異世界剣豪~侍になれなかった女~

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二章 切腹の意味

切腹の意味.3

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 ミルフィとエミリオが裏手で洗濯をしているときに、その事件は起きた。

 互いに小言を言い合いながら手を動かし、日々の仕事に打ち込んでいたところ、突然、空を切り裂く警鐘が一帯に鳴り響いた。

 エミリオが驚きのあまり飛び上がって、桶の中の水をひっくり返して撒き散らしたものの、二人とも、それどころではなくなっていた。

 火事か、それとも他の災害か、と周囲の様子を窺っていたのだが、すぐさましゃがれた年配の男の声が天に響いた。

「ハイウルフだぁー!」

 ひゅっと息を吸い込み、口を開ける。

 ハイウルフが、なぜ、森林を離れ、こんな丘の下まで来ているのだ。

 隣で警鐘に怯えていたエミリオが、「もしかして……」と呟いたことで、ミルフィにも彼の口にしたいことが理解できてしまう。

 数日前、燐子がハイウルフを倒したという話が本当なら、その報復かもしれない。

 ミルフィは、エミリオに安全なところに隠れておくように命じて、すぐに村の中心部へと駆け出した。

 その途中で、自分の家の玄関に置いてある、狩猟用の弓矢とナイフを引っ掴むようにして持っていく。

 ナイフと矢筒は腰のベルトに固定して、弓はしっかりと左手に握り、声の大きいほうへと飛ぶように向かう。

 エミリオが森の奥に入ってハイウルフを刺激したことが事の発端なのだとしたら、この騒ぎの責任は姉である自分にある。

 自分の尻は自分で拭くのが、私の流儀だ。

 両脇に並んだ民家の軒先に、村の各々で分配したハイウルフの毛皮がなめしてぶら下げてあるのを見て、これに引き寄せられてきたに違いないとほぞを噛む。

 村の中心は酷い騒ぎだった。店先の食べ物は荒らされ、逃げ惑う人々を追いかけ回す獣の姿があちこちに散見された。

 幸い、まだ死体は転がっていない。だが、それも時間の問題だろう。

 年寄りが固まってハイウルフに対抗しようとしているが、あんな農具ではろくな時間稼ぎにもなるまい。

 瞬時に、最も命の危険性が高い場所を見極める。そうして矢筒から矢を抜き取り、番え、引き絞る。

 今にも小さな子どもに飛びかかろうと唸り声を上げている獣の脳天に狙いを定め、矢を放つ。

 小さい頃から、猟師として生きてきたミルフィらしい、淀みのない動きの流れだった。

 ハイウルフへの反撃の嚆矢となった一本の矢は、わずかに脳天を逸れてハイウルフの肩口に食らいついた。獣が短く悲鳴を上げてよろめくが、やはり致命傷には至らない。

 二本目の矢を構える前に、獣は地を蹴ってこちらに走り寄ってくる。

(次の矢は間に合わない、だったら……っ!)

 ミルフィは弓を左手に、ナイフを右手に構えて獣へと真っ向から突っ込んだ。

 ハイウルフが大きな顎を開いて飛びかかってくるのを瞬きもせずに観察しながら、宙を飛んだ獣の下に滑り込む。

 すれ違う瞬間に、ナイフの刃先を獣の首元に突き立てて転がり抜けた。獣は、そのまま地に伏し、血だまりを作った。

「よしっ、まずは一匹」

 確実にトドメを刺した感覚から、思わず喜びの声が出てしまうも、気を引き締めてナイフを抜きに戻り、辺りをもう一度確認する。

 思いのほか、数が増えすぎている気がする。

 五、六匹を想像していたが、一見しただけでも十匹以上はいる。

 喜んでいる暇はない、と次の矢を番えて、女連中を狙っている次の標的へと放つ。

 流星のように尾を引いて空を裂いた矢は、今度こそ目標の脳天に吸い込まれて、一撃のもとにハイウルフを絶命させた。

「良い調子ね!」

 そのとき、四方で悲鳴が上がった。

 場の緊張感が、水が沸騰するように高まる。

 再び、女連中と子どもが狙われ、ついに老人の団体も数匹の獣に囲まれてしまっていた。

 自分の視界の外でも、誰かが襲われている気配がする。

(くそっ、駄目だ、全部は間に合わない、犠牲が出てしまう)

 ミルフィは一瞬のうちに優先順位をつけて、弓矢を構えた。

 その矛先は、子どもを狙っているハイウルフに定められていた。

 子どもは村の宝だと、誰もが口を揃えて言う。

 恨んでくれても構わない。今の自分には、迷っている時間は一寸たりともないのだ。

(弟のいる私に、子どもを見捨てるような真似はできないの)

 明日のために、生きている。
 子どもは明日、すなわち未来だ。

 何足も草鞋が履けないことを、私は知っている。

 極力狙いを定める時間を絞り、早撃ちで一匹仕留める。

 これならもう一匹、間に合うか。そうして、矢筒から矢を取り出した次の瞬間だった。

「おーい!犬ども、こっちだー!」

 空鍋を床に落としたときのようなくぐもった爆音が、周辺に鳴り響く。同時に、聞き慣れた声が耳に入ってきた。

 獣も、人も、みんながその轟音のほうを一斉に振り向いた。

 見れば、大通りに立つ小さな人影が、お玉で鍋を懸命に叩いて音を出していた。

 その影と声に、ミルフィは真っ青になりながら叫ぶ。

「エミリオ!逃げなさい!」

 まるで自分の声が攻撃の合図であったかのように、人々を狙っていたハイウルフたちが、一斉にエミリオのほうへと駆け出す。そのうちの何匹かは、自分を無視して横をすり抜けていく。

「どうして逃げていなかったのよ!」と今さら背を見せて逃げ出した弟を追って、ミルフィは矢を番え、全速力で前進する。

 しかし、地を蹴って進むことに特化した、四足歩行の獣の加速の前には手も足も出ない。

(嘘だ、間に合わない!間に合わない、このままじゃ、間に合わない)

 獣たちとエミリオとの距離が縮まっていくのを見て、ミルフィの心臓の鼓動は今にも破裂しそうなほどの早鐘を打っていた。

(もっと遠くへ、早く逃げて、お願い、それじゃあ追いつかれる!)

 大通りに並んだ木箱や食べ物、一切合切を薙ぎ倒しながら、ハイウルフはミルフィたちの住んでいる家のほうへ逃げるエミリオを追い続けた。

 ついに、エミリオが足をもつれさせて土の上に倒れこんだ。

「エミリオ!」

 慌てて矢を射るが、ろくに狙いも定めていない一射は、大きく的を外れて民家の軒先に突き刺さる。

「こ、こっちに来なさい!犬畜生!」

 波浪の中で揉まれるように呼吸が荒々しくなって、自分の足ももつれそうになったミルフィは、少しでも獣の注意が引ければと大声を上げたが、獣たちはわずかに振り向いただけで、まるで相手にしてくれない。

 獣が蹴り上げた砂塵で、辺りが一気に煙たくなってしまう。

 自分の命より大事なものが、獣風情に奪われてしまう。

 そんなことが、許されていいはずがない。

 神様がいるのなら、そんな、残酷なことができるはずはない。

 それなのに、獣たちは汚らしい涎を垂らしながら、体を震わせて蹲るエミリオに近寄っていく。

 やめろ、エミリオに触るな、そう叫び声を上げそうになったとき、ハイウルフたちが示し合わせたように面を上げて、通りの向こうを睨んだ。

「な、何……?」

 何が起こっているのか、と獣の視線の先を辿ると、そこには西日を逆光に受けて悠然と歩いてくる一人の女の姿があった。

 獣たちはそれを見ると、極度に緊張した様子になり、唸り声を強くして殺気立った。

 だというのに、その矛先になっていた女は、まるで他人事のように瞳を伏せていた。

 彼女は気でも狂ったかのように、獣が織りなす死の包囲網に自らその身を投げ込み、エミリオの隣に凛とした佇まいで立った。
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