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⑩月が見ていた−1

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 彦十朗は久し振りに見た愛弟子の変わり様に吃驚して目を瞠った。

「こま? お前、一体……」
「兄さん。久し振りに逢えて嬉しい」
 抱き付いてきた駒を受け止めながら、彦十朗はこんな子だったかと戸惑う。
 それは素直で愛らしい子供ではあったが、控え目で甘えるのを遠慮しているところがあったのに。
 なのに少し見ないうちに蝶が羽を開いたかのように変化した。
 彦十朗は華奢な肩を抱きながら、さてどう聞いたものかと思案する。

「信乃さんのお世話はきちんと出来ているかい? 辛い事はないか?」
「はい、信乃さんは手の掛かるお人ではありますけど……存外と可愛らしいところもあって、楽しいです」
 にっこりと微笑んだ駒を見て、彦十朗は彼にいい人が出来たのだと確信する。

「お前、信乃さんはあれ程止せと言っただろう? 好いたところで捨てられるのが落ち――」
 慌てて諌めている途中でけらけらと笑われた。

「僕が信乃さんと何かあると思っているんですか? 兄さんたら可笑しい」
 あの人は創作の事で頭が一杯なのに、と言われて成る程そうだろうと納得する。

「なら誰が……」
「何がです?」
 キョトンと訊ねられて、そのあどけない顔を見ながら彦十朗は答えを聞いてどうするつもりだと自問する。

(別れろとでも言うのか? 艶事も芸の肥やしだなんて言っておいて、お前は子供だからおよしと言う?)
「兄さん?」
(まさか。この子もいつかは大人になると分かっていた筈だろう。それが思っていたよりも早かったからと言って、動揺してどうする。あたしはこの子の兄だ。傷付いて帰ってきたら温かく迎え入れてやればいい。そうだ、それがあたしの役目だ)
 彦十朗は決意を固めると深く息を吐いた。

「兄さん、どうかしましたか? お腹が痛いとか、吐き気がするとか――」
「あたしは子供じゃないよ。お前も自分の稽古と信乃さんの面倒と大変だと思うが、精一杯おやり」
「はい!」
 笑顔で答えた駒を彦十朗は眩しそうに見詰め、それから蓮治に使いを出した。
 いつもの場所で待っていると一方的に伝えて先に部屋で待つ。
 吸いもしないのに蓮治に貰ったからと、持ち歩いている煙管をそっと銜えて吸ってみた。
 赤い塗りの煙管は彦十朗に良く似合うからと買ってくれたものだが、あの人の使っている渋い煙管とは似合わない。
 黒い漆塗りの羅宇に橘。それはもしかしたら信乃の作ったものではないだろうか。

(ちょっと匂わせたくらいで簡単にキレて、ムキになる癖に自分のものにしないだなんてあの人らしくない。それでいていつも気にして追い掛け回して、彼の為には自ら労して厭わない)
 彦十朗は蓮治が信乃を特別扱いするのが面白く無い。
 信乃ときたら自分の魅力も知らずに着るものにも無頓着で、けれどチラリと覗く肌の色や身体の線が人の目を惹き付ける。
 固く閉じている印象なのに淋しげな後姿が人の気を誘う。
 惑わせておいて振り向かない彼は月の様だと思う。

「ああ、面白く無いねぇ」
 独り言を言ったら返事が返ってきた。

「愛弟子を取られて臍を曲げているのかい?」
「蓮治さん……早かったね。仕事はいいの?」
 愛想の無い言葉一つで呼び出されて駆け付けてくれた人に幾許かの情が湧く。

(この人を本気で好きになってもいいかもしれない)
 誰かのものになるのも幸せな生き方か、とふら付いた彦十朗にしかし蓮治は笑顔で他の人の名前を口にした。

「信乃の様子は聞いたかい? 彼はわたしを寄らせてくれないんだよ。『お前に口出しされると気が散る』と言ってね。口など出さないのに、いるだけで目障りだと言われてしまう」
 子供のように拗ねた様子で口を尖らせる男に、彦十朗は何だそれはと思う。
 寝食を忘れるほどに仕事にのめり込む男が、蓮治がいるだけで意識を掻き乱されるだなんて。そんなの――。

「嫌われてますね」
 硬い口調で言った彦十朗に、蓮治は苦笑して俯く。

「昔から邪険に扱われているから気にしてないけど――それに口で言うほどには嫌われてないと思うんだよ」
 けれど信乃を怒らせてしまうと少し凹む。蓮治は自分が愚図で鈍間のろまな男になったような気がして情けなくなる。

(あの綺麗な顔で蔑まれると酷く胸が痛む。彼を一生見守ろうと誓ったのに、逃げ出したくなる。先生、彼を手に入れてはいけなくて、でも離れる事も出来ないのはなかなかに辛い。彼が俺の生きる意味ではあるけど、もう少し近付いちゃあいけませんか)
 いつも飄々とした態度の蓮治だって報われない己の立場に、たまには泣き言も言いたくなる。
 それでも信乃の守り役という立場は手放せない。

「打たれ強いあなたでなくちゃ、側にもいられませんね」
 皮肉気な彦十朗の言葉に蓮治は内心でそうでもないと反論する。
 信乃に優しくされる奴らだっている。
 三津弥は甘えられているし、慶太郎は信頼されている。信乃が身の回りに置くのは穢れなく明るい彼らのような子供ばかりだ。
 何も知らない相手だから気が楽なのだろうとは思うが、正直に言えば彼らが少々羨ましい。
 自分だって帰れるものなら信乃に出会ったばかりのあの頃に帰りたい。

「蓮治さん? そんな顔をして――まるで恋煩いでもしているようですよ?」
 彦十朗の言葉に蓮治はカッと頭に血が上った。

「恋などと、面映ゆい事を言わないでくれ」
 この歳で恋などと。

「蓮治さん……あたしにしておきなよ」
 彦十朗が蓮治にしな垂れかかりながらそう言った。

「あたしならあんたの好きなように出来る。お互いに苦しむ事も無い。そうだろう?」
「彦十朗?」
 彦十朗がそんな事を言うとは思わなくて、蓮治は怪訝そうにその少女めいた容貌を見詰めた。

「一番好きな人より、二番目に想う人を手に入れた方が人は幸せなんだよ」
「何だいそれは。随分と淋しい生き方だ」
「仕様がないじゃない。あたし達は淋しい生き物なんだから」
「彦十朗……」
 彦十朗の言う事は蓮治には何となく理解出来た。
 本来が器用でスイスイと人生を渡っていける人種だから、わざわざ苦手な本気の恋などをする事はない。
 自分の好きな可愛らしいものを周りに置いて愛でて、心地好く楽しく暮らして行けばいいのだ。
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