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②十三年より長くてもいい(付き合う前の二人)

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 空き巣の被疑者を追い掛け、勢いよく飛び出していったアホがいきなり立ち止まった。
 吉良は急に目の前に迫ってきた壁のような背中に鼻をぶつけ、更には一歩後退った結城に足を踏まれて後ろに尻餅をついた。
 グキリ、という嫌な音と共に激痛が走ったが今はそれを無視する。
 結城が刃物を持った男から吉良を庇いながら、飛び掛かるタイミングを計っているのだ。

「結城っ!」
 吉良は結城の気を引いて、男の左側に視線を飛ばす。
 結城と被疑者が同時に釣られてそちらの方を向いたので、その隙に吉良は素早く警棒を引き抜いて飛び込み男の手を打った。

「グワッ!」
 男が刃物を取り落とし、蹲るようにして手を押さえた。
 多分折れてはいないだろうが、暫くは痺れて何も握れないだろう。
 刃物を諦めて逃げ出そうとする男を結城が後ろから取り押さえた。

「吉良、手錠!」
「いい加減に自分で持ち歩け! 十三時三十二分、銃刀法違反で逮捕」
「はい、立ち上がって~」
 結城は男を立たせて他に凶器を持っていないか確認し、吉良が地面に片膝を付いている事にふと気付いた。

「吉良、どうした?」
「いや、ちょっと……足首を捻った」
「あ……俺がぶつかった時か!」
 青い顔をする結城に大したことはないと手を振って、立ち上がろうとして吉良はバランスを崩した。

「吉良っ!」
「いいからお前は被疑者を取り逃がさないようにしっかりと押さえておけ。俺は応援を呼ぶ」
 足はズキズキとして痛いが、多分折れてはいない。
 骨折をすると痛みは余りなくてもみるみる腫れてくるから直ぐにわかる。

「こちら捜査一課の吉良、刃物を持った空き巣窃盗容疑の男を逮捕。隊員一名が軽微の負傷。応援を願いたい」
『本部了解。直ちに近くの交番に応援を要請する』
 交番から制服警察官がやって来るなら取り調べも任せてしまおう、と吉良は算段する。
 どうせこっちは手が回らないのだ、任せられる所は制服に任せたい。

(折角結城が身体を張って捕まえたけどな)
 そこは少し残念だけれど仕方がない。
 吉良たちは被疑者を応援の警察官に引き渡し、報告書を提出してから病院へ向かった。

 ***

「取り敢えず今日は入院して下さい」
 医者の言葉に吉良が慌てる。
「だって単なる捻挫ですよね? ヒビも入ってなかった」
「単純骨折ならまだ良かったのですけど、酷く挫いてますし、このあと熱が出て痛みも酷くなる一方でしょう」
「え、そんな大袈裟な」
 吉良は医者の言葉を否定したが、既に熱が出始めていて目はうるうるしているし顔は上気して赤く呼吸も荒い。
 野郎ばかりの警察署内にはちょっと置いておけない感じで、自覚していないのは当人だけだったりする。

「吉良ぁ、お医者さんの言うことをちゃんと聞いて!」
「でも、入院は――」
「では今日だけ。鎮痛剤と解熱剤を投与しますから、今日だけは入院して下さい。明日以降、面倒を見てくれる人はいますか?」
「いませんけど、一人で平気です」
「いや、お一人では無理です。極力足を動かさないようにして、移動する時には松葉杖を使用して貰いますし――」
「自分の面倒くらい、自分で見られますからご心配なく」
 吉良は頑なにそう言って医者の言葉を退けた。

 あとから同僚の刑事が見舞いにきて、やはり暫く入院したらどうかと言われた。

「足だけですよ? 他に何処も悪くないのに、入院なんて出来ませんよ」
 全く話を聞き入れない吉良に同僚たちが困っていたら、結城が小学生のように真っ直ぐに手を挙げた。

「はーい、俺が吉良の面倒を見まぁ~す」
「はぁあ!? 何を言って――お前は関係ないだろっ!」
「怪我をしたのって俺の所為だし、吉良の足が治るまで俺が世話をする」
「結構です! お前に世話をされるとか、不安しかない」
「ひっでぇなぁ。俺はけっこー甲斐甲斐しいんだぜ?」
「……」
(そういやこいつは構い過ぎてサボテンを枯らす男だった)
 普段の吉良へのウザ絡みを思い返しても、同居なんてしたら間違いなくこっちのメンタルがやられそうだ。

「やっぱり結構です!」
 金魚の世話も出来そうにない男に面倒を見て貰うなど自殺行為だ、と主張した吉良に向かって結城がドヤ顔で言った。

「十三年」
「は? 何を言って――」
「金魚すくいで取った金魚を十三年間育てた」
(クソッ、謎の実績を作りやがって)
 吉良は腹立たしいが先に金魚の例えを出したのは自分の方だ。まさかそんな事は関係がないとは言えない。
 同僚たちも何故かいたく感心してそれなら安心だと頷いているし、最終的に吉良が折れるしか無かった。
 吉良は翌日、迎えに来た結城と一緒に自宅へ戻った。


「ひとつ言わせて貰うと、俺は自分の仕事とか作業を中断されるのは大嫌いだから。あと出したものを片付けないでそのままにするのも許せないし、決まった置場所を動かされるのもすっげーイヤ」
 着く早々に強い口調で言い放った吉良に、結城はおっけーおっけーと軽い調子で頷いた。
 その様子を危ぶんで、本当にわかっているのか、大丈夫かと念を押す吉良を結城が床に膝を付いて見上げた。

「吉良ちゃん。今の俺は吉良ちゃんの奴隷だから、なんでも吉良の言う通りにするよ。吉良は王様になった気分で寛いで」
「……寛げるか、アホゥ」
 吉良は毒気を抜かれたように力なくそう呟いた。
 結城を奴隷だなんて思っていないし、自分から頼んだ訳ではないが世話になる立場でアレコレと注文を付けるのは礼儀知らずだった。
 吉良は反省して、結城に豆から挽いたコーヒーを振る舞ってやろうとした。

「いいから座ってなよ。吉良が動いたら俺が来た意味がないだろぉ? ほら、任せろって」
 ソファに押し戻されて吉良はハラハラしながら結城の様子を見守る。
 けれども意外な事に、結城は危なげ無い手付きで鮮やかにコーヒーを淹れた。
 出された香り高いコーヒーを飲んで吉良が唸る。

「……旨い」
「だろ? ハンドドリップでコーヒーを淹れるコツは素早く、流れるように、華麗にだ」
「へぇ……」
 最近のコーヒー豆は品質が良いから余りじっくりと蒸らさない方が良いらしい、と聞いて吉良は素直に感心した。
 こ洒落た菓子やら食べ物やらを知っていたり、結城は案外と女受けしそうな事に詳しい。

「お前、そういう事を何処で覚えてくんの?」
「ふふっ、ナイショ」
「なんだそれ」
 吉良は結城に隠し事をされてなんとなく面白くない。
 結城に思わせ振りな過去だの意外な秘密だのなんて要らないのに。

「拗ねなくたって、その内に教えてやるよ」
 子供でもあしらうように言われて吉良は益々へそを曲げた。

 昼食はアサリのスパゲッティで、食べたら署に顔を出してくると結城が言い出した。

「なんで? 今日はお前も休みだろ?」
「そうだけど引き継ぎが終わってないからね。ついでにみんなにも心配ないって言って来たいし」
「……そうか」
 心配している人の事にまで頭が回らなかった。
 吉良は意外とそういう気遣いが足りない。

「そんな顔をするなって! みんなが心配してるのは吉良なんだからさ、俺の口から伝えた方がいいと思っただけ」
「ああ。助かる」
「どういたしましてぇ~。吉良にお礼を言われるなんて役得ぅ~」
「そうかぁ?」
 自分はこれまで結城に礼を言った事がなかっただろうか、と首を捻る吉良に結城が笑って言う。

「謝られた事は何回かあるけど、お礼は言われたことないっしょ」
「……」
「俺も吉良を怒らせないようにすることばっかり考えてて、何をしたら喜んで貰えるかなーって考えた事がなかった。でもそれじゃダメだよな。吉良に好かれる筈がない」
「好かれる、って……」
「だからさ、この機会にちゃんと仲良くなろうぜ」
 ちゃんと仲良くってなんだよ、と思ったが吉良は言い返すことが出来なかった。
 結城は自分たちの関係を変えようとしている。

「ちょっとずつな」
 そう言われて吉良は頷くしかなかった。

 ***

 ふと寒気を感じて、吉良はぶるりと身を震わせた。
 どうやら結城の帰りを待っているうちにリビングの床で眠ってしまったらしい。

(このままじゃ風邪を引くな……)
 そう思うがまだ意識がはっきりとせず起き上がれない。でも寒い事は寒いので震えていたら、ふんわりとした毛布に包まれた。

(え? なに?)
 半分眠ったままの吉良の身体が毛布ごと持ち上げられ、ベッドに運ばれる。
 そう言えば子供の頃、遊び疲れて眠ってしまった身体をよくこうして親に運ばれたなと懐かしく思い出す。
 幸せな記憶が蘇り、吉良はつい運んでくれた手に擦り寄った。

「こんなに冷えて、風邪を引くよ」
 聞こえてきた心配そうな声に、吉良はこれは親ではないとハッと気付く。

「……結城?」
「起きなくていいよ。このまま眠っちゃいな」
 結城が毛布の上からギュッと吉良を抱き締めて温める。

(なんなのこいつ、俺は雪山で遭難した人じゃないんだけど)
 そう思いつつも冷えた身体に結城の温もりは心地好く、吉良は黙って目を瞑る。

(あったかい……)
 背中がとても温かい。
 ホールドしてくるぶっとい腕が鬱陶しいけれど、これはこれで安心する。

(ん? 安心する? なんで?)
 吉良は自分の抱いた感情を疑問に思ったけれど、忍び寄る睡魔と心地好い温もりに負けて考えていられなくなる。
 そう言えば結城の布団を出していないけれどちゃんとわかるだろうか、と思ったのを最後に吉良は深い眠りに呑み込まれた。


「……きーらぁ?」
 結城は腕の中の人にそっと声を掛けてみたが一向に目を覚ます気配はない。
 子供みたいに毛布に埋もれて眠っている。

(クスリがよく効いてんな)
 何日分か処方された鎮痛剤には眠くなる成分も入っていて、結城などは飲むのを躊躇ってしまうが吉良は抵抗がないらしい。

(人のこと信用しないとか言っておいて、肝心なところで警戒心が薄いんだよね)
 仕事中はちょっと近付いただけでキャンキャン噛み付いてくる癖に、自分のテリトリー内だと安心するのか余り距離を気にしない。
 食べるのに邪魔だろうからと前髪を手で掻き分けても、座るのに手を貸しても当然のような顔をしていた。
 結城が泊まるのに睡眠効果のある薬なんて飲んで、寝惚けて擦り寄って来るし、人の腕の中で安心しきった顔でスヤスヤと眠る。
 吉良は意識していないだけで、もう十分に結城の事を信用しているような気がするが油断は出来ない。
 指摘したら「じゃあ警戒しよう」なんて見当外れの方向に努力しかねない。

(なぁ、吉良。俺は間違えるかもしれないけど、それでも吉良の信用は裏切らねーよ?)
 人間だから期待されたって間違えることもあるし、期待通りには出来ないこともある。
 それでも結城は吉良の期待に精一杯でもって応えたいと思うし、足りないところは幾らでも努力する。
 吉良に見合う人間でありたいと思う。

(だからさ、ルールだってちゃんと守るし、ムカついたからってパクらないし、見たくない現実からも目を逸らさない。でもさ、一人だとたまにキツくなるから、そん時は隣に吉良がいたらいいなって思うんだ。俺は吉良にとってもそういう存在になりたい)
 結城は吉良のモコモコとした髪に鼻を埋めてクンクンと匂いを嗅ぐ。
 仲間の匂い。刑事の匂い。そして相棒の匂い。
 いつの間にか、これが自分にとって一番落ち着く匂いになっていた。

(俺が安心して眠れんのって、吉良の隣だけなんだぜ)
 勿論そんな事を伝える気は無かったが、いつか吉良にも知って貰えるといいのにと結城は思った。

 ***

 吉良は目を覚ましても周りに誰もいないので不安になって、思わずキョロキョロと結城の姿を探してしまった。
(結城、何処に――まさか昨日は帰ってこなかったのか? でも夢うつつにベッドまで運んで貰ったような記憶があるんだけど)
 寝惚けていたからやり取りは覚えていないが、言葉を交わした覚えもある。
(家に帰ったのか?)
 吉良が大丈夫そうだと踏んで帰ったのだろうか?
 それにしたって一言くらいあってもいいのに、と憤りながら杖を引き寄せて立ち上がる。
 足はまだ痛いし慣れない松葉杖は扱い辛かった。
 吉良が苦心して隣の部屋に顔を出したところでガチャリと玄関扉が開いた。

「吉良ぁ、ほんっと、じっとしていないね。起きたら俺が行くまでじっとしていろって言っただろ?」
「聞いてねぇし、このくらい一人で移動できるし」
「でも一人の時に滑ったりしたら危ないでしょ?」
「お前は結構、過保護だよなぁ」
 吉良は呆れたようにそう言って、結城が引いてくれた椅子に座った。

「ちょっとシャワーを浴びてきちゃうから待ってて。朝食はパンでいい?」
「いいけどパンは?」
「走りに行ったついでに買ってきた。冷蔵庫に何も入ってないんだもん。吉良ちゃんて何を食べて生きてるの?」
「たまたま食材を切らしてただけで、たまには作ってる」
「はいはい、そういうことにしておくよ」
 結城が全く信用していない口調なのが腹立たしい。

「言っておくけど、家事は一通り出来るんだからな!」
「知ってる~。でも気紛れだし、一人だとめんどいんだよね」
「くっ……」
 言い当てられて吉良は唇を噛んだ。
 家事はできるが自分一人の為にあれこれと作るほどマメではない。
 仕事が不規則な事もあり、腐りやすい生鮮食品は余り買わないし、そうすると冷蔵庫には日持ちのするチーズや缶ビールくらいしか残っていない。

「どうせお前だって似たようなものだろう?」
「吉良よりはマシだよ。卵と牛乳くらいはあるもん」
「まだ伸びる気か?」
 恐れ慄くように訊いた吉良に、結城がプッと小さく噴き出して答える。
「身長を伸ばそうと思ってる訳じゃねぇよ」
 そう言うと結城は買ってきた物をテーブルの上に置いてバスルームに消えた。
 他人の家でも戸惑う事は無いらしい。

「そうか、買い物とあと走りに行ってたのか」
 吉良はそう呟いてホッと肩の力を抜いた。
 警察官だから身体を鍛えるのは当然としても、結城が走るのを毎朝の日課にしているとは知らなかった。
 足が速いのにも理由はあったのだ。

「俺は案外とあいつの事を知らないんだな」
 吉良が結城に色々と見透かされているのとは違い、吉良は結城の実態をよくわかっていない。
 吉良は目が覚めたような思いで改めて結城の事を思った。
(もっとよくあいつを見なくちゃな。でないと背中も預けられない)
 吉良は相棒だから結城に興味を持ったのだと自分に言い聞かせた。
 そして持ち前の観察眼でもって結城を眺めるようになった。

(プリン……飲むのか)
 吉良は結城がプリンを一口でいったのを見て軽く引いた。
 メロンパンも続けて何個も食べるし、よくラテやらフラペチーノやらを飲んでいるし、結城はかなりの甘党なのかもしれない。

「吉良ちゃん、それ食べないの?」
 吉良が持っているプリンまで狙われて、慌てて自分の方へ引き寄せた。
「食うよっ! 人の分まで狙うな!」
 吉良は甘党ではないがプリンは好きだ。
 特に少し固めの、手作りっぽいのがいい。

「プッ、取らねぇよ。いつまでも握ってないで早く食べなよ」
 そう言うと結城はサッサとテーブルの上を片付け始めた。
 それを見て、吉良は結城に気を取られて食事の手が止まっていた事に気付く。

(チッ、結城に注意されるなんて屈辱だ)
 吉良は腹を立てながらプリンを食べ、容器を回収に来た結城にムスッとした顔で渡す。

「そんなにプリンが好きなら、美味しいのを買ってきてあげるからさ」
「別にいい」
 結城は吉良が休んでいる為、溜まった未決の処理や書類仕事に追われて忙しい。
 その上帰って来たら吉良の世話までして疲れているに違いない。

「家にいると暇だろ?」
「……暇じゃない」
 嘘だ。暇だった。
 吉良はせめて家で出来る仕事をしようと思ったのだが、こんな時くらいは休めと皆からパソコンを取り上げられてしまった。
 ならば本を読むなり映画を観るなりすれば良いのだろうが、結城が働いていると思うとそれも落ち着かない。
 頼むから働かせてくれ、と吉良は思う。

「明日は俺も休みだから、今日一日だけ我慢な」
 結城に慰めるようにそう言われて吉良は仕方なく頷いた。
 明後日からは無理をしなければ仕事に復帰しても良いと言われているし、今日くらい安静にしていよう。
 そして明日はリハビリがてら、結城に運転をさせて外出してもいいかもしれない。
 呑気にそんな事を思っていた吉良だが、夜遅くに帰って来た結城を見て冷水を浴びせられたような気持ちになった。

「吉良、遅くなって悪い。夕飯はどうした?」
「出前太郎で……頼んだ。かつ丼で良ければお前の分もあるけど」
「助かる。手を洗って来たらお茶を淹れるから」
「いいよ。そのくらい俺がやる」
 全体的に薄汚れてボロボロになった姿でまだ吉良に気を遣おうとする結城を見て、吉良は微かな苛立ちを感じた。
(どうしてそこまでしようとする? 俺は結城の主人ではないし、怪我だって単なる事故で結城の所為じゃない。お前の重荷になるくらいなら俺は――)

「吉良、そんな顔をすんなって。ニコイチじゃない俺じゃ駄目だって言う奴もいるけど、認めてくれる人もいる。俺は吉良が教えてくれた事を無駄にしたくねぇの」
 だからもう少しだけ見守ってくれな、と朗らかに笑う結城に吉良は何も言えなかった。
 努力している。変わろうとしている。
 そんな結城に引き替え自分はどうだろうか? 結城に見合っているだろうか?
 吉良の中で確信が揺らぎ、頭にこびり付いてその晩は中々眠る事が出来なかった。

 ***

 何度か寝返りを打ち、隣に敷いた布団でぐっすりと眠っている結城を見て吉良はそっと上半身を起こした。
 早い時間に食事を済ませた所為で小腹が空いてしまった。
 どうせ眠れないのだし、うでんでも茹でるかとそっとベッドを抜け出した。

「畜生、なんで届かない……」
 吉良は必死に手を伸ばしながら、大きくて嵩張るからと笊を高い所にしまったのを後悔していた。
 音を立てないように松葉杖を置いて来たのもまずかった。
 吉良は背伸びをしようと足を踏ん張ってしまい、足首に走った痛みにぐらりと体勢を崩した。

(やばっ!)
 咄嗟に目を瞑って衝撃を覚悟したが、ぽすんと後ろから体を受け止められた。

「何やってんだよ」
「いや、腹が減ったんでうどんでも食べようと思って」
「うどん?」
 思い切り顔を顰めて呆れた結城に、今回ばかりは吉良も言い訳のしようがない。

「俺を呼べよ。何の為の同居だよ」
(いや、夜中に笊を取って貰う為じゃないだろ)
 吉良はそう思ったけれど、そもそもどうして夜中に起き出したのかという所から説明しなくてはいけなくなりそうで面倒臭さに口を噤んだ。
 黙りを決め込んでいたらキッチンの椅子に座らされ、暫くしたら目の前にうどんとつけ汁が出てきた。

「薬味がワサビと海苔しかないけど我慢して」
「……おう」
 向かい合ってうどんを食べながら、そういえばと吉良は思う。
(そういえば、あいつとはうどんを食ったことがなかったな)
 昔々、まだ刑事課にきて間もない頃に組まされた相棒とは、うどん以外でも同じものを食べた記憶がない。
 それぞれ別々に腹を満たす為だけに何かを口にし、一緒にちゃんと食事をした事は一度もない。

(結城なら、相手が俺じゃなくてもきっとこうして飯を作ってやったんだろうな。それか飲みにでも誘ったか)
 吉良は酒の飲めない相棒を誘おうとは一度たりとも思わなかった。
 相棒からいつか一緒に飲みたいと言われても聞き流していた。
 なんで連れて行ってやらなかったのかと、後悔がまた一つ積み上がる。

「吉良? 箸が止まってるよ」
「あ、ああ。悪い」
 吉良は頭を一つ振って、ズルズルとうどんを啜った。
 結城に優しくされればされる程、自分の冷血さを思い知らされて気が滅入る。
 せめて今度こそ公平でありたいと、結城には責任をもって刑事の仕事を教えてきたつもりだけれど上手くできている自信はない。
 自分がしているのは余計なことなんじゃないか、結城は別の人と組んだ方が良いのじゃないか、そんな思いはいつも付き纏っている。

(こんな迷惑まで掛けて、自分が相棒で結城は嫌気が差していないだろうか?)
 また箸が止まってしまった吉良を見て、結城が声を掛ける。

「きーら。虫でも食ってるみたいな顔をして食うなよ」
 眉間を指でグリグリと押され、吉良は咄嗟に目を瞑った。
 鬱陶しかったこれだって、今は結城の優しさだと知っている。

「……虫を食ってる顔ってなどんなんだよ」
「こんなんでしょ」
 頬を摘ままれて吉良は喋りにくいまま憎まれ口を叩く。

「俺がどんな顔をしてようがお前には関係ない」
「関係なくないでしょ。相棒だもん。心配だよ」
 そうする権利があると信じて疑わない結城の様子に、吉良は胸がキュッとしてつい弱音が漏れてしまう。

「面倒臭くなったり幻滅したりしないのか?」
「えええ?」
「俺は外でお前に見せてたより、ずっと女々しくて我が儘で面倒臭いだろう?」
 こんなみっともない姿は見せたくなかったのに、と口をへの字に曲げる吉良を見て結城が嬉しそうに笑った。

「俺は吉良ちゃんの素顔を見られて嬉しい。だって気を許してる証拠だろ?」
「ムムム……」
 吉良はむにゃむにゃと不明瞭な声をあげたが結城は気にせずに続ける。
「我が儘とか迷惑って、我慢されると悲しい。俺には言えねーのかなって、支えになれねーのかなって落ち込む」
「……」
 そこまで言われては吉良だってお前なんか頼らない、支えられたくないとは言えない。
 重くなったら放り出していいから、と言うのが精一杯だった。

「吉良はまだ、背負われる覚悟が足りねぇな」
 結城にそう言われて、吉良は背負われる覚悟とはなんだと胸の内で呟いた。

 ***

 復帰一日目は仕事が楽しくて仕方がなかった。
 内勤が中心で、歩くのに松葉杖を必要としたがそれでも自由に動けるのはいい。
 調子に乗って足に負担を掛け、結城に溜め息を吐かれながら湿布を貼って貰ったが問題ではない。

「ほぼ完治だな」
「どこが!? そりゃあ吉良ちゃんが無理さえしなきゃ治ってたかもしんないけどねっ!」
「無理なんてしてないだろ?」
 自覚のない言葉をほざく吉良を結城が呆れて見つめ、だったらそろそろ帰ろうかなと言い出した。

「え?」
「吉良も他人がいると休めないだろ? そろそろ俺は自分ちに帰るよ」
「あ……うん」
 吉良が結城といて落ち着かないのは結城が他人だからじゃない。結城だからだ。
 でもそんな事は言えないので、世話になったと礼を述べる事しか出来ない。

「持ち込んだ荷物もあるから、引き上げるのは明日でもい?」
「荷物だったら宅急便で送ってやろうか?」
「や、勿体ないし――そんなに慌てて追い出さないでよ」
 寂しそうに笑われて吉良は焦った。
 結城を追い出そうなんて、そんなつもりはない。

「じゃあ俺が車で送ってやる――」
「運転はまだ早いよ。無理しないでいいから、最後に美味しい物でも食べよ?」
(最後って、これで別れるみたいじゃないかよ)
 吉良は何だか捨てられるような気持ちになって薄っすらと涙ぐんだ。

「吉良?」
「美味しい物ってなんだ」
 グシグシと目元を擦りながら訊ねる吉良を結城が苦笑して見つめる。
 これで誤魔化したつもりなのだから吉良は意外と読みやすい、と結城に思われているとは夢にも思わない。
 吉良は最後まで平気なフリをして、ベッドの中では悶々として過ごした。


 結城が出て行くという日も朝から仕事で、二人は現場に臨場する途中だった。
 幾ら結城が持っているからといって、そうそう他の事件になど当たらないだろうと思っていた吉良は良くも悪くも予想を裏切られる。
 車で走っていたら、目の前で急に保育園のバスが横転したのだ。

「結城! 消防に連絡! それから他の車輛を止めるぞ!」
「吉良、コーンが足りない!」
「この車で道を塞いで、もう片方は俺が止める!」
 二人は慌ただしく走り回り、横転したバスに近付く。

「子供たちは無事だ! 重傷者もいない!」
「引火したら危ない。こっちに避難させるぞ!」
 横転した車内から子供たちをせっせと運び出す。
 引率の女性に手を貸して外に出し、子供たちを任せて車内を確認していた結城が緊迫した声を上げた。

「吉良っ! 運転手が倒れてる!」
「怪我は!?」
「わかんないけど息をしてない!」
 外傷は見当たらないようだが呼吸が止まっている。
 ショックか、元々の持病を疑うところだが一刻も猶予が無い。

「救急車の到着を待っていたら手遅れになる。引き上げるぞ」
「でも吉良ッ!」
 倒れたバスから大の男を運び出すには結城一人では厳しい。
 上から吉良に引っ張り上げて貰う必要がある。

「吉良、足が――」
「んなこと言ってる場合かっ!」
 吉良は足首の痛みを無視して運転手の身体を引っ張りあげた。
 一刻も早く蘇生術を施さねば運転手の命が危ない。

(痛くても足の怪我では死なない!)
 そんな事を思いながら吉良はようよう運転手を引っ張り上げ、昇って来た結城に手伝わせて道路へ寝かせた。
 蘇生処置を施そうとしたところで緊急車両が到着し、後を任せて吉良たちは交通整備に戻った。
 間もなくサイレンの音が聴こえ、次々と到着する警察官に現場の指揮権を譲る。
 吉良はホッとしたら一歩も動けなくなり、その場で膝を付いた。

「吉良っ!」
 走り寄る結城に吉良は困ったように笑いながら頼む。
「悪い、手を貸してくれるか?」
「こっの、当たり前だろっ!」
 がばっと横抱きに抱き上げられ、吉良は思い切り結城を怒鳴りつけた。

 ***

「あのさぁ、慌ててたのはわかるよ? でもね、救出した後も走り回るってどういう事?」
 ニコニコと笑った結城の顔が妙に恐ろしい。
「走らなきゃ間に合わなかった」
「一歩歩くだけで激痛が走る足で?」
「アドレナリンが出てたんだろ」
 吉良が嘯いたらぴくり、と結城のこめかみが震えた。

「アドレナリンだかオロナインだか知らねーけどっ、無茶をしたら走れなくなるかもしんねーんだぞっ!」
「大袈裟だって、ただの捻挫で――」
「ただの捻挫からっ! オリンピックに出られなくなった奴だっているっ!」
「誰の事だよ?」
「兎も角、頼むから少しは自分を大事にしてよ」
「結城……」
 泣きそうな結城の顔を見たら、自分よりも目の前の人達を助ける事の方が大事だなんて本音は言えなくなった。でもそんな気持ちも結城にはお見通しのようだった。

「吉良が何かを取り戻したくて、自分を投げ出しちまうのは知ってる。でもそんなの俺は嬉しくねえ! 吉良と引き換えに……していいもんなんて、ねぇよ」
 ギュッと上着の裾を握られて、吉良は天井を仰いだ。

「あのさ、怪我が治んなかったら、もう少しお前と一緒にいられるかもしれないって思った」
「……え?」
 呆然と目を見開く結城の顔を真っ直ぐに見つめる。

「怪我が悪化したら、またお前に面倒を見て貰えるかもしれない。出て行くのを引き留められるかもしれない。だからちょっとだけ――悪化したらいいなって思っちまった。天罰かな」
 ハハハ、と笑った吉良を結城が抱き締めた。

「おい――」
「そんなの、吉良が一言『行くな』って言えばいいんだよ! 面倒だって俺が一生見る」
「バカ、一生なんて軽々しく言うな」
「軽くねぇよ。俺はちっとも軽い気持ちなんかじゃない」
「……」
 吉良は色々な事を考えた。
 結城の将来とか、いつか見限られるんじゃないかって不安とか、追い詰めて退職させてしまった昔の相棒の事とか。
 でも何をどう考えても、結城と一緒に暮らすという目の前の大きな幸せから目を背ける事が出来ない。それを逃がすなんて絶対に無理だ。

「……行くな。お前を失いたくない」
 結城は例え出て行っても失う事にはならない、とは言わなかった。
 ただ黙って頷いた。

「吉良を……大事にしたいんだ。甘やかして、俺なしじゃいられなくしたい」
「もうなってるよ」
 そう言うと吉良は結城の胸に頭を預けた。
 自分には結城が必要だった。
 どうしても、どうしても必要だった。

「布団……もっといいやつを買おうな」
「俺は吉良と一緒でもいいよ」
「考えとく」
 他にも必要なものはいっぱいあるなぁと思いながら、吉良は逃がさないようにきつく結城の肩を握り締めた。

 END
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 風邪でフラフラの大学生がトイレに行きたくなるけど、体が思い通りに動かない話

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