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第二章 感情とはいったい何だったのか
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修学旅行の当日、集合時間の十五分前に俺は学校に着いた。すでに杏珠は来ていたようで、首から提げたデジカメを俺に向けながら「遅い!」と唇を尖らせた。
「もう! 遅刻するんじゃないかってヒヤヒヤしたよ」
「遅刻って。まだ集合時間まで十五分もあるぞ」
「あと十五分で集合時間、でしょ。私なんて三十分も前に着いたよ」
「……遠足が楽しみで寝られない小学生じゃないんだから」
ボソッと呟いた俺に「なんでわかったの?」と杏珠は首を傾げ、それから照れくさそうに笑った。
「昨日の夜、今日が楽しみすぎて全然寝られなくて! 20時にはベッドに入ったのに、寝付けたの22時だったよ」
「どっちに突っ込んでいいのかわかんねー」
高校生が20時に寝ようとするなよ、とも思うしそもそも俺が寝たのなんて日付が変わる直前で、22時でも十分早いほうだと思うのだ。
だが、そんな俺の呆れになんて気付かないようで杏珠はデジカメを構えると俺を撮った。
「なっ」
「登校してきたところから修学旅行は始まっているのだよ、蒼志君」
「いや、何だよそのキャラ」
「ふふっ。見て、みんな楽しみ半分、不安半分って顔してるの」
杏珠につられるようにして校門の方へと視線を向ける。いつもの登校時間よりも一時間早いため、この時間に学校に来ているのは俺達の学年の生徒だけだ。ボストンバッグや大きめのリュック、小さなキャリーケースを引っ張りながら緊張と楽しみが入り交じったような表情で登校してくる姿が見えた。
「なんかよくない? ああいう表情」
「……まあな」
俺の言葉に、杏珠は少し驚いたような表情を浮かべ、それから嬉しそうに笑った。
「素敵な修学旅行にしようね」
「……はしゃぎすぎて転ぶなよ」
同意するのも癪で、かと言って「別に」と言ってしまうのは何か違う気がして、杏珠に忠告だけすると俺は出欠を取っている担任の元へと向かった。後ろから「転ばないよ!」と杏珠が言っている声が聞こえて、思わず笑いそうになるのを咳払いで誤魔化しながら。
大阪国際空港までバスで向かうと、そこから飛行機に乗る。二時間ほどの空の旅を終えると、俺達は北の大地に足を踏み入れていた。
「寒い!」
あちこちから聞こえてくる声に、俺は心の中で同意した。半袖でもすでに暑かった大阪とは違い、六月も半ばだというのに北海道は薄らと寒い。これなら長袖のシャツで来た方が良かったのではと思わされるほどだ。ちなみに寒い寒いと文句を言っているのは男子だけで、女子は示し合わせたようにカーディガンを持参していた。勿論、杏珠もだ。
「そういうの持ってくるなら教えろよ」
「まあまあ。どうしても寒かったら私のカーディガン貸してあげるよ?」
「入るわけないだろ」
身長差がどれだけあると思っているんだ。
呆れたように言う俺に「意外と着れたりするかもよー?」と杏珠は笑った。
寒い寒いと文句を言いながらも、移動の大部分はバスなので空港でカーディガンを着込んだ女子達も早々に脱いで手に持っていた。邪魔そうだな、なんて思っていると通路を挟んで隣の席に座る杏珠と目が合った。
「どうしたの? あ、もしかして私のカーディガン持っててくれるとか?」
「バスに忘れていかないようにさっさと鞄に入れておけよ」
「もーノリ悪いなー」
ブツブツと文句を言いながらも、リュックにカーディガンを片付ける。その拍子に鞄の中に入った見覚えのある白い薬袋を見つけた。そこに書かれている調剤薬局の名前は大学病院そばの薬局だった。
「風邪でも引いたのか?」
「え?」
「今、薬入ってたから」
驚いたように俺を見た後、慌ててリュックのファスナーを閉めた。
「あーえっと、私車酔い酷くて。それで処方してもらったの。おばあちゃんのお見舞いのあと近くの病院に行ったから大学病院の近くの調剤薬局に行ったの」
聞かれてもいないことまで答える杏珠に「ふーん」とだけ返事をする。関心があるわけでも興味があるわけでもない。ただ。
「窓際の方が酔いにくいっていうし、しんどかったら変わってもらえよ」
発車してすぐに眠ってしまった杏珠の隣に座る女子に視線を向けながら俺は言う。「えへへ、そうする」と笑うと、杏珠も目を閉じた。
「あ……」
口を開こうとして俺はやめた。寝るならさっき片付けたカーディガンを羽織っておいた方が風邪を引かなくていいのではないか。そう言おうとしたが余計なお世話かもしれない。
「……何やってんだか」
杏珠の隣で寝ている女子のことは特に気にもならない。風邪を引こうが引くまいが勝手だと思うし、なんなら名前すらいまいち思い出せない。それなのに何故、杏珠のことだと気に掛かってしまうのか。もどかしい思いを抱えた俺を乗せて、バスは北海道の広大な大地を走り続けた。
アイヌの話を聞きジンギスカンを食べる。一日目は移動がメインだったのでそこまで予定は詰まっていない。ホテルについて休憩し、時間になれば食事場所となっているホールに集合だと担任は言っていた。
俺は三人部屋で、同じ班の大谷達と同室だった。そんな二人は荷物を置くなり、片付けることなく部屋を飛び出していった。
気を遣ったのか「一緒に行くか?」と尋ねられたが、首を振って断った。どこに行くか聞くこともしなかった。興味がなかったし聞きたいとも行きたいとも思わなかった。
大谷も別にどうしても俺に来て欲しかったというわけでもなく、同じ班で同室なのに放っていくのもと声をかけて来ただけだったようで、俺の反応に「おっけー」と軽く答え部屋を出て行った。
このまま集合時間まで寝てしまおう。荷物を片付け終わった俺は靴を脱いでベッドに寝転が――ろうとした。その瞬間、室内にチャイムの音が響き渡る。どうやら誰かが廊下からチャイムを鳴らしているようだった。
どうせ大谷達を誘いに来た誰かだろう。いないことがわかれば他を探しに行くかスマートフォンに連絡を入れるだろう。俺は無視を決め込むと、丸まるようにベッドに寝転がり目を閉じた。
「……うるさい」
すぐに諦めるだろうと思っていたチャイムはいつまでも鳴り続ける。なんとなく、もしかして薄らと、このチャイムの主がわかった気がした。
重い身体をベッドから起こすと、脱ぎ捨てた靴を履きドアへと向かう。のぞき穴から廊下を見ると、予想通りの人物の姿がそこにはあった。
「……何やってんの」
仕方なしにドアを開けると、満面の笑みを浮かべた杏珠の姿があった。
「あー、やっぱりいた!」
「いや、人の質問に答えてよ」
ガックリと項垂れる俺の顔の前に、手に持ったデジカメをずずいと差し出した。
「写真、撮るよ!」
「今?」
「いーま。ホテルのお土産物屋さんで見てたりとか、あとホテルの部屋でゆっくりしてる写真とかさ」
「それ、俺が女子の部屋行ったら問題なのでは?」
俺の言葉の意味がわからなかったのかキョトンとした表情を浮かべたあと、杏珠は軽蔑したように眉をひそめた。
「さいてー」
「いや、何を想像したんだよ。俺は行ったら問題なのでは? って聞いただけだろ」
「蒼志君ってば、女子の部屋のお写真撮ろうとするなんて、そんな人だったんだね」
「だから違うって言ってるだろ。人の話を聞け」
ふふっと笑うと「嘘だよ」と杏珠は言う。その表情が妙に可愛くて思わず俺は動きを止めた。最近、自分が変だ。杏珠といると、妙な気分になる。なくなったはずの感情が、杏珠の前では呼び起こされる。消えかかっていた感情が増幅する。杏珠の前でだけ、どうして。
「蒼志君?」
突然動きを止めた俺を、杏珠は不思議そうに覗き込む。慌てて何でもないフリをすると、杏珠に背を向けた。
「あっ」
非難の声を上げる杏珠に、俺は頭を掻くと振り返ることなく言った。
「……カメラ、取ってくる」
「うん!」
振り向かなくても、杏珠が嬉しそうな顔をしていると想像が付く。いつもみたいに、嬉しそうな顔できっと笑っているのだ。
そう言う顔をしている杏珠は悪くないと、思う。
……悪くないって、なんだよ。
頭を垂れ、ため息とともに呟いた言葉は、音になることなく閉じられたドアの内側へと消えた。
杏珠に取ってくるように言われたカメラで、俺は写真を撮っていく。男子の写真は俺が、女子の写真は杏珠が、と決めてはいたが、杏珠は近くにいる男子達の写真も次々と収めていく。おそらく、俺が預かってるデジカメに入っている枚数よりも遙かに多いだろう。
人徳の差、というか人付き合いの差というか。俺がカメラを向けるよりも杏珠が向けた方が皆、嬉しそうに写真に写っていた。俺がいる意味はあるのだろうか。隠し撮りのような形で写真を撮りながら、ふと杏珠に視線を向けた。
土産物屋の前で、男女入り交じって10人ちょっとの集まりがいた。集合写真を撮ろうとしているのか、全員をフレームに入れるために杏珠は後ろに下がっていく。
俺は杏珠の背後にあるものに気付いた。
「い……っ」
「わっ」
「あっぶないな」
「蒼志君?」
無我夢中だった。反射的に、杏珠の身体を背後から抱きすくめていた。杏珠は何が起きたのかわからないといった表情を浮かべ、ようやく自分が俺に抱きしめられていることに気付いたのか慌てて飛び退いた。
俺は背中に当たった柱の角のせいで痛む背中を押さえながら、何をやっているんだかと自問自答する。
危ないと一声掛ければよかった。別に身を挺してまで庇う必要はなかった。ぶつかって転んだとしてもたいした怪我をするわけじゃない。余計なことなんてせず放っておけばよかった。
そう頭ではわかっているのに、気付けば身体が動いていた。杏珠が転ばないように、痛い目に遭わないように。危ないとそう思ったときには駆け出し、そして身体を抱きしめていた。
以前であれば絶対にこんなことすることはなかった。杏珠が転ぼうが怪我をしようがどうでもよかった。なのに、どうして。
いや、どうしてなんて言葉で誤魔化せないことはもうわかっていた。少なくとも杏珠に対してだけは、俺の感情は揺れ動く。他の人間はどうでもいい。自分自身のことだってなんとも思わない。なのに、なぜか、どうしてか、杏珠に対してはどうでもいいとは思えない。
一か月前と比べると明らかに変わり初めていた。
『心失病患者の中には、寿命を迎える前、まるで今まで押さえ込んでいた感情が爆発するように湧き出て、それから静かに息を引き取る人もいる』
ふいに松村の言葉がよみがえる。これがその兆しなのだろうか。押さえ込んでいた感情が、何故か杏珠にだけ爆発し、そしてそのまま俺は死を迎えるのだろうか。
「……悪くは、ないな」
自分自身の呟きが信じられなかった。でも、悪くない。その言葉があまりにもしっくりきて、俺はほんの少しだけ口角を上げた。
そのあとも、何故かぎこちない態度の杏珠とともにクラスメイトの写真を撮った。ちなみに今日の一枚は、すでにバスの中で撮っていた。眠っている杏珠の姿。いつか見せることがあったとき、杏珠は怒るのだろうか。それとも「いつの間に撮っていたの?」と笑うのだろうか。
そういえば、こうやってお互い写真を撮り続けているがこの写真はどうするのだろう。三ヶ月が経って俺が死んだあと、杏珠は一人で見るのだろうか。
それよりは、一緒に見て笑いたいなとそんなことを思う。今度、杏珠に提案してみよう。ああ、でも杏珠が撮った自分の写真は別に見たくないな。そんなことを思いながら、修学旅行一日目の夜は更けていった。
――お互いの撮った写真を見せ合う。そんな日が来ることはないことを、このときの俺はまだ知らなかった。
その日の夜中だった。俺のスマートフォンに一通のメッセージが届いたのは。それは、杏珠からだった。
『夜空が凄く綺麗だよ』
大谷達が眠っていることを確認すると、そっとベッドから抜け出しカーテンを開けた。そこには確かに満天の星空が広がっていた。
光の多い大阪では見ることのできない量の星に圧巻される。
返事を返せないままいると、杏珠から電話がかかってきた。
『星、見た?』
「……寝てたらどうするつもりだったんだよ」
『既読がついたから起きてると思って。ね、それより星見た? 凄いね』
「……凄い。一瞬、息ができなくなった」
言ってから笑われるかもしれないと思ったがどうでもよかった。けれど、杏珠は笑うことなく、電話の向こうで頷いた。
『うん、わかる。息ができなくなるぐらい凄くて、目が離せなくなった』
杏珠の言葉がどうしてか嬉しかった。自分と同じようなことを思ってくれる人がいることに、どうしてか胸の奥がふわふわした。
でも、そんなまるで感情のある人間の思うようなことを自分が考えたことが信じられなくて、俺はごまかすように尋ねた。
「……なんで」
『え?』
「なんで俺に連絡してきたの?」
誤魔化しながらも、単純に疑問でもあった。別に星空を見るのであればわざわざ俺に連絡してくる必要はない。同じ部屋には沢本や徳本がいるのだ。二人を起こして三人で見ればいい。そう疑問に思い尋ねると、杏珠が言葉に詰まったのがわかった。
『それ、は』
「それは?」
『…………』
何も答えない杏珠に、そんなに変なことを尋ねただろうかと少しだけ気になる。
「杏珠?」
『……から』
「え?」
上手く聞き取れなくて、聞き返した俺に杏珠は怒ったように言った。
『蒼志君と見たいと思ったから!』
「は……?」
『じゃあおやすみなさい! 明日、寝坊しないようにね!』
通話の切れたスマートフォンを見つめながら俺は「何を怒ってるんだ?」と首を傾げると、もう一度星空を見上げた。
杏珠はこの星空を俺と見たかったのだと言った。もしも俺が先にこの星空を見つけていたとしたら、その時は……。
「確かに、俺も杏珠に連絡していたかもしれないな」
小さく呟くと、俺は杏珠にメッセージを送ってスマートフォンのディスプレイをオフにした。
『教えてくれてありがとう。嬉しかった。おやすみなさい』
送ったメッセージに、すぐ既読がついたことに気づかないまま。
「もう! 遅刻するんじゃないかってヒヤヒヤしたよ」
「遅刻って。まだ集合時間まで十五分もあるぞ」
「あと十五分で集合時間、でしょ。私なんて三十分も前に着いたよ」
「……遠足が楽しみで寝られない小学生じゃないんだから」
ボソッと呟いた俺に「なんでわかったの?」と杏珠は首を傾げ、それから照れくさそうに笑った。
「昨日の夜、今日が楽しみすぎて全然寝られなくて! 20時にはベッドに入ったのに、寝付けたの22時だったよ」
「どっちに突っ込んでいいのかわかんねー」
高校生が20時に寝ようとするなよ、とも思うしそもそも俺が寝たのなんて日付が変わる直前で、22時でも十分早いほうだと思うのだ。
だが、そんな俺の呆れになんて気付かないようで杏珠はデジカメを構えると俺を撮った。
「なっ」
「登校してきたところから修学旅行は始まっているのだよ、蒼志君」
「いや、何だよそのキャラ」
「ふふっ。見て、みんな楽しみ半分、不安半分って顔してるの」
杏珠につられるようにして校門の方へと視線を向ける。いつもの登校時間よりも一時間早いため、この時間に学校に来ているのは俺達の学年の生徒だけだ。ボストンバッグや大きめのリュック、小さなキャリーケースを引っ張りながら緊張と楽しみが入り交じったような表情で登校してくる姿が見えた。
「なんかよくない? ああいう表情」
「……まあな」
俺の言葉に、杏珠は少し驚いたような表情を浮かべ、それから嬉しそうに笑った。
「素敵な修学旅行にしようね」
「……はしゃぎすぎて転ぶなよ」
同意するのも癪で、かと言って「別に」と言ってしまうのは何か違う気がして、杏珠に忠告だけすると俺は出欠を取っている担任の元へと向かった。後ろから「転ばないよ!」と杏珠が言っている声が聞こえて、思わず笑いそうになるのを咳払いで誤魔化しながら。
大阪国際空港までバスで向かうと、そこから飛行機に乗る。二時間ほどの空の旅を終えると、俺達は北の大地に足を踏み入れていた。
「寒い!」
あちこちから聞こえてくる声に、俺は心の中で同意した。半袖でもすでに暑かった大阪とは違い、六月も半ばだというのに北海道は薄らと寒い。これなら長袖のシャツで来た方が良かったのではと思わされるほどだ。ちなみに寒い寒いと文句を言っているのは男子だけで、女子は示し合わせたようにカーディガンを持参していた。勿論、杏珠もだ。
「そういうの持ってくるなら教えろよ」
「まあまあ。どうしても寒かったら私のカーディガン貸してあげるよ?」
「入るわけないだろ」
身長差がどれだけあると思っているんだ。
呆れたように言う俺に「意外と着れたりするかもよー?」と杏珠は笑った。
寒い寒いと文句を言いながらも、移動の大部分はバスなので空港でカーディガンを着込んだ女子達も早々に脱いで手に持っていた。邪魔そうだな、なんて思っていると通路を挟んで隣の席に座る杏珠と目が合った。
「どうしたの? あ、もしかして私のカーディガン持っててくれるとか?」
「バスに忘れていかないようにさっさと鞄に入れておけよ」
「もーノリ悪いなー」
ブツブツと文句を言いながらも、リュックにカーディガンを片付ける。その拍子に鞄の中に入った見覚えのある白い薬袋を見つけた。そこに書かれている調剤薬局の名前は大学病院そばの薬局だった。
「風邪でも引いたのか?」
「え?」
「今、薬入ってたから」
驚いたように俺を見た後、慌ててリュックのファスナーを閉めた。
「あーえっと、私車酔い酷くて。それで処方してもらったの。おばあちゃんのお見舞いのあと近くの病院に行ったから大学病院の近くの調剤薬局に行ったの」
聞かれてもいないことまで答える杏珠に「ふーん」とだけ返事をする。関心があるわけでも興味があるわけでもない。ただ。
「窓際の方が酔いにくいっていうし、しんどかったら変わってもらえよ」
発車してすぐに眠ってしまった杏珠の隣に座る女子に視線を向けながら俺は言う。「えへへ、そうする」と笑うと、杏珠も目を閉じた。
「あ……」
口を開こうとして俺はやめた。寝るならさっき片付けたカーディガンを羽織っておいた方が風邪を引かなくていいのではないか。そう言おうとしたが余計なお世話かもしれない。
「……何やってんだか」
杏珠の隣で寝ている女子のことは特に気にもならない。風邪を引こうが引くまいが勝手だと思うし、なんなら名前すらいまいち思い出せない。それなのに何故、杏珠のことだと気に掛かってしまうのか。もどかしい思いを抱えた俺を乗せて、バスは北海道の広大な大地を走り続けた。
アイヌの話を聞きジンギスカンを食べる。一日目は移動がメインだったのでそこまで予定は詰まっていない。ホテルについて休憩し、時間になれば食事場所となっているホールに集合だと担任は言っていた。
俺は三人部屋で、同じ班の大谷達と同室だった。そんな二人は荷物を置くなり、片付けることなく部屋を飛び出していった。
気を遣ったのか「一緒に行くか?」と尋ねられたが、首を振って断った。どこに行くか聞くこともしなかった。興味がなかったし聞きたいとも行きたいとも思わなかった。
大谷も別にどうしても俺に来て欲しかったというわけでもなく、同じ班で同室なのに放っていくのもと声をかけて来ただけだったようで、俺の反応に「おっけー」と軽く答え部屋を出て行った。
このまま集合時間まで寝てしまおう。荷物を片付け終わった俺は靴を脱いでベッドに寝転が――ろうとした。その瞬間、室内にチャイムの音が響き渡る。どうやら誰かが廊下からチャイムを鳴らしているようだった。
どうせ大谷達を誘いに来た誰かだろう。いないことがわかれば他を探しに行くかスマートフォンに連絡を入れるだろう。俺は無視を決め込むと、丸まるようにベッドに寝転がり目を閉じた。
「……うるさい」
すぐに諦めるだろうと思っていたチャイムはいつまでも鳴り続ける。なんとなく、もしかして薄らと、このチャイムの主がわかった気がした。
重い身体をベッドから起こすと、脱ぎ捨てた靴を履きドアへと向かう。のぞき穴から廊下を見ると、予想通りの人物の姿がそこにはあった。
「……何やってんの」
仕方なしにドアを開けると、満面の笑みを浮かべた杏珠の姿があった。
「あー、やっぱりいた!」
「いや、人の質問に答えてよ」
ガックリと項垂れる俺の顔の前に、手に持ったデジカメをずずいと差し出した。
「写真、撮るよ!」
「今?」
「いーま。ホテルのお土産物屋さんで見てたりとか、あとホテルの部屋でゆっくりしてる写真とかさ」
「それ、俺が女子の部屋行ったら問題なのでは?」
俺の言葉の意味がわからなかったのかキョトンとした表情を浮かべたあと、杏珠は軽蔑したように眉をひそめた。
「さいてー」
「いや、何を想像したんだよ。俺は行ったら問題なのでは? って聞いただけだろ」
「蒼志君ってば、女子の部屋のお写真撮ろうとするなんて、そんな人だったんだね」
「だから違うって言ってるだろ。人の話を聞け」
ふふっと笑うと「嘘だよ」と杏珠は言う。その表情が妙に可愛くて思わず俺は動きを止めた。最近、自分が変だ。杏珠といると、妙な気分になる。なくなったはずの感情が、杏珠の前では呼び起こされる。消えかかっていた感情が増幅する。杏珠の前でだけ、どうして。
「蒼志君?」
突然動きを止めた俺を、杏珠は不思議そうに覗き込む。慌てて何でもないフリをすると、杏珠に背を向けた。
「あっ」
非難の声を上げる杏珠に、俺は頭を掻くと振り返ることなく言った。
「……カメラ、取ってくる」
「うん!」
振り向かなくても、杏珠が嬉しそうな顔をしていると想像が付く。いつもみたいに、嬉しそうな顔できっと笑っているのだ。
そう言う顔をしている杏珠は悪くないと、思う。
……悪くないって、なんだよ。
頭を垂れ、ため息とともに呟いた言葉は、音になることなく閉じられたドアの内側へと消えた。
杏珠に取ってくるように言われたカメラで、俺は写真を撮っていく。男子の写真は俺が、女子の写真は杏珠が、と決めてはいたが、杏珠は近くにいる男子達の写真も次々と収めていく。おそらく、俺が預かってるデジカメに入っている枚数よりも遙かに多いだろう。
人徳の差、というか人付き合いの差というか。俺がカメラを向けるよりも杏珠が向けた方が皆、嬉しそうに写真に写っていた。俺がいる意味はあるのだろうか。隠し撮りのような形で写真を撮りながら、ふと杏珠に視線を向けた。
土産物屋の前で、男女入り交じって10人ちょっとの集まりがいた。集合写真を撮ろうとしているのか、全員をフレームに入れるために杏珠は後ろに下がっていく。
俺は杏珠の背後にあるものに気付いた。
「い……っ」
「わっ」
「あっぶないな」
「蒼志君?」
無我夢中だった。反射的に、杏珠の身体を背後から抱きすくめていた。杏珠は何が起きたのかわからないといった表情を浮かべ、ようやく自分が俺に抱きしめられていることに気付いたのか慌てて飛び退いた。
俺は背中に当たった柱の角のせいで痛む背中を押さえながら、何をやっているんだかと自問自答する。
危ないと一声掛ければよかった。別に身を挺してまで庇う必要はなかった。ぶつかって転んだとしてもたいした怪我をするわけじゃない。余計なことなんてせず放っておけばよかった。
そう頭ではわかっているのに、気付けば身体が動いていた。杏珠が転ばないように、痛い目に遭わないように。危ないとそう思ったときには駆け出し、そして身体を抱きしめていた。
以前であれば絶対にこんなことすることはなかった。杏珠が転ぼうが怪我をしようがどうでもよかった。なのに、どうして。
いや、どうしてなんて言葉で誤魔化せないことはもうわかっていた。少なくとも杏珠に対してだけは、俺の感情は揺れ動く。他の人間はどうでもいい。自分自身のことだってなんとも思わない。なのに、なぜか、どうしてか、杏珠に対してはどうでもいいとは思えない。
一か月前と比べると明らかに変わり初めていた。
『心失病患者の中には、寿命を迎える前、まるで今まで押さえ込んでいた感情が爆発するように湧き出て、それから静かに息を引き取る人もいる』
ふいに松村の言葉がよみがえる。これがその兆しなのだろうか。押さえ込んでいた感情が、何故か杏珠にだけ爆発し、そしてそのまま俺は死を迎えるのだろうか。
「……悪くは、ないな」
自分自身の呟きが信じられなかった。でも、悪くない。その言葉があまりにもしっくりきて、俺はほんの少しだけ口角を上げた。
そのあとも、何故かぎこちない態度の杏珠とともにクラスメイトの写真を撮った。ちなみに今日の一枚は、すでにバスの中で撮っていた。眠っている杏珠の姿。いつか見せることがあったとき、杏珠は怒るのだろうか。それとも「いつの間に撮っていたの?」と笑うのだろうか。
そういえば、こうやってお互い写真を撮り続けているがこの写真はどうするのだろう。三ヶ月が経って俺が死んだあと、杏珠は一人で見るのだろうか。
それよりは、一緒に見て笑いたいなとそんなことを思う。今度、杏珠に提案してみよう。ああ、でも杏珠が撮った自分の写真は別に見たくないな。そんなことを思いながら、修学旅行一日目の夜は更けていった。
――お互いの撮った写真を見せ合う。そんな日が来ることはないことを、このときの俺はまだ知らなかった。
その日の夜中だった。俺のスマートフォンに一通のメッセージが届いたのは。それは、杏珠からだった。
『夜空が凄く綺麗だよ』
大谷達が眠っていることを確認すると、そっとベッドから抜け出しカーテンを開けた。そこには確かに満天の星空が広がっていた。
光の多い大阪では見ることのできない量の星に圧巻される。
返事を返せないままいると、杏珠から電話がかかってきた。
『星、見た?』
「……寝てたらどうするつもりだったんだよ」
『既読がついたから起きてると思って。ね、それより星見た? 凄いね』
「……凄い。一瞬、息ができなくなった」
言ってから笑われるかもしれないと思ったがどうでもよかった。けれど、杏珠は笑うことなく、電話の向こうで頷いた。
『うん、わかる。息ができなくなるぐらい凄くて、目が離せなくなった』
杏珠の言葉がどうしてか嬉しかった。自分と同じようなことを思ってくれる人がいることに、どうしてか胸の奥がふわふわした。
でも、そんなまるで感情のある人間の思うようなことを自分が考えたことが信じられなくて、俺はごまかすように尋ねた。
「……なんで」
『え?』
「なんで俺に連絡してきたの?」
誤魔化しながらも、単純に疑問でもあった。別に星空を見るのであればわざわざ俺に連絡してくる必要はない。同じ部屋には沢本や徳本がいるのだ。二人を起こして三人で見ればいい。そう疑問に思い尋ねると、杏珠が言葉に詰まったのがわかった。
『それ、は』
「それは?」
『…………』
何も答えない杏珠に、そんなに変なことを尋ねただろうかと少しだけ気になる。
「杏珠?」
『……から』
「え?」
上手く聞き取れなくて、聞き返した俺に杏珠は怒ったように言った。
『蒼志君と見たいと思ったから!』
「は……?」
『じゃあおやすみなさい! 明日、寝坊しないようにね!』
通話の切れたスマートフォンを見つめながら俺は「何を怒ってるんだ?」と首を傾げると、もう一度星空を見上げた。
杏珠はこの星空を俺と見たかったのだと言った。もしも俺が先にこの星空を見つけていたとしたら、その時は……。
「確かに、俺も杏珠に連絡していたかもしれないな」
小さく呟くと、俺は杏珠にメッセージを送ってスマートフォンのディスプレイをオフにした。
『教えてくれてありがとう。嬉しかった。おやすみなさい』
送ったメッセージに、すぐ既読がついたことに気づかないまま。
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