異世界剣豪~侍になれなかった女~

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一章 侍になれなかった女

侍になれなかった女.1

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 周囲には、青々とした木々が生い茂り、緊張に強張った体をさっと撫でるような木々と夜の香りが漂っていた。

 それらを見た燐子は、初めは幻なのだと思った。

 しかしどうだ、煙の臭いも、熱も、弾ける木の音も全く聞こえない。数秒もすれば肌を焼いただろう炎を感じずに、幻を見ることなどありえないことだ。

 焼け落ちる城も、城を取り囲む兵士の姿も、嘘みたいに消えてしまった。

 幻以外に説明のしようがない。だが、こんなにも鮮明な幻があるとは思えないのもまた事実だ。

 不意に、目の奥に鈍い痛みが走った。続けて手の甲が焼け付くような痛みに襲われる。

 思わず倒れ込んでしまいそうになる痛みに、燐子は小さく吐息を漏らしたが、少し目をつむっていたら、その痛みは嘘だったかのように収まった。

 視線を落とせば、手の甲に火傷の痕がくっきりと残っていた。ここが幻などではないと教えてくれているようだ。

 次に燐子が考えたのは、ここはすでにあの世なのではないかということだ。

 口惜しくも追腹をする前に煙で意識が途絶えて、三途の川を渡ってしまったのではないだろうか。

 だが、だとすれば、信念を全うされた父にあまりにも面目が立たない。

 燐子はついさっきまでは誇りと誉の絶頂の中にいたのに、突然、崖から突き落とされるようにして失意のどん底に沈んでいた。

(何という失態だ……。このような死に方をするとは……)

 木々から飛び去る騒々しい鳥の鳴き声が、やるせなさに俯いていた燐子の鼓膜を打ったことで、整えられた眉の間に深い峡谷を作った。

 このように趣の無い鳥の声は初めて耳にした。極楽の鳥とは思えない。もしかすると、ここは地獄なのかもしれない。

(まぁ、意識が残っていて、小太刀が手元にある以上……やることに変わりはない)

 燐子は丹田の辺りに意識を集中させて、それから構えたままの小太刀の刃先を体に対して真っすぐ向け直した。

 一度しくじった割腹をやり直すというのはどうにも格好がつかないが、そうしておめおめと使命を果たせないままでいるほうがよほどの恥辱である。

 肺に溜まった空気を吐ききって、肋骨は広げず腹部を意識し酸素を吸い込む。

 そうすることで本能的に心が落ち着くことを、燐子は知っていた。

 木々の香りが鼻腔を満たし、燐子の鼻先にため息のような落ち葉が触れた。

 そうして、いよいよといった瞬間、燐子の頭にこの後、自分の体はどうなるのだろうかという不安がよぎった。

 醜く腐り落ちて、土に還るのか。
 それとも、獣の餌にでもなるのか。

 背筋を指先でなぞり上げられたような悪寒が駆け抜けて、思わず喉が鳴り、力が抜けてしまう。

 そのときだった。

「うわあぁぁー!」

 突如、甲高い悲鳴が木々の間隙から見える瑠璃色の夜空に反射して、燐子の頭上へと降り注いだ。

 戦のために研ぎ澄まされてきた鋭敏な感覚が、すぐさま彼女の両足を真っすぐに屹立させる。

 ぴんと背筋を伸ばしたその姿は、この溝の底のようにジメジメとした暗い森にはあまりにも不釣り合いで、美しかった。

「子どもの声……」と燐子は耳を澄ませる。

 網のように張り巡らされた樹木をへし折りながら、少し離れた場所から何者かが向かってくる足音が聞こえる。

 一人、二人か。いや、片方は明らかに前方を走る何者かを追うようにして急速に接近して来ている。

 誰かが襲われている、と直感した燐子は、何の迷いもなくそばに置いた太刀と、手にした小太刀とを持ち替えた。

 段々と気配が濃くなった後、目の前の一際大きな木の陰から、小さな人影が飛び出してくる。

 燐子は反射的に太刀を抜き放ち、戦闘態勢に入った。

 両手で柄を握る。左手で鍔に近いほうを、右手はその下の方を。それから半身になって、切っ先を天に突き立てるような格好で太刀を肩よりも高い位置に構える。

 しかし、その白刃の前で腰を抜かした者の姿を目にした瞬間、燐子は驚きに瞳を丸くした。

「異人だと……!?」

 金色の錦糸のような髪、青みがかった無垢な瞳。まさに一片の疑いようもなく、日の本の人間ではなかった。

 容姿からしてまだ十代になったばかりに見えるが、なにぶん、異人の子どもを見る機会など今まであった試しがなかったため、自信はない。

 あの世で異人の子に出会うとは、奇怪な縁もあったものである。

 何者だ、と問いをぶつけようとした瞬間、子どもが一つ叫び声を上げて自分の背後を振り返った。

 その悲鳴に呼応するように、大きな黒い影が木の後ろから身を踊らせた。その影の持ち主は、これまた不思議なことに、燐子が今まで目にしたことがないような四足歩行の獣であった。

 一見すると狼に似ているが、体格も狼のそれよりも二倍近く大きく、涎を垂らして開け放たれた大きな口から覗く牙は、狼など比にならないほどの発達を遂げていた。

 特に犬歯に当たる二本は上顎から下顎目掛けて鋭く伸びており、噛みつかれれば容易く皮膚や肉を貫通できるだろうことが予測できる。

 このような獣は未だかつて見たことがない。

 あらん限りの野蛮さを詰め込んだ唸り声には、明らかに異人の子どもを、ひいては自分を敵として認識している様子があった。

 あの世の獣というに遜色ない姿をしている。

 上質な竹を、何重にも束ねて肉付けしたようなしなやかな前足が、そろりと一歩踏み出される。

(――この動き、知っている)

 互いの存在に気が付いているのに、気配を押し殺すようにして詰める一歩。

 相手に動きの出始めを悟らせないために行なわれる一歩。

 その後に放つ、命を揺るがすほどの『動』のための『静』。

 燐子は獣から視線を逸らさぬまま、未だに腰を抜かしたまま立ち上がれずにいる子どものそばへと近づく。

 横目で一瞥すれば、こちらを怯えた目で見つめている視線とぶつかった。

「じっとしていろ」と低く、鋭く口にしながら、異人の子どもに日の本の言葉が分かるはずもないかと考える。

 獣は、鼻皺を寄せて唸りながらも足を止めた。

 燐子は互いの間合いを測りながら、思わず、苦笑いをその白い頬に浮かべた。

 賢い獣だ。どこからどこまでが両者にとって必殺の間合いになるのかをよく理解している。

 人間相手の経験が豊富なのか、それともこの種の獣が見せる天性の勘か。

 まあ、どちらでもいい。命を賭して全力で向かって来てくれるのなら、この際、形にはこだわらない。

 人の姿をしていようが、獣の姿をしていようが、正々堂々斬り捨てるまでである。

 天に向けて立てていた刀身を、ゆっくりと左斜めに傾け、最後には横一文字に構え直す。

(良い心地だ。やはり、獣相手でも一騎討ちは剣士の醍醐味だな)

 焦って動けば、その隙を突かれる。

 人間相手の読み合いは得意だが、獣相手はいかがなものか。

 同じ道理で相手取って失敗すれば、二度目はないのが真剣勝負。

 燐子は全神経を集中させて、獣の一挙手一投足に傾注した。

 様々な角度からの攻撃を頭の中で予測し、返す一太刀を想定していく。

 考える時間が長ければ長いほど、その計算はより綿密になって、斬れぬものの無い名刀のように研ぎ覚まされていく。

 不意に、後方で人が動く気配を感じた。おそらく、先ほどの子どもが立ち上がったのだ。

 すると、それとほぼ同時に目の前の獣が動きを見せる。

 地を蹴って、一瞬で人の及ばぬ速さに達するが、その視線の先はこちらではなく例の子どもを捉えていた。

 それに気が付いた子どもが、金切り声を上げて走り出す。

 この子にとっては絶体絶命の窮地なのだろうが、燐子はというと、むしろ白けた心地になっていた。

 つまらん、と燐子は左脇をすり抜けて行こうとしている相手に向かって足を踏み出し、太刀を振りかぶった。

 左腕を引いて、脇を締める。

 それから一瞬だけ余計な力を抜き去り、相手の動きに合わせて、振りかぶった太刀を左から右へと水平に薙ぎ払う。

 獲物に夢中になっていた四つ足の獣は、唐突に自分の顔から胴に沿って振りぬかれた一閃に、驚く暇もなく引き裂かれ、跳ね上げられるようにして宙を舞った。

 空中を斜めに一転、二転して地面に落下していく、獣の体。

 舞い散る紅葉のように飛散した鮮血が放物線を描き終わる頃には、獣の体はドサリと音を立てて地にふせていた。

「一騎討ちの最中に相手から目を逸らすなど……あまりにも興が冷める」

 燐子は、巨体を横たえて無様に痙攣する獣を、蔑む目で睨み鼻を鳴らした。

「図体はでかくても、所詮は犬か」

 止めを刺してやる必要性も感じない。真剣勝負に泥を塗った罰だ。

 懐から紙を取り出して、さっと刀身に付いた生臭い獣の血を拭き取って捨てる。

 紙は風に吹かれて不規則に漂うと、燐子の横を通り過ぎ、それからくるりと円を描いた後、少し離れていた子どもの足元に落ちた。

「ひっ」と子どもが腰を抜かす。

 燐子は子どものほうへと足を進めながら、腰に下げた鞘へと刀身を納めた。

「立てるか」

 唇を震わせてこちらを見上げる子どもに、そうか言葉が分からないのだった、とわずかな気まずさから視線を逸らす。

(それにしても……)

 燐子は、月光を通さぬほどに生い茂った葉の隙間から夜空を仰いだ後、ゆっくりと自分の周囲を見渡した。

 先ほどの凶暴な獣といい、明らかに場違いな異人の子どもといい、やはりここはあの世なのだろうか。

 鼻から深く息を吸い込み、冷静に思考しようと努めたのだが、その瞬間、足元で震えていた子どもが声を発したことでその試みは中断された。

「……あ、ありがとう」

 最初は空耳なのかと疑い、じぃっと異人を見つめた。しかし、向こうは不思議がることもなく、「死ぬかと思った」と苦笑いと共に吐き出す。

 そのあまりにも気安い口調に、燐子は目をパチパチとさせて子どもの顔を凝視した。

 呆然として固まっている燐子に、座り込んだままの姿勢で片手を伸ばした幼き異人は、彼女が手を握り返してくれないのを悟ると、自分の足で飛び跳ねるように立ち上がった。

「お姉さん凄く強いんだね、僕びっくりしちゃったよ」

 話し方からして、この子どもは少年のようだ。

 命の危険に晒されておきながら、何と落ち着いた様子だろう。

 いや、それよりも――。

「お前、日の本の言葉をどこで習った」

 誰かの教えがなければ、こんなにも流暢に異人が日の本の言葉を話せるはずがない。

 しかし、厳しい目つきをした燐子の言葉を聞いても、異人の子どもは意味が分からないといったふうに首を傾げるだけだ。

 何ともハッキリとしない様子だったので、もう一度彼女は、「どこで習った」と強く問いただした。

 すると、相手はますます不思議そうに首を傾げて、燐子が言った言葉を繰り返した。

「どこで習ってって、何を?」
「日の本の言葉だ」
「え、えぇ?なにそれ」
「ちっ、ならば、どうして私の言葉が分かる」
「どうしてって……さっきからお姉さん、何を言ってるの?」

 少年は怪訝そうに眉をしかめた後、ハッと何かに思い当たり目と口を大きく開いた。それから、激しく瞬きを繰り返しながら燐子の周りをくるくると回る。

「おい、何をしている」

 少年は三周ほど燐子の周りを回ると、やおら立ち止まり、無垢な輝きを惜しみなく放つ瞳を煌めかせてから、大きな声を上げた。

「もしかしてお姉さん、『流れ人』なの!?」
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