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第七章:いつか過ごしたさざ波の向こうへ

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 金曜日、私はお母さんに友達と遊んでくると言って朝早くに家を出た。いつもよりもずいぶんと早い時間だったので少し訝しがられたけれど……。

「夏休みだからちょっと遠くの海に行こうってなったの。だから集合時間が早いんだ」

 そう言った私の言葉を、お母さんは信じてくれているようだった。

「遅くなりすぎないようにね」
「わかってるって」
「そうね、大丈夫よね。……でも、くれぐれも気をつけてね」
「わかった」
 
 少し心配そうに微笑むお母さんとの間には、あの頃のような確執も嫌な空気も流れてはいなかった。

「いってきます」

 バタンとドアを閉めると、私は息を吐いた。
 お母さん、ごめん。でも私は、どうしても行きたかった。伊織さんと暮らした、あの島に。
 
「――菫」
「海里……」

 そんな私を待ち構えるかのようにして外壁の前に立っていたのは――海里だった。海里には行く日にちを言ってなかったのにどうして……。

「おばさんが、菫が海に行くって言ってるけど海里君も行くの? って聞いてきた」
「それで……」

 まさかお母さんが海里にそんなことを聞くなんて思ってもみなかった。こんなことなら友達なんて言わず適当な女の子の名前を言っておくべきだった。
 思わず黙り込んだ私の格好を見て、海里は顔を歪めると口を開いた。

「行くのか」
「……海里は、知ってたんだね」

 海里の質問には答えず、そう尋ねた私に海里は静かに頷いた。
 その態度に、私は思わずカッとなってしまう。
 
「どうして言ってくれなかったの!? もっと、もっと早く知ってれば……!」
「言いたくなかった。知ったら絶対にお前はあの島に行くだろ? 行かせたくなかったんだ!」

 海里は私の手首を掴む。まるで行かせまいとするかのように。どうしてそこまで、私を……。あのときのことをまだ後悔しているの? だとしたら……。
 
「海里には関係ないでしょ!」
「好きなんだ!」
「え……?」
「あの頃から、ずっと菫のことが好きだった! 好きだから、菫のことが好きだから、言えばまたお前がいなくなってしまうんじゃないかってずっと怖かった。思い出して欲しくなかった。ずっと忘れたままでいて欲しかった」

 そう言った海里は、泣きそうな顔をしていた。海里のそんな顔、初めて見る……。でも、だって、私は……。

「はな、して……」
「嫌だ。もう二度と、あんな想いはしたくない!」
「いた、い……」
「っ……」

 私の言葉に、海里は一瞬苦しそうな表情を浮かべて、それから手を離した。捕まれた腕は真っ赤になっていた。いつの間に、こんなに力が強くなっていたんだろう。私の知っている海里は、身体が弱くて、すぐに熱を出して、それから……。

「……ごめん」
「え……?」
「俺に、そんなこと言う資格、ないのにな」

 海里は寂しそうに笑った。その表情に、なぜか胸が苦しくなった。でも……。

「でも、やっぱり心配だから……一緒に行かせて欲しい」
「…………」

 首を振る私に海里は「そっか」と小さく呟いた。
 海里の気持ちは嬉しい。でも、私はどうしても一人で行きたかった。他の誰にも邪魔されたくなかった。あの島は、私にとって大事な大事な場所だから。

「……ちゃんと帰ってこいよ」
「……当たり前でしょ」
「待ってるからな」

 そう言った海里の言葉が、耳から離れなかった。


 高速バス乗り場まで一緒に行くと言って、バス停に向かう私の隣を海里は歩いた。最寄り駅からさらに大きなターミナル駅に移動して、そこから高速バスに乗る。
 どこまで着いてくる気なんだろう。
 駅で切符を買う私の隣で、海里も券売機を操作してターミナル駅までの切符を買っていた。

「…………」
「…………」

 ガタンゴトンと揺れる電車の中、無言のまま私と海里はボックス席に並んで座る。
 いったいどういうつもりなんだろう。
 そもそも、どうして海里が小豆島のことを知ってたんだろう。

「……ねえ、聞いてもいい?」
「質問による」
「……どうして、小豆島だって知ってたの?」
「それは……」

 口ごもりながら視線をそらすと、海里はポツリポツリと話し出した。

「5年前、こっちに戻ってきた菫の様子を見に病院に行ったときに、お前が寝言で言ってたんだ。「オリーブ園」って」
「そんなの、知らない……」
「そのあと高熱が出て、その辺の記憶がすっぽり飛んでしまってたみたいだったから、言う必要もないと思った」
「どうして……!」
「だって、あの人に繋がるキーワードなんて聞いたらお前、あの人のことをずっと忘れられないだろう?」

 海里は悲しそうに顔を歪めて言った。

「それでも、やっぱり気になって、図書館で調べたんだ。大正時代にオリーブを育ててたところを。そしたら、見つかった。小豆島が」

 図書館……。
 その単語に、私はハッとした。
 高校に上がって、部活を始めた私を海里は帰らずに待ってくれていた。「図書館で本を読んでたんだ」なんて言ってたけれど、あれはまさか……それを調べていたの……?

「どうして……?」
「どうしてだろな。わからないまま置いておいた方が絶対よかったのに。でも……行方不明になっていた間、菫がどこにいたのか、知りたかった。どんなところで、どんなふうに暮らしていたのかを」

 海里は自嘲するかのように笑った。そして持ってきていたペットボトルを開けると、私の方を向いた。

「いや、もしかしたら……心のどこかでわかっていたのかもしれないな。いつかお前が思い出す日が来るって。また俺の前から消えて、あの人を探しに行ってしまう日が来るって。だから、俺は……」
「海里……」
「あ、もうすぐ駅に着くみたいだぞ」

 海里の言葉に外を見ると、窓の向こうにホームが見えてだんだんと電車は速度を落とし始めていた。
 ホームに降り立つと、私は海里に連れられるようにして高速バス乗り場へと向かった。
 そして海里に見送られながら、私をのせたバスは動き出した。ここから四時間ほどで香川県に着く。そうしたらフェリーに乗り換えて……。

『好きだ』

 海里の言葉が、頭の中で蘇る。そのたび私は首を振って頭の中から海里の存在を追い出した。私が好きなのは、伊織さんだけ。伊織さんだけなんだから。
 バスが到着するまでまだまだかかる。朝も早かったし眠ってしまおう。そうすれば余計なことも考えなくて済む。私は目をギュッと閉じると、なんとかして眠りにつこうと、必死に羊の数を数えた。
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