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青天の霹靂。
エミリオンから別れを告げられた時、ルドヴィークは生まれて初めてその言葉を実体験した。なにが起こったのか分からなかった。いつもなら人よりも早く回転する頭がまったく働いてくれない。
エミリオンからの突然の婚約解消は、それほどの衝撃をルドヴィークに与えたのだった。
言いたいことを言った後、足早に去っていった愛する人の後ろ姿を呆然と見送ったルドヴィークは、そこでやっと我に返った。そして、即座に隣のフェルザー伯爵邸に駆け込んだのである。
婚約解消など、認められるはずがない。
なんとしてでもエミリオンに考え直してもらうつもりだった。口約束でしかなかったのなら、今から正式に婚約を結べばいい。そう思ってフェルザー邸に押し掛けたのだが、時既に遅く、エミリオンは屋敷を出た後だった。
「婚約者がいると思っていた状態で他の人間に気を移すなど、許されるはずもない恥ずべき所業だ。あんな恥さらしは即座に放逐したよ。もう当家とは一切関係のない人間だ。行先? そんなものは知らないよ。アレも今やただの平民だ。好きなように生きて、そしてどこかで勝手に死ぬだろう」
冷たくそう言い放ったフェルザー伯爵に、ルドヴィークは違和感しか覚えなかった。フェルザー伯爵家は確かに貧しくはあったが、家族仲は良好だった。伯爵夫妻は仲睦まじく、二人は子供たちを心から慈しみ、大切に育ててきたことを、ルドヴィークは自分の目で見てきて知っている。
伯爵の言ったことは虚言に違いなく、必ずエミリオンと連絡を取り合うはずだ。そう思ったルドヴィークは、密かに伯爵家を監視させた。しかし、いつまで経っても手紙一つ取り交わす気配がない。
業を煮やしたルドヴィークは、独自にエミリオンの行方を捜し始めた。とはいえ、手がかり一つない中での捜索である。エミリオンは一向に見つからず、いたずらに月日だけが過ぎていった。
そうこうしている間に、ルドヴィークはアカデミーに入学することになった。そこでは気の合う友人がたくさんできた。容姿が良く、性格も明るくて人当たりが良いだけでなく、嫡子でありながら婚約者のいないルドヴィークは、男女問わず多くの生徒たちからの人気を得た。
しかし、どれほど学生生活を謳歌しているように見えても、ルドヴィークの心はいつも沈んでいた。エミリオンを忘れるなどできる筈もなく、そもそも忘れようなど思ったこともなかった。心はいつだってエミリオンを求め続けている。
好きな人ができたと言っていたエミリオン。
思い出すだけで胸が苦しくなる。
あれは本当のことなのだろうか。ずっと一緒にいたが、そんな素振りは全くなかった。いつだって自分を愛情のこもった目で見つめてくれていた。あの目が今は別の人間を見つめている? 自分ではない他の誰かを?
想像するだけで、悲しみと同時に怒りが沸いた。
そんなことが許せるはずがない。エミリオンの全ては自分のもので然るべきだ。あの緑色の美しい瞳が熱く見つめていいのは自分だけだ。他を見ることは許さない。
すぐにでもエミリオンを取り戻さなければ。そうルドヴィークは思った。取り戻して自分だけのものにする。そして、二度と離さない。そのためならばどんなことでもするし、なにをしてもいいとさえルドヴィークは思った。
いずれにしても、まずはエミリオンの居所を突き止めなければ。
ルドヴィークはエミリオンを探し続けた。あきらめるつもりなど更々なかった。一生を費やしてでも、エミリオンを見つけ出そうと思っていた。
アカデミーでの生活が二年目になって数ヵ月、成人を迎えたルドヴィークは祖父から侯爵位と、それに伴う領地や屋敷を譲り受けた。正直、そんなものには微塵も興味はなかったが、財を手にできたことはルドヴィークにとって幸いだった。それらを全て使い潰してでも、必ずエミリオンを見つけ出そうと思った。
いっそのこと、爵位など売却してしまって自身も平民となり、自由になってエミリオンを探そうか。
人を雇って探させるだけでは、ルドヴィークはもう我慢ができなくなっていた。アカデミーに通っている暇があったら、自分自身の手でエミリオンを探したい。
ルドヴィークにとってエミリオン以上に大切なものなど、この世に何一つ存在しなかった。爵位や貴族としての地位など、エミリオンを思う気持ちに比べたら、今すぐ捨てて構わない程度の価値しかない。
そうだ、やはり自分もエミリオンと同じ平民になろう。そうすれば、誰に気兼ねも遠慮もすることなく二人は結ばれることがきる。
心を決めたルドヴィークは、その決意をまずは両親であるクレンゲル子爵夫妻に話すことにした。両親には育ててもらった恩もあれば、これから親不孝を行う自覚もある。せめて話だけは先に通しておこうと両親に時間を取ってもらい、自分の考えや思いの全てを、正直に包み隠さず伝えることにしたのだった。
平民になるなど、反対されるだろうことは分かっている。
けれど、たとえ猛反対されようとも、ルドヴィークは意思を覆すつもりはなかった。エミリオンがいてくれなければ、生きることに意味などないのだから。
そんな強い決意を胸に、ルドヴィークは平民になってエミリオンを探すと言う考えを両親に話した。なにを言われても、意思を曲げるつもりはない。既に成人しているし爵位も継いで自立している身だ。自分のことは自分で決める。その権利がある。なにをどう言われようとも、聞く耳はもたない。
そう意気込んで話をしたルドヴィークであったが、驚くべきことに、息子の決意を聞いた子爵夫妻は、予想外の様子を見せた。
なんと、大喜びしたのである。
「やっと来たか。お前はもう少し早く来ると思っていたよ」
「ほほほ、ルドヴィーク、遅うございましてよ。待ちくたびれましたわ!」
「父上? 母上?」
驚くルドヴィークを前に、同じミルクティー色の美しい髪を持つ子爵夫人は、なぜか突然、楽し気に昔話を始めたのである。
「もう随分前になるけれど、愛する旦那様と結婚したいと両親に伝えた時、わたくし、あなたのおじい様に猛反対されましたの。身分が釣り合わないとかなんとか言ってね。まったく聞き入れていただけませんでした。でもね、わたくしはどうしても旦那様と結婚したかった。だからね、わたくしはおじい様を脅迫したのですわ」
「き、脅迫……?」
「ええ。許してくれなければ死ぬ。もしくは駆け落ちすると、そう脅迫したんです。そして、駆け落ち後に孫が生まれても、生涯絶対に会わせぬし抱かせぬと、そうおじい様に言ったんです。わたくし自身、二度とお会いすることはないと申し上げましたわ。勿論、ただの脅しではありません。結婚を許してもらえなければ、本気で実行するつもりでした。愛する人を手に入れるためですもの、それくらいの覚悟は簡単にできました」
「それは……流石は母上と申しますか」
「わたくしはね、すべてを捨てる覚悟を持って旦那様を愛したのです。貴族としての地位も名誉もなにもかも捨てていいと、旦那様が手に入るなら他はなにもいらないと、そう思ったのです。今のあなたと同じようにね、ルドヴィーク」
「!」
はっとしたルドヴィークを見て、口元を扇で隠した子爵夫人は、更に楽し気に品良く笑った。
「それだけではありません。わたくしはね、旦那様を我が物とするために、一服盛って襲いましたのよ」
「お、襲った……?!」
「だって、旦那様ったら身分の差を気にして、わたくしとのことを本気で考えて下さらなかったんですもの」
拗ねた口ぶりの夫人に、子爵が焦って言い繕う。
「そ、それは当たり前のことだろう。君は筆頭公爵家のご令嬢だったし、わたしはしがない子爵子息だったんだよ? 恐れ多いと考えるのが普通だよ。しかも、わたしは見た目も中身も、自他共に認める平凡な男だしね。対して君は皆が憧れる美しい令嬢だった。一体わたしのどこが良かったのやら、今でも分からないくらいだよ」
クレンゲル子爵は苦笑しながらそう言った。夫人はそんな夫を、愛おしそうに頬を染めて見つめる。
「一目惚れですわ。会った瞬間に運命を感じましたもの。ルドヴィーク、あなたの好みはわたくしと似てますわね。あまり派手なお顔は好まないのでしょう?」
「まあ、確かに派手で濃い顔などは好きではありません。ただ、わたしはリオンの顔は勿論好きですが、それだけではなく、リオンの中身も全てが大好きです!」
まるで顔だけでエミリオンを好きになったと言われた気がして、ルドヴィークは少し不機嫌になった。
そんな息子を見て、夫人はまた少し笑う。
「わたくしだって旦那様の性格も好ましく思っていますとも。ああ、そうそう。ルドヴィーク、あなたにこれを渡しておきましょう」
透明の液体が入った小瓶を渡されたルドヴィークは、それを指でつまんで目前にかざし、目を細めて怪訝に見た。
「なんですか、これは」
「旦那様を襲う時に飲ませた媚薬です。それはもう素晴らしい効き目ですの。ねぇ、旦那様? そうでしたわよね?」
「…………」
「既成事実って、かなり効果ありますのよ? 事が終わった後、旦那様もやっと観念してわたくしと向き合う気になって下さいましたもの」
見ると、父親が死んだような目をしていた。ルドヴィークは色々と察し、呆れたように肩を竦めると、小瓶を夫人へと突き返した。
「お気持ちは嬉しいですが、これは必要ありません。というか、使いたくても相手がどこにいるのか分かりません。探している真っ最中です。先ほども言いましたが、彼を探すために、わたしは貴族籍を捨てる決意をしたのですから」
「あら、ふふふ。ルドヴィークったら、いやだわ。エミリオン殿の居場所くらい、わたくしたちが掴んでいないとお思い?」
「…………え?」
耳にしたことの重大さに、ルドヴィークが驚愕に目を大きく見開いた。
「リオンの居場所を知っているのですか?! だとしたら、どうして今まで教えて下さらなかったのです!! わたしが必死になって探していたこと、ご存じだったはずです!!」
「わたくしたち、待っていましたの。ねっ、旦那様?」
夫人に問われ、子爵は真面目な顔で肯いた。
「お前の母上はな、格下貴族であるわたしと結婚することを望み、その願いを叶えるためなら全てを無くしてもいいという覚悟を持って、義父上にわたしとの結婚を願った。身分どころか命さえも捨ててもいいという覚悟だった。お前がもし同程度の覚悟も見せられないようなら、エミリオン殿の居場所を教えるつもりはなかったんだよ」
「!!」
「でも、あなたは先ほど言いましたわ。平民になってでもエミリオン殿を探したいと。一生を費やしてでも彼を見つけるつもりであると。あの覚悟を聞いて、わたくしたちはあなたを応援すると決めたのです」
胸を張る夫人とは対照的に、子爵は少し申し訳なさそうな顔をした。
「そもそも分かっていたんだ。フェルザー伯爵家からいずれ婚約解消の正式な申し入れがあることは。そして、エミリオン殿の性格を考えたら、婚約解消後にお前の前から完全に姿を消すため、彼が失踪する可能性は十分に考えられることだった」
「あの子は昔からとても優しい子で、あなたのことをとても大切に想ってくれていたから。自分がいてはあなたの幸せの邪魔になると彼が考えることは、わたくしたちには想像できていましたの」
「そう、だからわたしたちは、彼の行動をいつも見張らせていたんだよ」
「ど、どういうことです?」
「うん、実はね……」
そこでルドヴィークは多くのことを知らされた。
二人の婚約が正式に結ばれなかったのは、フェルザー伯爵家からの希望だったこと。いずれ見せかけの婚約は解消すると断言されていたこと。フェルザー伯爵が二人の結婚を認めない理由は、ルドヴィークが侯爵位を継ぐことが決まっていて、二人の間に大きな身分差が生まれるからであり、それはルドヴィークの将来を考えた上での判断だったこと。エミリオンがルドヴィークに婚約破棄の申し入れをする前、子爵家には事前にそのことが知らされていたこと。
それらのことを、時系列に沿って丁寧に詳しく説明されたルドヴィークは、驚愕のあまりしばらく言葉を失ってしまった。
「だからあの日、あなたが婚約解消を叩きつけられた後、当家から出て行ったエミリオン殿の行動を追うこともできたのですわ」
「わたしたちとしては、エミリオン殿にはぜひお前に嫁いで欲しかったんだよ。彼は本当に良い子だからね。昔からお前のことを心から想ってくれていた。だから、身分など気にすることはないと何度も伯爵を説得してきたんだが、分不相応だと、お前のためにならないからと聞き入れてもらえなくてね」
「昔からお隣の伯爵ご夫妻は、自分たちの子供と変わりないくらいあなたのことも大切に考えてくれてましたから。というわけで、はい、これ」
改めて、ルドヴィークは夫人から小瓶を渡された。
「こう言ってはアレですけれど、もはや相手は平民。やりたい放題ですわ。ルドヴィーク、がんばってエミリオン殿を絶対にモノにしますのよ!! とりあえず、体だけでも篭絡なさいませ! あの子にはずっと監視と護衛をつけてますけれど、恋人の影も皆無ですし、きっと今でもあなたを想ってくれていますから、自信を持って犯っておしまいなさい!」
今度は突き返さず、ルドヴィークは強い決意をもって小瓶を受け取った。
「ありがとうござます、母上。ええ、必ずやモノにしますとも! この薬、有効に使わせていただきます!! 理解ある良き母を持てたこと、幸せに思います」
「ほほほほほ」
すごく良い笑顔で分かり合っている妻と子を前に、子爵が複雑な顔をする。
「……お前たち、ちょっと考え方おかしいってことに気付こうか。相手の気持ちも考えないとね。それって本当は犯罪だからね」
十数年前、自分が媚薬を盛られて襲われた――――いや、襲わされた時のことを思い出し、子爵はなんとも言えない気持ちになるのだった。まあ結果として、自分は今、ものすごく幸せになれているのだから文句はないのだけれど。
エミリオン殿、ご愁傷様です。
でもきっと、ルドヴィークが死ぬほど君を幸せにすると思うから。
それだけは間違いないから。
だから安心してルドヴィークのお嫁におなり。
過去の自分とエミリオンを重ね合わせ、子爵はひっそりと心の中でそんなことを思ったのだった。
エミリオンから別れを告げられた時、ルドヴィークは生まれて初めてその言葉を実体験した。なにが起こったのか分からなかった。いつもなら人よりも早く回転する頭がまったく働いてくれない。
エミリオンからの突然の婚約解消は、それほどの衝撃をルドヴィークに与えたのだった。
言いたいことを言った後、足早に去っていった愛する人の後ろ姿を呆然と見送ったルドヴィークは、そこでやっと我に返った。そして、即座に隣のフェルザー伯爵邸に駆け込んだのである。
婚約解消など、認められるはずがない。
なんとしてでもエミリオンに考え直してもらうつもりだった。口約束でしかなかったのなら、今から正式に婚約を結べばいい。そう思ってフェルザー邸に押し掛けたのだが、時既に遅く、エミリオンは屋敷を出た後だった。
「婚約者がいると思っていた状態で他の人間に気を移すなど、許されるはずもない恥ずべき所業だ。あんな恥さらしは即座に放逐したよ。もう当家とは一切関係のない人間だ。行先? そんなものは知らないよ。アレも今やただの平民だ。好きなように生きて、そしてどこかで勝手に死ぬだろう」
冷たくそう言い放ったフェルザー伯爵に、ルドヴィークは違和感しか覚えなかった。フェルザー伯爵家は確かに貧しくはあったが、家族仲は良好だった。伯爵夫妻は仲睦まじく、二人は子供たちを心から慈しみ、大切に育ててきたことを、ルドヴィークは自分の目で見てきて知っている。
伯爵の言ったことは虚言に違いなく、必ずエミリオンと連絡を取り合うはずだ。そう思ったルドヴィークは、密かに伯爵家を監視させた。しかし、いつまで経っても手紙一つ取り交わす気配がない。
業を煮やしたルドヴィークは、独自にエミリオンの行方を捜し始めた。とはいえ、手がかり一つない中での捜索である。エミリオンは一向に見つからず、いたずらに月日だけが過ぎていった。
そうこうしている間に、ルドヴィークはアカデミーに入学することになった。そこでは気の合う友人がたくさんできた。容姿が良く、性格も明るくて人当たりが良いだけでなく、嫡子でありながら婚約者のいないルドヴィークは、男女問わず多くの生徒たちからの人気を得た。
しかし、どれほど学生生活を謳歌しているように見えても、ルドヴィークの心はいつも沈んでいた。エミリオンを忘れるなどできる筈もなく、そもそも忘れようなど思ったこともなかった。心はいつだってエミリオンを求め続けている。
好きな人ができたと言っていたエミリオン。
思い出すだけで胸が苦しくなる。
あれは本当のことなのだろうか。ずっと一緒にいたが、そんな素振りは全くなかった。いつだって自分を愛情のこもった目で見つめてくれていた。あの目が今は別の人間を見つめている? 自分ではない他の誰かを?
想像するだけで、悲しみと同時に怒りが沸いた。
そんなことが許せるはずがない。エミリオンの全ては自分のもので然るべきだ。あの緑色の美しい瞳が熱く見つめていいのは自分だけだ。他を見ることは許さない。
すぐにでもエミリオンを取り戻さなければ。そうルドヴィークは思った。取り戻して自分だけのものにする。そして、二度と離さない。そのためならばどんなことでもするし、なにをしてもいいとさえルドヴィークは思った。
いずれにしても、まずはエミリオンの居所を突き止めなければ。
ルドヴィークはエミリオンを探し続けた。あきらめるつもりなど更々なかった。一生を費やしてでも、エミリオンを見つけ出そうと思っていた。
アカデミーでの生活が二年目になって数ヵ月、成人を迎えたルドヴィークは祖父から侯爵位と、それに伴う領地や屋敷を譲り受けた。正直、そんなものには微塵も興味はなかったが、財を手にできたことはルドヴィークにとって幸いだった。それらを全て使い潰してでも、必ずエミリオンを見つけ出そうと思った。
いっそのこと、爵位など売却してしまって自身も平民となり、自由になってエミリオンを探そうか。
人を雇って探させるだけでは、ルドヴィークはもう我慢ができなくなっていた。アカデミーに通っている暇があったら、自分自身の手でエミリオンを探したい。
ルドヴィークにとってエミリオン以上に大切なものなど、この世に何一つ存在しなかった。爵位や貴族としての地位など、エミリオンを思う気持ちに比べたら、今すぐ捨てて構わない程度の価値しかない。
そうだ、やはり自分もエミリオンと同じ平民になろう。そうすれば、誰に気兼ねも遠慮もすることなく二人は結ばれることがきる。
心を決めたルドヴィークは、その決意をまずは両親であるクレンゲル子爵夫妻に話すことにした。両親には育ててもらった恩もあれば、これから親不孝を行う自覚もある。せめて話だけは先に通しておこうと両親に時間を取ってもらい、自分の考えや思いの全てを、正直に包み隠さず伝えることにしたのだった。
平民になるなど、反対されるだろうことは分かっている。
けれど、たとえ猛反対されようとも、ルドヴィークは意思を覆すつもりはなかった。エミリオンがいてくれなければ、生きることに意味などないのだから。
そんな強い決意を胸に、ルドヴィークは平民になってエミリオンを探すと言う考えを両親に話した。なにを言われても、意思を曲げるつもりはない。既に成人しているし爵位も継いで自立している身だ。自分のことは自分で決める。その権利がある。なにをどう言われようとも、聞く耳はもたない。
そう意気込んで話をしたルドヴィークであったが、驚くべきことに、息子の決意を聞いた子爵夫妻は、予想外の様子を見せた。
なんと、大喜びしたのである。
「やっと来たか。お前はもう少し早く来ると思っていたよ」
「ほほほ、ルドヴィーク、遅うございましてよ。待ちくたびれましたわ!」
「父上? 母上?」
驚くルドヴィークを前に、同じミルクティー色の美しい髪を持つ子爵夫人は、なぜか突然、楽し気に昔話を始めたのである。
「もう随分前になるけれど、愛する旦那様と結婚したいと両親に伝えた時、わたくし、あなたのおじい様に猛反対されましたの。身分が釣り合わないとかなんとか言ってね。まったく聞き入れていただけませんでした。でもね、わたくしはどうしても旦那様と結婚したかった。だからね、わたくしはおじい様を脅迫したのですわ」
「き、脅迫……?」
「ええ。許してくれなければ死ぬ。もしくは駆け落ちすると、そう脅迫したんです。そして、駆け落ち後に孫が生まれても、生涯絶対に会わせぬし抱かせぬと、そうおじい様に言ったんです。わたくし自身、二度とお会いすることはないと申し上げましたわ。勿論、ただの脅しではありません。結婚を許してもらえなければ、本気で実行するつもりでした。愛する人を手に入れるためですもの、それくらいの覚悟は簡単にできました」
「それは……流石は母上と申しますか」
「わたくしはね、すべてを捨てる覚悟を持って旦那様を愛したのです。貴族としての地位も名誉もなにもかも捨てていいと、旦那様が手に入るなら他はなにもいらないと、そう思ったのです。今のあなたと同じようにね、ルドヴィーク」
「!」
はっとしたルドヴィークを見て、口元を扇で隠した子爵夫人は、更に楽し気に品良く笑った。
「それだけではありません。わたくしはね、旦那様を我が物とするために、一服盛って襲いましたのよ」
「お、襲った……?!」
「だって、旦那様ったら身分の差を気にして、わたくしとのことを本気で考えて下さらなかったんですもの」
拗ねた口ぶりの夫人に、子爵が焦って言い繕う。
「そ、それは当たり前のことだろう。君は筆頭公爵家のご令嬢だったし、わたしはしがない子爵子息だったんだよ? 恐れ多いと考えるのが普通だよ。しかも、わたしは見た目も中身も、自他共に認める平凡な男だしね。対して君は皆が憧れる美しい令嬢だった。一体わたしのどこが良かったのやら、今でも分からないくらいだよ」
クレンゲル子爵は苦笑しながらそう言った。夫人はそんな夫を、愛おしそうに頬を染めて見つめる。
「一目惚れですわ。会った瞬間に運命を感じましたもの。ルドヴィーク、あなたの好みはわたくしと似てますわね。あまり派手なお顔は好まないのでしょう?」
「まあ、確かに派手で濃い顔などは好きではありません。ただ、わたしはリオンの顔は勿論好きですが、それだけではなく、リオンの中身も全てが大好きです!」
まるで顔だけでエミリオンを好きになったと言われた気がして、ルドヴィークは少し不機嫌になった。
そんな息子を見て、夫人はまた少し笑う。
「わたくしだって旦那様の性格も好ましく思っていますとも。ああ、そうそう。ルドヴィーク、あなたにこれを渡しておきましょう」
透明の液体が入った小瓶を渡されたルドヴィークは、それを指でつまんで目前にかざし、目を細めて怪訝に見た。
「なんですか、これは」
「旦那様を襲う時に飲ませた媚薬です。それはもう素晴らしい効き目ですの。ねぇ、旦那様? そうでしたわよね?」
「…………」
「既成事実って、かなり効果ありますのよ? 事が終わった後、旦那様もやっと観念してわたくしと向き合う気になって下さいましたもの」
見ると、父親が死んだような目をしていた。ルドヴィークは色々と察し、呆れたように肩を竦めると、小瓶を夫人へと突き返した。
「お気持ちは嬉しいですが、これは必要ありません。というか、使いたくても相手がどこにいるのか分かりません。探している真っ最中です。先ほども言いましたが、彼を探すために、わたしは貴族籍を捨てる決意をしたのですから」
「あら、ふふふ。ルドヴィークったら、いやだわ。エミリオン殿の居場所くらい、わたくしたちが掴んでいないとお思い?」
「…………え?」
耳にしたことの重大さに、ルドヴィークが驚愕に目を大きく見開いた。
「リオンの居場所を知っているのですか?! だとしたら、どうして今まで教えて下さらなかったのです!! わたしが必死になって探していたこと、ご存じだったはずです!!」
「わたくしたち、待っていましたの。ねっ、旦那様?」
夫人に問われ、子爵は真面目な顔で肯いた。
「お前の母上はな、格下貴族であるわたしと結婚することを望み、その願いを叶えるためなら全てを無くしてもいいという覚悟を持って、義父上にわたしとの結婚を願った。身分どころか命さえも捨ててもいいという覚悟だった。お前がもし同程度の覚悟も見せられないようなら、エミリオン殿の居場所を教えるつもりはなかったんだよ」
「!!」
「でも、あなたは先ほど言いましたわ。平民になってでもエミリオン殿を探したいと。一生を費やしてでも彼を見つけるつもりであると。あの覚悟を聞いて、わたくしたちはあなたを応援すると決めたのです」
胸を張る夫人とは対照的に、子爵は少し申し訳なさそうな顔をした。
「そもそも分かっていたんだ。フェルザー伯爵家からいずれ婚約解消の正式な申し入れがあることは。そして、エミリオン殿の性格を考えたら、婚約解消後にお前の前から完全に姿を消すため、彼が失踪する可能性は十分に考えられることだった」
「あの子は昔からとても優しい子で、あなたのことをとても大切に想ってくれていたから。自分がいてはあなたの幸せの邪魔になると彼が考えることは、わたくしたちには想像できていましたの」
「そう、だからわたしたちは、彼の行動をいつも見張らせていたんだよ」
「ど、どういうことです?」
「うん、実はね……」
そこでルドヴィークは多くのことを知らされた。
二人の婚約が正式に結ばれなかったのは、フェルザー伯爵家からの希望だったこと。いずれ見せかけの婚約は解消すると断言されていたこと。フェルザー伯爵が二人の結婚を認めない理由は、ルドヴィークが侯爵位を継ぐことが決まっていて、二人の間に大きな身分差が生まれるからであり、それはルドヴィークの将来を考えた上での判断だったこと。エミリオンがルドヴィークに婚約破棄の申し入れをする前、子爵家には事前にそのことが知らされていたこと。
それらのことを、時系列に沿って丁寧に詳しく説明されたルドヴィークは、驚愕のあまりしばらく言葉を失ってしまった。
「だからあの日、あなたが婚約解消を叩きつけられた後、当家から出て行ったエミリオン殿の行動を追うこともできたのですわ」
「わたしたちとしては、エミリオン殿にはぜひお前に嫁いで欲しかったんだよ。彼は本当に良い子だからね。昔からお前のことを心から想ってくれていた。だから、身分など気にすることはないと何度も伯爵を説得してきたんだが、分不相応だと、お前のためにならないからと聞き入れてもらえなくてね」
「昔からお隣の伯爵ご夫妻は、自分たちの子供と変わりないくらいあなたのことも大切に考えてくれてましたから。というわけで、はい、これ」
改めて、ルドヴィークは夫人から小瓶を渡された。
「こう言ってはアレですけれど、もはや相手は平民。やりたい放題ですわ。ルドヴィーク、がんばってエミリオン殿を絶対にモノにしますのよ!! とりあえず、体だけでも篭絡なさいませ! あの子にはずっと監視と護衛をつけてますけれど、恋人の影も皆無ですし、きっと今でもあなたを想ってくれていますから、自信を持って犯っておしまいなさい!」
今度は突き返さず、ルドヴィークは強い決意をもって小瓶を受け取った。
「ありがとうござます、母上。ええ、必ずやモノにしますとも! この薬、有効に使わせていただきます!! 理解ある良き母を持てたこと、幸せに思います」
「ほほほほほ」
すごく良い笑顔で分かり合っている妻と子を前に、子爵が複雑な顔をする。
「……お前たち、ちょっと考え方おかしいってことに気付こうか。相手の気持ちも考えないとね。それって本当は犯罪だからね」
十数年前、自分が媚薬を盛られて襲われた――――いや、襲わされた時のことを思い出し、子爵はなんとも言えない気持ちになるのだった。まあ結果として、自分は今、ものすごく幸せになれているのだから文句はないのだけれど。
エミリオン殿、ご愁傷様です。
でもきっと、ルドヴィークが死ぬほど君を幸せにすると思うから。
それだけは間違いないから。
だから安心してルドヴィークのお嫁におなり。
過去の自分とエミリオンを重ね合わせ、子爵はひっそりと心の中でそんなことを思ったのだった。
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