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⑦帰れぬ道行き−1
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うっとりとするような見事な漆黒の肌。濡れた夜のような艷やかな闇色。
ああ、とうとう作り出したんだ。俺が出したかったのはこの色艶、この肌だ。
誰も作り出した事の無い完全な漆器。それを俺自身の手で作り上げた。
どうだよ師匠、俺はもう一人前だぜ? これを見たらあんただって認めてくれるだろう?
ねぇ、師匠。そんな顔をしてどうしたの? 何処に行くの?
待って、師匠、俺を置いて行かないで! 一人にしないで!
どうしてだよ。どうして俺を置いて逝っちまったんだ。
俺はただ、あんたに褒めて欲しいだけだったのに。
寂しい。辛い。あんたに逢いたい。
なぁ、逢いたいよ。師匠……。
***
信乃は頬を濡らす冷たい感触に目を覚ました。
酷く悲しい夢を見た。
いつも見るそれは、決まって絶望的なまでの淋しさを胸に残していく。
信乃はカタカタと震える両手を見詰めて息を吐いた。
(俺の手は、まだアレを作った時の事を覚えているのか)
肌に吸い付くような手触りを、官能的な佇まいを、全てを吸い込みそうな漆黒を。そして何より――アレを作り上げた時の歓喜を身体が覚えている。あれが原因なのに忘れようにも忘れられず、こうして何度も繰り返し夢に見てしまう。
最後には悲劇が待っていると知ってるのに。
「みず……」
信乃は酷く嗄れた声で呟いてのろのろと立ち上がり、台所の水瓶から柄杓で水を汲んでごくごくと飲み干した。
立て続けに二杯を飲み干し、框にドスンと腰を下ろした。
「参ったなぁ……」
忘れようと努力している。でも何年たっても忘れられない。
自分はアレを作り出した事をまだ自慢に思っている。そして師匠に褒めて貰おうと、大したものだと頭を撫でて欲しがっていて――
「馬鹿か俺は。師匠は俺の為に死んだってのに、褒めろとはよくも言う……」
くしゃり、と髪を手で鷲掴んだ。
(駄目だ、このまま家にいては押し潰されてしまう。外へ出なくては)
信乃はおざなりに身形を整えると家を飛び出した。何処と言う当てもなく、三津弥の店に行く気分でも無かった。ただ街中をふらふらと彷徨った。
春の風が砂塵を舞い上げて着物の裾をはためかせる。
通りを歩く人々は風に顔を顰めて難儀しながらも、暖かくなってきた気候に心なしか楽しそうに見えた。
目を上げれば桜の樹木の蕾が膨らんでいるのが見え、そろそろ花見かと思うが信乃の心はちっとも浮き立たない。
桜の花弁を見ると師匠と一緒にした最後の仕事を思い出してしまう。
黒地に淡いピンク、それともいっそ冷たいまでの白が気品高いかと随分と図案を悩んだ。
結局は若い娘の嫁入り道具だからと、淡いピンクと清楚な白を組み合わせて華やぎと慎みを表現した。
仕上がった道具を見て、娘が若妻の落ち着きのようなものを表情に漂わせたのを感心しながら眺めた。
師匠はあれはイイ女になる、と言って満足そうに笑った。
それに対して信乃は良い持ち主に渡って安心だと答えた。
「良い、仕事だった……」
あれが最後の思い出ならば良かったのに。なのに信乃の最後の作品はそれではない。
夢にまで見る中棗。信乃が一人で作って師匠にも内緒で道具屋に見せた。
馬鹿な事をした。本当に馬鹿な事をしたものだ。
信乃がグッと奥歯を噛み締めて悔恨の念に堪えていると、遠くから声を掛けられた。
ああ、とうとう作り出したんだ。俺が出したかったのはこの色艶、この肌だ。
誰も作り出した事の無い完全な漆器。それを俺自身の手で作り上げた。
どうだよ師匠、俺はもう一人前だぜ? これを見たらあんただって認めてくれるだろう?
ねぇ、師匠。そんな顔をしてどうしたの? 何処に行くの?
待って、師匠、俺を置いて行かないで! 一人にしないで!
どうしてだよ。どうして俺を置いて逝っちまったんだ。
俺はただ、あんたに褒めて欲しいだけだったのに。
寂しい。辛い。あんたに逢いたい。
なぁ、逢いたいよ。師匠……。
***
信乃は頬を濡らす冷たい感触に目を覚ました。
酷く悲しい夢を見た。
いつも見るそれは、決まって絶望的なまでの淋しさを胸に残していく。
信乃はカタカタと震える両手を見詰めて息を吐いた。
(俺の手は、まだアレを作った時の事を覚えているのか)
肌に吸い付くような手触りを、官能的な佇まいを、全てを吸い込みそうな漆黒を。そして何より――アレを作り上げた時の歓喜を身体が覚えている。あれが原因なのに忘れようにも忘れられず、こうして何度も繰り返し夢に見てしまう。
最後には悲劇が待っていると知ってるのに。
「みず……」
信乃は酷く嗄れた声で呟いてのろのろと立ち上がり、台所の水瓶から柄杓で水を汲んでごくごくと飲み干した。
立て続けに二杯を飲み干し、框にドスンと腰を下ろした。
「参ったなぁ……」
忘れようと努力している。でも何年たっても忘れられない。
自分はアレを作り出した事をまだ自慢に思っている。そして師匠に褒めて貰おうと、大したものだと頭を撫でて欲しがっていて――
「馬鹿か俺は。師匠は俺の為に死んだってのに、褒めろとはよくも言う……」
くしゃり、と髪を手で鷲掴んだ。
(駄目だ、このまま家にいては押し潰されてしまう。外へ出なくては)
信乃はおざなりに身形を整えると家を飛び出した。何処と言う当てもなく、三津弥の店に行く気分でも無かった。ただ街中をふらふらと彷徨った。
春の風が砂塵を舞い上げて着物の裾をはためかせる。
通りを歩く人々は風に顔を顰めて難儀しながらも、暖かくなってきた気候に心なしか楽しそうに見えた。
目を上げれば桜の樹木の蕾が膨らんでいるのが見え、そろそろ花見かと思うが信乃の心はちっとも浮き立たない。
桜の花弁を見ると師匠と一緒にした最後の仕事を思い出してしまう。
黒地に淡いピンク、それともいっそ冷たいまでの白が気品高いかと随分と図案を悩んだ。
結局は若い娘の嫁入り道具だからと、淡いピンクと清楚な白を組み合わせて華やぎと慎みを表現した。
仕上がった道具を見て、娘が若妻の落ち着きのようなものを表情に漂わせたのを感心しながら眺めた。
師匠はあれはイイ女になる、と言って満足そうに笑った。
それに対して信乃は良い持ち主に渡って安心だと答えた。
「良い、仕事だった……」
あれが最後の思い出ならば良かったのに。なのに信乃の最後の作品はそれではない。
夢にまで見る中棗。信乃が一人で作って師匠にも内緒で道具屋に見せた。
馬鹿な事をした。本当に馬鹿な事をしたものだ。
信乃がグッと奥歯を噛み締めて悔恨の念に堪えていると、遠くから声を掛けられた。
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