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第八章:波打つ砂浜で君を待つ

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 気が付くと、私はあの浜辺にいた。ここは――私が住む時代だ。伊織さんのいない、私の生きる時代。
 私は、この時代に生きることを選んだんだ。
 ぽっかりと心に穴が開いたような、そんな気持ちに襲われる。大切な何かをなくしたような――。

「え……?」

 その瞬間、私は、あることに気付いた。手の中にあるはずの、貝殻の感触が違っていたのだ。恐る恐る開いてみるとそこには……粉々に砕け散った、貝殻だったものがあった。
 まるでもう役目は終わったと言わんばかりに、このまま風が吹けば吹き飛んでいってしまいそうなほどに粉々になっていた。
 私はそれが飛んでいってしまわないようにギュッと握りしめると立ち上がった。
 行きたいところが、あるのだ。


 そこは、当時と同じ場所に今も変わらず建っていた。周りの景色がどれだけ変わってしまっていても、それは変わらずにそこにあった。
 あの頃に比べると、木々の数はずっと増えたし実をつけている木もたくさんある。
『オリーブ園』と書かれた看板だって、ずいぶんと綺麗になったような気がする。でも、たしかにここは、伊織さんのオリーブ園だ。
 ガサッという音が聞こえて、私はオリーブの木と木の間に誰かが立っていることに気付いた。その後ろ姿は、まるで――。

「伊織、さん……」
「え?」
「っ……」

 私の声が聞こえたのか、その人はこちらを振り返った。
 そこにいたのは――伊織さんによく似た顔立ちの青年だった。
 一瞬、伊織さんがそこにいたんだと思った。
 タイムスリップなんて全部私の勘違いで、本当はこの時代に、この島に今も伊織さんは生きていたんだと、そんな都合のいいことを考えそうになった。
 でも、目の前の彼は、確かに伊織さんに似てはいるけれど、伊織さんよりもずいぶんと若く見えた。

「あの……?」
「あ、ご、ごめんなさい。その、知り合いに、よく似ていたもので……」

 私の言葉に、その人は眉をひそめたあと――小さな声で呟いた。

「まさか、菫さん……?」
「え?」
「い、いえ。なんでも……」
「どうして私の名前を?」

 突然名前を呼ばれた私よりも、目の前のその人の方が信じられないと言った表情を浮かべていた。
 いったい彼は誰なんだろう。どうして私の名前を……。

「あの……」
「……僕、たぶんあなたに渡さなければいけないものがあるんです」
「え?」
「ついてきてもらえますか?」

 彼は泥だらけの手をズボンで拭うと、私の前に立って歩き出した。
 無言で歩くその人の後ろをついて歩く。どこに行くのか、尋ねようと思った。でも、私は彼の歩く道のりを知っていた。どこに繋がる道なのか。よく、知っていた。

「ちょっと待っていてください」

 そう言うと、彼はそこに建っていた一軒の家のドアを開けて中に入っていく。
 それは、あの頃私が伊織さんと過ごしていた家と同じ場所に建っている――なのに、それとは似ても似つかない、綺麗な二階建ての一軒家だった。
 ここはいったい誰の家なのだろう。ジロジロ見るのは失礼かもしれないけれど、と思いながら私はその家を見つめる。そして、見つけた。ポストのところに小さな表札がかかっているのを。そこには――。

「お待たせしました」
「あ……」

 伊織さんによく似た彼は、小さな小箱を持って家の中から出てきた。そして彼は、その箱を私に差し出した。

「あの、これ……」
「これを、いつかあなたが来たら渡すようにと言付かってました」
「私に……? いったい誰が……」
「あなたを、かつて愛していた人から」

 彼の言葉に、恐る恐る小箱を開く。すると中には、封筒と、それからあのハマグリの貝殻が入っていた。
 私の、砕けてしまったハマグリの片割れが。

「これを……私に……?」
「はい」

 中に入っていた封筒をそっと開くと、一枚の手紙が入っていた。

『菫へ』

 それは伊織さんから私に宛てた手紙だった。

『菫がこれを読んでいるのはいつの時代なのだろう。今、大正の時代が終わり昭和を迎えたけれど、君の言っていた令和というのがいったいいつのことなのか検討もつかない。もっと君にちゃんと聞いておくんだったな。
 君と過ごせた日々は長い人生の中でほんの一瞬のことだった。でも、その一瞬が僕にとってどれほど幸福だったか、君はきっと知らないだろう。君と過ごせて本当に幸せだった。
 だから菫、君も幸せになって。幸せに生きて』

 涙が溢れて止まらなかった。
 伊織さん、伊織さん、伊織さん……!

「どう、して……」

 思わず呟いた私に、伊織さんによく似た彼は口を開いた。
 
「いつかもしあなたが来たら、これを渡して欲しいって頼まれたんです」
「そんな……だって、来るかどうかもわかんないのに……」
「あなたならきっと来てくれるって、そう思ってたんじゃないでしょうか」
「っ……伊織、さん……」

 再び溢れてきた涙を必死に拭うと、私は目の前の彼に問いかけた。
 伊織さんの面影が残るこの人は、もしかして――。

「聞いても、いいですか?」
「はい」
「あなたは、伊織さんのお孫さん……? それともひ孫さん、ですか?」

 私の問いかけに、彼は小さく笑うと首を振った。

「僕は柚希ゆずき。伊織は――大伯父、というんですかね。僕の祖父は、伊織の兄の子どもでした。伊織が亡くなったあと、あのオリーブ園を守ってきました」
「お兄さんの……?」

 伊織さんのお兄さんということは、地元で家を継いだというあの……? でも、そのひ孫さんがどうして小豆島に? それに、どうしてお兄さんの子どもがオリーブ園を守るの? だって、あのとき伊織さんは私に結婚したって――。

「本当にそう言いましたか?」
「言いまし……た」

 そう、たしかに伊織さんは私が「結婚したんですか?」と問いかけたときに、結婚したって……。
 ――違う。
 あのとき伊織さんは、「結婚したんですか?」って尋ねた私に、優しく微笑んだんだ。それを私は肯定だと受け止めたけれど、でも、もし違っていたのだとしたら? 私の、あの時代への未練を残さないためにあえて何も言わなかったのだとしたら……?

「手紙、続き読んでやってください。そこに、伊織の本当の気持ちが書かれてます」

 柚希君のその言葉に促されるようにして、私は再び手紙へと視線を落とした。

『菫。君のことだから、僕に遠慮していつまで経っても一人でいるんだろう?
 僕の幸せは君が幸せになってくれることなんだ。だから、僕への思いはこの島において行きなさい。そして、君を思ってくれている人と幸せになるんだ。
 大人になった君は綺麗で、惚れ直したよ』

「そん、な……」
「伊織は生涯を独身で過ごしたと聞いています」
「だって……! あのとき、伊織さんが言ったから……! だから、私……!」

 柚希君は寂しそうに微笑む。
 その表情は、伊織さんが最後に見せた顔によく似ていた。

「伊織さんは……私を元の時代に帰したかったの……?」
「そうかも、しれません」
「私が、心の奥底では、そう願っていたから……? 伊織さんと一緒にいることよりも、お母さんや椿、それに……海里の元へと帰りたいって、そう思っていたから……だから……」

 だからあのとき、伊織さんは私のことを想って結婚したなんて嘘をついたんだ。私が何の未練もなく、あの時代を去れるように。
 私の、ために……。
 
「それほどまでに、あなたのことを愛していたんでしょうね」
「っ……! い、おり、さん……!」

 涙が溢れてくる。どんどん溢れた涙は頬を伝い、伊織さんからの手紙へと流れ落ちる。
 涙で文字がにじんだ、そう思った瞬間――まるで涙に吸い込まれていくように手紙から文字が消えていく。もう役目は終わったのだと言わんばかりに。もうこれは私の元には必要ないのだと、そう言うかのように。
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