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⑩出会いは運命だった
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サンジが統括している喫茶部門で、企業のイメージキャラクターを探す事になった。渋い大人の男で温か味もあり、包容力と自立した厳しさも兼ね備えている。ある程度の知名度は必要だが、他のイメージが付いていては不味い。そして広い世代へ好感度を抱いて貰える様な取っ付き易さもあると良い。そんなかなり要求の厳しい人選に引っ掛かったのが登山家であり写真家でもある蓮だった。
「蓮さんってすっごい男前ですけど、自身は殆どマスコミに露出してないんです。写真集などで少し写ってるだけなので見飽きられてる事もないですし」
「凍えるような雪山で蓮さんがふぅふぅ珈琲を吹いてたら鼻血ものですよ!」
「こう、家庭的な雰囲気もあるのに色気もあるんですよねぇ」
「あ、そう言えば部長と同じ歳なんだそうですよ。そのくらいの年齢って色気が出てくる頃なんですかねー」
機関銃のような女性社員達のお喋り口撃を穏やかな微笑で受けて、サンジは資料をメールで送るよう指示した。
「君達の話は分かった。前向きに検討しよう」
よくある決まり文句を誠実そうに口にしたサンジに、彼女達は嬉しそうに頭を下げて席に戻った。
あの情熱を、もっと普段の仕事にも向けてくれないものかと思いながらサンジはメールをチェックした。
そして早速送られて来た資料を次々と表示させていく。
これまでの業績、寄稿した雑誌、出版した写真集、特に知られた映像、そして本人の画像。それを見てサンジは、悔しいが格好良い、と思ってしまった。
身体一つで峻渓な山に挑む男の姿が等身大でそこにあった。自然の大きさと人間の矮小さ、そしてそれでもチャレンジする業のようなものまで読み取れた。
勝つ為に登る訳じゃない。でも挑んでいる。一体何に? 何の為に?
一枚の画像から次々と疑問が湧き、興味が湧く。
サンジはそれから毎日、登山帽とゴーグルに隠れて殆ど見えない男の横顔を眺めて過ごした。
そしてイメージキャラクターに採用されたその男で、販促用のCMを撮る事になった。
テレビに流す為ではなく、珈琲豆を卸している企業向けのものだ。
サンジは撮影現場に足を運び、そこで初めて実物と顔を合わせた。
「初めまして、厚木蓮です」
挨拶をしながら右手を差し出したのは、海外経験の多い人間だからか。サンジはその手をごく自然に取りながらそっけなく言った。
「どうも」
「……部長?」
案内についていた部下がサンジの様子を見て不審そうな顔をする。いつも如才なく隙無くばしっと決めるサンジらしくなかったからだ。
けれどサンジはそれどころではない。初めて聴いた声が自分の胸を酷く掻き乱して、何でもない顔を装うのが精一杯だったのだ。
何だよこれ。凄くいい声だけど、でもただの男の声じゃん。なんでこんなにドキドキするんだ? 可笑しいだろ、俺。どうしちまったんだ?
その時、目の前の男がぼそりと呟いた。
「思っていたよりも……」
「え?」
「いえ、あなたのお噂は社員の方々にかねがね伺っていて、恐ろしく仕事が出来るいい男だとか切れ者だとかそんなイメージでした。ですが実物は随分と可愛らしい方だなって」
「なっ…………。男相手に何を言って――」
「済みません。失礼でしたね」
すかさずさらりと謝った男にサンジは何も言えなくなる。
ナチュラルに口説いてあっさりと引く。わざとやっているのだとしたら大した手練手管だが。
「夜の食事会にはあなたもご出席されますか?」
「…………ああ」
「ではその時に」
そう言うと男は撮影の為にスタジオに歩いて行った。その後姿を見詰めながら、サンジは酷く落ち着かない心持ちになっていた。
「変わった……男だな」
呟いたサンジに、部下はそうですか?と暢気に答えた。
***
親睦を深める為の食事会は高層ビルの一室で行われた。
会員制の高級中華料理店でフカヒレや北京ダックなどの料理を出された後、その日の趣旨に合わせて珈琲が振る舞われた。
香り高いそれをサンジは鼻先に持ってきて優雅に楽しみ、しかし口は付けずにカップをソーサーに戻した。
「あれ? どうかしましたか?」
カップの中身が減らない事を不思議に思ったスタッフの一人が訊ねたが、サンジは妖しい微笑を唇に浮かべただけで何も答えない。
それで大概の相手は何か意味があるのだろうとか、理由があるのだろうとか勝手に当て推量をして引き下がる。サンジのいつもの手口だった。
まさか珈琲を卸している会社の人間が珈琲アレルギーだなどと、飲めないだなどとは知られる訳にはいかない。それに酷く珍しい症状である事も分かっている。
思わせ振りに振る舞って他人が勝手に誤解してくれるなら楽なものだ。サンジには慣れた事だった。
しかし本当はそんな事をするのは面倒臭くて嫌いだった。一々他人がどう思うかを気にして振る舞って、自由気儘に生きる事も出来ない。そんな不自由さが時々堪らなくなる。自分を偽って生きるのは誰だって辛い。それが上手に出来るのはまた別の問題だ。
「どうして飲まないんですか?」
静かな声で時を止めるように蓮が言った。サンジは咄嗟に反応出来なくて、眉を顰めて厭わしげな表情を浮かべてしまう。
「ちょ、蓮さんっ!」
スポンサーの意向を気にするスタッフが蓮を小声で嗜めたが、男は気にせず落ち着いた声で続ける。
「言いたくなければいいんです。ただ、知りたかっただけだから」
男の言葉にサンジは微かに苛立ちと喜びを感じる。あっさりと引かれる苛立ちと知りたいと言われた喜び。
そんな自分の感情に浮き足立ちながらつい地の部分が顔を出して挑発するような事を言ってしまう。
「私も山に登る人の気持ちを知りたいな。あれは登らなければ分からないんだろう?」
一般人は誰もお前を理解していない、と嘲笑を浮かべたら蓮がいきなり立ち上がった。そしてサンジに歩み寄り、手首を掴んで無理矢理部屋から連れ出す。
「おい!」
サンジは慌てたが相手は力の強い大男だ。子供のように軽々と手を引かれて連れ去られる。
後に残された人達は呆気に取られ、またやけに迷いの無い蓮の行動に疑問も危惧も抱けず引き止める事を思い付きすらしなかった。
そしてサンジは蓮に最上階に連れて行かれ、非常口から外の非常階段へと押し出された。
「…………っ!」
ひぅっ! と息を呑み込む。
地上何十メートルなのだか、恐ろしい高みに剥き出して立っている。高所恐怖症の気のあるサンジは顔を蒼白にし、ガタガタと震えながら戻ろうと必死で抵抗したが蓮が後ろから覆い被さるようにサンジをその場に縫い止めた。冷たい手摺を掴む二本の腕に囲い込まれて、サンジは震えている事しか出来ない。
「身一つで、高みに立つのは俺でも怖い。それでもどこまでも登って行きたいと思う。まだ見ぬ景色を見たいと思う。自分でもどうしようもなく、衝動が身を擡げる」
「わ…………かっ、た。分かった、から…………離せ」
離せと言いつつサンジは蓮に縋り付いていた。身動ぎすら恐ろしくて出来ない場所で、頼れる男はこいつしかいない。何も信用出来ないような恐怖の中でそれだけは確かな相手に、命も身体も未来も何もかもを握られているような気がした。
「…………怖い?」
男がサンジの髪を掻き分けるように鼻を突っ込んできて耳に囁いた。
「こ…………わい」
サンジは素直に答える。こんな場所で、頼りにする相手に嘘を吐こうなどとは思えなかった。
「あなたを俺のものにしていい?」
「な…………にを」
こんな時にこんな場所で何を言い出すのか? と顔を上げたら唇が降って来てぴたりと覆われた。
胸の高鳴りと震えは、高所への恐怖の為か男への恐怖の為か。
絡みつく舌にサンジは大きく喘いだ。
***
蓮は一目で魂を奪われた男を手に入れる事しか頭に無かった。怯えて震える身体を、剥き出しの非常階段の上で暴いた。
口付けでくたくたと力の抜けた身体をその場で膝に載せ、ネクタイを解いて喉仏に噛み付いた。
「っあっ!」
痛みに艶のある声を漏らした相手の性癖を一瞬で見抜く。
「痛いのが、好き?」
「す……き、じゃ…………な……」
「じゃあ優しくしよう」
そう言うと蓮は噛んだ場所をねっとりと舌で舐めた。
サンジはじれったさに身を捩り、熱い息を吐きながら潤んだ瞳で蓮を見詰めた。
「こんな場所で…………ふざけるな」
甘えた口調で詰ったサンジに蓮は悪い笑みを浮かべる。
「聞いてやれないな」
お前の言葉なら何でも聞いてやりたいがそれだけは聞けない。今直ぐにお前が欲しい。
熱く囁かれてサンジの脳髄がチリチリと焼ける。
これまで男に欲しがられても嫌悪しか感じなかったのに。だのに今、この男の飢えを肌で感じ取って共有する。俺も、飢えてる。お前が欲しい。
「ここ……怖いよ。しっかり捕まえてろよ」
首に腕を回されて、蓮はサンジをしっかりと抱き抱えて後ろからボトムに手を侵入させる。かっちりとしたスーツに隠されたそこは息衝いて熱く湿っていた。
「初めてか?」
「ああ」
「なら、よく慣らさないと。舐めて」
蓮はサンジの唇に指を押し当て、舐め濡らすように指示した。サンジは熱に浮かされたような、蟠りに胸の疼くような苦悩を見せながらそのごつごつとした指を咥えた。
ぴちゃぴちゃと音を立てながら舐めしゃぶるサンジの表情はどこか恍惚としていて、蓮の飢餓感がより大きく煽られる。
今直ぐに無理に開いて散らしてしまいたい。そんな暴力的な衝動が身の内を駆け巡る。
「もういいよ」
名残惜しげなサンジの口から指を抜き取り、蓮は再びサンジの後ろを探った。そこは抵抗しながらも蓮の指を飲み込み、内部に誘導するように蠢いた。
「ナカ…………気持ちいいの? 初めてなのに」
性急に指を進めながら蓮が揶揄する。サンジは泣きそうに顔を歪め、唇を噛み締めて首を横に振った。
自分にも分からない、と戸惑いを見せる姿に蓮の被虐心がそそられる。
何も分からない。けれど身体は反応している。これを奪わない理由なんて無い。
蓮はサンジの腰を浮かせてボトムを引き降ろし、まだキツイそこを深々と貫いた。
「ぅああああああっ!」
悲鳴を上げてガチガチに固まった身体を、蓮はゆっくりと内側から溶かしていく。
小刻みに奥を刺激する事で、痛いくらいの締め付けが絡みつくようなそれに変わっていく。
「くっ…………ふ、ぅ…………」
蓮はサンジの流す生理的な涙を優しく吸い取り、色付いた声の零れる唇に口付ける。
「好きだよ。一目見た時から、君が好きだった」
こんな抱き方をして嫌われたかもしれないけど、と困ったように笑った蓮にサンジはきっぱりと言った。
「嫌じゃ、無い。何をされても…………嫌じゃない。お前が好き、だから」
「サンジ…………」
これまでの経験もテクニックも駆け引きも、何もかもを忘れて性急に奪ってしまった男に許されて、蓮は歓喜の声を上げた。
そしてやっと受け入れる事を覚えたばかりのそこに、思い切り熱を注いだ。身を灼かれて高らかに啼いたサンジの声が、ビルの谷間に木霊した。
***
ダークネイビーに銀鼠のストライプという着る人によっては恐ろしく派手に映るスーツを一部の隙も無く着こなしたサンジが戻ってきて、部下に顎をしゃくった。
「私はこれで失礼する。後は頼む」
「部長! あの、何か失礼が――」
「問題ない。今後の調整等は君に一任する」
いつもの男性社員には少々素っ気無い態度で言ったサンジに、その場の人間が無言で頭を下げた。その後姿を蓮だけが熱い眼差しで見送った。
あのストイックな布地の下には自分の腕の中で蕩けた身体がある。そして彼の後ろにはまだ自分の出したものが残っている。
自分だけが知っている。その事に仄暗い愉悦を感じながら蓮は大きく息を吐いた。
「蓮さん? 一体どうされたんですか? うちの部長は怒らせると怖いんですから、勘弁して下さいよ」
「大丈夫。怒ってはいなかったよ」
「なら良いんですけど…………。ここだけの話、あの方はうちの社長の息子さんなんです。仕事が出来るので普段は皆忘れてますけど、俺の首なんて簡単に飛ぶんですから気を付けて下さいよ」
「大丈夫だってば。心配性だな」
にこりと笑った大男に釣られてその場の空気が和む。蓮はその席に最後まで付き合い、相当な量のアルコールを摂取してタクシーで帰って行った。
タクシーの着いた先は瀟洒なこじんまりとした邸宅で、深夜のひっそりとした空気に遠慮するようにそっとノッカーを叩いたら無遠慮にドアが開かれた。
「遅かったな」
待ち草臥れて寝ていたと言うサンジの腰に腕を回す。
「その割には、直ぐに扉が開いたね」
「…………耳が良いんだよ」
「そういう事にしておこうか」
クスクスと笑って蓮は腕の中に抱き締めた人の匂いを嗅いだ。
「いい匂いがする」
「煙草の匂いは苦手なんだ」
だから帰宅してすぐシャワーを浴びた、と言うサンジの尻に手を滑らせた。
「こっちも綺麗にした?」
「…………まだ」
どうして出さなかった、と訊くのは野暮なのだろう。けれど受け止めたものを勿体無くて出せなかったなど、可愛らし過ぎてニヤつかずにはいられない。
「一緒に入る?」
「ああ。溜めてあるから」
ゆっくり入ろうぜ、と囁いたサンジを腕に抱き上げ、邸内を案内させて風呂場へ運んだ。
オレンジ色の灯りに照らされた広い浴室で、蓮は今度は丁寧にサンジを抱いた。そして寝室に場を移し、鳥の声が聴こえてくる頃まで睦み合った。
以来蓮はサンジ邸に居を移している。そしてサンジは会社を辞め、コーヒーの専門店を始めた。
今では以前の彼の口調や働き振りを知る人は少ない。友人達は言いたい放題、やりたい放題、傲岸不遜、我が儘で傍若無人なサンジしか知らない。
クローゼットの奥に仕舞い込まれた高級なスーツと蓮だけが、昔の彼を覚えている。
「困るなぁ、スーツを着られると、脱がせたくなって困る」
本社に行くからと、珍しくスーツを着込んだサンジを見て蓮がちっとも困っていない顔で言った。
「脱がない方が興奮するんじゃないか?」
「それはサンジでしょ」
「俺は下だけ脱がされるのが好みだよ」
ふふん、とふてぶてしくほくそ笑んだサンジに蓮が赤面する。
最初の行為で味を占めたのか、蓮はサンジがまだ会社勤めをしている頃に度々スーツの下だけを脱がせて事に及んだ。
僅かに乱れたネクタイやスーツに酷く興奮したのだ。
「久し振りにそれもいいけどな、取り敢えず社に顔を出さないと。全く、トラブッた時だけ呼び出されて迷惑な話だぜ」
ぼやきつつも何処か楽しそうなサンジに蓮は昔の面影を見る。
面倒臭がりながらも優秀なビジネスマンだった。あのままなら今頃はもう会社を任されていたかもしれない…………。
「それじゃあイイコで待ってろよ」
するりと頬を一撫でされて蓮はその場に立ち尽くした。
少年のように彼に恋をしている。初めて逢ったあの日から変わらず、魂ごと囚われたまま。
「好きだよ。一目見た時から、君が好きだ」
蓮はあの日の告白を一人呟いた。
きっと、永遠に目を閉じる最後の瞬間まで彼を愛している。
恐らくは彼も、同じ気持ちで。
「サンジ…………」
それだけは、変わらぬ想いで名を呼んだ。
「蓮さんってすっごい男前ですけど、自身は殆どマスコミに露出してないんです。写真集などで少し写ってるだけなので見飽きられてる事もないですし」
「凍えるような雪山で蓮さんがふぅふぅ珈琲を吹いてたら鼻血ものですよ!」
「こう、家庭的な雰囲気もあるのに色気もあるんですよねぇ」
「あ、そう言えば部長と同じ歳なんだそうですよ。そのくらいの年齢って色気が出てくる頃なんですかねー」
機関銃のような女性社員達のお喋り口撃を穏やかな微笑で受けて、サンジは資料をメールで送るよう指示した。
「君達の話は分かった。前向きに検討しよう」
よくある決まり文句を誠実そうに口にしたサンジに、彼女達は嬉しそうに頭を下げて席に戻った。
あの情熱を、もっと普段の仕事にも向けてくれないものかと思いながらサンジはメールをチェックした。
そして早速送られて来た資料を次々と表示させていく。
これまでの業績、寄稿した雑誌、出版した写真集、特に知られた映像、そして本人の画像。それを見てサンジは、悔しいが格好良い、と思ってしまった。
身体一つで峻渓な山に挑む男の姿が等身大でそこにあった。自然の大きさと人間の矮小さ、そしてそれでもチャレンジする業のようなものまで読み取れた。
勝つ為に登る訳じゃない。でも挑んでいる。一体何に? 何の為に?
一枚の画像から次々と疑問が湧き、興味が湧く。
サンジはそれから毎日、登山帽とゴーグルに隠れて殆ど見えない男の横顔を眺めて過ごした。
そしてイメージキャラクターに採用されたその男で、販促用のCMを撮る事になった。
テレビに流す為ではなく、珈琲豆を卸している企業向けのものだ。
サンジは撮影現場に足を運び、そこで初めて実物と顔を合わせた。
「初めまして、厚木蓮です」
挨拶をしながら右手を差し出したのは、海外経験の多い人間だからか。サンジはその手をごく自然に取りながらそっけなく言った。
「どうも」
「……部長?」
案内についていた部下がサンジの様子を見て不審そうな顔をする。いつも如才なく隙無くばしっと決めるサンジらしくなかったからだ。
けれどサンジはそれどころではない。初めて聴いた声が自分の胸を酷く掻き乱して、何でもない顔を装うのが精一杯だったのだ。
何だよこれ。凄くいい声だけど、でもただの男の声じゃん。なんでこんなにドキドキするんだ? 可笑しいだろ、俺。どうしちまったんだ?
その時、目の前の男がぼそりと呟いた。
「思っていたよりも……」
「え?」
「いえ、あなたのお噂は社員の方々にかねがね伺っていて、恐ろしく仕事が出来るいい男だとか切れ者だとかそんなイメージでした。ですが実物は随分と可愛らしい方だなって」
「なっ…………。男相手に何を言って――」
「済みません。失礼でしたね」
すかさずさらりと謝った男にサンジは何も言えなくなる。
ナチュラルに口説いてあっさりと引く。わざとやっているのだとしたら大した手練手管だが。
「夜の食事会にはあなたもご出席されますか?」
「…………ああ」
「ではその時に」
そう言うと男は撮影の為にスタジオに歩いて行った。その後姿を見詰めながら、サンジは酷く落ち着かない心持ちになっていた。
「変わった……男だな」
呟いたサンジに、部下はそうですか?と暢気に答えた。
***
親睦を深める為の食事会は高層ビルの一室で行われた。
会員制の高級中華料理店でフカヒレや北京ダックなどの料理を出された後、その日の趣旨に合わせて珈琲が振る舞われた。
香り高いそれをサンジは鼻先に持ってきて優雅に楽しみ、しかし口は付けずにカップをソーサーに戻した。
「あれ? どうかしましたか?」
カップの中身が減らない事を不思議に思ったスタッフの一人が訊ねたが、サンジは妖しい微笑を唇に浮かべただけで何も答えない。
それで大概の相手は何か意味があるのだろうとか、理由があるのだろうとか勝手に当て推量をして引き下がる。サンジのいつもの手口だった。
まさか珈琲を卸している会社の人間が珈琲アレルギーだなどと、飲めないだなどとは知られる訳にはいかない。それに酷く珍しい症状である事も分かっている。
思わせ振りに振る舞って他人が勝手に誤解してくれるなら楽なものだ。サンジには慣れた事だった。
しかし本当はそんな事をするのは面倒臭くて嫌いだった。一々他人がどう思うかを気にして振る舞って、自由気儘に生きる事も出来ない。そんな不自由さが時々堪らなくなる。自分を偽って生きるのは誰だって辛い。それが上手に出来るのはまた別の問題だ。
「どうして飲まないんですか?」
静かな声で時を止めるように蓮が言った。サンジは咄嗟に反応出来なくて、眉を顰めて厭わしげな表情を浮かべてしまう。
「ちょ、蓮さんっ!」
スポンサーの意向を気にするスタッフが蓮を小声で嗜めたが、男は気にせず落ち着いた声で続ける。
「言いたくなければいいんです。ただ、知りたかっただけだから」
男の言葉にサンジは微かに苛立ちと喜びを感じる。あっさりと引かれる苛立ちと知りたいと言われた喜び。
そんな自分の感情に浮き足立ちながらつい地の部分が顔を出して挑発するような事を言ってしまう。
「私も山に登る人の気持ちを知りたいな。あれは登らなければ分からないんだろう?」
一般人は誰もお前を理解していない、と嘲笑を浮かべたら蓮がいきなり立ち上がった。そしてサンジに歩み寄り、手首を掴んで無理矢理部屋から連れ出す。
「おい!」
サンジは慌てたが相手は力の強い大男だ。子供のように軽々と手を引かれて連れ去られる。
後に残された人達は呆気に取られ、またやけに迷いの無い蓮の行動に疑問も危惧も抱けず引き止める事を思い付きすらしなかった。
そしてサンジは蓮に最上階に連れて行かれ、非常口から外の非常階段へと押し出された。
「…………っ!」
ひぅっ! と息を呑み込む。
地上何十メートルなのだか、恐ろしい高みに剥き出して立っている。高所恐怖症の気のあるサンジは顔を蒼白にし、ガタガタと震えながら戻ろうと必死で抵抗したが蓮が後ろから覆い被さるようにサンジをその場に縫い止めた。冷たい手摺を掴む二本の腕に囲い込まれて、サンジは震えている事しか出来ない。
「身一つで、高みに立つのは俺でも怖い。それでもどこまでも登って行きたいと思う。まだ見ぬ景色を見たいと思う。自分でもどうしようもなく、衝動が身を擡げる」
「わ…………かっ、た。分かった、から…………離せ」
離せと言いつつサンジは蓮に縋り付いていた。身動ぎすら恐ろしくて出来ない場所で、頼れる男はこいつしかいない。何も信用出来ないような恐怖の中でそれだけは確かな相手に、命も身体も未来も何もかもを握られているような気がした。
「…………怖い?」
男がサンジの髪を掻き分けるように鼻を突っ込んできて耳に囁いた。
「こ…………わい」
サンジは素直に答える。こんな場所で、頼りにする相手に嘘を吐こうなどとは思えなかった。
「あなたを俺のものにしていい?」
「な…………にを」
こんな時にこんな場所で何を言い出すのか? と顔を上げたら唇が降って来てぴたりと覆われた。
胸の高鳴りと震えは、高所への恐怖の為か男への恐怖の為か。
絡みつく舌にサンジは大きく喘いだ。
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「っあっ!」
痛みに艶のある声を漏らした相手の性癖を一瞬で見抜く。
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「す……き、じゃ…………な……」
「じゃあ優しくしよう」
そう言うと蓮は噛んだ場所をねっとりと舌で舐めた。
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「こんな場所で…………ふざけるな」
甘えた口調で詰ったサンジに蓮は悪い笑みを浮かべる。
「聞いてやれないな」
お前の言葉なら何でも聞いてやりたいがそれだけは聞けない。今直ぐにお前が欲しい。
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これまで男に欲しがられても嫌悪しか感じなかったのに。だのに今、この男の飢えを肌で感じ取って共有する。俺も、飢えてる。お前が欲しい。
「ここ……怖いよ。しっかり捕まえてろよ」
首に腕を回されて、蓮はサンジをしっかりと抱き抱えて後ろからボトムに手を侵入させる。かっちりとしたスーツに隠されたそこは息衝いて熱く湿っていた。
「初めてか?」
「ああ」
「なら、よく慣らさないと。舐めて」
蓮はサンジの唇に指を押し当て、舐め濡らすように指示した。サンジは熱に浮かされたような、蟠りに胸の疼くような苦悩を見せながらそのごつごつとした指を咥えた。
ぴちゃぴちゃと音を立てながら舐めしゃぶるサンジの表情はどこか恍惚としていて、蓮の飢餓感がより大きく煽られる。
今直ぐに無理に開いて散らしてしまいたい。そんな暴力的な衝動が身の内を駆け巡る。
「もういいよ」
名残惜しげなサンジの口から指を抜き取り、蓮は再びサンジの後ろを探った。そこは抵抗しながらも蓮の指を飲み込み、内部に誘導するように蠢いた。
「ナカ…………気持ちいいの? 初めてなのに」
性急に指を進めながら蓮が揶揄する。サンジは泣きそうに顔を歪め、唇を噛み締めて首を横に振った。
自分にも分からない、と戸惑いを見せる姿に蓮の被虐心がそそられる。
何も分からない。けれど身体は反応している。これを奪わない理由なんて無い。
蓮はサンジの腰を浮かせてボトムを引き降ろし、まだキツイそこを深々と貫いた。
「ぅああああああっ!」
悲鳴を上げてガチガチに固まった身体を、蓮はゆっくりと内側から溶かしていく。
小刻みに奥を刺激する事で、痛いくらいの締め付けが絡みつくようなそれに変わっていく。
「くっ…………ふ、ぅ…………」
蓮はサンジの流す生理的な涙を優しく吸い取り、色付いた声の零れる唇に口付ける。
「好きだよ。一目見た時から、君が好きだった」
こんな抱き方をして嫌われたかもしれないけど、と困ったように笑った蓮にサンジはきっぱりと言った。
「嫌じゃ、無い。何をされても…………嫌じゃない。お前が好き、だから」
「サンジ…………」
これまでの経験もテクニックも駆け引きも、何もかもを忘れて性急に奪ってしまった男に許されて、蓮は歓喜の声を上げた。
そしてやっと受け入れる事を覚えたばかりのそこに、思い切り熱を注いだ。身を灼かれて高らかに啼いたサンジの声が、ビルの谷間に木霊した。
***
ダークネイビーに銀鼠のストライプという着る人によっては恐ろしく派手に映るスーツを一部の隙も無く着こなしたサンジが戻ってきて、部下に顎をしゃくった。
「私はこれで失礼する。後は頼む」
「部長! あの、何か失礼が――」
「問題ない。今後の調整等は君に一任する」
いつもの男性社員には少々素っ気無い態度で言ったサンジに、その場の人間が無言で頭を下げた。その後姿を蓮だけが熱い眼差しで見送った。
あのストイックな布地の下には自分の腕の中で蕩けた身体がある。そして彼の後ろにはまだ自分の出したものが残っている。
自分だけが知っている。その事に仄暗い愉悦を感じながら蓮は大きく息を吐いた。
「蓮さん? 一体どうされたんですか? うちの部長は怒らせると怖いんですから、勘弁して下さいよ」
「大丈夫。怒ってはいなかったよ」
「なら良いんですけど…………。ここだけの話、あの方はうちの社長の息子さんなんです。仕事が出来るので普段は皆忘れてますけど、俺の首なんて簡単に飛ぶんですから気を付けて下さいよ」
「大丈夫だってば。心配性だな」
にこりと笑った大男に釣られてその場の空気が和む。蓮はその席に最後まで付き合い、相当な量のアルコールを摂取してタクシーで帰って行った。
タクシーの着いた先は瀟洒なこじんまりとした邸宅で、深夜のひっそりとした空気に遠慮するようにそっとノッカーを叩いたら無遠慮にドアが開かれた。
「遅かったな」
待ち草臥れて寝ていたと言うサンジの腰に腕を回す。
「その割には、直ぐに扉が開いたね」
「…………耳が良いんだよ」
「そういう事にしておこうか」
クスクスと笑って蓮は腕の中に抱き締めた人の匂いを嗅いだ。
「いい匂いがする」
「煙草の匂いは苦手なんだ」
だから帰宅してすぐシャワーを浴びた、と言うサンジの尻に手を滑らせた。
「こっちも綺麗にした?」
「…………まだ」
どうして出さなかった、と訊くのは野暮なのだろう。けれど受け止めたものを勿体無くて出せなかったなど、可愛らし過ぎてニヤつかずにはいられない。
「一緒に入る?」
「ああ。溜めてあるから」
ゆっくり入ろうぜ、と囁いたサンジを腕に抱き上げ、邸内を案内させて風呂場へ運んだ。
オレンジ色の灯りに照らされた広い浴室で、蓮は今度は丁寧にサンジを抱いた。そして寝室に場を移し、鳥の声が聴こえてくる頃まで睦み合った。
以来蓮はサンジ邸に居を移している。そしてサンジは会社を辞め、コーヒーの専門店を始めた。
今では以前の彼の口調や働き振りを知る人は少ない。友人達は言いたい放題、やりたい放題、傲岸不遜、我が儘で傍若無人なサンジしか知らない。
クローゼットの奥に仕舞い込まれた高級なスーツと蓮だけが、昔の彼を覚えている。
「困るなぁ、スーツを着られると、脱がせたくなって困る」
本社に行くからと、珍しくスーツを着込んだサンジを見て蓮がちっとも困っていない顔で言った。
「脱がない方が興奮するんじゃないか?」
「それはサンジでしょ」
「俺は下だけ脱がされるのが好みだよ」
ふふん、とふてぶてしくほくそ笑んだサンジに蓮が赤面する。
最初の行為で味を占めたのか、蓮はサンジがまだ会社勤めをしている頃に度々スーツの下だけを脱がせて事に及んだ。
僅かに乱れたネクタイやスーツに酷く興奮したのだ。
「久し振りにそれもいいけどな、取り敢えず社に顔を出さないと。全く、トラブッた時だけ呼び出されて迷惑な話だぜ」
ぼやきつつも何処か楽しそうなサンジに蓮は昔の面影を見る。
面倒臭がりながらも優秀なビジネスマンだった。あのままなら今頃はもう会社を任されていたかもしれない…………。
「それじゃあイイコで待ってろよ」
するりと頬を一撫でされて蓮はその場に立ち尽くした。
少年のように彼に恋をしている。初めて逢ったあの日から変わらず、魂ごと囚われたまま。
「好きだよ。一目見た時から、君が好きだ」
蓮はあの日の告白を一人呟いた。
きっと、永遠に目を閉じる最後の瞬間まで彼を愛している。
恐らくは彼も、同じ気持ちで。
「サンジ…………」
それだけは、変わらぬ想いで名を呼んだ。
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ぽやぽやした光のことだから、きっとよく意味が分かってなかったに違いない。
指輪も、僕の左手の中指に収めていたし。
あれから10年近く。
ずっと仲が良い幼なじみの範疇に留まる僕たちの関係は決して崩してはならない。
だけど想いを隠すのは苦しくて――。
こっそりとある小説サイトに想いを吐露してそれで何とか未練を断ち切ろうと思った。
なのにどうして――。
『ねぇ、この小説って海斗が書いたんだよね?』
えっ!?どうしてバレたっ!?というより何故この僕が押し倒されてるんだっ!?(※注 サブ垢にて公開済みの『バウムクーヘンエンド』をご覧になるとより一層楽しめるかもしれません)
平凡腐男子なのに美形幼馴染に告白された
うた
BL
平凡受けが地雷な平凡腐男子が美形幼馴染に告白され、地雷と解釈違いに苦悩する話。
※作中で平凡受けが地雷だと散々書いていますが、作者本人は美形×平凡をこよなく愛しています。ご安心ください。
※pixivにも投稿しています
反抗期真っ只中のヤンキー中学生君が、トイレのない課外授業でお漏らしするよ
こじらせた処女
BL
3時間目のホームルームが学校外だということを聞いていなかった矢場健。2時間目の数学の延長で休み時間も爆睡をかまし、終わり側担任の斉藤に叩き起こされる形で公園に連れてこられてしまう。トイレに行きたかった(それもかなり)彼は、バックれるフリをして案内板に行き、トイレの場所を探すも、見つからず…?
エレベーターで一緒になった男の子がやけにモジモジしているので
こじらせた処女
BL
大学生になり、一人暮らしを始めた荒井は、今日も今日とて買い物を済ませて、下宿先のエレベーターを待っていた。そこに偶然居合わせた中学生になりたての男の子。やけにソワソワしていて、我慢しているというのは明白だった。
とてつもなく短いエレベーターの移動時間に繰り広げられる、激しいおしっこダンス。果たして彼は間に合うのだろうか…
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