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第五章 この感情は君が教えてくれた

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 俺に声が掛けられたのは、杏珠が息を引き取ってから少し時間が経ってからだった。立っていることができず、崩れ落ちるようにして廊下の壁にもたれかかり座り込んだ俺の頭上に影ができ、そっと顔を上げるとそこには杏珠の母親の姿があった。
「杏珠に、会ってやってくれる……?」
 泣きはらした目で俺を優しく見つめると、杏珠の母は先程まで締め切られたままだった病室のドアを開けた。本当に入ってもいいのかと不安に思いながらも、立ち上がりフラつく足で一歩また一歩と杏珠のベッドへと向かう。
 そこには――さっきまでと何一つ変わらない様子で眠っている杏珠の姿があった。息を引き取ったと言われなければ、寝ているだけにしか見えない。
 いや、もしかしてみんなで俺を騙しているだけで本当はまだ生きているのではないだろうか。眠っていて、俺を驚かせるタイミングを見計らっているのではないだろか。
「あん……じゅ……」
 俺は先程までそうしていたように杏珠の手をそっと握りしめた。
「……っ」
 その手からは先程までのあたたかさが失われ始めていた。力の入らない手は無機物のようで、俺の手よりずいぶんと冷たくなってしまった杏珠の手のひらをギュッと握りしめる。
「あ……ああぁっ」
 冷たくなった杏珠の手の甲に、俺の涙がぽたりぽたりと落ちていく。どんなに強く手を握りしめても「痛いよ」と言う声は聞こえてこない。
「嫌だ……嫌だよ、杏珠……杏珠っ!」
 泣き叫びながら杏珠の手を握り続けることしか、俺にはできなかった。
 どれぐらいの時間が経っただろう。「蒼志君」と呼びかける声にようやく顔を上げると、杏珠の母親が優しい目で俺を見つめていた。
 そっと差し出されたハンカチを受け取ると、俺の涙で濡れた杏珠の手を拭き、そして自分の顔も拭った。
「杏珠のことをそんなにも想っててくれてありがとう」
「俺、は……」
「そんなあなたに、杏珠からお願いがあるんだって」
「杏珠、から?」
 そっと杏珠に視線を向ける。お願いが何なのか皆目見当もつかない。けれど、それが杏珠が俺に望んだことだというのなら、どんな願いでも叶えよう。もう俺が杏珠のためにできることなんて、そう多くはないのだから。
「ええ。……蒼志君、あなたが撮った杏珠の写真を遺影に使わせて欲しいの」
「遺影に……?」
「それが、杏珠の最期の願いよ」
 俺はプロのカメラマンでもなんでもない。写真だって杏珠のような一眼レフで撮ったものではなくスマートフォンのカメラだ。
「俺が撮ったもので、いいんですか?」
 何でも叶えたい、そう思ったはずなのに、予想外のことに不安になり思わず尋ねてしまう。そんな俺に杏珠の母親は寂しそうな表情で微笑んだ。
「あなたが撮ったものが、いいのよ」
 杏珠の母親からお金を渡され、俺は大学病院の一階に入っているコンビニへと急いだ。画像フォルダに入っている杏珠の写真を見せて選んでもらおうとしたのだが「これじゃあよくわからないから全部印刷してきてくれる?」と杏珠の母親は言った。
 杏珠と交わした約束通り、俺は三ヶ月間たくさんの杏珠を写真に収めた。90枚近くあるの写真には笑顔の、怒った顔の、拗ねた顔の、色々な表情の杏珠がいた。
 病室に戻り写真を差し出すと、杏珠の母親は受け取った写真をぎゅっと抱きしめた。まるで杏珠本人にするかのように。
 一枚、また一枚と写真をめくっていく。
「これはどこに行ったとき?」
「あら、どうして杏珠は泣いてるの?」
「ふふ、拗ねた顔して、まだまだ子どもね」
 涙混じりの声で杏珠の母親は笑う。俺も杏珠の母親から求められるままに杏珠との思い出を語っていった。
「これはニフレルに行ったときです」
「映画を見たんですが犬が死んでしまうシーンが悲しかったらしくて」
「二人で謎解きをしてたんですが俺が先に解いちゃって拗ねてたんです」
 どの出来事もつい昨日のことのように思い出せる。どれも一つ一つは些細なもので。まるで電車の中から見る景色のように通り過ぎていってしまった。
 本当はとても大切で、一つ一つを大事にしなければいけなかったのに。かけがえのない日々だったのに。
「ふふ……」
 悔いる俺の隣で、杏珠の母親が嬉しそうに笑った。どうしたのかとそちらを見ると、一枚の写真を手にしていた。それは、屋上で杏珠が俺に笑いかけている写真だった。
 その写真のことはよく覚えていた。この日まで、俺は杏珠の病気のことも何を抱えて生きているのかも知らなかった。知ろうともしてなかった。
 ――そういえば、あのとき杏珠は何かを言いかけてやめた。あの話を聞けないまま杏珠は逝ってしまった。何を言おうとしていたのか、もう俺が知ることは一生ない。できることならあの日に戻って杏珠に聞きたい。『今、何を言おうとしたの?』って。そうしたら杏珠は答えてくれるだろうか。それとも笑って誤魔化す? その答えも俺はもう知れないのだ。
 胸の奥が締め付けられるように苦しくなるのを感じる。そんな俺の耳に、杏珠の母親の柔らかい声が聞こえた。
「杏珠は、あなたのことが大好きだったのね」
「え……?」
「ほら、見て」
 杏珠の母に言われ、その写真を手に取る。レンズ越しに見るのとは違う、真っ直ぐに自分のことを見ている杏珠は『好きだよ』と言っているようだった。
 もしかしたらあのとき伝えてくれようとしたのは、これだったのだろうか。
「杏珠……」
 こんなにも伝えてくれていたのに、気付かなかった。気付こうと、しなかった。
 俺の頬を涙が伝い落ちる。それを拭うと、小さく頷いた。
「俺も、杏珠のことが、大好きです」
 凄く、凄く好きだった。もう届くことはないけれど、それでも伝えたい。
「杏珠、好きだよ。大好きだよ」
 閉じられた唇に薄らとリップが塗られているおかげで、まるで杏珠が微笑んでいるかのように見えた。

 余命宣告されたあの日から、十一ヶ月が経った。最初に宣告された三年という時を超え、こうして俺は生きている。
 三ヶ月目の検診の日、担当医は診察室へと入ってきた俺に驚いた顔を見せたのを今でもハッキリと覚えている。まるで幽霊でも見たかのような担当医に、俺は笑って見せた。
 そして今日、最後の検診を終え、俺のカルテには『完治』という言葉が書き込まれた。
 皮肉なことに、杏珠を失ったことにより俺は感情を取り戻した。それはすなわち、心失病が完治したことを示していた。
 担当医曰く、前例は今までに一件しかないらしく、俺は完治した二件目の症例となるらしかった。これからのために後日、話を聞かせてほしいということになった。
 けれど、話と言われても俺に話せることなんて殆どない。全ては杏珠が、起こしてくれた奇跡なのだから。
 病院からの帰り道、俺の頬に何かが触れた。顔を上げて見ると、そこには満開の桜が咲き誇っていた。
 もう二度と見ることはないと思っていた。俺がいなくなった世界で、杏珠が桜の花を見上げて、俺のことを思い出してくれればいいとそう思っていた。なのに。
 そっと差し出した手のひらの上に、薄桃色の花びらが舞い落ちてきた。その花びらに杏珠のことを思い出し、ふいに俺の頬を涙が伝った。
「……っ」
 杏珠のことを想うと、酷く胸が痛む。感情のコントロールが効かなくなって今みたいに突然涙が溢れてくる。
 この胸の痛みを、再び涙を流すことを教えてくれた杏珠はもうこの世にいない。
 それでもこの痛みを抱えて俺は生きていく。この感情を、痛みを思い出させてくれた杏珠の分まで。
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