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第四章:凪いだ水面に波が立ち

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 翌日、昨日の夜に伊織さんが言っていた通り、お昼の時間になっても伊織さんが帰ってくることはなかった。私は前日の夜の残りとご飯でお昼ご飯を済ますと一人分の食器を洗った。
 いつもよりもあっという間に終わる洗い物になんだか寂しさを感じる。いつの間にか、伊織さんと二人で食べる食事の時間を楽しみにしていた私がいたことに気付いた。

「……よし、晩ご飯は美味しいものを作ろう!」

 私はまだお昼を過ぎたところだというのに晩ご飯の準備のために冷蔵庫を開けた。豚肉の塊があるから豚の角煮を作ろう。
 私は伊織さんの家で一番大きなお鍋にたっぷりと水を入れてかまどに火をつけた。お鍋の中に豚肉の塊を入れ、じっくりと下茹でする。
                              
「前にこの下茹でを適当にしたら、臭みが残っちゃったんだよね……」

 あれは失敗だった。味付けは美味しかったのに、口の中に広がるなんとも言えない臭さが思い出されて思わず息を止めた。
 このまま二時間ぐらい茹でて、お肉が冷めたら一口大よりも少し大きめに切り分ける。あとはさっきのお鍋をさっと洗って、切ったお肉とお水・お醤油・みりん・お酒・お砂糖を入れさらに薄切りにしたショウガを入れたら蓋をして今度は三十分ぐらい煮詰める。

「あとは、伊織さんが帰ってくるのを待つだけかな」

 ご飯は炊けているし、お肉を冷ます間の時間にお味噌汁も作った。今日のお味噌汁の具材は茄子とタマネギだ。

「ただいま!」
「おかえりなさい」

 温め直したお味噌汁をお椀によそっていると、タイミングよく伊織さんが帰ってきた。私はかまどに火を入れ直し、角煮を温めた。

「いい匂いがするね」
「今、温め直しているのでもう少し待ってくださいね」
「冷めてても大丈夫だよ?」
「十分冷めてるので、温め直した方が美味しいんです」

 実は、伊織さんが帰ってくるよりも少し早く角煮を完成させたのにはわけがあった。

「煮物は一度冷ましてから温め直す方が味が染みて美味しいんです」
「へえ? 知らなかったな」
「なんでも、冷めるときに味が染みこむらしいんです」
「菫は物知りだね」
「いえ、これは人からの受け売りで……」

 あれはまだお父さんがいた頃、台所に立つお母さんの隣でお手伝いをしていたときだ。できあがったおでんを私がそのまま出そうとしたときに言われた。
『煮物は一度冷ましてから温め直すのよ。冷めるときに味が染みこむから、その方が美味しくなるの』
 と――。

「お母さんからの教えを、ずっと守ってるんですね」

 伊織さんの言葉に、私は心臓を捕まれたような衝撃を受けた。言われてみれば、たしかにそうだ。煮物のことだけじゃなくて、包丁の使い方や味付け、それから洗濯の干し方も……。全部、全部お母さんが教えてくれたことだった。
 そしてそれらは全てがお父さんが生きていた頃の話ではなくて、死んだあとに教わったことも少なくない。……私が目を背けていただけで、お母さんは私に向き合ってくれていた。ただ、それに気付かないふりをしていただけで……。

「素敵なお母さんですね」
「……はい」

 涙がにじみそうになり、慌てて目尻をこすると私は伊織さんに微笑んだ。
 その日、二人で食べた角煮は甘辛くて、それから優しい味がした。


 私は掃除を終えてため息をついた。
 今日で伊織さんが家でお昼ご飯を食べなくなってから五日目だ。当初はもっと早く片付く予定だったらしいのだけれど、長引きに長引いて五日目を迎えていた。「明日が終わればきっと来週からはまた家で食べられると思います」そう言って今日の朝、伊織さんは家を出たけれど……。

「寂しいな……」

 伊織さんと、一緒にご飯を食べられなくて、寂しい。二人で他愛ない話をしながら、美味しいねって言ってくれる伊織さんに照れくさくなりながらも微笑み返す時間が好きだった。さりげなく今日何が食べたいか聞いて、晩ご飯に作っていたのにそれもできず結局は私の好きなものばかりを作ってしまう。
 なんか物足りない。

「伊織さんが美味しいって言ってくれなきゃ、自分だけのためにお昼作る気力もないよ……」

 この数日の私のお昼ご飯は酷いもので、お漬物とご飯だったりお味噌汁とご飯だったり……お昼ご飯と呼ぶには寂しいメニューだった。

「……よし、今日はちゃんと作ろう」

 毎日こんな感じじゃよくない。いくら伊織さんがいないとはいえ、自分のことぐらい自分で管理しなきゃ。
 私は冷蔵庫を開けると、お肉や卵を取り出した。
 甘い卵焼きに、豚肉の生姜焼き、それからジャガイモとカリカリに焼いた豚肉を塩こしょうで味付けしたもの……気付けば私は自分の分、というには多すぎる量のお昼ご飯を作り上げていた。さすがに、この量は私一人では食べられない……。かといって、晩ご飯に回すかといえば、そう言うメニューでもないし。どちらかというとお弁当の具材のような……。
 お弁当?

「そうだ! お弁当にしよう!」

 思い立ったらすぐに行動するべし。私はちょうどいい大きさの小箱を見つけるとその中に作ったおかずをつめる。詰める間に冷ましていたご飯に軽く塩を振っておにぎりにしていくと、お弁当のできあがりだ。
 喜んでくれるといいな……。
 時計を見ると、11時45分。伊織さんのお昼休みは12時からだ。急がなきゃ。
 私は慌てて家を飛び出すと、おにぎりを持ってオリーブ園へと向かった。
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