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第一章 感情なんていらない
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翌日、いつも通り俺は学校に向かう。家から歩いて十五分。遠すぎず、近すぎず。距離だけで選んだ高校だったけれど、特に不満はなかった。
二年三組の教室に向かうと、すでにクラスの半分ぐらいは登校していた。進級後、まだ席替えをしていないため『あ行』の俺は廊下側の一番前の席だった。
ゴールデンウイークも開けたことだし、そろそろという空気が流れてはいたが、担任が新任教師のため、どうやらまだ名前と顔の一致に不安があるようで、結局席替えは行われていなかった。
一か月以上座っている、慣れた俺の席。だが今日に限っては、そこにはすでに先客の姿があった。
「おはよう、蒼志君」
「……おはよう、杏珠。そこ、俺の席なんだけど」
「うん、知ってるよ」
「知ってたらどいてもらっていいかな?」
「まあまあ、そんなこと言わず。今日、私は蒼志君にこれを渡すためにいつもよりも三十分も早く家を出たんだよ。凄いでしょ」
凄いでしょ、と言われ俺は教室の一番前につけられた時計を見る。時間はすでに八時。始業時間まであと十分だ。
「あ、今八時に学校に着いてて三十分早く出たってどういうことだって思ったでしょ? ぶっぶー。私が学校に着いたのは七時半なんですー。だから普段八時に学校に来ている私にとってはいつもより随分早い登校だったんです-」
「そりゃお疲れさま。で、そこどいてくれない?」
「なんて感情のこもってないお疲れさま……」
「まあ、感情がないわけだし」
さらっと答える俺に、杏珠は不味いことを言ってしまったとでも思っているかのように表情を曇らせた。別に気になんてしていない。感情がないことも先程の言葉に感情がこもっていないことも事実なのだから。
おずおずと席を立つ杏珠と入れ替わるようにして俺は席に立つ。まだ何か話があるのか、杏珠は俺の席の横に立っていた。手には小さな紙を持っているようだった。
「で、何の用があるの」
鞄の中から一限目に必要な物を取り出しながら杏珠に尋ねる。ちなみに一限は数学だった。教科書とノートと筆箱があればいいか。そんなことを考える俺の目前に紙が差し出された。
「入部、届け?」
紙に書かれた言葉をつい読み上げてしまう。視界の端に杏珠の嬉しそうな表情が見えた。
「そう、これを貰うために早く学校に来てたの。ねえ、蒼志君。私と一緒に写真部に入らない?」
「入らない」
「なんで!?」
即答する俺に杏珠は大げさなまでに反応をする。ショックを受けたとばかりの声に、近くの席に座っていたクラスメイトがこちらに視線を向けたのがわかった。
先程から何度かこちらを気にする素振りをしていたが、どうやらついに堪えきれなくなったらしい。
それでも声を掛ける義理はないので、そちらを見ることなく杏珠に答えた。
「何でって。逆になんで入らなきゃいけないの?」
「昨日言ったでしょ。生きたいと思わせてあげるって」
「それと写真部に入るのと何の関係があるんだよ」
「私の写真を撮って欲しいの」
「は?」
もう話の流れが全くわからなかった。生きたいと思わせることと、杏珠の写真を撮ることがどう繋がるのか。会話がかみ合わない人間と話すことがこんなにも疲れるなんて知らなかった。
若干の頭痛にこめかみを押さえながら俺はため息を吐いた。
「意味がわからない。だいたい写真部に入るったって俺はカメラも何も持ってないよ」
「スマホがあるでしょ?」
「スマホ?」
「そう。最近のスマホって昔のに比べてカメラの性能がぐんっと上がったの。加工もしやすいしね。スマホだからってバカにできないぐらいいい写真が撮れたりするの」
「写真部ってそんないい加減なものなんだな」
そんなものなのか、と思いつつもつい突っかかるような言い方をしてしまうのは何故だろう。別に杏珠が何を言ってきたところで興味も関係もないはずなのに。
自分自身が投げかけた言葉に戸惑う俺を余所に、杏珠は胸を張った。
「弘法筆を選ばずって言うでしょ」
「は?」
「あ、知らない? 弘法筆を選ばずって言うのはね」
「いや、知ってるけど」
そりゃそっか、と杏珠は笑った。何が可笑しいのかわからないが、杏珠はよく笑う。いや、笑うだけではない。感情を素直に表へと出す。感情をほとんど失った俺とは正反対だ。
でも、ストレートに感情を表す杏珠のそばにいるのは、そう居心地が悪いわけではなかった。わかりやすいというのはいいことだ。何を考えているのかわかりにくく、隠されているよりずっといい。
そんなことを考えていたからだろうか。つい、口から肯定の言葉が滑り出てしまう。
「まあ、別にいいよ」
「いいの?」
「……そっちが撮れって言ったんだろ」
正直なところ、嫌だ、という感情すらも今の俺はほぼほぼ持ち合わせていなかった。スマホで写真を撮るぐらいどうってことない。思い出したときに適当に撮っておけばいいだろう。そのうち杏珠も飽きるか忘れるに決まっている。
そんな俺の思考をまるで読んだかのように杏珠はニヤッと笑った。
「毎日、だからね」
「は?」
「それから、私も毎日蒼志君の写真を撮るよ。一眼レフでね」
「いや、そんなこと頼んでないし。なんだよ、それ」
杏珠の言葉が理解できない。どうしてそういう思考になるのかが俺には全くわからない。だが、わからないことに対する興味すら俺にはない。
「好きにすれば」
「好きにするね。ちゃんと蒼志君も撮ってね。約束だよ」
「…………」
俺の無言を肯定だと受け取ったのか、先程の入部届をもう一度差し出した。今度はご丁寧にシャープペンまで一緒に。
それを受け取ると、俺は紙に自分のクラスと名前を記入した。嬉しそうに受け取ると「じゃあ、出してくるね!」と杏珠は教室を飛び出して行く。
「嬉しそうな顔してたな……」
思わず笑みが漏れる。誰かが嬉しい顔をしているのは、思った以上に唯一まともに残っている『嬉』という感情を動かした。
始業まであと五分もないというのに、わざわざ今行かなくても。と、思うものの、あんなに喜んでくれるなら書いた甲斐もあったかなと思う。
それと同時に、ようやく静かになったことに小さく息を吐いた。
どうでもいいと言っているはずなのに、妙に杏珠のペースで物事を進められている気がする。それがどことなく腑に落ちなかった。
その日の放課後、教室を出ようと帰り支度をして席を立った俺の腕を誰かが掴んだ。誰かが、なんてわかりきっている。振り返った俺の目の前に満面の笑みを浮かべる杏珠の姿があった。
「部活の時間だよ」
「……わかってるよ」
「ホントに? 今、帰ろうとしてなかった?」
「…………」
黙り込んだ俺に「仕方ないなー」と笑うと、腕を掴んだまま教室を出て行く。傍目からは仲良く腕を組んで歩いているように映るのか「え、あの二人?」なんて声が俺の背後から聞こえてくる。
「変な勘違いされてるけどいいのか?」
「ん? 勘違いなんてしたければさせとけばいいのよ」
「まあ、それもそうか」
別に俺も勘違いされようがどうでもいい。ただ杏珠の方が困るのではないかと報告したまでだ。まあそんなことを思うような人間なら、こんなふうに人前で俺の腕を掴んだまま廊下の真ん中を歩いたりなどしないか。
どこのクラスもホームルームが終わった直後ということもあり、廊下はそれなりにごった返していた。けれど、あまりにも杏珠がズカズカと歩くものだから、廊下の真ん中がぱっくりと開いている。さながら、海を割ったモーゼのようだ。
そのままどこかの教室へと向かうのかと思った。体育部であれば部活棟に部室があるが、文化部は基本的に空き教室や化学室なんかの教科教室を使っている。
写真部も同様だろうと思ったのだが、杏珠は階段を降りると校舎の外へと向かった。もしかすると中庭へと向かっているのかもしれない。
俺の予想通り、杏珠は腕を掴んだまま中庭へと向かった。ベンチがあり草木が生い茂る中庭は、昼休みになると弁当を持った女子やカップルが所狭しと座っていた。
けれど、今は放課後だ。皆、自習室か部活動へと向かったし、それ以外の生徒は下校しているはずだ。勿論、今までであれば俺も下校組だったのだけれど。
杏珠は鞄から何やら四角いケースのようなものを取り出した。そっとケースを開けると、中からはカメラが出てきた。
「じゃじゃーん。これが私のカメラだよ」
「見ればわかる」
「感動薄いなー。カッコいい! とか似合ってるね! とか杏珠が持つために生まれてきたようなカメラだね! とか言えないの?」
「悪かったな、感情がなくて」
だいたい『杏珠が持つために生まれてきたようなカメラだね』とは一体何だ。そんなこと感情があったとしても言うわけがない。
「ノリ悪いなー」
ブツブツと文句を言いながらも、杏珠は器用にカメラの準備をしていく。確か杏珠の姿を撮れと言われたはずだから、俺も準備をした方がいいのかもしれない、とポケットからスマホを取り出す。
どんな姿を撮れという指示は聞いていない。このあと言われるのかもしれないけれど、面倒くさいことはさっさと済ませてしまいたかった。
カシャ、という音が中庭に響く。気付かれたか? と、思ったけれど目の前の杏珠は真剣な表情でカメラの操作をしているからか、シャッターの音に気付いてはいないようだった。
「よし、準備できた! って、あれ? どうかした?」
写真を撮ったときのまま杏珠のことをジッと見つめていた俺に、杏珠は不思議そうに首を傾げる。そんな杏珠に小さく首を振った。
「いや、なんでもない」
「そうなの? 変な蒼志君」
ケラケラと可笑しそうに笑うと、杏珠はカメラのレンズを俺へと向けた。
「さあ、準備できたからいつでも撮れるよ」
「撮れるよ、って言ったって」
どう撮られればいいというのだ。立ち尽くしたり座ったりしておくから、勝手に撮ってくれ、ではダメなのだろうか。まあ、駄目なのだろう。
「どうすればいいわけ?」
「んー、普通に普段通りをしててくれればいいよ」
「普段通り」
それが一番難しい注文なのでは。だが、普段通りでいいと言ったのは杏珠なのだから自分の言葉に責任を持ってもらおう。俺は鞄から教科書とノートを取り出すと、中庭のベンチに広げた。
「ねえ、何やってるの?」
「宿題」
「普段通りでいいって言ったのになんで宿題?」
「これが俺の普段通りだから」
感情を失う前は漫画や小説を読むこともあった。スポーツ観戦も嫌いではなかった。しかし、心失病に罹ってからというもの楽しかったはずのものも興味があったことも全てがどうでもよくなった。
どうでもよくなった、というと語弊があるのかも知れない。感情がなくなってからそれらを読んだり見たりしても何の感情も湧いてこないのだ。楽しくもなければ面白くもない。ただ時間を消費しているだけにしか思えない。
それなら学校の宿題をしていた方が余程有意義だった。あと三ヶ月しか生きれないとわかっているのに、今さら勉強をして何になるとも思うのだけれど、まあ学生の本分は勉強だし仕方がない。なんなら唯一残っている感情のおかげで、成績が上がれば喜びを感じることはできた。
あと三ヶ月、学校に行かなくてもいいし好きなことをしろ、なんて言われたほうがただ毎日を無駄に消費するだけで終わってしまう。それよりは当たり前のことを当たり前にやって、普通に生活がしたかった――らしい。
今の俺は、こんな希望も願望も持ち合わせてはいない。ただ、自室の机にまだ感情を失いきる前の、心失病が発症したばかりの頃の俺が書いて貼ったであろうメモにそう書いてあった。
過去の自分の言葉を律儀に守る必要はないのかもしれないけれど、でも忘れないように書いて貼った言葉を、その頃の自分の気持ちをせめて大事にしてやりたかった。
そう、一つ隣のベンチに座る杏珠に伝える。だが、杏珠の反応は「そうなんだ」とあっさりしたものだった。別にどんな反応を期待していたわけでもなかったので、あっさりだろうがこってりだろうがどうでもよかった。
「ねえねえ、蒼志君。私も一緒に宿題してもいい?」
「ん?」
「というか、今見ててそこわかんなくて」
「ここ? これ一年の範囲だよ?」
「嘘っ」
杏珠は慌てて教科書とノートを開ける。これなら教室から移動する必要はなかったのでは、と思わないでもないが今さら戻るという選択肢も出てこない。
時折話しかけてくる杏珠を適当にあしらいながら、俺は宿題を進めていった。
「もー、一年の内容は一年までで終わりにしてほしいよね」
「いや、それは無理だろ」
数学なんて積み重ねだ。中学三年間でやってきたことが高校一年に、一年でやってきたことが二年の勉強にかかってくる。ここで変に躓くと、この先の単元や三年になったときに絶対困る――。そう杏珠に説明しながら、俺は自分の中の矛盾に気付く。この先なんて俺にはないのに、当たり前のように先のことを考える自分自身が滑稽だ。
手早く宿題を終わらせると、俺はノートを閉じ鞄の中へと片付けた。
「あ、まだ私終わってないのに」
「じゃあ、俺は帰るからやってればいいよ」
「えー。まあ私も写真は撮れたからもういいけど」
口を尖らせながら言う杏珠に俺は「へえ」と呟いた。宿題しかしていなかったけれど、いつの間にか杏珠は俺の写真を撮っていたらしい。
「何してるところ撮ったとか気にならない?」
「ならない、というか宿題しかしてないんだから、宿題してるところだろ」
「わっかんないよー。無意識のうちに欠伸してたりとか目擦ってるところだっていう可能性もあるよ? ほらほら、恥ずかしかったりしない?」
「別に」
そんなところを撮るなんて悪趣味だな、と思いはしても恥ずかしいなんて感情は俺にはない。だから杏珠が何を撮ろうがそれをどうしようがどうでもよかった。
「じゃ」
鞄を肩に掛けると俺は中庭をあとにする。その背中に、杏珠の「また明日ね」という声を聞きながら。
二年三組の教室に向かうと、すでにクラスの半分ぐらいは登校していた。進級後、まだ席替えをしていないため『あ行』の俺は廊下側の一番前の席だった。
ゴールデンウイークも開けたことだし、そろそろという空気が流れてはいたが、担任が新任教師のため、どうやらまだ名前と顔の一致に不安があるようで、結局席替えは行われていなかった。
一か月以上座っている、慣れた俺の席。だが今日に限っては、そこにはすでに先客の姿があった。
「おはよう、蒼志君」
「……おはよう、杏珠。そこ、俺の席なんだけど」
「うん、知ってるよ」
「知ってたらどいてもらっていいかな?」
「まあまあ、そんなこと言わず。今日、私は蒼志君にこれを渡すためにいつもよりも三十分も早く家を出たんだよ。凄いでしょ」
凄いでしょ、と言われ俺は教室の一番前につけられた時計を見る。時間はすでに八時。始業時間まであと十分だ。
「あ、今八時に学校に着いてて三十分早く出たってどういうことだって思ったでしょ? ぶっぶー。私が学校に着いたのは七時半なんですー。だから普段八時に学校に来ている私にとってはいつもより随分早い登校だったんです-」
「そりゃお疲れさま。で、そこどいてくれない?」
「なんて感情のこもってないお疲れさま……」
「まあ、感情がないわけだし」
さらっと答える俺に、杏珠は不味いことを言ってしまったとでも思っているかのように表情を曇らせた。別に気になんてしていない。感情がないことも先程の言葉に感情がこもっていないことも事実なのだから。
おずおずと席を立つ杏珠と入れ替わるようにして俺は席に立つ。まだ何か話があるのか、杏珠は俺の席の横に立っていた。手には小さな紙を持っているようだった。
「で、何の用があるの」
鞄の中から一限目に必要な物を取り出しながら杏珠に尋ねる。ちなみに一限は数学だった。教科書とノートと筆箱があればいいか。そんなことを考える俺の目前に紙が差し出された。
「入部、届け?」
紙に書かれた言葉をつい読み上げてしまう。視界の端に杏珠の嬉しそうな表情が見えた。
「そう、これを貰うために早く学校に来てたの。ねえ、蒼志君。私と一緒に写真部に入らない?」
「入らない」
「なんで!?」
即答する俺に杏珠は大げさなまでに反応をする。ショックを受けたとばかりの声に、近くの席に座っていたクラスメイトがこちらに視線を向けたのがわかった。
先程から何度かこちらを気にする素振りをしていたが、どうやらついに堪えきれなくなったらしい。
それでも声を掛ける義理はないので、そちらを見ることなく杏珠に答えた。
「何でって。逆になんで入らなきゃいけないの?」
「昨日言ったでしょ。生きたいと思わせてあげるって」
「それと写真部に入るのと何の関係があるんだよ」
「私の写真を撮って欲しいの」
「は?」
もう話の流れが全くわからなかった。生きたいと思わせることと、杏珠の写真を撮ることがどう繋がるのか。会話がかみ合わない人間と話すことがこんなにも疲れるなんて知らなかった。
若干の頭痛にこめかみを押さえながら俺はため息を吐いた。
「意味がわからない。だいたい写真部に入るったって俺はカメラも何も持ってないよ」
「スマホがあるでしょ?」
「スマホ?」
「そう。最近のスマホって昔のに比べてカメラの性能がぐんっと上がったの。加工もしやすいしね。スマホだからってバカにできないぐらいいい写真が撮れたりするの」
「写真部ってそんないい加減なものなんだな」
そんなものなのか、と思いつつもつい突っかかるような言い方をしてしまうのは何故だろう。別に杏珠が何を言ってきたところで興味も関係もないはずなのに。
自分自身が投げかけた言葉に戸惑う俺を余所に、杏珠は胸を張った。
「弘法筆を選ばずって言うでしょ」
「は?」
「あ、知らない? 弘法筆を選ばずって言うのはね」
「いや、知ってるけど」
そりゃそっか、と杏珠は笑った。何が可笑しいのかわからないが、杏珠はよく笑う。いや、笑うだけではない。感情を素直に表へと出す。感情をほとんど失った俺とは正反対だ。
でも、ストレートに感情を表す杏珠のそばにいるのは、そう居心地が悪いわけではなかった。わかりやすいというのはいいことだ。何を考えているのかわかりにくく、隠されているよりずっといい。
そんなことを考えていたからだろうか。つい、口から肯定の言葉が滑り出てしまう。
「まあ、別にいいよ」
「いいの?」
「……そっちが撮れって言ったんだろ」
正直なところ、嫌だ、という感情すらも今の俺はほぼほぼ持ち合わせていなかった。スマホで写真を撮るぐらいどうってことない。思い出したときに適当に撮っておけばいいだろう。そのうち杏珠も飽きるか忘れるに決まっている。
そんな俺の思考をまるで読んだかのように杏珠はニヤッと笑った。
「毎日、だからね」
「は?」
「それから、私も毎日蒼志君の写真を撮るよ。一眼レフでね」
「いや、そんなこと頼んでないし。なんだよ、それ」
杏珠の言葉が理解できない。どうしてそういう思考になるのかが俺には全くわからない。だが、わからないことに対する興味すら俺にはない。
「好きにすれば」
「好きにするね。ちゃんと蒼志君も撮ってね。約束だよ」
「…………」
俺の無言を肯定だと受け取ったのか、先程の入部届をもう一度差し出した。今度はご丁寧にシャープペンまで一緒に。
それを受け取ると、俺は紙に自分のクラスと名前を記入した。嬉しそうに受け取ると「じゃあ、出してくるね!」と杏珠は教室を飛び出して行く。
「嬉しそうな顔してたな……」
思わず笑みが漏れる。誰かが嬉しい顔をしているのは、思った以上に唯一まともに残っている『嬉』という感情を動かした。
始業まであと五分もないというのに、わざわざ今行かなくても。と、思うものの、あんなに喜んでくれるなら書いた甲斐もあったかなと思う。
それと同時に、ようやく静かになったことに小さく息を吐いた。
どうでもいいと言っているはずなのに、妙に杏珠のペースで物事を進められている気がする。それがどことなく腑に落ちなかった。
その日の放課後、教室を出ようと帰り支度をして席を立った俺の腕を誰かが掴んだ。誰かが、なんてわかりきっている。振り返った俺の目の前に満面の笑みを浮かべる杏珠の姿があった。
「部活の時間だよ」
「……わかってるよ」
「ホントに? 今、帰ろうとしてなかった?」
「…………」
黙り込んだ俺に「仕方ないなー」と笑うと、腕を掴んだまま教室を出て行く。傍目からは仲良く腕を組んで歩いているように映るのか「え、あの二人?」なんて声が俺の背後から聞こえてくる。
「変な勘違いされてるけどいいのか?」
「ん? 勘違いなんてしたければさせとけばいいのよ」
「まあ、それもそうか」
別に俺も勘違いされようがどうでもいい。ただ杏珠の方が困るのではないかと報告したまでだ。まあそんなことを思うような人間なら、こんなふうに人前で俺の腕を掴んだまま廊下の真ん中を歩いたりなどしないか。
どこのクラスもホームルームが終わった直後ということもあり、廊下はそれなりにごった返していた。けれど、あまりにも杏珠がズカズカと歩くものだから、廊下の真ん中がぱっくりと開いている。さながら、海を割ったモーゼのようだ。
そのままどこかの教室へと向かうのかと思った。体育部であれば部活棟に部室があるが、文化部は基本的に空き教室や化学室なんかの教科教室を使っている。
写真部も同様だろうと思ったのだが、杏珠は階段を降りると校舎の外へと向かった。もしかすると中庭へと向かっているのかもしれない。
俺の予想通り、杏珠は腕を掴んだまま中庭へと向かった。ベンチがあり草木が生い茂る中庭は、昼休みになると弁当を持った女子やカップルが所狭しと座っていた。
けれど、今は放課後だ。皆、自習室か部活動へと向かったし、それ以外の生徒は下校しているはずだ。勿論、今までであれば俺も下校組だったのだけれど。
杏珠は鞄から何やら四角いケースのようなものを取り出した。そっとケースを開けると、中からはカメラが出てきた。
「じゃじゃーん。これが私のカメラだよ」
「見ればわかる」
「感動薄いなー。カッコいい! とか似合ってるね! とか杏珠が持つために生まれてきたようなカメラだね! とか言えないの?」
「悪かったな、感情がなくて」
だいたい『杏珠が持つために生まれてきたようなカメラだね』とは一体何だ。そんなこと感情があったとしても言うわけがない。
「ノリ悪いなー」
ブツブツと文句を言いながらも、杏珠は器用にカメラの準備をしていく。確か杏珠の姿を撮れと言われたはずだから、俺も準備をした方がいいのかもしれない、とポケットからスマホを取り出す。
どんな姿を撮れという指示は聞いていない。このあと言われるのかもしれないけれど、面倒くさいことはさっさと済ませてしまいたかった。
カシャ、という音が中庭に響く。気付かれたか? と、思ったけれど目の前の杏珠は真剣な表情でカメラの操作をしているからか、シャッターの音に気付いてはいないようだった。
「よし、準備できた! って、あれ? どうかした?」
写真を撮ったときのまま杏珠のことをジッと見つめていた俺に、杏珠は不思議そうに首を傾げる。そんな杏珠に小さく首を振った。
「いや、なんでもない」
「そうなの? 変な蒼志君」
ケラケラと可笑しそうに笑うと、杏珠はカメラのレンズを俺へと向けた。
「さあ、準備できたからいつでも撮れるよ」
「撮れるよ、って言ったって」
どう撮られればいいというのだ。立ち尽くしたり座ったりしておくから、勝手に撮ってくれ、ではダメなのだろうか。まあ、駄目なのだろう。
「どうすればいいわけ?」
「んー、普通に普段通りをしててくれればいいよ」
「普段通り」
それが一番難しい注文なのでは。だが、普段通りでいいと言ったのは杏珠なのだから自分の言葉に責任を持ってもらおう。俺は鞄から教科書とノートを取り出すと、中庭のベンチに広げた。
「ねえ、何やってるの?」
「宿題」
「普段通りでいいって言ったのになんで宿題?」
「これが俺の普段通りだから」
感情を失う前は漫画や小説を読むこともあった。スポーツ観戦も嫌いではなかった。しかし、心失病に罹ってからというもの楽しかったはずのものも興味があったことも全てがどうでもよくなった。
どうでもよくなった、というと語弊があるのかも知れない。感情がなくなってからそれらを読んだり見たりしても何の感情も湧いてこないのだ。楽しくもなければ面白くもない。ただ時間を消費しているだけにしか思えない。
それなら学校の宿題をしていた方が余程有意義だった。あと三ヶ月しか生きれないとわかっているのに、今さら勉強をして何になるとも思うのだけれど、まあ学生の本分は勉強だし仕方がない。なんなら唯一残っている感情のおかげで、成績が上がれば喜びを感じることはできた。
あと三ヶ月、学校に行かなくてもいいし好きなことをしろ、なんて言われたほうがただ毎日を無駄に消費するだけで終わってしまう。それよりは当たり前のことを当たり前にやって、普通に生活がしたかった――らしい。
今の俺は、こんな希望も願望も持ち合わせてはいない。ただ、自室の机にまだ感情を失いきる前の、心失病が発症したばかりの頃の俺が書いて貼ったであろうメモにそう書いてあった。
過去の自分の言葉を律儀に守る必要はないのかもしれないけれど、でも忘れないように書いて貼った言葉を、その頃の自分の気持ちをせめて大事にしてやりたかった。
そう、一つ隣のベンチに座る杏珠に伝える。だが、杏珠の反応は「そうなんだ」とあっさりしたものだった。別にどんな反応を期待していたわけでもなかったので、あっさりだろうがこってりだろうがどうでもよかった。
「ねえねえ、蒼志君。私も一緒に宿題してもいい?」
「ん?」
「というか、今見ててそこわかんなくて」
「ここ? これ一年の範囲だよ?」
「嘘っ」
杏珠は慌てて教科書とノートを開ける。これなら教室から移動する必要はなかったのでは、と思わないでもないが今さら戻るという選択肢も出てこない。
時折話しかけてくる杏珠を適当にあしらいながら、俺は宿題を進めていった。
「もー、一年の内容は一年までで終わりにしてほしいよね」
「いや、それは無理だろ」
数学なんて積み重ねだ。中学三年間でやってきたことが高校一年に、一年でやってきたことが二年の勉強にかかってくる。ここで変に躓くと、この先の単元や三年になったときに絶対困る――。そう杏珠に説明しながら、俺は自分の中の矛盾に気付く。この先なんて俺にはないのに、当たり前のように先のことを考える自分自身が滑稽だ。
手早く宿題を終わらせると、俺はノートを閉じ鞄の中へと片付けた。
「あ、まだ私終わってないのに」
「じゃあ、俺は帰るからやってればいいよ」
「えー。まあ私も写真は撮れたからもういいけど」
口を尖らせながら言う杏珠に俺は「へえ」と呟いた。宿題しかしていなかったけれど、いつの間にか杏珠は俺の写真を撮っていたらしい。
「何してるところ撮ったとか気にならない?」
「ならない、というか宿題しかしてないんだから、宿題してるところだろ」
「わっかんないよー。無意識のうちに欠伸してたりとか目擦ってるところだっていう可能性もあるよ? ほらほら、恥ずかしかったりしない?」
「別に」
そんなところを撮るなんて悪趣味だな、と思いはしても恥ずかしいなんて感情は俺にはない。だから杏珠が何を撮ろうがそれをどうしようがどうでもよかった。
「じゃ」
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漁業の種類と言われる仕事がある。
漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
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