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第四章 この感情を人は何と呼ぶのだろう

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 放課後、エレベーターに乗り杏珠の入院している病棟へと向かう。真っ白のドアに貼られた『日下部杏珠』という名前を確認すると、ノックをしてからドアを開けた。
「失礼します」
「あ、蒼志君。もう学校終わったの?」
「補習だけだからね」
 ベッドをリクライニングさせ身体を起こした杏珠が、病室へと足を踏み入れた俺に手を振っていた。
 七月も終わりということもあり、学校は一学期が終わり夏休みに突入していた。とはいえ、毎日のようにある補習と模試のせいでいつも通りの時間に起きて学校に通っていた。一つ違うのは午後からの補習はないため、昼ご飯を食べることなく下校できることだった。部活のある生徒は、そこから昼ご飯を食べ部活に行くらしい。
 ベッド横の椅子に座ると、床に背負っていたリュックを置いた。
「でも今日から補講が始まったから大谷なんかは『野球する時間が減る!』って泣いてたよ」
「大谷君、赤点取ったんだ」
「三科目もあったらしい」
「悲惨だ」
 言葉とは対照的におかしそうに杏珠は笑う。その表情に俺は安堵する。救急車で運ばれた一週間前よりもここ数日は随分と落ち着いたように思う。余命宣告なんて所詮は当てにならずこのまま三ヶ月目が終わっても杏珠が笑っているように思えてしまう。
 けれど、それが願望でしかないのかもしれないと杏珠の身体を見ると思わされる。
 パジャマから覗く腕は一か月前に比べると随分と痩せ細った。元々細い方ではあったけれど、今のように骨が浮き出るほどの細さではなかった。
「それじゃあ今日の一枚、撮ってもいい?」
 杏珠はベッドの上に置いたスマートフォンを手に取った。入院してから、杏珠は一眼レフを使わなくなった。理由を聞くと「病院には不釣り合いでしょ?」と笑っていた。そんなものか、と思っていたが……。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
 お互いの写真を撮り合うと、夕方が来る前に俺は立ち上がった。杏珠は不服そうに声を上げた。
「もう帰るの?」
「もうって。何? 寂しいの?」
 からかうように言うと、杏珠は口を尖らせた。『そんなわけないでしょ』と言われると思っていたからそんな反応をされるとどうしていいか困る。
「あー……明日もまた来るよ」
「……うん、またね」
 俯いたあと、すぐに顔を上げ杏珠は笑顔を向けた。その笑顔に安堵すると俺は病室をあとにした。そろそろ杏珠の母親が仕事終わりに顔を出す時間だ。家族の時間を邪魔する訳にはいかない。
 エレベーターの前に立つと下に行くボタンを押した。エレベーターは一階から上ってくるようで暫く時間が掛かる。俺は廊下の壁にもたれかかった。ふうと息を吐いた俺の耳にバチバチと何かがぶつかる音が聞こえた。何の音だ? と辺りを見回し、すぐに音の正体に気付いた。雨だ。大粒の雨が窓にぶつかるように打ち付けている。そして自分が手ぶらなことに気付いた。
「あー……」
 持ってきていた傘を杏珠の病室に忘れてきてしまった。荷物を置いたときに一緒に床に置いたのだけれど、どうやらそのまま置いてきてしまったようだった。ここ数日、夕方になるとまるでスコールのような夕立が降る。そのため、念のためにと持ち歩いていたのだが、今日はあまりにもいい天気で降りそうになかったから油断していた。
「仕方ない、取りに戻るか」
 杏珠が馬鹿にして笑うだろうなと思うと苦笑いが浮かぶ。だが、俺のくだらないミスで杏珠が笑ってくれるならそれはそれでいいかという気持ちになった。
 エレベーターに背を向けて杏珠の病室へと戻る。もしかすると上がってくるエレベーターに杏珠の母親が乗っているかもしれないから手早く傘を回収してこよう。
 急ぎ足で杏珠の病室まで戻る。ノックをしようとしたそのとき、中から声が聞こえた。
「う……うぅっ……」
 杏珠……?
 苦しそうなうめき声に、俺はそっと病室のドアを開けた。隙間から見えたのは、身体をくの字に折り曲げ、胸を押さえる杏珠の姿だった。その姿に、ようやく気付く。笑っていた杏珠は、楽しそうにしていた杏珠は、俺に心配を掛けないようにと平気なフリをしていただけだったのだと。勿論全てが嘘だったとは思わない。けれど……。
 不意に、スマートフォンで写真を撮る杏珠の姿が思い出された。本人はきっと認めないだろう。けれど、なんとなくもうあのずっしりとした重さを支えることも構えることもできないのではないかと思ってしまう、
「……っ」
 俺は杏珠に気付かれないようにドアを閉めると、病室をあとにした。きっと今、俺が病室に入れば杏珠はまた平気な顔を見せるだろう。どれだけ苦しくても笑って見せるだろう。俺のために。そんなこと、させたくない。
 雨に濡れるぐらいどうだっていい。それよりも、今杏珠が抱えているであろう苦しみの方がずっと、ずっと大きいのだから。

 翌日も、俺は何食わぬ顔で病室を訪れた。杏珠も昨日苦しんでいたのが嘘のように笑っている。けれど、あの姿を見たあとでは、俺がこうやって来ることで杏珠に無理をさせているのではないかと不安になる。
 杏珠が言い出したこととはいえ、残された三ヶ月の大部分を俺が貰ってきた。振り回されつつも、それなりに騒がしい日々を送ることができた。きっと杏珠がいなければただ無感情のままに過ごす日々を送っていただろう。
 何か俺が杏珠にできることはないだろうか。ずっとそればかり考えていた。

 さらに翌日、相変わらず午前中は補習のため俺は教室にいた。授業の準備をしていると、後ろの席で大谷が深いため息を吐いた。
「もう、ホントダメ。心折れた」
「大丈夫だって。もう一回誘ってみなよ。伝わってないのかもしれないよ?」
「いや、でも次もう一回言ってスルーされたら俺、立ち直れないし」
 励ますように言うのは飯野だろうか。大谷はいつもの十分の一ほどのテンションで言う。どうやら誰かを何かに誘ってスルーされたらしい。以前は沢本のことを気に掛けていたようだったが、今もそうなのだろうか。そういえば沢本は杏珠と仲が良かった。沢本の話を聞ければ喜ぶだろうか。
「誰を誘って断られたんだ?」
「断られてねえよ!」
 振り返り尋ねると、勢いよく訂正された。大谷の席の横に立つ飯野は苦笑いを浮かべていた。
「断られてはいないよね。聞いても沢本さんにスルーされてるだけで」
「それは、その……」
 やはり沢本だった。修学旅行のあとしばらく仲良くしているように思えたのだが違ったのだろうか。
「あー……なんで駄目なんだろう。一緒に高槻まつりに行こうって誘ったんだけどなぁ」
「なんて言われたの?」
「『ちょっとまだ予定がわかんなくて』だって。これってやっぱり遠回しに断られてるよなー。つい先々週までは普通にデートしてさ、よしじゃあ祭りで告白だ! って思ってたのにさ」
「先々週……」
 引っかかりを覚えた。――もしかしたら。
「明日さ」
「え?」
「明日、もう一度誘ってみるといいよ。そしたらきっと上手くいくから」
「なんでわかるんだよ」
「なんとなく」
 それだけ言うと俺は前を向いた。大谷は後ろから何度も「何でだよ」とか「ホントにいけるのか?」とか言い続けていたが、無視することにした。上手くいくかもしれない。いかないかもしれない。けれど、勝率は高いような気がしていた。
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