1 / 1
平凡に誰よりも憧れた、ある作家の人生
しおりを挟む
昭和の終わり。私は双子の妹として産まれた。未熟児のままで。お腹にいた期間は8ヶ月。
今思うと。普通の人として産まれていたら私はどんな人生だったのだろうと思う。友達がいて、恋愛して、彼氏作っていたのかな。成人過ぎたら、普通に仕事出来て素敵な人を見つけて結婚してたのかな。きっと今の年齢では。子供も、いたと思う。
だけど私はこれまで。私が言うのも何だけど。結構苦労してきた人生だった。だから誰より、平凡に。普通の人生に憧れた。けれど。普通の人に産まれてたとしても。順風満帆な人生を歩めてたのかなとも思う。
何もかも中途半端なままで障害を持ったまま産まれた私の物語。
1988年、昭和63年生まれの私。姉は知的障害。田舎だった地元では私たちを何とかできる病院は無くて。隣の産婦人科の病院で産まれた。あんまり早く産まれた私たちは小さかった。
乳児の時から、私は普通の子たちより出来ることが出来るようになるのは遅かった。ハイハイするのも歩くのも。姉は病弱だったけど私は大して病気になることは無かった。ただ。
何も無い場所で転ぶのは何時もの事だったり、バランスが矢鱈と取れないで悪かったり。すぐに靴はすり減らして履けなくなったり。極めつけは。
小学生になったら誰かの名前と顔を覚えるのが苦手だった。みんなは簡単に出来たのに。そして誰かと喋れ無かった。そんな私の居場所は図書館。本を読み漁って読破したらまた読んだ。
勉強は普通だった。良くは無いけど悪くもない。だけどそんな私はアイツからしたらいい娘とは言えなかったみたい。優秀な4つ年下の妹だけは可愛がってたし。
「なんでこんな簡単な事も出来ないの!!」
叩かれた事は無い。けど怒鳴られた事は毎日ある。あの頃の私はお利口さんじゃないから怒るんだと思ってた。
だから私が思ういい娘を、いい子になろうって頑張った。家の手伝いも、妹たちの面倒も見た。勉強も頑張った。だけど。アイツはお利口さんと一度も言ってはくれなかった。一度も言わないままアイツは私たちを捨てて海外に行った。私が9歳の時だった。
この時私がアイツから捨てられたと分かったのは。もっと後からだった。捨てられたと理解出来なかったのもあるけど、多分したくなかったと思う。
中学、高校、農業大学。人見知りと人付き合いは良くなるどころか悪くなっていった。高校だけは友達いて楽しかったけれど。姉は中学の時に養護学校に転校した。私は障害ある姉の妹と知られてて、学校に行きたくなかった。行きたくなかったと言えば良かったけど、我慢した。お父さんを不登校の娘がいる親と言われたく無かったから。
それでなくても私は持病があったのに迷惑かけられない。
小学生も終わりくらいの頃に私たち3人が夢中になったアニメを観てた。毎週観るのは当たり前、ビデオだって借りてたくらいだった。あの日も3人で2階のテレビでビデオを観てた。何時ものように。だけど私は途中で記憶が無くなって気付けば知らない部屋のベッドで寝てた。
可笑しいな、私はふう(妹)たちとビデオ観てたのに。話を聞けば私はビデオ観てたらいきなり倒れて泡吹いていたって。結局私は何が起きたのか分からないで帰った。数日後、私はニュースで私みたいな子供たちが病気になったのを知った。発症した当時は11歳。小5の時だった。それからずっと投薬治療を続けてる。今でも治ってるとは思ってない。薬を飲んでる、睡眠をちゃんと取ってる、ストレス溜めないでいるから発作は起きないだけだから。
子供の頃からこんな感じだけど。今思えばこんなの生ぬるいものだったなと思う。
小学、中学はとにかく薬を飲み忘れて発作ばかり繰り返して病院のお世話になった。特に危なかったのは自転車通学してた中学の頃。文化祭の準備で遅くなって帰ってたらバイクだったと思う。そのライトを見てしまった。遠くで自転車が倒れた音、私が倒れて膝を擦りむいて。植木に顔を突っ込んで唇切った感覚してたのに。全く動かなかった。後からお父さんから聞いたら犬の散歩してたおじさんが、植木に顔を突っ込んだ私を見つけたって。もう私は自転車通学を止めて徒歩で通った。一歩間違えてたら私は川に落ちてたと思うから。川に落ちなくても、地面に頭を打ってたらと思うとゾッとする。
大学は志望してた学校だったけどとにかく学校生活は苦痛だった。全寮制の学校で同じ部屋に別の子といないといけないから。まあ、入学した時に同室する予定の子が出ていってくれたから助かったけど。座学でも誰も私に話しかけないからそれは良かったと思う。長いようで短い2年の学生生活を終えた私は就職氷河期なのもあってどこにも採用出来ないまま卒業した。自動車免許が無かった私に出来た仕事は限られた。短期間のアルバイトばかり。正社員なんて夢のまた夢だった。資格も大したものは無い。そんな私に人生の転機が訪れた。カウンセラーの人と話した事が切っ掛けだった。話して何が分かるんだろってどこかで冷めてた私にその人はある病院で検査してと言われた。その検査の結果、私にも障害があると診断された。
それが発達障害。
例えば人の名前と顔を合わせて覚えられない、こだわりが強い、誰かと話すとかのコミュニケーション能力が欠如してるなどなど当てはまる所ばかりだった。やっと楽になれたと同時にお父さんには申し訳が無かった。私だけでも普通の子に産まれてきたと思ってたのに。手帳の発行、年金の給付。どちらも難しかった。確かに私は障害はあるけれど。生活に支障があるのかと言われたらそうでは無かったから。だけど何とか通った。確か私に持病があったから通ったみたい。
薬をずっと飲まないといけないといけない病気があると聞いたら大抵なら苦労してると思う。病気が無ければ免許も取れただろうけど。私はこれで良かったと思う。手帳があればバスも電車も安く乗れるから。
それからは手帳の発行を終わらせたら就職訓練をするために事業所に通所して、厳しい訓練受けて。国立大学の用務員に就職できた。やっとマトモな仕事に就けた。その時の私は24歳。あの頃の私は。これから起きる地獄のようなどん底の人生になると思わなかった。
就職できて間もない頃に高校の友達と女子会する事になって。みんな結婚したり結婚の予定があると聞いて。私は何を思ったのか、焦ったんだった。交際経験も無い、男女の経験も無いのは私だけだったから。何も焦る必要は無かったのに。本当にあの頃の私はバカだったと思う。
それから転げ落ちるのは早かった。自殺は覚えてないくらい繰り返した。男性から裏切られたのも何回もあった。どうしてって。何回も泣いた。大抵の男は経験ない私の身体目当てばかり。
会いたいとか言って会いにも来なかったり。何回も泣いてたらいつの間にか私と同じ顔した誰かが
辛いですね。純粋なあなたを弄んで。あなたが泣いている時、私が付いてます。そう言ってくれた。私にしか見えない私の味方がそこにいてくれた。
自殺を繰り返していくうちに。代わりに死んでくれる子も出てきた。その内に私には4人の味方ができた。後になって私のような病気があるって分かった。記憶の共有も同じ。私が知った情報はみんなも把握する。他の誰かが知った事は他の子もだけど私も知る。
この病気を発症する原因は虐待やトラウマ。私の場合アイツだろな。あと伯母。自分の常識を押し付けてたから。今でも4人なのかって言ったら違う。仕事を辞めて病院に通院してから更に増えて。今は6人。みんなそれぞれ名前もある。躑躅、名無し、向日葵、無花果、歪、蓬。みんなのリーダーは歪ことビッツー。今、この話を書いてるのはみんなも知ってるけど何も言わない。もしもみんながいるこれが、病気だと言うなら私は治らなくて良い。治ってみんながいなくなるならこのままが良い。少なくとも、みんなは私の過去を知ってる。アイツの事も、アイツが私に何してきたのかも。生きるのが辛くて死にたかった事は何回もあったけど。みんな味方してボロボロな私をどうにかしようとした時もあった。
辛い事があって、私が何かの出来事を忘れても。無理に思い出させようとはしなかった。だって私が辛いから忘れてるのをみんなは知ってるから。
平凡で普通な人生に憧れた頃は確かにあった。だけど虐待もしない親たちの所に産まれてきた私はこの年齢までずっと幸せでいられたのかな。特に何も苦労しない順風満帆な人生でいられたのかな。私は、そうとは言いきれ無かった。
障害あっても無くても。苦労の無い人生は無いから。
それで、何故私は農業大学を卒業してて小説書いてるのかを最後に書きますけど。
私は就職してから長年ピクシブで小説の投稿してきたから。切っ掛けは高校の時にあった感謝の手紙コンクールで佳作取ったこと。特に現国が得意だったわけでは無かったけど。感謝の思いを原稿用紙いっぱいに書いて、提出したら全国で何十人の中の受賞者になれた。正直今思っても平凡なあの手紙のどこが良かったのか分からないけど。素直に感謝の気持ちを書いたからだと思う。
その出来事が切っ掛けなのもあるけどピクシブで投稿したら楽しそうと思った。イラストを眺めてた私は楽しそうに見えたから。イラストは無理。漫画は論外。なら小説だよねと思って書いた。どんな話にしようかなって考えて投稿して。最初は閲覧してもらえたら良い方。私はそれだけで良かったからそれで喜んでた。
一応これでもランキング入りもした。正直びっくりしたけど。書くのは楽しかった頃もある。だからこそ、この世界で稼ぐことを決めた。
治すために治療してたとはいえ、国立大学の用務員を辞めてからずっと無職なまま。事業所にまた通所しようとも思ったけど、それも難しかった。強度のHSP、通称だと繊細さんと分かってから。大きな声も音も苦手。イライラしてる人がいたら逃げたくなる。そうじゃなかったらアルバイトでもパートでも探して仕事してる。そんな私には何が出来るのかなと思ったらそんな私には物書きだとかが向いてるって知った。それに危機管理能力が高かったりするし、あの人こうして欲しいのでは?と気付きやすいだとか良いこともあったりする。前にも書いたけど芸術関係の仕事向きな人だから。私はこの世界で、物書きとしての実力と認知が物を言うこの世界で。勝負しようと決めた。
最後に繊細さんは障害ある人じゃないと理解してほしいです。少しの刺激で疲れたり体調崩したりするけど。僅かなヒントで、自分に合った環境だと誰より力を発揮できる人だから。
生きにくい人生だけど。だけどそれで私は不幸な人なのかと聞かれたらそうでも無い。確かにどん底だった事もあったけど、あの頃が無かったら私はみんなに出会えなかったと言える。
繊細さんは。正直なってたかもしれない。4人に1人は繊細さんだから。
特に苦労しないで、会社勤めしててお母さんしてる私の人生を想像してみるけど。悩みは尽きないと思う。何時も笑顔を作って、時には残業して。育休してた間は子育てに奮闘しないといけないし。なら専業主婦だったらどうだろと思うけど。毎日休み無しで家事をこなしてパートもして。キツくない?と思う。旦那さんが優しいといいけど家事もパートもして当たり前な人だと無理。
対して私はどうだろう。確かに毎日薬は飲まないといけないけど、それだけだし。まあ、書く話のネタとか。どう書こうかなって悩むけど。思い付かないなら無理に書かない。書いてもいい話にならないし。なんか違うなってなるから。基本私は書きたい話は好きに書く主義だから、書きたくない時は書かない。この話も。障害抱えて生きてる話ってあったから書いただけ。敢えて書こうかなって思った理由は。
障害者は不幸、可哀想と言われがちで同情されるけど。そうでもないから。って知って欲しいだけ。多分私に限らない。身体障害の人もそう思ってる人はいると思う。中には懸命に生きてる人もいる。私は軽度だからそうでもない、慣れてるからって言えるけど。ただ日常生活を過ごすだけで大変な人もいる。
母親には恵まれなかったけどお父さんは味方でいてくれたから、今の仕事も応援してくれてる。今私と関わってる人たちも私に障害無ければ、持病無ければ知り合う事も無かった。まあ、その人たちがいないと何かと知らないままだった事だとか多いから。色々お世話になってるけど。私が野菜作り一番詳しいから助かるとも言ってくれる。そんな時、農大卒の経歴はムダでは無かったと思う。
子供の頃は本当に苦労した。なんで私はクラスメートの名前を覚えられないの?って。それでも何とか覚えようって頑張った学生時代。
今でも誰かの名前はそんなに覚えられない。一度覚えてもしばらく会わないと忘れるし。
今でも体幹はすこぶる悪い。何も無い場所で転ぶ事は少なくなったけどよくよろけるし。立ったまま靴下とか履くのはムリ。座って履いてる。ズボンなら壁とかに寄りかかって何とか履いてる。
たまに空気読めなかったりするし、曖昧な表現の理解が出来なかったりするけど。今のところ苦労してない。苦労する時にどうしようかって考えたら良い。
今思うと懸命にその日を、毎日を生きてたのは昔の、子供の頃だったなと思う。学校でも何時だってそうだった。出来ない事を出来るように頑張ってた。家では自分に見向きもされない、娘と認めないアイツに認めてもらいたくて頑張ってたから。
今となっては出来ない事は全部慣れたしどうとでもなるから。だから昔の私に頑張ったねと言いたい。もっと気楽にしてたらまた違ってたと思うけど。
ねえ、昔の私。あの頃の君は毎日心の中でなんで出来ないの?どう頑張ればいいの?って泣いてるけど。出来ないのは恥ずかしくは無いから。今の私も出来ない事ばかりだから。それに出来ない事を出来るようにするのはスゴい疲れるし時間かかるから。出来ることもっと出来るようにしたら良いから。まあ、それ。私がお世話になった人の言ってた事なんだけどね。ありがとね。昔の私が頑張ってくれたから、誰かの名前覚えられないのも私からしたら普通だしって思えるから。なんと言うか、いい意味で開き直れるから。自分を大切にしない人に期待しなくて良いよ。コイツはこういう奴だからって。まあ、それが出来なかったんだもんね。いつか認めてくれるって、思いたかったから。お母さんが好きだった君を否定はしないよ。否定はね。今の私はムリだな。なんでコイツが私の親なわけ?って思うし。今どうなってるのか知らないし、知ったことではないよ。何時だって期待したら裏切られて絶望するものだから。だからいない事にしたの。とっくにね。なんでこうなったの?と聞くなら。何回も裏切られたらそうなるんだよって答えるしか無いかな。だから子供の頃までは。お母さんが好きな私でいてね。私も好きでいたかったけどムリだったから。
今の私も、お父さんも。なんで上の二人を。私たちを捨てていったのか分からないんだ。私からしたら。最初から要らなかった子だったからって思ってる。そう思う方が楽だから。
今はそうでもないけど。子供の時も、心を病んでた時も。私は懸命に生きようとしてた。みんなを作ってまで私は生きようとしてたんだよね。何時かお父さんが先にいなくなるから。だから私は1人でも大丈夫なように味方を作ったんだ。書いてて思い直した。
今でも私は懸命に生きようとしてる。
心がしんどい時って、私はご飯食べれなくなったりする。1食くらい抜いても大丈夫と思うだろけど。夜だとそうもいかない。夜は薬飲まないといけないから少しでも食べないといけない。薬は飲まないとまた発作起こすから飲まないと。そう分かってるけど食べれない。薬だけじゃない。色んな事が理由で食べられない時、みんなの中の誰かが。ビッツーが代わりに食べてくれる。私が食べても、ビッツーが食べても変わらないから。それに私がムリでもビッツーは食べれるから。だから栄養不足とかにならないで助かる。最悪みんながいないと何日も食べられないなんて事もあり得るから。改めてみんなを作ったのは心を守るだけじゃなくて。私を生かそうとしたから。あの頃の私は生きようとしてみんなを作ったんだな。
今でも私はどっか弱いから忘れたり、食べられない時は代わりに食べてもらったりしてもらうけど。代わりにしてもらう事が私は私なりに懸命に生きようとしてる。
たまに思う。普通の人って、普通の人生って何かなって。普通な人生は楽しくないってよく聞くけど。それって贅沢じゃないの?って何時も思う。
とても私は普通の人生を生きてきたとは言えないし、色んな顔がある私は普通の人とも言えない。けど
これまで懸命に生きようとしてきた私は今は間違いなく幸せって言える。
今思うと。普通の人として産まれていたら私はどんな人生だったのだろうと思う。友達がいて、恋愛して、彼氏作っていたのかな。成人過ぎたら、普通に仕事出来て素敵な人を見つけて結婚してたのかな。きっと今の年齢では。子供も、いたと思う。
だけど私はこれまで。私が言うのも何だけど。結構苦労してきた人生だった。だから誰より、平凡に。普通の人生に憧れた。けれど。普通の人に産まれてたとしても。順風満帆な人生を歩めてたのかなとも思う。
何もかも中途半端なままで障害を持ったまま産まれた私の物語。
1988年、昭和63年生まれの私。姉は知的障害。田舎だった地元では私たちを何とかできる病院は無くて。隣の産婦人科の病院で産まれた。あんまり早く産まれた私たちは小さかった。
乳児の時から、私は普通の子たちより出来ることが出来るようになるのは遅かった。ハイハイするのも歩くのも。姉は病弱だったけど私は大して病気になることは無かった。ただ。
何も無い場所で転ぶのは何時もの事だったり、バランスが矢鱈と取れないで悪かったり。すぐに靴はすり減らして履けなくなったり。極めつけは。
小学生になったら誰かの名前と顔を覚えるのが苦手だった。みんなは簡単に出来たのに。そして誰かと喋れ無かった。そんな私の居場所は図書館。本を読み漁って読破したらまた読んだ。
勉強は普通だった。良くは無いけど悪くもない。だけどそんな私はアイツからしたらいい娘とは言えなかったみたい。優秀な4つ年下の妹だけは可愛がってたし。
「なんでこんな簡単な事も出来ないの!!」
叩かれた事は無い。けど怒鳴られた事は毎日ある。あの頃の私はお利口さんじゃないから怒るんだと思ってた。
だから私が思ういい娘を、いい子になろうって頑張った。家の手伝いも、妹たちの面倒も見た。勉強も頑張った。だけど。アイツはお利口さんと一度も言ってはくれなかった。一度も言わないままアイツは私たちを捨てて海外に行った。私が9歳の時だった。
この時私がアイツから捨てられたと分かったのは。もっと後からだった。捨てられたと理解出来なかったのもあるけど、多分したくなかったと思う。
中学、高校、農業大学。人見知りと人付き合いは良くなるどころか悪くなっていった。高校だけは友達いて楽しかったけれど。姉は中学の時に養護学校に転校した。私は障害ある姉の妹と知られてて、学校に行きたくなかった。行きたくなかったと言えば良かったけど、我慢した。お父さんを不登校の娘がいる親と言われたく無かったから。
それでなくても私は持病があったのに迷惑かけられない。
小学生も終わりくらいの頃に私たち3人が夢中になったアニメを観てた。毎週観るのは当たり前、ビデオだって借りてたくらいだった。あの日も3人で2階のテレビでビデオを観てた。何時ものように。だけど私は途中で記憶が無くなって気付けば知らない部屋のベッドで寝てた。
可笑しいな、私はふう(妹)たちとビデオ観てたのに。話を聞けば私はビデオ観てたらいきなり倒れて泡吹いていたって。結局私は何が起きたのか分からないで帰った。数日後、私はニュースで私みたいな子供たちが病気になったのを知った。発症した当時は11歳。小5の時だった。それからずっと投薬治療を続けてる。今でも治ってるとは思ってない。薬を飲んでる、睡眠をちゃんと取ってる、ストレス溜めないでいるから発作は起きないだけだから。
子供の頃からこんな感じだけど。今思えばこんなの生ぬるいものだったなと思う。
小学、中学はとにかく薬を飲み忘れて発作ばかり繰り返して病院のお世話になった。特に危なかったのは自転車通学してた中学の頃。文化祭の準備で遅くなって帰ってたらバイクだったと思う。そのライトを見てしまった。遠くで自転車が倒れた音、私が倒れて膝を擦りむいて。植木に顔を突っ込んで唇切った感覚してたのに。全く動かなかった。後からお父さんから聞いたら犬の散歩してたおじさんが、植木に顔を突っ込んだ私を見つけたって。もう私は自転車通学を止めて徒歩で通った。一歩間違えてたら私は川に落ちてたと思うから。川に落ちなくても、地面に頭を打ってたらと思うとゾッとする。
大学は志望してた学校だったけどとにかく学校生活は苦痛だった。全寮制の学校で同じ部屋に別の子といないといけないから。まあ、入学した時に同室する予定の子が出ていってくれたから助かったけど。座学でも誰も私に話しかけないからそれは良かったと思う。長いようで短い2年の学生生活を終えた私は就職氷河期なのもあってどこにも採用出来ないまま卒業した。自動車免許が無かった私に出来た仕事は限られた。短期間のアルバイトばかり。正社員なんて夢のまた夢だった。資格も大したものは無い。そんな私に人生の転機が訪れた。カウンセラーの人と話した事が切っ掛けだった。話して何が分かるんだろってどこかで冷めてた私にその人はある病院で検査してと言われた。その検査の結果、私にも障害があると診断された。
それが発達障害。
例えば人の名前と顔を合わせて覚えられない、こだわりが強い、誰かと話すとかのコミュニケーション能力が欠如してるなどなど当てはまる所ばかりだった。やっと楽になれたと同時にお父さんには申し訳が無かった。私だけでも普通の子に産まれてきたと思ってたのに。手帳の発行、年金の給付。どちらも難しかった。確かに私は障害はあるけれど。生活に支障があるのかと言われたらそうでは無かったから。だけど何とか通った。確か私に持病があったから通ったみたい。
薬をずっと飲まないといけないといけない病気があると聞いたら大抵なら苦労してると思う。病気が無ければ免許も取れただろうけど。私はこれで良かったと思う。手帳があればバスも電車も安く乗れるから。
それからは手帳の発行を終わらせたら就職訓練をするために事業所に通所して、厳しい訓練受けて。国立大学の用務員に就職できた。やっとマトモな仕事に就けた。その時の私は24歳。あの頃の私は。これから起きる地獄のようなどん底の人生になると思わなかった。
就職できて間もない頃に高校の友達と女子会する事になって。みんな結婚したり結婚の予定があると聞いて。私は何を思ったのか、焦ったんだった。交際経験も無い、男女の経験も無いのは私だけだったから。何も焦る必要は無かったのに。本当にあの頃の私はバカだったと思う。
それから転げ落ちるのは早かった。自殺は覚えてないくらい繰り返した。男性から裏切られたのも何回もあった。どうしてって。何回も泣いた。大抵の男は経験ない私の身体目当てばかり。
会いたいとか言って会いにも来なかったり。何回も泣いてたらいつの間にか私と同じ顔した誰かが
辛いですね。純粋なあなたを弄んで。あなたが泣いている時、私が付いてます。そう言ってくれた。私にしか見えない私の味方がそこにいてくれた。
自殺を繰り返していくうちに。代わりに死んでくれる子も出てきた。その内に私には4人の味方ができた。後になって私のような病気があるって分かった。記憶の共有も同じ。私が知った情報はみんなも把握する。他の誰かが知った事は他の子もだけど私も知る。
この病気を発症する原因は虐待やトラウマ。私の場合アイツだろな。あと伯母。自分の常識を押し付けてたから。今でも4人なのかって言ったら違う。仕事を辞めて病院に通院してから更に増えて。今は6人。みんなそれぞれ名前もある。躑躅、名無し、向日葵、無花果、歪、蓬。みんなのリーダーは歪ことビッツー。今、この話を書いてるのはみんなも知ってるけど何も言わない。もしもみんながいるこれが、病気だと言うなら私は治らなくて良い。治ってみんながいなくなるならこのままが良い。少なくとも、みんなは私の過去を知ってる。アイツの事も、アイツが私に何してきたのかも。生きるのが辛くて死にたかった事は何回もあったけど。みんな味方してボロボロな私をどうにかしようとした時もあった。
辛い事があって、私が何かの出来事を忘れても。無理に思い出させようとはしなかった。だって私が辛いから忘れてるのをみんなは知ってるから。
平凡で普通な人生に憧れた頃は確かにあった。だけど虐待もしない親たちの所に産まれてきた私はこの年齢までずっと幸せでいられたのかな。特に何も苦労しない順風満帆な人生でいられたのかな。私は、そうとは言いきれ無かった。
障害あっても無くても。苦労の無い人生は無いから。
それで、何故私は農業大学を卒業してて小説書いてるのかを最後に書きますけど。
私は就職してから長年ピクシブで小説の投稿してきたから。切っ掛けは高校の時にあった感謝の手紙コンクールで佳作取ったこと。特に現国が得意だったわけでは無かったけど。感謝の思いを原稿用紙いっぱいに書いて、提出したら全国で何十人の中の受賞者になれた。正直今思っても平凡なあの手紙のどこが良かったのか分からないけど。素直に感謝の気持ちを書いたからだと思う。
その出来事が切っ掛けなのもあるけどピクシブで投稿したら楽しそうと思った。イラストを眺めてた私は楽しそうに見えたから。イラストは無理。漫画は論外。なら小説だよねと思って書いた。どんな話にしようかなって考えて投稿して。最初は閲覧してもらえたら良い方。私はそれだけで良かったからそれで喜んでた。
一応これでもランキング入りもした。正直びっくりしたけど。書くのは楽しかった頃もある。だからこそ、この世界で稼ぐことを決めた。
治すために治療してたとはいえ、国立大学の用務員を辞めてからずっと無職なまま。事業所にまた通所しようとも思ったけど、それも難しかった。強度のHSP、通称だと繊細さんと分かってから。大きな声も音も苦手。イライラしてる人がいたら逃げたくなる。そうじゃなかったらアルバイトでもパートでも探して仕事してる。そんな私には何が出来るのかなと思ったらそんな私には物書きだとかが向いてるって知った。それに危機管理能力が高かったりするし、あの人こうして欲しいのでは?と気付きやすいだとか良いこともあったりする。前にも書いたけど芸術関係の仕事向きな人だから。私はこの世界で、物書きとしての実力と認知が物を言うこの世界で。勝負しようと決めた。
最後に繊細さんは障害ある人じゃないと理解してほしいです。少しの刺激で疲れたり体調崩したりするけど。僅かなヒントで、自分に合った環境だと誰より力を発揮できる人だから。
生きにくい人生だけど。だけどそれで私は不幸な人なのかと聞かれたらそうでも無い。確かにどん底だった事もあったけど、あの頃が無かったら私はみんなに出会えなかったと言える。
繊細さんは。正直なってたかもしれない。4人に1人は繊細さんだから。
特に苦労しないで、会社勤めしててお母さんしてる私の人生を想像してみるけど。悩みは尽きないと思う。何時も笑顔を作って、時には残業して。育休してた間は子育てに奮闘しないといけないし。なら専業主婦だったらどうだろと思うけど。毎日休み無しで家事をこなしてパートもして。キツくない?と思う。旦那さんが優しいといいけど家事もパートもして当たり前な人だと無理。
対して私はどうだろう。確かに毎日薬は飲まないといけないけど、それだけだし。まあ、書く話のネタとか。どう書こうかなって悩むけど。思い付かないなら無理に書かない。書いてもいい話にならないし。なんか違うなってなるから。基本私は書きたい話は好きに書く主義だから、書きたくない時は書かない。この話も。障害抱えて生きてる話ってあったから書いただけ。敢えて書こうかなって思った理由は。
障害者は不幸、可哀想と言われがちで同情されるけど。そうでもないから。って知って欲しいだけ。多分私に限らない。身体障害の人もそう思ってる人はいると思う。中には懸命に生きてる人もいる。私は軽度だからそうでもない、慣れてるからって言えるけど。ただ日常生活を過ごすだけで大変な人もいる。
母親には恵まれなかったけどお父さんは味方でいてくれたから、今の仕事も応援してくれてる。今私と関わってる人たちも私に障害無ければ、持病無ければ知り合う事も無かった。まあ、その人たちがいないと何かと知らないままだった事だとか多いから。色々お世話になってるけど。私が野菜作り一番詳しいから助かるとも言ってくれる。そんな時、農大卒の経歴はムダでは無かったと思う。
子供の頃は本当に苦労した。なんで私はクラスメートの名前を覚えられないの?って。それでも何とか覚えようって頑張った学生時代。
今でも誰かの名前はそんなに覚えられない。一度覚えてもしばらく会わないと忘れるし。
今でも体幹はすこぶる悪い。何も無い場所で転ぶ事は少なくなったけどよくよろけるし。立ったまま靴下とか履くのはムリ。座って履いてる。ズボンなら壁とかに寄りかかって何とか履いてる。
たまに空気読めなかったりするし、曖昧な表現の理解が出来なかったりするけど。今のところ苦労してない。苦労する時にどうしようかって考えたら良い。
今思うと懸命にその日を、毎日を生きてたのは昔の、子供の頃だったなと思う。学校でも何時だってそうだった。出来ない事を出来るように頑張ってた。家では自分に見向きもされない、娘と認めないアイツに認めてもらいたくて頑張ってたから。
今となっては出来ない事は全部慣れたしどうとでもなるから。だから昔の私に頑張ったねと言いたい。もっと気楽にしてたらまた違ってたと思うけど。
ねえ、昔の私。あの頃の君は毎日心の中でなんで出来ないの?どう頑張ればいいの?って泣いてるけど。出来ないのは恥ずかしくは無いから。今の私も出来ない事ばかりだから。それに出来ない事を出来るようにするのはスゴい疲れるし時間かかるから。出来ることもっと出来るようにしたら良いから。まあ、それ。私がお世話になった人の言ってた事なんだけどね。ありがとね。昔の私が頑張ってくれたから、誰かの名前覚えられないのも私からしたら普通だしって思えるから。なんと言うか、いい意味で開き直れるから。自分を大切にしない人に期待しなくて良いよ。コイツはこういう奴だからって。まあ、それが出来なかったんだもんね。いつか認めてくれるって、思いたかったから。お母さんが好きだった君を否定はしないよ。否定はね。今の私はムリだな。なんでコイツが私の親なわけ?って思うし。今どうなってるのか知らないし、知ったことではないよ。何時だって期待したら裏切られて絶望するものだから。だからいない事にしたの。とっくにね。なんでこうなったの?と聞くなら。何回も裏切られたらそうなるんだよって答えるしか無いかな。だから子供の頃までは。お母さんが好きな私でいてね。私も好きでいたかったけどムリだったから。
今の私も、お父さんも。なんで上の二人を。私たちを捨てていったのか分からないんだ。私からしたら。最初から要らなかった子だったからって思ってる。そう思う方が楽だから。
今はそうでもないけど。子供の時も、心を病んでた時も。私は懸命に生きようとしてた。みんなを作ってまで私は生きようとしてたんだよね。何時かお父さんが先にいなくなるから。だから私は1人でも大丈夫なように味方を作ったんだ。書いてて思い直した。
今でも私は懸命に生きようとしてる。
心がしんどい時って、私はご飯食べれなくなったりする。1食くらい抜いても大丈夫と思うだろけど。夜だとそうもいかない。夜は薬飲まないといけないから少しでも食べないといけない。薬は飲まないとまた発作起こすから飲まないと。そう分かってるけど食べれない。薬だけじゃない。色んな事が理由で食べられない時、みんなの中の誰かが。ビッツーが代わりに食べてくれる。私が食べても、ビッツーが食べても変わらないから。それに私がムリでもビッツーは食べれるから。だから栄養不足とかにならないで助かる。最悪みんながいないと何日も食べられないなんて事もあり得るから。改めてみんなを作ったのは心を守るだけじゃなくて。私を生かそうとしたから。あの頃の私は生きようとしてみんなを作ったんだな。
今でも私はどっか弱いから忘れたり、食べられない時は代わりに食べてもらったりしてもらうけど。代わりにしてもらう事が私は私なりに懸命に生きようとしてる。
たまに思う。普通の人って、普通の人生って何かなって。普通な人生は楽しくないってよく聞くけど。それって贅沢じゃないの?って何時も思う。
とても私は普通の人生を生きてきたとは言えないし、色んな顔がある私は普通の人とも言えない。けど
これまで懸命に生きようとしてきた私は今は間違いなく幸せって言える。
0
お気に入りに追加
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
あたしが大黒柱
七瀬渚
ライト文芸
「僕のせいで……」と言って涙ぐんだ。男として、大人として、上手く生きられない愛しい夫。
ひょろひょろの身体に青白い肌。趣味は魚たちや亀の世話をすること。頭にはイヤーマフをつけている。
雑音を受け付けない感覚過敏。ゆえに何処に行っても仕事が続けられなかった。言葉もほとんど話せない。そしていつも申し訳なさそうな顔をしている。それが主人公・葉月の夫である。
対して製薬会社でバリバリ働く勝気なキャリアウーマンである葉月は、自分こそがこの家庭の大黒柱になると覚悟を決める。
“養う”という言葉を嫌う葉月。本当は声を大にして伝えたい。自分はこんなにも夫に支えられていると。
男が泣くのはおかしいか?
出世を目指す主婦は出しゃばりだと叩かれる?
こんな形の夫婦が居てもいいじゃない?
あらゆる人格、あらゆる障害、そしてそれぞれの家庭に於いてあらゆる問題が存在している。“当たり前”というのはまさにこのことではないのか。
障害に対する特別扱いではなく、実は思っているよりもずっと身近に在ることを伝えたいので、あえてあまり重くない作風にしています。
※“夫”の障害(感覚過敏)に関しては、著者自身に現れた症状を参考にしています。症状の出方には個人差があるので、同じ障害を持つ全ての人がこのようになるという意味ではございません。
※重複投稿・・・この作品は『小説家になろう』『カクヨム』『ノベルアップ+』にも投稿しています。
☆印は挿絵入りです。
©️七瀬渚/nagisa nanase 2018
禁止私自转载、加工
禁止私自轉載、加工
無断複写・転載を禁止します。
ふみちゃんは戦争にいった
桜井 うどん
ライト文芸
僕とふみちゃんは、おんぼろの狭いアパートで暮らす、カップルだ。
ある日、ふみちゃんは戦争に呼ばれて、何が何だかわからないうちに、あっという間に戦争に行ってしまった。
ふみちゃんがいなくても、心配させないように、僕はちゃんと生活しないといけない。
これは、戦争では役にも立ちそうにもない、そして貧しい僕からみた、生活と戦争の物語。
※この作品を通じて政治的な主張をしたいとかは特にないことをお断りしておきます。
日本風な舞台なだけで、一種のファンタジーのようなものと捉えてくだされば。
※アルファポリスライト文芸賞で奨励賞をいただきました。
カオスシンガース
あさきりゆうた
ライト文芸
「君、いい声してるね、私とやらない?」
自分(塩川 聖夢)は大学入学早々、美しい女性、もとい危ない野郎(岸 或斗)に強引にサークルへと勧誘された。
そして次々と集まる個性的なメンバー。
いままでにない合唱団を立ち上げるために自分と彼女(♂)の物語は始まる。
歌い手なら知っておきたい知識、雑学、秋田県の日常を小説の中で紹介しています。
筆者の合唱経験を活かして、なるべくリアルに書いております。
青春ものな合唱のイメージをぶっ壊したくてこのお話を書いております。
2023.01.14
あとがきを書きました。興味あれば読んでみてください。
白雪姫は処女雪を鮮血に染める
かみゅG
ライト文芸
美しい母だった。
常に鏡を見て、自分の美しさを保っていた。
優しい父だった。
自分の子供に対してだけでなく、どの子供に対しても優しかった。
私は王女だった。
美しい母と優しい父を両親に持つ、この国のお姫様だった。
私は白雪姫と呼ばれた。
白い雪のような美しさを褒めた呼び名か、白い雪のように何も知らない無知を貶した呼び名か、どちらかは知らない。
でも私は、林檎を食べた直後に、口から溢れ出す血の理由を知っていた。
白雪姫は誰に愛され誰を愛したのか?
その答えが出たとき、彼女は処女雪を鮮血に染める。
風月庵にきてください 開店ガラガラ編
矢野 零時
ライト文芸
正夫のお父さんはお母さんと別れてソバ屋をやりだした。お父さんの方についていった正夫は、学校も変わり、ソバ屋の商売のことまで悩むことになった。
あ~、正夫とお父さんは一体どうなるのだろうか?
四畳半の怪球
ヒィッツカラルド
ライト文芸
四畳半という狭い空間で起きる奇怪な話。
この話は実話です。
貴方ならば、この狭い四畳半で眠り続けられますか?
暮し続けられますか?
我慢できますか?
私は、暮し続けました……。
私の幼馴染は、世界一無敵な騎士
野うさぎ
恋愛
茜色の瞳と髪を持つ西園寺赤音《あかね》は、幼馴染である井藤誠を好きになってしまうが、親友の東海《とうかい》青葉と好きな人がかぶってしまいー。
この小説は、なろう、カクヨム、エブリスタ、魔法のアイランド、野いちご、ベリーズカフェでも投稿しています。
はてなブログやライブドアブログというブログにも掲載しています。
魔界最強に転生した社畜は、イケメン王子に奪い合われることになりました
タタミ
BL
ブラック企業に務める社畜・佐藤流嘉。
クリスマスも残業確定の非リア人生は、トラックの激突により突然終了する。
死後目覚めると、目の前で見目麗しい天使が微笑んでいた。
「ここは天国ではなく魔界です」
天使に会えたと喜んだのもつかの間、そこは天国などではなく魔法が当たり前にある世界・魔界だと知らされる。そして流嘉は、魔界に君臨する最強の支配者『至上様』に転生していたのだった。
「至上様、私に接吻を」
「あっ。ああ、接吻か……って、接吻!?なんだそれ、まさかキスですか!?」
何が起こっているのかわからないうちに、流嘉の前に現れたのは美しい4人の王子。この4王子にキスをして、結婚相手を選ばなければならないと言われて──!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる