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⑲雨は等しく降り注ぐ−1
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蓮治は信乃の寄越した煙草入れを見て眉を顰めた。
ピンク色のぽってりとした花弁が艶めかしくも愛らしい桜の花が蒔いてあった。
「右近の橘、佐近の桜と言うだろう。余り揃いには見えないかもしれねぇが――気に入らねぇか?」
「いいや、その逆さぁ。可愛すぎて妬けるね」
「はぁ? お前、なに言ってんだよ? 物に妬けるって、意味がわからねぇ」
蓮治は信乃に呆れたようにそう言われたが、言を翻す気はない。
自分はこの煙草入れに、正確に言うなら作るに至った理由に妬いている。
「信乃ぉ、君の可愛い所をわたしの他に誰が見つけたんだい?」
「へっ? 何を言って――」
慌てて視線を彷徨わせる信乃を見て蓮治は確信する。
作品に反映するくらい信乃を可愛くした男がいる。
女という可能性もあるが、彼の気性を考えたら多分男だ。
「どこぞで年嵩のじじいでも見つけたか?」
蓮治が酷い言い方をしたが、信乃は師匠や先生の年代くらいの男に弱い。
反発しながらも未だに優しくされたがっている。
「馬鹿野郎、なんてことを言いやがる! 俺はただ、お前の言う『可愛い』ってやつが少しわかった気がしてだなぁ、」
「誰に可愛いと言われた?」
「……慶太郎」
その名前を聞いて、蓮治は頭をガンと殴られたようなショックを受けた。
自分が勝ったと油断している隙に、信乃を堕としたと言うのか。
「信乃、あいつはまだ子供だよ?」
「そうでもねぇよ。お前だってあいつにそろそろいい人は出来たかって聞いてたじゃねぇか」
「君がそのいい人だとでも?」
「それは……それはねぇけどさ」
慶太郎の嫁取りの事を考えたら、信乃は俄に気が重くなった。
本人は継ぐ家なんて無いと言っているが、彼に期待している二親の事を考えたらそうもいかないだろう。
いずれは年廻りのいい嫁さんを貰って、子供を育てながら両親の面倒を見て貰わなくちゃいけない。
それが普通だし、信乃だって邪魔する気はない。
「ほんの少しだけ。あいつが飽きるまで、ちょっと付き合ってやるだけだ」
「信乃……」
ガリ、と奥歯を噛み締める音が響いてきて信乃は目を見開いた。
「蓮治? 今、すげぇ音がしなかったか?」
「……いや、気の所為だろう。それにしても、君が悪巫山戯に付き合うなんて意外だった」
「あいつは本気だよ。今この時だけでも、あいつは本気だ」
信乃の言葉に蓮治の目からボタボタと血の涙が溢れた。
「蓮治っ!」
「……なんだい?」
「あれ? 今――いや、見間違いだったようだ」
改めて見たら蓮治は血の涙なんか流しちゃいなかった。
信乃は目を使いすぎたかとゴシゴシと擦り、その手を蓮治に押さえられた。
「こら、傷が付くだろう。ゴミが入ったなら目薬をお使いよ」
「心配性だな。なんでもねぇよ。それより煙草入れの代金を寄越しな。俺ぁそれを使って――蓮治?」
自分の手を握ったままの男を信乃が不思議そうに見つめる。自分が蓮治にどんな衝撃を与えたか、全くわかっていない。
「なんでもない。気を付けておいき」
蓮治はそっと手を離し、信乃が振り返りもせずに帰っていくのを笑顔で見送った。
信乃の姿が見えなくなると、蓮治の顔からスッと笑みが消える。
(今だけ、だと?)
ならばどうせ放っておいてもあの二人は結ばれないから、鷹揚に構えていろとでも言うのか?
(冗談じゃない。信乃が誰かのものになるなど、見ていられる訳がない)
信乃は誰のものにもならないと思っていたから、蓮治もなんとか我慢していられた。
けれど自分以外の男が手に入れるとなると、話が違う。
それくらいならばいっそ――。
「奪ってしまおうか」
恩人の言葉など忘れていっそそう出来たらどれ程良いか。
けれども蓮治が自分を欺き続けた年月は余りにも長く、習性になったそれを今さら覆す事は難しい。
蓮治は苦しそうに目を瞑った。
***
「雨の降るほど噂はあれど、ただの一度も濡れはせぬぅ」
彦十朗は何気なく唄など口遊み、それから自嘲気味の笑みを漏らす。
(ただの一度も濡れないとは言い過ぎだ。あの人なりに情はあった筈だ)
彦十朗は蓮と二人きりで逢わなくなって、何となしに気が抜けてしまった。
元々が男に抱かれるのが好きな性質では無いから代わりを探そうとは思わない。けれどふと雨の降り初めの匂いに、彼の好んだ煙草の香りに、後ろを振り返って探してしまう。
優しかった手を。頼り甲斐のあった男の姿を。
「誰か頼れる人が欲しいだなんて、俺も焼きが回ったかねぇ」
何となく煙管を手で玩びながら、彦十朗は一人暇を持て余した。
駒は信乃の世話が無くなったというのに座長のお供で出歩いているし、足を挫いたと言っても蓮は見舞いにもきやしない。
別れた途端に見向きもしなくなるなんて、やはり薄情な男だと思った。
「あぁ、くさくさする」
ぼやいていたら来客を告げられた。
聞けば善一という料理人だと言う。
一体に何の用だと思いつつ、部屋に通したら男の背の高さにドキリとした。
(蓮治さんと同じくらい大きいんじゃないか?)
男は日本人にしてはかなり大柄な蓮治に劣らない上背があって、細身だがよく鍛えられているようだった。
「約束も無しに伺って済みません」
男の声を聞いて、彦十朗は風のような声だと思った。
少し掠れたハスキーな声。
(無駄に声がいいけれども、彼は芸能関係の人間では無いよな? いやいや料理人だって聞いたじゃないか)
彦十朗はふぅっと息を吐いて男を見つめた。
「どうせ暇だから構いませんよ。それでわたしに何の用です?」
彦十朗はせっかく平静な顔を装って訊いたのに、返ってきた答えを聞いて表情に罅が入る。
「駒を貰っちまってもいいですか?」
「なん……だっ、て?」
問い返しながらああそうかと合点していた。
(ああ、この男が駒の)
そう思うと胸が痛んだ。なのに善一という男は酷い態度でこう言った。
ピンク色のぽってりとした花弁が艶めかしくも愛らしい桜の花が蒔いてあった。
「右近の橘、佐近の桜と言うだろう。余り揃いには見えないかもしれねぇが――気に入らねぇか?」
「いいや、その逆さぁ。可愛すぎて妬けるね」
「はぁ? お前、なに言ってんだよ? 物に妬けるって、意味がわからねぇ」
蓮治は信乃に呆れたようにそう言われたが、言を翻す気はない。
自分はこの煙草入れに、正確に言うなら作るに至った理由に妬いている。
「信乃ぉ、君の可愛い所をわたしの他に誰が見つけたんだい?」
「へっ? 何を言って――」
慌てて視線を彷徨わせる信乃を見て蓮治は確信する。
作品に反映するくらい信乃を可愛くした男がいる。
女という可能性もあるが、彼の気性を考えたら多分男だ。
「どこぞで年嵩のじじいでも見つけたか?」
蓮治が酷い言い方をしたが、信乃は師匠や先生の年代くらいの男に弱い。
反発しながらも未だに優しくされたがっている。
「馬鹿野郎、なんてことを言いやがる! 俺はただ、お前の言う『可愛い』ってやつが少しわかった気がしてだなぁ、」
「誰に可愛いと言われた?」
「……慶太郎」
その名前を聞いて、蓮治は頭をガンと殴られたようなショックを受けた。
自分が勝ったと油断している隙に、信乃を堕としたと言うのか。
「信乃、あいつはまだ子供だよ?」
「そうでもねぇよ。お前だってあいつにそろそろいい人は出来たかって聞いてたじゃねぇか」
「君がそのいい人だとでも?」
「それは……それはねぇけどさ」
慶太郎の嫁取りの事を考えたら、信乃は俄に気が重くなった。
本人は継ぐ家なんて無いと言っているが、彼に期待している二親の事を考えたらそうもいかないだろう。
いずれは年廻りのいい嫁さんを貰って、子供を育てながら両親の面倒を見て貰わなくちゃいけない。
それが普通だし、信乃だって邪魔する気はない。
「ほんの少しだけ。あいつが飽きるまで、ちょっと付き合ってやるだけだ」
「信乃……」
ガリ、と奥歯を噛み締める音が響いてきて信乃は目を見開いた。
「蓮治? 今、すげぇ音がしなかったか?」
「……いや、気の所為だろう。それにしても、君が悪巫山戯に付き合うなんて意外だった」
「あいつは本気だよ。今この時だけでも、あいつは本気だ」
信乃の言葉に蓮治の目からボタボタと血の涙が溢れた。
「蓮治っ!」
「……なんだい?」
「あれ? 今――いや、見間違いだったようだ」
改めて見たら蓮治は血の涙なんか流しちゃいなかった。
信乃は目を使いすぎたかとゴシゴシと擦り、その手を蓮治に押さえられた。
「こら、傷が付くだろう。ゴミが入ったなら目薬をお使いよ」
「心配性だな。なんでもねぇよ。それより煙草入れの代金を寄越しな。俺ぁそれを使って――蓮治?」
自分の手を握ったままの男を信乃が不思議そうに見つめる。自分が蓮治にどんな衝撃を与えたか、全くわかっていない。
「なんでもない。気を付けておいき」
蓮治はそっと手を離し、信乃が振り返りもせずに帰っていくのを笑顔で見送った。
信乃の姿が見えなくなると、蓮治の顔からスッと笑みが消える。
(今だけ、だと?)
ならばどうせ放っておいてもあの二人は結ばれないから、鷹揚に構えていろとでも言うのか?
(冗談じゃない。信乃が誰かのものになるなど、見ていられる訳がない)
信乃は誰のものにもならないと思っていたから、蓮治もなんとか我慢していられた。
けれど自分以外の男が手に入れるとなると、話が違う。
それくらいならばいっそ――。
「奪ってしまおうか」
恩人の言葉など忘れていっそそう出来たらどれ程良いか。
けれども蓮治が自分を欺き続けた年月は余りにも長く、習性になったそれを今さら覆す事は難しい。
蓮治は苦しそうに目を瞑った。
***
「雨の降るほど噂はあれど、ただの一度も濡れはせぬぅ」
彦十朗は何気なく唄など口遊み、それから自嘲気味の笑みを漏らす。
(ただの一度も濡れないとは言い過ぎだ。あの人なりに情はあった筈だ)
彦十朗は蓮と二人きりで逢わなくなって、何となしに気が抜けてしまった。
元々が男に抱かれるのが好きな性質では無いから代わりを探そうとは思わない。けれどふと雨の降り初めの匂いに、彼の好んだ煙草の香りに、後ろを振り返って探してしまう。
優しかった手を。頼り甲斐のあった男の姿を。
「誰か頼れる人が欲しいだなんて、俺も焼きが回ったかねぇ」
何となく煙管を手で玩びながら、彦十朗は一人暇を持て余した。
駒は信乃の世話が無くなったというのに座長のお供で出歩いているし、足を挫いたと言っても蓮は見舞いにもきやしない。
別れた途端に見向きもしなくなるなんて、やはり薄情な男だと思った。
「あぁ、くさくさする」
ぼやいていたら来客を告げられた。
聞けば善一という料理人だと言う。
一体に何の用だと思いつつ、部屋に通したら男の背の高さにドキリとした。
(蓮治さんと同じくらい大きいんじゃないか?)
男は日本人にしてはかなり大柄な蓮治に劣らない上背があって、細身だがよく鍛えられているようだった。
「約束も無しに伺って済みません」
男の声を聞いて、彦十朗は風のような声だと思った。
少し掠れたハスキーな声。
(無駄に声がいいけれども、彼は芸能関係の人間では無いよな? いやいや料理人だって聞いたじゃないか)
彦十朗はふぅっと息を吐いて男を見つめた。
「どうせ暇だから構いませんよ。それでわたしに何の用です?」
彦十朗はせっかく平静な顔を装って訊いたのに、返ってきた答えを聞いて表情に罅が入る。
「駒を貰っちまってもいいですか?」
「なん……だっ、て?」
問い返しながらああそうかと合点していた。
(ああ、この男が駒の)
そう思うと胸が痛んだ。なのに善一という男は酷い態度でこう言った。
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