百万の粒を種蒔いて

向来去来

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1-A 詩と光と窓の人

入学式

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 取り止めもないことのように聞こえた。これからのことは、また式の後にでも話すのだろう。そこで重要度、こんな不器用な日本語の尺度が許されるのなら、そのメモリは高い数値につけるはずの予定やら、カリキュラムやらの説明があるはずだ。或いはそうだ、自己紹介やら、近々の顔合わせの学校行事のことだ。
 
 実際、これからやるべきことは山ほどある。まず部活をどうしようか。クラスに馴染めようか、孤立するのなら、何人かの道連れの友くらいはせめて見つけられようか。それもなければ、孤独を共にする場所くらいは見つけられようか。暗い方途は考えても仕方ない。しかし明るい方途は、探ろうにもそれなりに熱を入れてしないといけないことばかりだ。明るいから熱いのか、熱いから明るいのか。友達をつくるのだって一筋縄ではいかない。思えば小中学で馴染みの友達ばかりを相手にしてきたから新たな友人の作り方などとうに忘れてしまった。幸いなのはここは附属校でもなんでもないから、互いに忘れた者同士であって、つまり不器用者同士なのだから緊張はしなくていいし、むしろこうした目新しい場に慣れた転校の経験のある人たちのように妙に壁を作ったり、辺りの空気に自分を譲ることなどしなくていいわけだ。誰しも今ここでは、ほのかに教室の空気に溶かし込んだ自分とその奥にまだまだカチコチに凍らせた昔からの本物の自分を相携えて、少しずつ自分たちの教室の空気を循環していき、やがては皆雪解けしていくという運命の最初のラインに立っている。だが、それにしても骨は折れるはずだ。

 部活にしても…、と似たような言葉が頭を占めてあえて現実に向き合わないようにしていた。それはつまり、逆を言えば、何かしら策を立てるフリをして自分を言い聞かせながらただ過ぎていくくらいのものとして自分の現実を考えていればよいという、自分の生へのどうでもよさの現れでもあった。それは、知っていたのだ。

 だから、いっそうこんな話はどうでもよかった。田辺、と、黒板にはでかでかと先生の名前が書いてある、下の方は身体で見えなかったが、どうせそこには用がなくなる。

 教室にあって一番文学的な象徴となるのは、やはり窓だろうと俺は信じている。実際そうではないか。よく取り沙汰され、教室の退屈を紛らわすのはいつもこの窓の奥の景色だ。幸いにこの席は特等席を得ている。こんな見晴らしの良いところにあって、どうしてこれを見ずにいられるのだろう。ことに、諸説明を瑣末なことと耳を過ぎ行くままにさせながら、自分の先行きのことも放った人間にとっては。

 話は終わり、皆は出席番号順に列になった。こうしたシステムはもう身体の方が勝手に処置してくれるのだから、一々うんざりともしていられない。

 さっきあのB組の女子と上った時、階段は人間の生きた空間であり時間だった。今二百数十人が列をなしてバタバタと目的地への通路とする時、ここはもう何の意味も見出せない。そしてそうしたどうでもいいものがかさを増すたびにきらびやかに映るものは、一際光を放って見える。さっきよりも、教室の時よりも窓はいっそう輝かしく見えた。

 拍手で迎えられる体育館の静謐な雰囲気は、和やかと対極にありながらどうやら歓迎しているらしい。卒業式と違って役回りがないから気も楽だった。散々練習をやらされた甲斐もあってか、卒業式で得た作法をそのままこなせば良かったことにも楽だった。縁もないどうでもいいことが、同じくどうでもいいことを片付けていく。新入生の代表について晴々とした挨拶をした人は太い縁の眼鏡にくるくるとひどい癖毛を作っていて、それがどことなく苦労をしのばせたが、声には堂々たる気迫があって、どことなく涼しげだったのが印象的だった。むろんこんな美点は、普段は見出そうにも見出せるものではない。

 夜には星が見える。昼には見えない。そういうものだろうか。今日の自分はどうにも不機嫌で嫌になる。もっと素直に世界の音やら色に耳や眼を傾ければいいのに。これだけ他人がいながら自分には縁のないものであるからこそこうなっているのだろう。友達でなくとも、早いところこの孤独とは別れを告げなくてはならない、それが急に感じられた。星が見える夜には、夢見心地がなくてはあまりに一人でいるのは寒く寂しいではないか。

 式が終わり、先にどうでもいいと思っていた予定の方は、焦りも幸いして少なくとも上の空に聞くということにはならずして済んだ。自己紹介では振れ幅はあれども無難なところを取ったが、どうだか。何だか派手なことをしている奴もいたが、案外自分のこと以外覚えていない。
 
 鐘が鳴る。実質的な始まりは、きっとここからなのだろう。気持ちが固まることはなかったが、俺は一先ず椅子をしまい立ち上がることにした。
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