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成人の儀
迷いミツバチ
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黒いジャケットの袖口に、もぞもぞと動く小さな生き物。
まるで黄色いボタンだった。
「ミツバチです。庭から迷い込んだのかな」
「ミツバチ……」
「かわいいですよ。ほら」
手のひらに乗ったミツバチを、僕はそっとルイーザ嬢に近づける。
勢いよく彼女はのけぞった。
「かわいらしいことは理解できます!」
「ああ、ごめんなさい……」
「処分しますか?」
執事が言う。殺してしまおうかという意味だろう。
僕は首を振った。
「植物の繁殖には欠かせないんだ。まだ役にたってもらおう」
クローゼットの窓を開けてもらい、僕はミツバチを外へ逃がした。
眼下に広がる庭へ、ふわりと飛んでいく。
「これだけ立派なお庭ですもの。虫だっていますわよね」
ルイーザ嬢が僕に並び、窓から外を見下ろす。
「虫もいますし、小さな動物や鳥も来ます」
「あら、そうなんですか? ウサギさんなんかもいらっしゃるのかしら」
ミツバチを避けた表情から一転、顔を輝かせたルイーザ嬢。
……ウサギが庭仕事にとって害獣であることは、まだ言わない方がいいだろう。
「それでは、アルフレッド様」
執事が勧める。
ルイーザ嬢を座らせて、僕は部屋を遮る衝立の向こうへ移動した。
僕は、ジャケットに袖を通す。
日頃着る服よりも厚く、重い。行事のたびに着る式典服は、やはり苦手だった。
「……どうでしょう」
衝立から体を出し、両手を広げて見せる。
もちろん、ルイーザ嬢に向かって。
「…………」
ルイーザ嬢は、僕の姿を頭のてっぺんからつま先まで、まじまじと見つめた後、
「やっぱり。とてもお似合いですわ」
目を細めて微笑んだ。
女性の笑顔にはいくつもの種類がある。というのは、僕がルイーザ嬢と婚約をしてから知ったことだ。
ルイーザ嬢が僕を見つめる微笑みは、優しい、まるで神話の女神のような笑いだった。
……ルイーザ嬢は、女神ではない。ものの例えだ。
冷酷姫だと呼ばれる彼女を、女神のようだと例えるのは、この世で僕だけかもしれない。
それは、つまり。
――僕は彼女に、好意を抱いている、ということに他ならないだろう。
政治のためと、家に決められた婚約者に?
しかも彼女は、もともと兄の婚約者だったのだ。
……そして、僕は彼女の涙を思い出す。
ルイーザ嬢の気持ちは、きっとまだ兄に残っているのだ。
復讐さえなければ、彼女が僕に付き合う理由はない。
「ルイーザ嬢」
僕がクローゼットに彼女を呼んだのは、彼女に褒めてほしかったからだ。
成人の儀の今日、彼女が最初に目にうつす王子は、僕であってほしかった。
――気持ちだけが急ぐと、ろくなことにならない。
口は、僕の気持ちに追いつくことができなかった。
「か、……っこいいですか? 僕は……」
……恰好悪すぎることを、とてつもなく格好悪く聞いてしまった。
ルイーザ嬢の顔を見ることができない。
アンドレアの式典服も真っ青なくらい、いまの僕は真っ赤になっていることだろう。
かつん、とルイーザ嬢の足音が部屋に響いた。
思わず身構える。けれど、少しの距離を保って、彼女は足を止めた。
「アルフレッド様。私たちが出会って……ふた月ほど経ちました」
「え? ええ……そうですね」
ルイーザ嬢は、たんたんした口ぶりで言った。
「アルフレッド様は、少し変わりました。ご自分でお気づきですか?」
「変わったところ? どこだろう」
まずは、とつぜん婚約者ができたこと。
ルイーザ嬢とよく話すようになったこと。
気丈なルイーザ嬢のおかげで、僕もちょっと前向きになれたような気がすること。
……どれも、特別変わったことだとは思えない。
「……わ、わかりません」
悪いことかもしれない、と思いながら答える。
問題に答えられないのは、僕が未熟なせいだからだ。
兄や姉なら答えられるのだから――いつも必ず、そうなのだ。
ルイーザ嬢は、えへん、と咳ばらいをした。
そして、
「アルフレッド様は――身長が伸びました!」
得意げに言った。
まるで黄色いボタンだった。
「ミツバチです。庭から迷い込んだのかな」
「ミツバチ……」
「かわいいですよ。ほら」
手のひらに乗ったミツバチを、僕はそっとルイーザ嬢に近づける。
勢いよく彼女はのけぞった。
「かわいらしいことは理解できます!」
「ああ、ごめんなさい……」
「処分しますか?」
執事が言う。殺してしまおうかという意味だろう。
僕は首を振った。
「植物の繁殖には欠かせないんだ。まだ役にたってもらおう」
クローゼットの窓を開けてもらい、僕はミツバチを外へ逃がした。
眼下に広がる庭へ、ふわりと飛んでいく。
「これだけ立派なお庭ですもの。虫だっていますわよね」
ルイーザ嬢が僕に並び、窓から外を見下ろす。
「虫もいますし、小さな動物や鳥も来ます」
「あら、そうなんですか? ウサギさんなんかもいらっしゃるのかしら」
ミツバチを避けた表情から一転、顔を輝かせたルイーザ嬢。
……ウサギが庭仕事にとって害獣であることは、まだ言わない方がいいだろう。
「それでは、アルフレッド様」
執事が勧める。
ルイーザ嬢を座らせて、僕は部屋を遮る衝立の向こうへ移動した。
僕は、ジャケットに袖を通す。
日頃着る服よりも厚く、重い。行事のたびに着る式典服は、やはり苦手だった。
「……どうでしょう」
衝立から体を出し、両手を広げて見せる。
もちろん、ルイーザ嬢に向かって。
「…………」
ルイーザ嬢は、僕の姿を頭のてっぺんからつま先まで、まじまじと見つめた後、
「やっぱり。とてもお似合いですわ」
目を細めて微笑んだ。
女性の笑顔にはいくつもの種類がある。というのは、僕がルイーザ嬢と婚約をしてから知ったことだ。
ルイーザ嬢が僕を見つめる微笑みは、優しい、まるで神話の女神のような笑いだった。
……ルイーザ嬢は、女神ではない。ものの例えだ。
冷酷姫だと呼ばれる彼女を、女神のようだと例えるのは、この世で僕だけかもしれない。
それは、つまり。
――僕は彼女に、好意を抱いている、ということに他ならないだろう。
政治のためと、家に決められた婚約者に?
しかも彼女は、もともと兄の婚約者だったのだ。
……そして、僕は彼女の涙を思い出す。
ルイーザ嬢の気持ちは、きっとまだ兄に残っているのだ。
復讐さえなければ、彼女が僕に付き合う理由はない。
「ルイーザ嬢」
僕がクローゼットに彼女を呼んだのは、彼女に褒めてほしかったからだ。
成人の儀の今日、彼女が最初に目にうつす王子は、僕であってほしかった。
――気持ちだけが急ぐと、ろくなことにならない。
口は、僕の気持ちに追いつくことができなかった。
「か、……っこいいですか? 僕は……」
……恰好悪すぎることを、とてつもなく格好悪く聞いてしまった。
ルイーザ嬢の顔を見ることができない。
アンドレアの式典服も真っ青なくらい、いまの僕は真っ赤になっていることだろう。
かつん、とルイーザ嬢の足音が部屋に響いた。
思わず身構える。けれど、少しの距離を保って、彼女は足を止めた。
「アルフレッド様。私たちが出会って……ふた月ほど経ちました」
「え? ええ……そうですね」
ルイーザ嬢は、たんたんした口ぶりで言った。
「アルフレッド様は、少し変わりました。ご自分でお気づきですか?」
「変わったところ? どこだろう」
まずは、とつぜん婚約者ができたこと。
ルイーザ嬢とよく話すようになったこと。
気丈なルイーザ嬢のおかげで、僕もちょっと前向きになれたような気がすること。
……どれも、特別変わったことだとは思えない。
「……わ、わかりません」
悪いことかもしれない、と思いながら答える。
問題に答えられないのは、僕が未熟なせいだからだ。
兄や姉なら答えられるのだから――いつも必ず、そうなのだ。
ルイーザ嬢は、えへん、と咳ばらいをした。
そして、
「アルフレッド様は――身長が伸びました!」
得意げに言った。
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