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第四章 この感情を人は何と呼ぶのだろう

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 翌日、俺は学校について教室に入るなり後ろの席に座る大谷を振り返った。
「……おはよ」
「お? おお? おはよ?」
 大谷は目を丸くし、さらに瞬かせながら俺を見返した。その反応に思わず眉をひそめる。
「何、その態度」
「いやいやいや、だってお前。朝比奈が急に『おはよう』なんて言うからさ」
「俺だって挨拶の一つもするさ」
 そう言いながら、確かにこのクラスになって、いやこの学校に入ってから自分の方から誰かに挨拶をしたことなんてなかったことを思い出した。杏珠のことがなければ、ずっと誰かに対してこんな風に自分から行動をすることなんてなかったかもしれない。
「そうか? まあ、そうだよな。で、どうした? 急にさ」
「ああ、あのさ高槻まつりのことなんだけど、もう沢本さんに声かけたか?」
「まだ……。もう一度、スルーされたらと思うと怖くて」
「それはよかった」
「は? よかったってなんだよ」
 思わず口を付いて出た言葉を慌てて「間違えた」と謝ると、俺は周りに聞こえないよう声のトーンを少しだけ落とした。いかにも秘密の話、というように。 
「いや、ちょっと提案があって」
「提案?」
「そう」
 俺は杏珠に頼まれたことを、さも自分が発案したかのように大谷に話して聞かせた。
「多分さ、沢本さん二人で行くのが恥ずかしいんだと思うんだよ」
「俺と二人で行くのが嫌ってことだろ……?」
「そうじゃなくて。高槻まつりってクラスの奴らだいたい行くだろ? そこでさ二人っきりで行ってたら絶対からかわれると思わないか?」
「俺はからかわれるのも嬉しい」
「お前はそうでも女子はそうじゃないだろ。特に沢本さんだぞ」
 俺の言葉に大谷は「うっ」と呻いた。そして窓際に座る沢本に視線を向ける。徳本に話しかけられてはいるが静かに微笑み返す姿はとてもじゃないけれど杏珠と中学の頃から仲がいいとは思えない。杏珠が動なら沢本は静。まるで正反対の二人だった。
「でも」
 頭を抱える大谷が、縋るような視線を俺に向けた。俺はわざとらしく口角を上げる。笑っているように見えるように。
「そこで飯野だよ」
「なんで飯野?」
「二人が恥ずかしいなら飯野と四人ならOKしてくれるんじゃないか?」
「なっ……!」
 言葉を失ったかのように口を呆けたまま俺を見つめた大谷は、やがて両手で俺の手を掴んだ。
「蒼志……!」
「え、あ、うん?」
 突然のことに俺は状況が飲み込めない。今呼び捨てで俺のことを呼んだ? それも蒼志って?
 けれど大谷は俺の手を握りしめる力をさらに強くすると上下に振った。
「そんなにも俺のことを考えてくれてたなんて……!」
「いや、別にそういう……」
「たしかにそうだな! よし、飯野に話して四人で行けないかもう一度雪乃さんを誘ってみる! あ、もしよければ蒼志! お前も!」
「やだよ。男女二人ずつに俺が入ったら余るじゃん。と、いうか俺のことは気にしなくていいからささっさと話して来いよ。飯野が他の奴と約束したら困るだろ?」
 飯野と俺を見比べ、少し悩んでいたようだったが「じゃあ、土産買ってくるからな!」と俺に言い残し、飯野の元へとすっ飛んでいった。あとは誘えさえできれば徳本がなんとかしてくれるだろう。
 大谷が飯野のところへと向かう後ろ姿を見送りながら、ふと教室を見回す。俺が興味を持たなかっただけで、教室の中には色々な組み合わせがいた。あの二人は付き合っているのだろうか。やけに親密そうに顔を突き合わせている。あちらでは女子三人が微妙な空気を出しているが喧嘩でもしたのだろうか。それから向こうは――。
 杏珠に話して聞かせてやればきっと楽しんでくれるだろう。
 そういえば……。
 俺は、修学旅行の時のことを思い出す。担任に言われ仕方なくすることになった写真係。結局、俺は最初から最後まで性懲りもなくやる気のないままやっていたけれど、杏珠は違った。ファインダー越しにクラスメイトの姿を見る杏の表情はキラキラと輝いていた。写真が好きなのもあるだろう。けれど、それ以上にクラスメイトのことが好きなのだと思わされた。俺にはもうない感情。羨ましいわけではない。けれど、杏珠の目になってクラスメイトを見て見たら一体どんな風に見えるのか、ほんの少しだけ気になった。
 それと同時に、今一人で病室にいる杏珠のことが気に掛かった。あの真っ白の病室で、俺が来るまでひとりぼっちの杏珠は、寂しくないのだろうか。どうにかしてその寂しさを紛らわせてはあげられないものだろうか。
「……そうだ」
 思いついたことはあまりにも馬鹿げていて、自分自身でもどうかしているとしか思えなかった。けれど、杏珠はきっと喜んでくれるとそう思ってしまったから、もう行動せずにはいられなかった。
 その日の補習が終わったあと、俺は自分の席を立つと教卓の前に立った。一人二人と俺の存在に気づき、何が始まるのかと興味深そうに見ている。
 少なくとも普段こんなことをする俺ではないので、何か先生からの伝言でもあるのかと「明日の補習なしになったとかかな?」「だったらいいよね」と囁きあっている声も聞こえた。
「……あの、さ。ちょっとみんなに頼みがあるんだ」
 けれど、俺の言葉が思ったものと違ったのか、教室のあちこちでざわめきが起きる。大谷に至っては、俺を心配そうに見つめていた。
「どした、朝比奈ー。お前の席、そこじゃないぞ」
 誰かの言ったヤジに教室のあちこちから嘲笑うような声が聞こえる。あれは誰だったのだろう。クラスメイトに興味がなさ過ぎて、いまいち名前も思い出せない。けれど、何を言われても俺は何も感じなかった。なにかを感じるような、感情がないから。
 この病気に罹ったことを、今日始めて感謝したかも知れない。
「あのさ、頼みっていうのは写真を撮らせて欲しいんだ。皆の写真を、一人ずつ」
「はー? ボケてんの? 修学旅行は終わってもう写真係しなくていいんだぜー?」
 先程よりも大きな笑い声に教室が包まれる中、俺は声を張り上げた。
「日下部杏珠が救急車で運ばれたことは知ってるだろ」
 その言葉に、水を打ったように教室が静まり返る。あの日、救急車が学校にやってきて杏珠が運ばれたことは周知の事実だった。教室に置かれたままの誰も座らない席は、埃が溜まらないように沢本と徳本の二人が毎朝拭いていた。
「杏珠は今、病院にいる。入院してるんだ」
「……そんなこと、勝手に話してもいいのかよ」
「……怒られるかもしれないな」
 他でもない、杏珠自身に。「勝手なことをして!」と頬を膨らませる杏珠を想像すると笑ってしまいそうになる。暗い顔をして沈んでいるより余程いい。
「真っ白な病室で、今も杏珠は一人でいて。多分凄く寂しい思いをしていると思う。何よりも学校が、クラスメイトが好きだったから。……正直、俺にはその気持ちわかんないけど」
「わかる。俺も部屋で一人でいる方がいいや」
「えー、私は学校の方が愉しいな。一人は寂しいよ」
 感情がないから、という自分自身への皮肉を込めた言葉は、学校に行くのが面倒くさいという意味合いで取られたようで、口々に賛同やら否定の言葉やら様々な声が聞こえてきた。
「そんな杏珠の病室に、教室を作ってやりたいんだ。みんなの写真を撮って病室に貼らせて欲しい。写真部って言ったって俺は杏珠に無理やり引っ張り込まれただけで全然上手くないけど、それでも撮らせて欲しい」
 深々と頭を下げる俺に、教室は一瞬静まり返る。けれど。
「頼み事をするなら土下座ぐらいしろよ」
「ちょっと、平塚。さっきから調子乗りすぎじゃない?」
「うるせえ。かっこつけてあんなこと言うんだ。土下座ぐらいしてみせたらいいんだよ。誠意見せたら、俺たちだって考えてやるよ。なあ?」
「まあ、なあ」
「それぐらいされたら、協力してやらないこともないよな?」
 平塚と呼ばれた男子の言葉に、周りのクラスメイトも悪乗りを始める。女子達が諫めるが、こうなれば止まることはないだろう。
 だが、この状況は俺にとっては好都合だった。
「土下座でいいんだな?」
「は……」
 教卓の横に立つと、俺はその場に膝をつき、そして深々と頭を下げた。こんなことぐらいどうってことない。感情のない俺は土下座なんてしたところで悔しいとか情けないとかそんなことを思うことはない。
 それよりもこれぐらいのことで写真が撮れるなら、杏珠が喜ぶ顔が見れるならなんてことはなかった。
 杏珠が笑顔になるなら――。
 でも、杏珠は自分のために俺がこんなことをしたって知ったら、きっと怒るだろうな。
『自分を大事にしなきゃダメだよ、蒼志君』
 頭の中で杏珠が怒る声が聞こえた気がして、こんな状況なのに笑ってしまいそうになる。感情なんてもうなくなったはずだった。なのに、どうしてだろう。杏珠が絡むと、まるで普通の人間のように感情がよみがえってくるのは。
「……酷い」
 最初にそう言ったのは沢本だった。俺が顔を上げると、沢本は席を立ち俺の元にやってきた。そのあとに続くように徳本が、そして慌てた様子の大谷が俺の元にやってくる。大谷が俺の腕を持って立ち上がらせると「お前、カッコいいな」と俺にだけ聞こえるように言った。
 沢本の言葉を皮切りに、他のクラスメイトも口々に平塚を非難する。白い目で見られ、平塚は「……悪かったよ」と気まずそうに頭を下げた。
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