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散華は水底で
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花が、散ろうとしていた。
私のそばで、ずっと咲いていた花が。
あの後、美陽と美月が揉めだした声で、すでに異変を察知していた看護師が病室に飛び込んできた。
美月に覆いかぶさるような姿勢で倒れていた美陽を見て、看護師たちは大騒ぎしながらも、美月を短く責め立てた。
――病人なんですよ、何をしているんですか。
してきたのは美陽のほうだったが、そんなことはどうでもいい。
緊急手術、ということであったが、予め、期待はしないでほしい、と担当医に告げられた。
燃料切れで動かなくなった車のエンジンを、無理やり再起動しているようなものなのだろう。
病室で待つことすら禁じられた。
今の私は、体からくり抜かれた心臓そっくりだ。
拍動する場所を奪われ、死を待つだけの存在。
車の中で、じっと考える。
春の穏やかな夜闇は、今の美月にとって、まとわりつく生ぬるい死の吐息にそっくりだった。
どうせ死ぬことになるなら、せめて、彼女の望みを叶えてあげれば良かった。
…いや、まだ間に合うかもしれない。
もしかすると、今頃は手術が成功して、病室で奇跡的に美陽が意識を取り戻しているかもしれない。
また大騒ぎすると、彼女の負担になるから、自分には知らされていない、という可能性も無きにしもあらずだ。
そうだ、そうに違いない…。
だが、それなら、一瞬でも早く彼女の願いを叶えなければ。
いつまた、意識を失わないとも限らないのだ。
美月は、何かに取り憑かれたような動きで、携帯を操作した。
『美陽、湖に行きましょう。車で待ってます』
大きく、息を吐き出す。
どうかしている、と冷静に己を分析している自分がいる一方、現実を認めることを諦めた自分が、頭の中で空想を描いていた。
美しい湖の岸辺。
裸足で水音を鳴らし、朗らかに笑う美陽。
それを見つめる、幸せな私。
来る、来ない。
来ない、来る。
来る、来る…、来る。
ドン、とハンドルに頭をぶつける。
叩きつけたときに、大仰なクラクションが響き渡った。
ふぉーん…。
リフレインする大音量に、時間の感覚を忘れて目をつむっていた。
気づけば、音がやんでいた。
夜のしじまに耳を痛めていた美月の鼓膜を、ガチャリ、という音が揺らした。
ハンドルに額をつけたまま、ぱちりと目を開く。
扉が開けられたことで、車内の暖色ランプが灯っていた。
パッと、顔を上げる。
美月は初め、窓に映った自分の顔を見たのだと思った。だがその人物が、自分の意思とは関係なく口を開いたとき、唇を震わせることとなった。
「お待たせ、美月」
「美陽…?」
自分と同じ顔をした双葉美陽が、照れたように微笑んでこちらを見ていた。
「どうして…」
「どうしてって、まあ、今は調子が良くてさ」
「美陽、私――」ぴたり、と美陽の白い人差し指が、美月の唇を塞いだ。「湖。行くんでしょ?美月」
幻惑的な微笑を浮かべていた美陽に対して、美月は消え入りそうな声で、「うん」と返事をした。
そうだ、詳細なんて、どうでもいい。
美陽が病室を抜け出したことなんて、すぐにばれてしまう。
美陽がここにいるなら、もう病院なんて場所に用はない。
この白の監獄は、私たちの思い出を汚しただけなんだから。
車のエンジンをかけ、ゆったりとした動きでアクセルを踏み込む。
鈍い速度から徐々に加速していく車体の外で、夜が流れていた。
二人は、車内で様々なことを話した。
過去の思い出に始まり、未来の話まで。
一時間ほど、車を飛ばしていた。
すれちがう対向車のヘッドライトが、幻想的に二人の顔を照らす。
次第に、道の勾配が激しくなり、車とはほとんどすれ違わなくなった代わりに、緑が増えた。
カーナビに表示されるデジタル時計は、すでに今日と明日の境界を越えている。
大きくカーブした道に、車輪が悲鳴を上げる。そのときに、美陽の頭が美月の肩に、ぽん、と乗った。
美月は、何も言わなかった。
こうして一緒にいられることは、奇跡だと十分承知していたから。
明滅する、愛すべき私のもう半分の命。
離合など出来ないぐらいに細い山道を下り、湖畔に辿り着く。
昔と何一つ変わっていない、桜の花びらが舞う、あの場所だった。
ダムなんて、影も形もない。
少し前方で、月光を吸い込んだ湖面が、桜の花びらを浮かべてきらめいている。
月だけが、二人の逃避行を見守っている。
幸い、携帯が鳴らないことから、まだ美陽が消えたことは気づかれていないのだろう。
エンジンはかけたままで停車し、美月は美陽の頭を撫でた。
「着いたわ、美陽」
「…ありがとう、美月」
そう呟いた美陽が、おもむろに顔を上げた。
至近距離で、彼女と目が合う。
「さっきはごめんね、美月。あんなこと、言うつもりなかったのに」
「いいのよ…。私のほうこそ、ごめんなさい。美陽の気持ちも考えずに…」
「違うよね、美月」
美陽が、小さく微笑む。
「私たちは、きっといつだって、私たちのことしか考えていないもん」
「…そうね」実際に、今がそうだ。
「そんな私たちが、互いの気持ちを考えていないなんて、絶対ないと思う」
堂々と言い切った美陽には、かつての健やかな意思が宿っていた。その姿を見て、美月は嬉しそうに頷いた。
一瞬の無音の後に、どちらからともなく、唇を重ねた。
唯一欠けていたピースが、今、静かに埋まった。
「愛しているわ、美陽」
「私も、同じ気持ちだよ、美月」
もう一度、惜しむように口付けを交わし、舌を絡める。
より深く、より心の底から。
互いに一つになれるように。
例え、どこに行ったとしても…。
タイミングを合わせたように、互いに顔を離す。
美月は、ずっと考えていたことを口にした。不思議と、断られるとは微塵も思っていなかった。
「美陽、お願いがあるの」突然に真剣味を帯びた美月の口調にも、美陽は訝しむことなく微笑して応える。「ちょうどいいや、私からもお願いしたいことがあるんだ」
呼吸を合わせるように、再び、夜空を照らす閃光みたいな沈黙が流れた。
「美月」
「美陽」
「一緒に、散ってくれる?」
言葉が重なったことだって、何もおかしくない。
私たちは、二つで一つなのではない。
私たちは、元々、一つのものなのだ。
二つに別れたことが、そもそもの間違いだった。
優しく、互いに笑い合う。
本当に久しぶりに、心から笑った気がした。
今、一つの球根に還るときが来た。
愛する半身を見つめたまま、車のギアをドライブに入れる。
アクセルを強く踏み込む、美月の顔には、躊躇いも、恐怖もなかった。
病院を発ったときとは、比べ物にもならないくらいの速度で、車体が加速する。
唸り声と共に、加速するエンジン音。
美月を押さえつける、重力加速度。
そして、全てから解き放たれるための、刹那の浮遊感。
大きなくぐもった音を立てて、車体が水中に没した。
月明かりに照らされた青白い水面を目指して、無数の泡が車体の周囲から浮き上がっていく。
霊魂たちが、天国を目指し昇っているようだ。
ならば、私たちが向かうのは…。
いや、どこだっていい。
そう、どこだってね。
水底が遠く感じられた。
車の隙間から入り込んでくる冷たい水すらも、私たちの情熱は奪えなかった。
「美月」
「なに?美陽」
「ありがとう。一緒について来てくれて」
その言葉を聞いて、美月はうっすらと笑い、首を振った。
やはりそうか、という思いと同時に、抱えきれないほどの多幸感に涙があふれた。
「いいの、分かるでしょ、美陽なら。これは、私の望みでもあるの」
「うん」
「大好きよ、美陽」
「私も、大好きだよ、美月」
胸元まで這い上がってきた水にも目をくれず、二人は、息を揃えて祝福の言葉を唱えた。
「ずっと、一緒だからね」
最期のキスを交わす。
水底に、落ちていく。
ここなら、未来永劫、誰にも二人の邪魔は出来ない。
虚無の夜闇が届かないところで、月と太陽は互いを照らし合い、見つめ合うのだ、
幸せが肺に満ちていくのを感じながら、美月は目を閉じた。
そして、遠い白の監獄の中で、自分の半身が花を散らせたのを直感してから、穏やかに笑ってまどろんだ。
――…散るときは、やはり一緒でなければならない。
――…ね、美陽。
私のそばで、ずっと咲いていた花が。
あの後、美陽と美月が揉めだした声で、すでに異変を察知していた看護師が病室に飛び込んできた。
美月に覆いかぶさるような姿勢で倒れていた美陽を見て、看護師たちは大騒ぎしながらも、美月を短く責め立てた。
――病人なんですよ、何をしているんですか。
してきたのは美陽のほうだったが、そんなことはどうでもいい。
緊急手術、ということであったが、予め、期待はしないでほしい、と担当医に告げられた。
燃料切れで動かなくなった車のエンジンを、無理やり再起動しているようなものなのだろう。
病室で待つことすら禁じられた。
今の私は、体からくり抜かれた心臓そっくりだ。
拍動する場所を奪われ、死を待つだけの存在。
車の中で、じっと考える。
春の穏やかな夜闇は、今の美月にとって、まとわりつく生ぬるい死の吐息にそっくりだった。
どうせ死ぬことになるなら、せめて、彼女の望みを叶えてあげれば良かった。
…いや、まだ間に合うかもしれない。
もしかすると、今頃は手術が成功して、病室で奇跡的に美陽が意識を取り戻しているかもしれない。
また大騒ぎすると、彼女の負担になるから、自分には知らされていない、という可能性も無きにしもあらずだ。
そうだ、そうに違いない…。
だが、それなら、一瞬でも早く彼女の願いを叶えなければ。
いつまた、意識を失わないとも限らないのだ。
美月は、何かに取り憑かれたような動きで、携帯を操作した。
『美陽、湖に行きましょう。車で待ってます』
大きく、息を吐き出す。
どうかしている、と冷静に己を分析している自分がいる一方、現実を認めることを諦めた自分が、頭の中で空想を描いていた。
美しい湖の岸辺。
裸足で水音を鳴らし、朗らかに笑う美陽。
それを見つめる、幸せな私。
来る、来ない。
来ない、来る。
来る、来る…、来る。
ドン、とハンドルに頭をぶつける。
叩きつけたときに、大仰なクラクションが響き渡った。
ふぉーん…。
リフレインする大音量に、時間の感覚を忘れて目をつむっていた。
気づけば、音がやんでいた。
夜のしじまに耳を痛めていた美月の鼓膜を、ガチャリ、という音が揺らした。
ハンドルに額をつけたまま、ぱちりと目を開く。
扉が開けられたことで、車内の暖色ランプが灯っていた。
パッと、顔を上げる。
美月は初め、窓に映った自分の顔を見たのだと思った。だがその人物が、自分の意思とは関係なく口を開いたとき、唇を震わせることとなった。
「お待たせ、美月」
「美陽…?」
自分と同じ顔をした双葉美陽が、照れたように微笑んでこちらを見ていた。
「どうして…」
「どうしてって、まあ、今は調子が良くてさ」
「美陽、私――」ぴたり、と美陽の白い人差し指が、美月の唇を塞いだ。「湖。行くんでしょ?美月」
幻惑的な微笑を浮かべていた美陽に対して、美月は消え入りそうな声で、「うん」と返事をした。
そうだ、詳細なんて、どうでもいい。
美陽が病室を抜け出したことなんて、すぐにばれてしまう。
美陽がここにいるなら、もう病院なんて場所に用はない。
この白の監獄は、私たちの思い出を汚しただけなんだから。
車のエンジンをかけ、ゆったりとした動きでアクセルを踏み込む。
鈍い速度から徐々に加速していく車体の外で、夜が流れていた。
二人は、車内で様々なことを話した。
過去の思い出に始まり、未来の話まで。
一時間ほど、車を飛ばしていた。
すれちがう対向車のヘッドライトが、幻想的に二人の顔を照らす。
次第に、道の勾配が激しくなり、車とはほとんどすれ違わなくなった代わりに、緑が増えた。
カーナビに表示されるデジタル時計は、すでに今日と明日の境界を越えている。
大きくカーブした道に、車輪が悲鳴を上げる。そのときに、美陽の頭が美月の肩に、ぽん、と乗った。
美月は、何も言わなかった。
こうして一緒にいられることは、奇跡だと十分承知していたから。
明滅する、愛すべき私のもう半分の命。
離合など出来ないぐらいに細い山道を下り、湖畔に辿り着く。
昔と何一つ変わっていない、桜の花びらが舞う、あの場所だった。
ダムなんて、影も形もない。
少し前方で、月光を吸い込んだ湖面が、桜の花びらを浮かべてきらめいている。
月だけが、二人の逃避行を見守っている。
幸い、携帯が鳴らないことから、まだ美陽が消えたことは気づかれていないのだろう。
エンジンはかけたままで停車し、美月は美陽の頭を撫でた。
「着いたわ、美陽」
「…ありがとう、美月」
そう呟いた美陽が、おもむろに顔を上げた。
至近距離で、彼女と目が合う。
「さっきはごめんね、美月。あんなこと、言うつもりなかったのに」
「いいのよ…。私のほうこそ、ごめんなさい。美陽の気持ちも考えずに…」
「違うよね、美月」
美陽が、小さく微笑む。
「私たちは、きっといつだって、私たちのことしか考えていないもん」
「…そうね」実際に、今がそうだ。
「そんな私たちが、互いの気持ちを考えていないなんて、絶対ないと思う」
堂々と言い切った美陽には、かつての健やかな意思が宿っていた。その姿を見て、美月は嬉しそうに頷いた。
一瞬の無音の後に、どちらからともなく、唇を重ねた。
唯一欠けていたピースが、今、静かに埋まった。
「愛しているわ、美陽」
「私も、同じ気持ちだよ、美月」
もう一度、惜しむように口付けを交わし、舌を絡める。
より深く、より心の底から。
互いに一つになれるように。
例え、どこに行ったとしても…。
タイミングを合わせたように、互いに顔を離す。
美月は、ずっと考えていたことを口にした。不思議と、断られるとは微塵も思っていなかった。
「美陽、お願いがあるの」突然に真剣味を帯びた美月の口調にも、美陽は訝しむことなく微笑して応える。「ちょうどいいや、私からもお願いしたいことがあるんだ」
呼吸を合わせるように、再び、夜空を照らす閃光みたいな沈黙が流れた。
「美月」
「美陽」
「一緒に、散ってくれる?」
言葉が重なったことだって、何もおかしくない。
私たちは、二つで一つなのではない。
私たちは、元々、一つのものなのだ。
二つに別れたことが、そもそもの間違いだった。
優しく、互いに笑い合う。
本当に久しぶりに、心から笑った気がした。
今、一つの球根に還るときが来た。
愛する半身を見つめたまま、車のギアをドライブに入れる。
アクセルを強く踏み込む、美月の顔には、躊躇いも、恐怖もなかった。
病院を発ったときとは、比べ物にもならないくらいの速度で、車体が加速する。
唸り声と共に、加速するエンジン音。
美月を押さえつける、重力加速度。
そして、全てから解き放たれるための、刹那の浮遊感。
大きなくぐもった音を立てて、車体が水中に没した。
月明かりに照らされた青白い水面を目指して、無数の泡が車体の周囲から浮き上がっていく。
霊魂たちが、天国を目指し昇っているようだ。
ならば、私たちが向かうのは…。
いや、どこだっていい。
そう、どこだってね。
水底が遠く感じられた。
車の隙間から入り込んでくる冷たい水すらも、私たちの情熱は奪えなかった。
「美月」
「なに?美陽」
「ありがとう。一緒について来てくれて」
その言葉を聞いて、美月はうっすらと笑い、首を振った。
やはりそうか、という思いと同時に、抱えきれないほどの多幸感に涙があふれた。
「いいの、分かるでしょ、美陽なら。これは、私の望みでもあるの」
「うん」
「大好きよ、美陽」
「私も、大好きだよ、美月」
胸元まで這い上がってきた水にも目をくれず、二人は、息を揃えて祝福の言葉を唱えた。
「ずっと、一緒だからね」
最期のキスを交わす。
水底に、落ちていく。
ここなら、未来永劫、誰にも二人の邪魔は出来ない。
虚無の夜闇が届かないところで、月と太陽は互いを照らし合い、見つめ合うのだ、
幸せが肺に満ちていくのを感じながら、美月は目を閉じた。
そして、遠い白の監獄の中で、自分の半身が花を散らせたのを直感してから、穏やかに笑ってまどろんだ。
――…散るときは、やはり一緒でなければならない。
――…ね、美陽。
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