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第二章 感情とはいったい何だったのか

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「準備期間から写真を撮ってね」という担任からの言葉通り、俺と杏珠は班決めをしているクラスメイトの写真を撮った。ちなみに修学旅行用としてデジカメを一つずつ渡された。個人のカメラで撮るものとは別で管理するようにとのことだった。
 俺は適当にそれぞれの写真を撮っていく。少し不安そうな表情を浮かべた女子や決めなければいけないことそっちのけで全然関係のない話をする男子、行きたい場所で喧嘩になりそうな班もある。そのどれもが俺にとってどうでもよかった。
 そんな俺とは対照的に、クラスメイトに話しかけながら写真を撮る杏珠。不思議なことに、杏珠が笑顔で声を掛けるとそこにパッと花が咲いたように明るくなる。さっきまで不安そうな表情を浮かべていた女子も、馬鹿話ばかりしていた男子も杏珠の声かけで表情が雰囲気が変わっていく。
 俺はポケットからスマートフォンを取り出すと、クラスメイトを撮る杏珠の姿を写真に収めた。今日の一枚、だ。
 キラキラとした笑顔を浮かべる杏珠。何がそんなに楽しいのか俺にはわからない。それでも、杏珠の笑顔が伝染するかのように、クラスメイト達が笑顔になっていく姿は単純に感心してしまう。俺とは違う。俺にはマネできない。マネしたいとも思わないが――。

「どう? 撮れた?」
 LHRが終わり、そのまま帰りのHRに入った教室で、隣の席から杏珠は俺に尋ねた。「まあ、一応」と気のない返事をする俺に「偉い偉い」と杏珠は笑う。そうやって笑いかけてくれることが、どうしてか『嬉しい』気がして、でもその感情の理由がわからず首を振る。感情がなくなって困ることはなかったけれど、まさか自分の中に残っている感情に対して理解できないと思うことがあるなんて。
 黒板の前では担任が明日提出締切のプリントがまだ集まりきっていないことを注意していた。忘れると、修学旅行に参加できないと。必ず明日、親に印鑑を押してもらってもってくるように、とのことだった。
 担任の話を聞きながら、杏珠は俺の方を見た。
「楽しみだなー修学旅行」
「そうか?」
「あれ? そんなことない? あ、ねえねえ。蒼志君のところは中学の修学旅行どこ行った? あれって同じ市内でも学校によって違うのかな?」
「うちはねー」と楽しそうに話す杏珠に、俺は感情のない声で言った。
「俺、行ってないから」
「え?」
「中学の修学旅行、行ってない。ちょうど、病気が発覚した直後だったから」
 中学二年の秋に予定されていた修学旅行。だが、夏に心失病を発症した俺は、不安に思った両親から「修学旅行に行くのはやめてほしい」と言われ、その言葉を受け入れた。
 別に両親のためではない。ただ全てがどうでもよかった。自分のせいで泣いている両親も、腫れ物に触れるように扱ってくる教師も友人も全てがどうでもよかった。
 今思うと、発症した当初はまるで電気のスイッチを消したようにバチンと一気に感情がなくなってしまっていたように思う。医者の話では本来は徐々に感情が消えていくらしいのだが、稀に俺のように一度完全に感情が消え、そこから緩やかに元に戻り、また徐々に消えていくというパターンを通る場合もあるらしい。
 徐々に消えていく患者に比べて、余命が長いのが特徴だと、よかったねと言われたのを覚えている。
 よかった、の言葉の意味はわからない。どうせ死ぬのなら変に長びかせずさっさと殺してくれた方が楽だしいいと俺は思う。ただ、その説明を聞いた母親が「よかった」と涙を流していたから、残される人間にとって心の準備をする期間が延びた、ということに対しては『よかった』のかもしれないと思った。
 隣に座る杏珠の姿を視線の端で見る。前を向いたまま何かを考え込むように杏珠は黙っている。一体何を考えているのか。さすがの杏珠でもまずいことを聞いたと思っているのかも知れない。「ごめん」と謝られるだろうか。それとも聞かなかったことにして他の話題に移るのだろうか。杏珠がどんな反応を返してくるのか、ほんの少しだけ興味が湧いた。
 だが、杏珠はいつだって俺の斜め上を行くことを忘れていた。
「そっか、じゃあ楽しみだね!」
「は?」
「え、何その反応」
 怪訝そうに眉をひそめる杏珠に、その言葉をそっくりそのまま返すよと言いたかった。
「いや、楽しみって……」
「楽しみじゃないの? 初めての修学旅行でしょ? あ、それとも嬉しい、かな?」
「別に修学旅行自体は小六でも行ったから」
「まあそうかもしれないけど。でも、小学生と高校生じゃ違うじゃん。持って行っていいお小遣いとか、行く場所とかさ」
「まあ、たしかに」
 思わず納得してしまった俺に「でしょ?」と嬉しそうな笑顔を向ける。
「それに、ほら。今回は私も一緒だし」
「どういう理屈だよ」
「え、私と一緒に行くの楽しみじゃない? 嬉しくない? 私は蒼志君と一緒に行けるの楽しみだよ!」
 はにかむように言う杏珠から視線を逸らす。楽しみじゃない? と、言われても困る。嬉しいかと聞かれると、それはそれで返事に悩む。全く嬉しくないと言ってしまえば、嘘になるのは残っている感情のせいでわかっていたから。
「……杏珠が暴走しないか不安だな」
「どういう意味!?」
「そのままの意味だよ」
 せっかく残っている感情があるのだから素直に伝えればいいのに、どうしてそうできないのか。頬を膨らませながら怒る杏珠をあしらいながら、前を向く。少しだけ上がった口角の理由を話せばきっと、杏珠が喜ぶであろうことはわかっていたけれど黙ったまま口をつぐんだ。
 
 放課後「今日の一枚はもう撮った」と俺が伝えると、「私も!」と杏珠は笑った。一体いつどんな姿を撮ったのか想像も付かないが、撮ったのであれば今日の部活はしなくてもよさそうだ。
 いつもよりも早い時間に自宅に帰った俺は、鞄の奥でクシャッとなっていたプリントを見つけた。そういえば、帰りのHRで担任が明日までだと言っていたのを思い出す。
 階段を降りリビングへと向かうと、キッチンに母親の姿があった。
「母さん、これ」
「どうしたの?」
 夕飯を作っていたのか、エプロン姿の母親がリビングへとやってきた。俺が手紙を手渡すと、口の端がヒクッとなったのが見えた。
「そうちゃん、これ」
「修学旅行の申込書。提出明日までなんだ」
「……そう。あとでお父さん帰ってきたら話しておくね」
 そのまま俺に背を向けてキッチンに戻る。俺は何も言うことなく自分の部屋へと戻った。
 制服姿のままベッドに寝転がると天井を見上げる。
 いつからだろう、リビングに居着かなくなったのは。心失病に罹るまでは学校が終わって帰ってきたらリビングでテレビを見て、おやつを食べて、母親に聞かれるままにその日学校であったことを話して聞かせた。友人達は「親なんてうざったい」と悪ぶって言うけれど、俺はその時間が意外と嫌いではなかった。
 けれど、心失病に罹った俺を両親は、とりわけ母親はどう扱っていいのかわからないようだった。今までと同じようにしよう、そう思えば思うほど不自然になる。俺の反応一つ一つに肩を振るわせ、俺に気付かれないように涙を流す。全てがバレバレでそのたびに俺は申し訳なく思った。そんなふうにさせてしまったことに。そしてそうなってもなお、何も思えない自分に。
 やがて自宅にいる時間の大部分を自室で過ごすようになった。一人でいるのは楽だ。何も考えなくていい。自分のせいで誰かが傷付くことも悲しむこともない。誰かを苦しませるしかできないのなら、さっさと死んでしまいたい。
 死んだ直後は悲しくても、やがてその辛さは薄れるはずだ。いつまでも俺がいるよりずっと楽になれるはずだ。そんなことすら思っていた。
「ん……」
 いつの間にか眠っていたようで、カーテンを開けっぱなしにしていた窓からは月明かりが入り込んでいた。変な時間に眠ってしまったせいで頭が重い。
 ポケットに入れっぱなしにしていたスマートフォンを見ると、すでに十九時を回っていた。そろそろ父親も帰っているはずだ。
「そうちゃん、晩ご飯よー」
「わかった、今行く」
 ちょうどいいタイミングだったようで、階下から母親が呼ぶ声が聞こえた。制服のまま降りるのも憚られ、手早くTシャツとジーンズに着替えリビングへと向かった。
 リビングのドアを開けると、すでにダイニングテーブルの前に両親は座っていて、俺が来るのを待っていたようだった。
 テーブルの上に、手に持ったままだったスマートフォンを置くと俺は自分の席に着いた。
「ごめん、先に食べててくれてよかったのに」
「ご飯は家族みんな揃ってから、でしょ」
「……そうだね」
 あと何回一緒に食べられるかわからないしね、そんな言葉が喉まで出かかったがやめた。両親の、母親の気持ちを慮ったからではない。泣かれて面倒なことになるのを知っていたから。なんならすでに二度、三度と同じことをして大変なことになっていたから。
 母親は泣き崩れ、父親はため息を吐く。それを見てもなんとも思うことのできない自分を僅かに残った感情が責め立てた。
 カチャカチャと食器の鳴る音だけが響く食卓。感情というものは全てに直結していたのだとこの病気に罹ってから俺は初めて知った。今まで好きだったものを食べても美味しいと思うことがなくなった。食べたいという気持ちがわかなくなった。ただ腹が減るから、空っぽになった胃を満たすためだけの食事をする。
 ……でも、そういえば。この間、杏珠と食べたおにぎりは久しぶりに美味しいと、そう感じた気がした。
「蒼志」
 鯖の味噌煮を食べていた父親が、箸を置くと顔を上げた。その隣で母親は『私は何も知りません』とでもいうかのように素知らぬ顔をしている。こんな態度を取るときは、大抵母親が父親に何かを言い、それを俺に話そうと、いや諭そうとしているのだとわかっていた。
 今日の議題は、きっと。
「修学旅行の件、母さんから聞いたよ」
「……ああ」
 やっぱりそうだ。
 俺はため息を吐きそうになるのを必死に堪えた。プリントを渡したときの母親の反応が手放しで喜んでいるようには思えなかったから。普段よりも三十分ほど遅い晩ご飯。おそらく、父親が帰ってきてから修学旅行の話をしていたのだろう。
「旅行中に何かあった場合、周りの人にも迷惑が掛かる。それに北海道じゃあ、もしものことがあったときに父さんも母さんも駆けつけることができない」
 だから諦めろと、諦めるよと言って欲しいという空気がダイニングに流れる。二人とも、俺が「そうだね、わかったよ」と言うと思っている。
 実際、今までの俺であれば行かなくていいのであれば行かなかっただろう。両親の言わんとすることは十分わかる。
 余命三ヶ月と言われたといえ、それは心失病の場合、絶対に三ヶ月は生きられるという保証があるわけではない。生きられても三ヶ月、というだけだ。
 もしかしたら明日死ぬかもしれない。明後日死ぬかも知れない。そういう不安を抱えている。
 別に自分一人が行かなくたって何が変わる訳でもない。写真係が一人いなくなったとしても代理を立てればいいだけの話だ。担任が代わりをするので事足りるはずだ。
 頭絵ではそうわかっている。なのに。
 テーブルの端に置いたスマートフォンが視界に入る。
『蒼志君と一緒に行けるの楽しみだよ!』
 そう言って笑った杏珠の姿が思い出される。別に、杏珠のためじゃない。ただあの瞬間、ほんの少しだけ『なら行ってもいいかな』と思ってしまった。
「……わかってる」
「そうか、じゃあ学校には――」
 安堵したように父親は言う。母親はあからさまに嬉しそうな表情を浮かべる。そんな二人に、俺は小さく首を振った。
「それでも、行きたいんだ」
「蒼志……っ」
 俺の言葉に、二人は驚いたように目を見開いた。それもそうだろう。何かをしたいと、自分の希望を、感情を俺が言ったのは心失病に罹患してから初めてのことだったのだから。
「でも……!」
 母親は不安そうに声を上げる。けれど、そんな母親を父親が優しく諫めた。
「母さん」
「お父さん、でも!」
「蒼志、修学旅行に行きたいんだね」
「……うん」
「そうか、じゃあ楽しんでおいで。プリントはあとでサインしておくよ」
「ありがとう」
 それ以上、両親が修学旅行の件について何かを言うことはなかった。
 時折、母親が不安そうに俺を見ていたのを知ってはいたが、気付かないフリをした。気付いてしまえば、何かを言われるめんどくささに僅かに湧き出た感情を、自分自身で封じ込めてしまう気がしたから。
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