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第二章 感情とはいったい何だったのか
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二日目、早朝から俺はホテルの外に出ていた。目が覚めたからではない。起こされたからだ。
「寒い」
「寒いね」
「眠い」
「うん、眠い」
「もう部屋に戻っていい?」
「駄目」
即答する杏珠にため息を吐く。
六月と言えど北海道。朝の冷え込みは大阪の比ではない。今も吐いたため息がやけに白くて余計に寒く思える。部屋を出たのが4時半過ぎだったはずだからそろそろ5時前だろうか。ちらほらと集まり始めたクラスメイトたちの姿にさっさと終われという気分にすらなってくる。
「楽しみだねー気球」
「俺はむしろいつの間に申し込まれていたのか不思議でしょうがないんだけど」
「班行動のときに決めたよ? ねー」
小首を傾げるようにして杏珠は俺、ではなくその後ろに立つ半分寝ている大谷達に声を掛けた。「お、おう」と慌てて返事をするけれどおそらく何を言われたのかすらわかっていないだろう。
どうせ女子三人が乗りたいと言ったのを、沢本にいい格好がしたい大谷が「いいじゃん、乗ろうぜ」とか言ったのだろう。後ろで苦笑いをしているもう一人の男子の班員である飯野を見れば、その予想が当たっているであろうことは想像に難くなかった。
「でもそんな話してた記憶、全くないんだけど」
「そりゃ、蒼志君が先生に呼ばれていなかったときに話してたから」
「は?」
「だって蒼志君がいるときにしても「めんどい」「やだ」「俺は行かない」って言うのが目に見えてるんだもん。ねー?」
もう一度、同意を求めるように『ねー?』と言った杏珠だったが、さすがに他のメンバーもその言葉に同意の声は上げなかった。大谷だけは腹を抱えて笑っていたが。
「……と、いうか翌日こんな予定が入ってるなら、昨日の夜あんな時間に起こすなよ」
「えーでも『杏珠と一緒に見れて嬉しかった』って蒼志君も言ってたでしょ」
「……そこまでは言ってない」
ポケットに手を突っ込んだままそっぽを向く俺を、大谷が不思議そうに覗き込む。
「なーなーなんの話?」
「なんでもないよ」
「昨日の夜ってなんだよ。俺らが寝たあと二人で何してたんだよ」
「何もしてねえよ」
「ホントか?」
疑わしそうに俺を見た後、大谷は視線を杏珠に向けた。
「日下部さんホントに?」
「えーどう思うー?」
「わっ。やっぱり何かあったんだな?」
「だから何もないって。杏珠も大谷をからかうなよ」
「だって大谷君面白いんだもん」
クスクスと笑う杏珠に「え、俺今からかわれてたの?」と大谷は泣き真似をしてみせる。そんなことをしている間にようやく一組目が飛び始め、辺りが騒がしくなった。俺達は5組目なのでもう少しあとだ。
赤や黄色といった色とりどりの気球が朝焼けの空を舞う。乗りたい、とは今も思わないがこうやって下から見上げる分にはいいかもしれない。
随分と前にテレビで見たトルコの気球を思い出す。何十、何百もの気球が一斉に空を舞う姿は壮観で、いつか実際に見てみたいと思った。両親に「ここに連れて行って!」と言って困らせたのが懐かしい。もうそんな気は起きないし、そもそもそんな時間も俺には残されていないけれど。
「ほら、次みたいだよ」
「あ、ああ」
空を舞う気球に見とれていた俺は、杏珠に声を掛けられるまで呼ばれていることに気付かなかった。人数の関係で俺達の班の6人と、隣のクラスの6人が一緒に乗ることになった。下から見ると小さく見えたそれは、間近で見ると思った以上に大きい。こんなものが、電気も使わず空を飛ぶというのだから不思議だ。
ゴンドラの扉が閉められて、いよいよ着火される。ふわり、と身体が宙に浮く感覚は、少し飛行機の離陸の瞬間に似ている気がした。
気球が高度をあげ、だんだんと地上にいるクラスメイトたちの姿が小さくなっていく。
「……綺麗」
隣に立つ杏珠が、遙か彼方まで広がる大地を、朝焼けを見て思わずと言った様子で呟いた。その感覚は俺にはわからない。けれど、朝焼けを見て綺麗だと言う杏珠のことを無性にカメラに収めたくなった。大谷達もスマートフォンで写真を撮っているから、俺が撮っていたとしても何も言われないだろう。杏珠に気付かれないようにポケットから取り出すと、そっとシャッターボタンを押した。
「え?」
「……何?」
「あ、ううん。そっか、朝焼けか。ビックリしちゃった」
すぐにスマートフォンの向きを変えたおかげで、杏珠は俺が撮ったのが朝焼けだと勘違いしてくれたようだ。
なんとなく後ろめたくて俺はスマートフォンをポケットに戻す。そして反対側のポケットに入れていたクラス用のデジカメを取り出した。
乗りたいとは思わなかったけれど、こういう機会でもないと気球に乗ることも、それからさっきのような杏珠の表情を見ることもなかっただろう。そう思うと、ほんの少しだけ大谷に感謝してもいいような気がした。
「大谷、それから沢本も」
「へ? あ、え、ピ、ピース」
俺の意図に気付いたのか、大谷は隣に立つ沢本と並んでピースサインをこちらに向けた。自然に笑う沢本の隣で動揺したせいか引きつった笑顔になってはいるが、いい思い出にはなるだろう。徳本と飯野の写真も撮り、それから自然なトーンで杏珠にもカメラを向けた。
「杏珠、ほら」
「撮ってくれるの? わ、嬉しい」
照れくさそうに杏珠は笑う。
――可愛い。
「……っ!?」
自分の中に浮かび上がった感情に、俺は驚きを隠せず息を呑んだ。今、何を考えた? 杏珠が、なんだって?
そんなふうに誰かのことを思うことがあるなんて、あの日以来思ってもみなかった。それなのに。
表情を見られたくなくて口元を押さえると、その場にしゃがみ込んだ。恥ずかしい。どうして、こんなこと。
もしかして、心失病が進んだせいで感情が爆発しようとしているのか。もしかすると爆発、という表現は正しくなくて本当は感情が増幅しているのではないだろうか。そうじゃないと説明が付かない。こんな、こんなふうに誰かのことを思うだなんて。
「大丈夫?」
突然しゃがみ込んで動かなくなった俺を、杏珠が心配そうに見下ろしている。心配掛けたくなくて「酔っただけ」と言うと「気球で?」と不思議そうに言われた。
気球では酔わないのだろうか、と思ったりもしたけれど今さらもう遅い。酔ったと言ったからには酔ってしまったで押し通すしかないのだ。
徐々に高度を下げて、気球が地上へと戻る。
「あっと言う間だな」
ポツリと大谷が呟く。その言葉に、まるで現実へと引き戻されるような、どこかもの悲しさすら感じる。素知らぬ顔で立ち上がると、杏珠が「もう大丈夫なの?」と尋ねてきたけれど聞こえなかったふりをした。
「朝比奈」
「え?」
大谷が何故か俺に向かって手を差し出しているのが見えた。何がしたいのかわからずにいると「ほら! カメラ!」と言って俺の手からクラス用のデジカメを奪い去る。
「お前、何を……」
「俺ら四人は撮ってもらったんだから、次はお前らだろ」
「は? いや、俺らは」
「いいから、並べよ」
大谷に言われるがままに杏珠の隣に並ぶ。「ほら、笑って」と言う大谷の声に、隣で杏珠が楽しそうに微笑みを浮かべる。
そんな杏珠のそばで、俺はただ立ち尽くしたまま笑うことも身動きすることもできずに写真に収まるしかなかった。
いつか見返したとき、これもいい思い出になるのだろうか。そう思うと、どことなくくすぐったいような、ちょっとだけ嬉しいような、そんな気がした。
「寒い」
「寒いね」
「眠い」
「うん、眠い」
「もう部屋に戻っていい?」
「駄目」
即答する杏珠にため息を吐く。
六月と言えど北海道。朝の冷え込みは大阪の比ではない。今も吐いたため息がやけに白くて余計に寒く思える。部屋を出たのが4時半過ぎだったはずだからそろそろ5時前だろうか。ちらほらと集まり始めたクラスメイトたちの姿にさっさと終われという気分にすらなってくる。
「楽しみだねー気球」
「俺はむしろいつの間に申し込まれていたのか不思議でしょうがないんだけど」
「班行動のときに決めたよ? ねー」
小首を傾げるようにして杏珠は俺、ではなくその後ろに立つ半分寝ている大谷達に声を掛けた。「お、おう」と慌てて返事をするけれどおそらく何を言われたのかすらわかっていないだろう。
どうせ女子三人が乗りたいと言ったのを、沢本にいい格好がしたい大谷が「いいじゃん、乗ろうぜ」とか言ったのだろう。後ろで苦笑いをしているもう一人の男子の班員である飯野を見れば、その予想が当たっているであろうことは想像に難くなかった。
「でもそんな話してた記憶、全くないんだけど」
「そりゃ、蒼志君が先生に呼ばれていなかったときに話してたから」
「は?」
「だって蒼志君がいるときにしても「めんどい」「やだ」「俺は行かない」って言うのが目に見えてるんだもん。ねー?」
もう一度、同意を求めるように『ねー?』と言った杏珠だったが、さすがに他のメンバーもその言葉に同意の声は上げなかった。大谷だけは腹を抱えて笑っていたが。
「……と、いうか翌日こんな予定が入ってるなら、昨日の夜あんな時間に起こすなよ」
「えーでも『杏珠と一緒に見れて嬉しかった』って蒼志君も言ってたでしょ」
「……そこまでは言ってない」
ポケットに手を突っ込んだままそっぽを向く俺を、大谷が不思議そうに覗き込む。
「なーなーなんの話?」
「なんでもないよ」
「昨日の夜ってなんだよ。俺らが寝たあと二人で何してたんだよ」
「何もしてねえよ」
「ホントか?」
疑わしそうに俺を見た後、大谷は視線を杏珠に向けた。
「日下部さんホントに?」
「えーどう思うー?」
「わっ。やっぱり何かあったんだな?」
「だから何もないって。杏珠も大谷をからかうなよ」
「だって大谷君面白いんだもん」
クスクスと笑う杏珠に「え、俺今からかわれてたの?」と大谷は泣き真似をしてみせる。そんなことをしている間にようやく一組目が飛び始め、辺りが騒がしくなった。俺達は5組目なのでもう少しあとだ。
赤や黄色といった色とりどりの気球が朝焼けの空を舞う。乗りたい、とは今も思わないがこうやって下から見上げる分にはいいかもしれない。
随分と前にテレビで見たトルコの気球を思い出す。何十、何百もの気球が一斉に空を舞う姿は壮観で、いつか実際に見てみたいと思った。両親に「ここに連れて行って!」と言って困らせたのが懐かしい。もうそんな気は起きないし、そもそもそんな時間も俺には残されていないけれど。
「ほら、次みたいだよ」
「あ、ああ」
空を舞う気球に見とれていた俺は、杏珠に声を掛けられるまで呼ばれていることに気付かなかった。人数の関係で俺達の班の6人と、隣のクラスの6人が一緒に乗ることになった。下から見ると小さく見えたそれは、間近で見ると思った以上に大きい。こんなものが、電気も使わず空を飛ぶというのだから不思議だ。
ゴンドラの扉が閉められて、いよいよ着火される。ふわり、と身体が宙に浮く感覚は、少し飛行機の離陸の瞬間に似ている気がした。
気球が高度をあげ、だんだんと地上にいるクラスメイトたちの姿が小さくなっていく。
「……綺麗」
隣に立つ杏珠が、遙か彼方まで広がる大地を、朝焼けを見て思わずと言った様子で呟いた。その感覚は俺にはわからない。けれど、朝焼けを見て綺麗だと言う杏珠のことを無性にカメラに収めたくなった。大谷達もスマートフォンで写真を撮っているから、俺が撮っていたとしても何も言われないだろう。杏珠に気付かれないようにポケットから取り出すと、そっとシャッターボタンを押した。
「え?」
「……何?」
「あ、ううん。そっか、朝焼けか。ビックリしちゃった」
すぐにスマートフォンの向きを変えたおかげで、杏珠は俺が撮ったのが朝焼けだと勘違いしてくれたようだ。
なんとなく後ろめたくて俺はスマートフォンをポケットに戻す。そして反対側のポケットに入れていたクラス用のデジカメを取り出した。
乗りたいとは思わなかったけれど、こういう機会でもないと気球に乗ることも、それからさっきのような杏珠の表情を見ることもなかっただろう。そう思うと、ほんの少しだけ大谷に感謝してもいいような気がした。
「大谷、それから沢本も」
「へ? あ、え、ピ、ピース」
俺の意図に気付いたのか、大谷は隣に立つ沢本と並んでピースサインをこちらに向けた。自然に笑う沢本の隣で動揺したせいか引きつった笑顔になってはいるが、いい思い出にはなるだろう。徳本と飯野の写真も撮り、それから自然なトーンで杏珠にもカメラを向けた。
「杏珠、ほら」
「撮ってくれるの? わ、嬉しい」
照れくさそうに杏珠は笑う。
――可愛い。
「……っ!?」
自分の中に浮かび上がった感情に、俺は驚きを隠せず息を呑んだ。今、何を考えた? 杏珠が、なんだって?
そんなふうに誰かのことを思うことがあるなんて、あの日以来思ってもみなかった。それなのに。
表情を見られたくなくて口元を押さえると、その場にしゃがみ込んだ。恥ずかしい。どうして、こんなこと。
もしかして、心失病が進んだせいで感情が爆発しようとしているのか。もしかすると爆発、という表現は正しくなくて本当は感情が増幅しているのではないだろうか。そうじゃないと説明が付かない。こんな、こんなふうに誰かのことを思うだなんて。
「大丈夫?」
突然しゃがみ込んで動かなくなった俺を、杏珠が心配そうに見下ろしている。心配掛けたくなくて「酔っただけ」と言うと「気球で?」と不思議そうに言われた。
気球では酔わないのだろうか、と思ったりもしたけれど今さらもう遅い。酔ったと言ったからには酔ってしまったで押し通すしかないのだ。
徐々に高度を下げて、気球が地上へと戻る。
「あっと言う間だな」
ポツリと大谷が呟く。その言葉に、まるで現実へと引き戻されるような、どこかもの悲しさすら感じる。素知らぬ顔で立ち上がると、杏珠が「もう大丈夫なの?」と尋ねてきたけれど聞こえなかったふりをした。
「朝比奈」
「え?」
大谷が何故か俺に向かって手を差し出しているのが見えた。何がしたいのかわからずにいると「ほら! カメラ!」と言って俺の手からクラス用のデジカメを奪い去る。
「お前、何を……」
「俺ら四人は撮ってもらったんだから、次はお前らだろ」
「は? いや、俺らは」
「いいから、並べよ」
大谷に言われるがままに杏珠の隣に並ぶ。「ほら、笑って」と言う大谷の声に、隣で杏珠が楽しそうに微笑みを浮かべる。
そんな杏珠のそばで、俺はただ立ち尽くしたまま笑うことも身動きすることもできずに写真に収まるしかなかった。
いつか見返したとき、これもいい思い出になるのだろうか。そう思うと、どことなくくすぐったいような、ちょっとだけ嬉しいような、そんな気がした。
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