繊細さ、体格の細さを利用した身躱しの技術、それらを十分に発揮するための軽装――」
ほんの少しだけ高い目線から、乱射されるように降り注いだ言葉にミルフィは顔を引きつらせる。さらに、燐子が言葉を区切り、自分のほうをじっと見つめていたことに嫌な予感を覚えた。
「な、何よ……?」
竈にくべていた薪が、バチッ、と一際大きな音を鳴らし弾ける。それを糧にして煌々と燃え続ける炎が、鉄板を通し、小気味の良い音を立ててハイウルフの肉を焼いていた。
つい数分前までは、その匂いと物珍しさに興味を引かれていた燐子も、今では自国の文化の良さを教え聞かすのに夢中だった。
「そうだ、ミルフィにもサラシを巻いてやろう」
「はぁ!?よ、余計なお世話よ!」
ミルフィは断固拒否の態度を貫いて、燐子が自分の衣類に手を伸ばすのを抑えていたのだが、やたらと必死で強引な燐子に耐えかねて、とうとう足を使って蹴飛ばしてしまう。
「ぐっ!」
燐子は小さく声を上げながら受け身をとって、「人を足蹴にするとは何事か」と口を尖らせて抗議したが、真っ赤になってこちらを睨みつけるミルフィに言葉を失った。
「変態っ!ふ、服を脱がそうとするなんて、ありえないでしょうがっ!」
明らかに怒り心頭といった表情のミルフィ。これ以上、何か文句を言えば、火に油を注ぐことは明白だ。
「あ、いや……すまん」
ミルフィの剣幕に押された燐子は大人しく椅子に戻り、睨みつけてくる彼女からそっと視線を外した。
戦いに関しては、あくまで『狩人止まり』といった感じのミルフィだが、単純な力だけは自分よりも格段に上のようだ。しかも、気が短い。あまり刺激すべきでないと感じたときは、放っておいたほうが得策そうだ。彼女の衝動性も相まって、何をされるか分かったものではない。
「もぅ、アンタなんか、借りがなければ即刻家から追い出してやるのに……」
ようやく落ち着いたらしいミルフィは、愚痴を漏らしながら料理に戻った。しかし、鉄板にこびり付いた肉を見て、また苛立ったように舌打ちをする。
「燐子が馬鹿なことするから、せっかくのお肉が焦げちゃったじゃない」
「私のせいにするな」
責めの言葉に多少の不満を覚えるも、燐子にとっても、肉が焦げてしまったことは残念ではあった。
「アンタのせいよ、馬鹿燐子」
「ば、馬鹿燐子だと……!?」
侮蔑の言葉に、燐子は目くじらを立てて相手を睨みつけた。しかし、すぐにミルフィから睨み返されて言葉を詰まらせる。
「台所では、私に文句は言わせないから。特に、料理もしない人間には」
「ぐっ……」
途轍もなく気の強い女だ、と燐子は再び料理を始めたミルフィの背中を見つめた。
自分よりほんの少しだけ低い身長。あんな力がどこに宿っているのか不思議に思える、少し日に焼けた細腕。そして、かつての世界では全く見慣れない、濃い赤髪を結った三編み。
口と態度は最悪だが、器量もそこそこ良く、家庭的な女ではある。
(由緒ある家に生まれていれば、それ相応の大家に嫁いだのかも知れんな……)
下らない妄想を膨らませた燐子は、エミリオがドリトンを連れてリビングに来るまで、彼女の後ろ姿を飽きること無く見つめていた。
食事場に入ってきたエミリオは、燐子と一言、二言交わすと急いで姉の元へと駆け寄り、今日の夕飯である肉料理に釘付けになっていた。しかし、昼間の件で反省の色が一向に見られない彼は、頭頂部に拳骨を食らう。
馬車に踏まれたヒキガエルのような悲鳴を上げたエミリオは、実の姉にあらん限りの文句をお見舞いするも、二発目の制裁を受けて完全に沈黙する。
そんな二人の姿を微笑ましく眺めていたドリトンに、燐子は、「そういえば、あの騒ぎの間どこにおられたのですか?」と尋ねた。
「申し訳ありません。ちょうど、隣町に用事があって出かけていたのです」
「隣町?」と燐子が問う。
聞くと、この蜘蛛の巣のように伸びた川沿いの果てに大きな湖があって、そこにここよりも大きな町があるとのことだった。
「……町、か」
ここより栄えた場所となれば、色々とこの世界のことについて分かるのではないか。
もしかすれば、自分の心だって定まるかもしれない。
「お祖父ちゃん、また駐屯所に行ったの?」
「うむ……」
「無駄よ、あんな奴らに何言ったってさ」
ただでさえ険しい顔つきをしていたミルフィが、その話を始めた途端、一段と不愉快そうに眉間に皺を寄せた。
燐子はそれよりも隣町に関しての話をもっと聞きたかったのだが、会話の中心はすぐにその駐屯地の兵に関するものへと変わっていった。
「あいつらは、辺境のちっぽけな村になんて興味ないのよ」
「まあまあ、ミルフィ。そう邪険にするものじゃない。彼らの全てが我々を軽んじているわけではないのだから」
「ふん、どうかな。少なくともアズールの連中は、この村が滅んでも構わないと思ってるんじゃない?」
「ミルフィ、よしなさい」
度が過ぎた発言だと判断したのか、ドリトンが彼女を優しく咎める。
ミルフィが不服そうに次なる言葉を探していると、二人の会話に燐子が横槍を入れる形で口を挟んだ。
「話の腰を折って申し訳ないが、あの獣はよく村に下りて来るのか」
「いいえ、普段は森の中で大人しくしているのですが……」
そこでドリトンは言葉を区切ると、言いにくそうに燐子の目を覗いた。それによって燐子は彼の言いたいことを察し、「ああ、私が同胞を斬ったからか」、と呟いた。ドリトンも、苦笑いを浮かべながらかすかに頷く。
すると、獣の肉を豪快に焼いた料理を机の上に、ドンッ、と置いたミルフィが、鼻を鳴らしてドリトンの言葉に異を唱えた。
「違うでしょ。迷惑なお隣さんが、あいつらの住む森を焼いてまわってるのが、そもそもの原因よ」
胃袋を刺激するいい香りを吸い込みながら、燐子が首を捻る。
「隣人が森を焼いているのか?なぜ罰しない」
「さあ?違う問題で大喧嘩中だから、それどころじゃないんでしょうよ」
燐子が、人数分の皿を食卓に並べ終えて席に着いたミルフィに説明を求めようとしていると、代わりにエミリオが言葉を付け足した。
「お姉ちゃん、それじゃあ燐子さんには分からないよ」
ミルフィは弟の言葉を無視して、先にナイフで肉を切り始める。後から聞いたのだが、『ステーキ』と呼ぶ料理らしい。
今までも何度か肉料理が出たことはあったが、このような豪快なものは初めてである。
ふっ、と燐子は口元を歪めた。
日を追うごとに激増していく異世界言語の語彙が、燐子にはどことなくむず痒いような、馬鹿馬鹿しいようなものに感じられた。
皿の上で、未だに熱を持って肉汁を迸らせているステーキに、形の不揃いな箸で手をつける。
こちらに来て悲嘆に暮れていた頃、エミリオがせっせと手作りしてくれた一点ものである。
使いづらいが、気遣いの込められた価値ある作品であることは言うまでもない。
ほんの数秒間だけ思い出に浸っていた燐子は、気を取り直して、ステーキの解体に取り掛かった。だが、どうにも上手く切ることができず、結局は箸で摘まみ上げて噛み千切ることにした。
(最初の頃は、あんな獣の肉を食べるなど、野蛮人でもあるまいし……と正気を疑っていたものだが……これが一度
食べてみると、なかなかどうしてやみつきになるな)
重厚な歯ごたえ、あふれる肉汁、そして胃に入れた後に湧き出て来る、この不可思議な活力……。
燐子が、牛や馬も、焼いてみたらこのような味がしたのだろうか、と不謹慎なことを考えてしまったとしても無理はない。
喉元に滴る肉汁には気にも留めず、それこそ獣じみた動作で肉に食らいついていた燐子を見て、エミリオが大きな声で笑い声を上げる。
明らかに馬鹿にされたのが分かったので、彼女はエミリオを無言で睨みつけたのだが、そんな態度もお気に召したようで、少年はより大きな声で笑った。
「あぁ、ああもう、そのシャツだって私のなんだからね。全く、汚れちゃうじゃない」
そう言ってハンカチ片手に身を乗り出したミルフィは、燐子の喉をつたう肉汁を拭き取った。
それから、「こういうときくらいナイフを使いなさいよ」と愚痴をこぼしながらも、燐子の皿の上に乗ったステーキを自分のナイフで切り分け始める。
そして、自然な手つきで、等分に切ったステーキの一片をフォークで刺し、燐子の口元に運ぼうとする。
「口、開けなさいよ」
「こ、子ども扱いはよせ」
「そんなんじゃないわよ。私のシャツが汚れるのが、気に入らないの」
「いや、しかしだな……」
「いいから!意地なんて張ってないで、さっさと口を開けなさい!」
恥ずかしさに顔が熱くなった燐子だが、ミルフィの押しつけがましい目線と言葉に負けて口を開き、その肉片を頬張った。
噛む度にあふれ出る肉汁に、舌が小躍りしながら喜んでいるのが分かる。
その弾力のある触感と、極上の旨味を堪能すべく無言で咀嚼していた燐子へ、ミルフィが彼女らしくもない朗らかな笑みで、「どう?」と尋ねた。
「ああ、美味い」少なからず驚きを感じたが、素直にそう答える。「そう、良かったわ」
先ほどと同じ種類の笑みを向けるミルフィに、燐子はふっと口元を綻ばせる。
「いつもそんな顔をしていろ」
「は、はあ?どういう意味よ」
「そうしていれば、多少は愛嬌があるように見える」
ミルフィは一瞬、面食らったような表情をした。だが、すぐにつっけんどんな顔に戻ると、「別に要らないわよ、愛嬌なんて」と返して自分の座席に腰を下ろした。
やはり、エミリオのような可愛げがない、と内心で呟きながら、二人のやり取りを嬉しそうに見つめていたエミリオに顔を向ける。
「で、どういう意味なのだ」
「え?」とエミリオが目を丸くする。
「森を焼く者がいると。このような山村では森は宝であろう。そのような行為をなぜ許す?」
森が燃えれば、植物や木の実が取れなくなる。そうなれば、それを食料にしていた草食動物が消え、さらにそれを餌にしていた肉食動物も消える。
農民や猟師にとって、それはあまりに致命的だ。
「それは――」と何かを口にしかけたドリトンの言葉を遮って、突然忌々しげにエミリオが吐き捨てた。
「帝国のせいだよ」
そうして生きてきたことが容易く想像できるほどに見事な手さばきで、中でもミルフィの手際は目を見張るものがあった。
獣をあっという間に皮と骨と肉と、臓器とに分解したため、もうそれが元々どんな姿だったかを思い出すのも苦労するほどだ。
ミルフィが一匹さばき終わる間に、他の村人たちは何人がかりかでようやく半身という有様であったのだが、全くそういった経験のない燐子にとっては、どちらが一般的な基準なのかも分からなかった。
しかし、それに対して燐子が特別興味を引かれることはなく、ただミルフィの技術に頭の中で称賛を唱えただけに留めた。
燐子は別に、動かなくなった獲物に興味などなかったのである。
(それにしても、良い匂いだ)
パンとはまた違った、肉が焼ける香ばしい香りが調理場に充満している。
その匂いにつられ、全身の臓器が活性化していくのをありありと感じる。
燐子は、ミルフィが料理しているのを横からじっと見ていた。
「ちょっと、そんなところに突っ立てられると集中できないんだけど」
「別に構わんだろう」
「構うわよ」
エプロンに身を包んだミルフィは、「邪魔」と付け足してから、再び調理に意識を戻した。
燃え上がる竈の火を不服そうに睨んだ燐子は、ミルフィに小言を重ねられる前にリビングへと戻った。
すっ、と音もなく、燐子は椅子に腰を下ろす。それから、自分の襟元に手を伸ばして煩わしそうにボタンをいじった。
獣を葬った後、返り血で染まった全身を洗い流すために、燐子は素っ裸になって川へ入ろうとした。だが、すぐにミルフィに止められて、渋々家の裏手で彼女が風呂を沸かすのを待ってから、その身を洗った。
心地よい疲労感と共にそれを流した燐子は、風呂の文化がこの世界にもあったことに跪いて感謝したい気分を味わいつつ、脱衣所に向かったのだが……。
燐子はもう一度自分が着ている服を観察して、わざとらしくため息を吐いた。
「つくづく不思議に思うが、異界の人間はこんな息苦しい服装に身を包み平気なのか?」
白いシャツの下に、薄い肌着。さらに黒のズボンを身に着けた燐子は、シャツの一番上のボタンを千切るように外して、口をへの字にする。
「はぁ?なに、文句?しょうがないじゃない、アンタが元々着てた服は、ちょっと洗ったら破れたんだから」
「破った、の間違いだろう」とミルフィを睨みつける。「それにな、私は燐子だ。アンタではない。何度言えば分かるのだ」
ミルフィはそれを聞くと、困ったように視線を泳がせてから適当な相槌を打った。
「あぁ、はいはい……。で、それ、動きやすくていいでしょ」
「いいものか。やたらと窮屈で、サラシのような頑強さもない」
「馬鹿ね。頑強さなんて服にいらないでしょ。それに何よ、サラシって」
「これだから異世界人は……」
鼻を鳴らして、自分たちの縮尺ばかりを押し付けてくるミルフィを浅ましく思った燐子は、唐突にシャツと肌着をまくり上げてから、「これがサラシだ、馬鹿者」と言い放った。
ミルフィは、そんな真似をする燐子を見ると顔を赤らめて、「ちょっと、恥を知りなさいよ!」と怒鳴りつけた。
すると、『恥』という言葉に敏感に反応した燐子が苛烈な剣幕で反論する。
「恥?恥だと、これのどこが恥だ!由緒正しい戦装束だぞ!」
立ち上がる際に叩かれたテーブルの天板が、痛々しく悲鳴を上げる。
やけに興奮した様相で詰め寄って来る燐子に、両手を構えて拒絶の意思を示すミルフィだったが、彼女の熱弁は留まることを知らない。
「こうして何重にも巻くだけで、刃を通さず、急所を守ってくれる防具になる。そのうえ、鎧などの何十倍も軽い、これがどれだけ私にとっての生命線になるか分かるか?」
「知らない、知らない、近いって!お肉が焦げちゃうでしょ、どきなさいよっ!」
「どうして分からないのだ!男に比べて力のない私たちは、他のもので補うしかないのだ。敏捷性、指先の繊細さ、体格の細さを利用した身躱しの技術、それらを十分に発揮するための軽装――」
ほんの少しだけ高い目線から、乱射されるように降り注いだ言葉にミルフィは顔を引きつらせる。さらに、燐子が言葉を区切り、自分のほうをじっと見つめていたことに嫌な予感を覚えた。
「な、何よ……?」
竈にくべていた薪が、バチッ、と一際大きな音を鳴らし弾ける。それを糧にして煌々と燃え続ける炎が、鉄板を通し、小気味の良い音を立ててハイウルフの肉を焼いていた。
つい数分前までは、その匂いと物珍しさに興味を引かれていた燐子も、今では自国の文化の良さを教え聞かすのに夢中だった。
「そうだ、ミルフィにもサラシを巻いてやろう」
「はぁ!?よ、余計なお世話よ!」
ミルフィは断固拒否の態度を貫いて、燐子が自分の衣類に手を伸ばすのを抑えていたのだが、やたらと必死で強引な燐子に耐えかねて、とうとう足を使って蹴飛ばしてしまう。
「ぐっ!」
燐子は小さく声を上げながら受け身をとって、「人を足蹴にするとは何事か」と口を尖らせて抗議したが、真っ赤になってこちらを睨みつけるミルフィに言葉を失った。
「変態っ!ふ、服を脱がそうとするなんて、ありえないでしょうがっ!」
明らかに怒り心頭といった表情のミルフィ。これ以上、何か文句を言えば、火に油を注ぐことは明白だ。
「あ、いや……すまん」
ミルフィの剣幕に押された燐子は大人しく椅子に戻り、睨みつけてくる彼女からそっと視線を外した。
戦いに関しては、あくまで『狩人止まり』といった感じのミルフィだが、単純な力だけは自分よりも格段に上のようだ。しかも、気が短い。あまり刺激すべきでないと感じたときは、放っておいたほうが得策そうだ。彼女の衝動性も相まって、何をされるか分かったものではない。
「もぅ、アンタなんか、借りがなければ即刻家から追い出してやるのに……」
ようやく落ち着いたらしいミルフィは、愚痴を漏らしながら料理に戻った。しかし、鉄板にこびり付いた肉を見て、また苛立ったように舌打ちをする。
「燐子が馬鹿なことするから、せっかくのお肉が焦げちゃったじゃない」
「私のせいにするな」
責めの言葉に多少の不満を覚えるも、燐子にとっても、肉が焦げてしまったことは残念ではあった。
「アンタのせいよ、馬鹿燐子」
「ば、馬鹿燐子だと……!?」
侮蔑の言葉に、燐子は目くじらを立てて相手を睨みつけた。しかし、すぐにミルフィから睨み返されて言葉を詰まらせる。
「台所では、私に文句は言わせないから。特に、料理もしない人間には」
「ぐっ……」
途轍もなく気の強い女だ、と燐子は再び料理を始めたミルフィの背中を見つめた。
自分よりほんの少しだけ低い身長。あんな力がどこに宿っているのか不思議に思える、少し日に焼けた細腕。そして、かつての世界では全く見慣れない、濃い赤髪を結った三編み。
口と態度は最悪だが、器量もそこそこ良く、家庭的な女ではある。
(由緒ある家に生まれていれば、それ相応の大家に嫁いだのかも知れんな……)
下らない妄想を膨らませた燐子は、エミリオがドリトンを連れてリビングに来るまで、彼女の後ろ姿を飽きること無く見つめていた。
食事場に入ってきたエミリオは、燐子と一言、二言交わすと急いで姉の元へと駆け寄り、今日の夕飯である肉料理に釘付けになっていた。しかし、昼間の件で反省の色が一向に見られない彼は、頭頂部に拳骨を食らう。
馬車に踏まれたヒキガエルのような悲鳴を上げたエミリオは、実の姉にあらん限りの文句をお見舞いするも、二発目の制裁を受けて完全に沈黙する。
そんな二人の姿を微笑ましく眺めていたドリトンに、燐子は、「そういえば、あの騒ぎの間どこにおられたのですか?」と尋ねた。
「申し訳ありません。ちょうど、隣町に用事があって出かけていたのです」
「隣町?」と燐子が問う。
聞くと、この蜘蛛の巣のように伸びた川沿いの果てに大きな湖があって、そこにここよりも大きな町があるとのことだった。
「……町、か」
ここより栄えた場所となれば、色々とこの世界のことについて分かるのではないか。
もしかすれば、自分の心だって定まるかもしれない。
「お祖父ちゃん、また駐屯所に行ったの?」
「うむ……」
「無駄よ、あんな奴らに何言ったってさ」
ただでさえ険しい顔つきをしていたミルフィが、その話を始めた途端、一段と不愉快そうに眉間に皺を寄せた。
燐子はそれよりも隣町に関しての話をもっと聞きたかったのだが、会話の中心はすぐにその駐屯地の兵に関するものへと変わっていった。
「あいつらは、辺境のちっぽけな村になんて興味ないのよ」
「まあまあ、ミルフィ。そう邪険にするものじゃない。彼らの全てが我々を軽んじているわけではないのだから」
「ふん、どうかな。少なくともアズールの連中は、この村が滅んでも構わないと思ってるんじゃない?」
「ミルフィ、よしなさい」
度が過ぎた発言だと判断したのか、ドリトンが彼女を優しく咎める。
ミルフィが不服そうに次なる言葉を探していると、二人の会話に燐子が横槍を入れる形で口を挟んだ。
「話の腰を折って申し訳ないが、あの獣はよく村に下りて来るのか」
「いいえ、普段は森の中で大人しくしているのですが……」
そこでドリトンは言葉を区切ると、言いにくそうに燐子の目を覗いた。それによって燐子は彼の言いたいことを察し、「ああ、私が同胞を斬ったからか」、と呟いた。ドリトンも、苦笑いを浮かべながらかすかに頷く。
すると、獣の肉を豪快に焼いた料理を机の上に、ドンッ、と置いたミルフィが、鼻を鳴らしてドリトンの言葉に異を唱えた。
「違うでしょ。迷惑なお隣さんが、あいつらの住む森を焼いてまわってるのが、そもそもの原因よ」
胃袋を刺激するいい香りを吸い込みながら、燐子が首を捻る。
「隣人が森を焼いているのか?なぜ罰しない」
「さあ?違う問題で大喧嘩中だから、それどころじゃないんでしょうよ」
燐子が、人数分の皿を食卓に並べ終えて席に着いたミルフィに説明を求めようとしていると、代わりにエミリオが言葉を付け足した。
「お姉ちゃん、それじゃあ燐子さんには分からないよ」
ミルフィは弟の言葉を無視して、先にナイフで肉を切り始める。後から聞いたのだが、『ステーキ』と呼ぶ料理らしい。
今までも何度か肉料理が出たことはあったが、このような豪快なものは初めてである。
ふっ、と燐子は口元を歪めた。
日を追うごとに激増していく異世界言語の語彙が、燐子にはどことなくむず痒いような、馬鹿馬鹿しいようなものに感じられた。
皿の上で、未だに熱を持って肉汁を迸らせているステーキに、形の不揃いな箸で手をつける。
こちらに来て悲嘆に暮れていた頃、エミリオがせっせと手作りしてくれた一点ものである。
使いづらいが、気遣いの込められた価値ある作品であることは言うまでもない。
ほんの数秒間だけ思い出に浸っていた燐子は、気を取り直して、ステーキの解体に取り掛かった。だが、どうにも上手く切ることができず、結局は箸で摘まみ上げて噛み千切ることにした。
(最初の頃は、あんな獣の肉を食べるなど、野蛮人でもあるまいし……と正気を疑っていたものだが……これが一度
食べてみると、なかなかどうしてやみつきになるな)
重厚な歯ごたえ、あふれる肉汁、そして胃に入れた後に湧き出て来る、この不可思議な活力……。
燐子が、牛や馬も、焼いてみたらこのような味がしたのだろうか、と不謹慎なことを考えてしまったとしても無理はない。
喉元に滴る肉汁には気にも留めず、それこそ獣じみた動作で肉に食らいついていた燐子を見て、エミリオが大きな声で笑い声を上げる。
明らかに馬鹿にされたのが分かったので、彼女はエミリオを無言で睨みつけたのだが、そんな態度もお気に召したようで、少年はより大きな声で笑った。
「あぁ、ああもう、そのシャツだって私のなんだからね。全く、汚れちゃうじゃない」
そう言ってハンカチ片手に身を乗り出したミルフィは、燐子の喉をつたう肉汁を拭き取った。
それから、「こういうときくらいナイフを使いなさいよ」と愚痴をこぼしながらも、燐子の皿の上に乗ったステーキを自分のナイフで切り分け始める。
そして、自然な手つきで、等分に切ったステーキの一片をフォークで刺し、燐子の口元に運ぼうとする。
「口、開けなさいよ」
「こ、子ども扱いはよせ」
「そんなんじゃないわよ。私のシャツが汚れるのが、気に入らないの」
「いや、しかしだな……」
「いいから!意地なんて張ってないで、さっさと口を開けなさい!」
恥ずかしさに顔が熱くなった燐子だが、ミルフィの押しつけがましい目線と言葉に負けて口を開き、その肉片を頬張った。
噛む度にあふれ出る肉汁に、舌が小躍りしながら喜んでいるのが分かる。
その弾力のある触感と、極上の旨味を堪能すべく無言で咀嚼していた燐子へ、ミルフィが彼女らしくもない朗らかな笑みで、「どう?」と尋ねた。
「ああ、美味い」少なからず驚きを感じたが、素直にそう答える。「そう、良かったわ」
先ほどと同じ種類の笑みを向けるミルフィに、燐子はふっと口元を綻ばせる。
「いつもそんな顔をしていろ」
「は、はあ?どういう意味よ」
「そうしていれば、多少は愛嬌があるように見える」
ミルフィは一瞬、面食らったような表情をした。だが、すぐにつっけんどんな顔に戻ると、「別に要らないわよ、愛嬌なんて」と返して自分の座席に腰を下ろした。
やはり、エミリオのような可愛げがない、と内心で呟きながら、二人のやり取りを嬉しそうに見つめていたエミリオに顔を向ける。
「で、どういう意味なのだ」
「え?」とエミリオが目を丸くする。
「森を焼く者がいると。このような山村では森は宝であろう。そのような行為をなぜ許す?」
森が燃えれば、植物や木の実が取れなくなる。そうなれば、それを食料にしていた草食動物が消え、さらにそれを餌にしていた肉食動物も消える。
農民や猟師にとって、それはあまりに致命的だ。
「それは――」と何かを口にしかけたドリトンの言葉を遮って、突然忌々しげにエミリオが吐き捨てた。
「帝国のせいだよ」
10
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……これは、現代では失われた強大な魔法を使い、小さな目標とお使いの為に大陸をまたにかける小市民の冒険譚!
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