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第四章

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「どうして知ってるんだ、って顔をしているね。そりゃあわかるよ。この遺言状は僕が作ったんだから」
「え……」
「でもまさか僕も、借金の返済後もこれを黒田が持っていたなんて思わなかったからね。香澄ちゃんから電話をもらったときは信じられなかったよ。でも、うん。実物を見るとあの日のことを鮮明に思い出す。そうか、あれからもう二十年も経ったのか。……僕も年を取るはずだよ。僕たちはね、二人とも弥生さんの入れるコーヒーが大好きだったんだ。そうか、もう黒田も、そして僕もあのコーヒーを飲むことは、できないのか」

 少し寂しそうにどこか遠くを見つめる杉下の瞳には、もしかすると若い頃の自分たち三人の姿が見えているのかもしれない。今はもう先に逝ってしまった弥生や黒田の祖父というかつての幼なじみたちの姿が。

 そのとき、香澄の腕の中でそれまで静かにしていたはずのテンテンが「なあぁ」と鳴いた。どうかしたのだろうか。テンテンに尋ねようとしたとき、杉下の身体を真っ白の光が包み込むのが見えた。あの光は、まさか。

 腕の中のテンテンは先程までよりもぐったりとし、浅い呼吸を繰り返している。

「テ……」
「騒ぐな。これぐらい、なら、大丈夫、だ」
「でも……」
「それより、ほら」

 テンテンに促されるままに杉下へと視線を向ける。そこには包み込まれた光の中で目を閉じ、何かに思いを馳せるような表情を浮かべた杉下の姿があった。

「これは僕の勝手な想像なんだけどね」

 しばらくして杉下はぽつりと口を開いた。

「借金の返済が終わったあとも黒田がこの遺言状を持ち続けていたのは、弥生さんが預け続けていたのは、きっと弥生さんに何かあったとき、黒田がこの店の権利を持っていれば、香澄ちゃんが路頭に迷うことがないように、とそういう思いもあったんじゃないかな」

 香澄の頬を気づけば涙が伝い落ちていた。

「テンテンの力、ですか」

 隣に立つ青崎にもあの光が見えたのだろう。香澄が小さく頷くと「無理しすぎだ」とテンテンの頭を撫でた。

 ふと視線を感じ、香澄は顔を上げるとそこにはまっすぐにこちらを見る黒田の姿があった。黒田は今、どういう思いでいるのだろう。

「あの」
「……それじゃあ、俺は帰ります。それは捨てるなりなんなりしてください」
「あ……」

 それだけ言うと、人垣をかき分け、黒田は立ち去ろうとする。そんな黒田の背中に、香澄は声をかけた。

「黒田さん!」
「何か」
「……おじいさまに助けて頂き、本当にありがとうございました」

 香澄の言葉に、黒田は何も言うことなく、今度こそ本当にほほえみ商店街をあとにした。

「いつか、黒田さんにも香澄さんの入れたコーヒーを飲みに来てもらえるといいですね」
「そう、だね」

 青崎の言葉に頷くと、香澄は集まっていた人達に頭を下げた。

「お騒がせしました。それから、この店は無事に私が継げることとなりました。これからもどうぞよろしくお願いします」

 わっと盛り上がる商店街の人たちの姿に胸の奥が温かくなる。ここが香澄の、生きていく場所だ。

「ママ!」
「え?」
「お客さん! 困ってるよ!」

 雪斗の声に振り返った大迫は「ああっ」と焦ったような声を上げた。

 遠くの方で客らしき女性が困ったようにこちらを見ているのが見えた。どうやらベーカリー大迫に来た客だったようで、雪斗の母は慌てて戻っていく。

 そんな大迫の姿に他の人達もそれぞれの店へと戻っていく。嬉しそうな笑顔を携えて。

 そしてまた、香澄も。

「あ、あの」
「え?」

 振り返るとそこには高校生ぐらいのボブヘアーの女の子がいた。ブレザー姿のその子は、恐る恐る香澄に尋ねる。

「まだ、開いてますか?」

 香澄は青崎と顔を見合わせると、テンテンを託し、そして笑顔を浮かべた。

「いらっしゃいませ。ほほえみ商店街、喫茶レインボウへようこそ」


― 完 ―
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