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序章 落城

落城

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 煌々と燃え上がる焔が、ついに城の背骨ともいえる大きな柱にまで到達し、その全身を舐めるように這った。

 すでに敵軍は大軍をもってこの城を包囲しており、炎が全てを包み込むそのときをじっと待っていた。

 四方から聞こえてくる木が弾ける音の中心に、二人の人間が立ち尽くしていた。そして、そのうちの片方が今、崩れ落ちるようにして煤のついた畳の上に両膝を下ろした。

(終わったのだ……何もかもが)

 膝をついた女が俯いた拍子に、夜緑色の紐で高く結った後ろ髪が左右に揺れた。女が腰に佩いていた二本の刀が、肩を震わせるのに連動して音を立てる。

「泣くではない、燐子(りんこ)」

 陣太鼓のように低く堂々とした声が、燐子と呼ばれた女の頭上から響いてくる。

 彼女にとっては聞き慣れた声だった。一喝されたわけでもないのに、それだけで全身に力が戻り、先ほどまでの弱気が酷く恥ずかしくなる。

「申し訳ございません、父上」

 両足に力を込めて立ち上がり、これ以上、恥の上塗りにならないようにと、乱暴な手つきで目元を擦り、涙を拭う。それから顔を上げ、姿勢を正して男へ向き直る。

 眉の辺りで切り揃えられた前髪の下から覗く、二つの黒曜石が炎を反射して輝く。

「私はまだ、戦えます」

 本来の毅然とした表情を取り戻した燐子の顔を見て、甲冑を着た男は満足気に何度も繰り返し頷いた。それから、ごつごつとした指先を自らの顔へと伸ばし、鎧と同じように敵兵の血で染まった頬当てを取り外した。

 年季の入った皺が刻み込まれた顔は、やはり歴戦の勇士としての威厳を放っていて、それだけで燐子は誇りに満ちた気持ちになれた。

(私の身にも、この真の侍の血が流れているのだ)

「燐子よ」そう言って、男は自らの娘の肩に手を置いた。炎の熱気を吸収した籠手から、じんわりと熱が伝わってくる。

 燐子は、敬愛すべき父の次の言葉をただ粛々と待った。それがどのような言葉でも彼女は従うつもりだった。

 死ぬまで戦うことになろうとも。
 誇りを胸に腹を切ろうとも。
 主君のために生き、誇りと誉のために命を燃やす。

 それが侍であり、その娘としての最期の在り方だ。

 そう信じて生きてきた彼女だからこそ、直後、自らの父が言い放った言葉が現実のものだとは思えなかった。

「逃げ落ちよ」

 燐子の父は苦々しい面持ちでそう告げた。

「な、何を言うのですか」
「屈辱は何度も口にはせぬ」
「なぜです!?」

 一歩踏み出して、侍とは程遠い真似を自分に命じた父へ非難の眼差しを向ける。

 それでも彼は、すでに決めたことだと言わんばかりに決然とした表情を崩さないままだった。それがいっそう燐子の感情をかき乱してしまう。

「まだ体は動きます、刀だって折れてはおりません!主君を残し、自分だけが逃げるなど、侍のやることでしょうか!?」

 父は、瞳をゆっくりとつむり、数秒ほど経ってからまたゆっくり開くと、おもむろに燐子の頭へと手をやった。

 ここへ来て頭でも撫でるつもりなのかと不審に思ったが、間もなく自分の頭髪を縛っていた感覚がなくなって、うなじに髪の毛が触れたのを感じた。後頭部で結っていた髪紐が解かれたのだ。

 父の行動の意味を考えるよりも先に、目の前で真一文字に結ばれていた唇が重々しく動き、言葉を紡ぐ。

「お前が、侍ではないからだ」
「……侍では、ないから?」

 頭を重量のある鈍器で殴られたかのような錯覚を覚えて、燐子は思わずふらついてしまった。そして、彼女が頭を整理する暇もなく、男は辛辣に言葉を続ける。

「我が家系では、女は侍にはなれない」

 自分をずっと苦しめていた呪いの言葉を改めて耳にして、燐子はぐっと奥歯を噛み締めた。だが、すぐさま瞳に力を宿すと、「承知しております」と早口で答えた。そして、そのうえで思いの丈をぶつける。

「ですが、そのようなものは所詮、上辺だけのこと。身分など、真の侍の姿には一切の影響はありません」

 それはずっと、燐子の父が彼女に教えてきたことだった。そして、燐子が常に自らの魂に言い聞かせてきた教えでもあった。

 彼と燐子はしばらく睨み合うようにしていたのだが、それは大きな勘違いで、その実は互いの目の奥に映る輝きを覗き込み合っていた。

 ややあって、男が深く頷く。

「よかろう、では真の侍とは何だ」
「身分ではなく、魂に宿る誇りを持つ者でございます」
「そうか、ならば誇りとは何だ」
「誇りですか……?」
「そうだ」

 一瞬だけ、燐子は己に問いかけた。そして、浮かんできた答えを毅然と口にする。

「『生き方』の問題です、父上。自分の心の導くままに、己の正道を成そうと生きられるかどうか……それが誇りを持つということだと私は思います」

 ふ、と燐子の父は笑った。その笑みに込められた意図が汲み取れなかったことが、燐子は悔しかった。

「お前はどこまでも、血を絶やさぬために生きる女としては未熟だな」
「そのようなこと、百も承知です」燐子が、そっと刀に触れた。「私は、これさえあれば十分な人生でした」
「……そうか」

 燐子の父は重々しく呟くと、ややあって、畳の上に落ちた夜緑色の髪紐を拾い上げて燐子へと体を向けた。

「ふ、私の娘は女としては未熟かもしれぬが……剣士としては申し分ない人間に育ったものだな」

 燐子は手渡された髪紐を厳かに受け取り、再び後ろ髪を結い上げた。

 揺れる黒壇の長髪が炎を吸い込みきらきらと光る。
 気づけば、自分たちのすぐそばまで火炎の舌が迫っていた。

 もう一刻の猶予も無い。

「燐子」
「はい」
「介錯人を頼まれてくれないか」
「……身に余る光栄でございます」

 介錯を任された、ということは、父が自分の腕を見込んでいるということだ。

 彼は慣れた手付きで甲冑を脱いでいくと、最後に上半身裸になって小太刀を手にした。

 鍛え抜かれた肉体があのような刃で貫き通せるとはにわかには信じがたいものの、あの小太刀は業物である。容易に人間の肉体程度は貫通し、切り裂くだろう。

 父が両膝をついて小太刀を逆手に構えた。それを確認した燐子は流れるような所作で腰にぶら下げた刀を抜いた。

 抜刀に従い、黒髪が舞う。白刃が鞘を滑る感覚がより緊張感を加速させる。

「お前を男として産んでやれなかったことだけが、我が人生における唯一の後悔だと考えていたが、どうやら杞憂だったようだ」
「私は父ほど偉大な人間を知りません」
「うむ、私も燐子を誇りに思っている」かすかに憐憫を込めて呟く。「だが、お前にもまだ、やりたいことが沢山あっただろうとは思うぞ」
「今のままでも十分、私は幸せ者です。ここが死に場所となっても、構わないほどに」

 その言葉に男は、「そうか」と二度呟き、何か物言いたげに燐子のほうを真っすぐと見た。

「燐子、お前は……」そこで言葉を区切り、首を振って何でもないと言葉を濁す。

 いよいよその時だと確信したのか、両者とも、それ以上は言葉を発さずに両手に力を込めていた。

 刀を自分の頭上よりも高い位置に両手で構えて、その刹那から目を逸らさないように全神経を張り巡らせる。

 音という音が、この世界から霧散していく。

 弾ける木の音も、燃え盛る紅蓮の熱も、何もかもが今は等しく静まり返っていた。

 燐子の手に握られた刀の刀身に、朱色の光が明滅し、揺らめいている。

 先ほどまでは敵兵の命を屠るために騒々しく風切り音を響かせていた刃が、今は先祖の御霊前に立っているかのように厳粛さを保っていた。

 その瞬間が、来る。
 それから先は、一瞬のことだった。

 燐子の父が小太刀を腹に突き立て、刃を引き回した刹那、稲光が走ったかのように燐子の持つ刀が弧を描く。

 舞い上がる鮮血が、どちらの傷から噴き上がっているかも分からないぐらいに、全く無駄のない動きであった。

 皮一枚だけ残した首が抱かれるように胸に滑り、男の体が前のめりに倒れる。

 鮮やかな太刀筋を描いた刃を手元に戻し、懐紙を使って血を拭き取ると、燐子はその場に両膝をついて長息を吐いた。

(見事な終いでございました)

 心の中でそう呟きながら、抜き放った太刀を静かに鞘の中に納める。

 名誉ある行いだとは分かっていても、どうしても捨てきれなかった家族としての情が、燐子の瞳を潤ませ、唇を震えさせた。

 侍としては、恥ずべきことだ。誇りに思うべきなのだ。
 そう、泣いてはならない。正しいことをしたのだ。

 正しいことを……。

 突然、前方の天上がけたたましい音を立てて崩れ落ちてきた。

 巻き上がる粉塵や煙が広間全体を覆ったので、反射的に口元を抑えたものの煙が気道に侵入することを防ぐことは叶わず、激しくむせ返った。

(まずい、一刻も早く追腹をせねば。煙で死ぬなど冗談ではないぞ)

 燐子は素早い手付きで鎧を脱いで、先ほど父がしたのと同じように小太刀を構えた。

 両手に力を込めて、もう一度だけ息を長く吐き、目をつむる。

 死ぬのは怖くない、むしろ、追腹で死ねるのは本望だった。

 ただ――父が言った最期の言葉が、頭の真ん中で繰り返し響いて離れなかった。

『お前にもまだやりたいことが沢山あったと思うぞ』

 まだ、やりたいこと?
 馬鹿な、そんなものありはしない。十分に好きなことをして生きてきた。

 戦場を駆け、敬愛すべき父の背中を追い、武芸を磨くことに全てを捧げてきた。

 ……たとえ、侍にはなれなくとも。

 胸の奥が、焦げ付くように疼いた。

 時代さえ違えば、私は違う生き方を選んだのだろうか?身分や性別に縛られず、侍を名乗れる人生を送ったと?
 いや、あるいは、生まれた世界が違えば――。

 瞬間、自分の中から音が消えた。

 その感覚は、極限まで集中したときとは違って、まるで、何もかもが遮断されたかのようだった。

 木が折れる音でようやく我に返って目を開けた時、燐子の黒曜石のような瞳には信じられない光景が広がっていた。
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