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第二部
②執着心と焼き餅と
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(馬鹿な。俺がノーマルの男を……?)
速水はもう長い事オカマ以外の男を抱いていない。人を好きになる事すら無かった。
欲望のままに互いに後腐れの無い関係を持つ。口説き落とせるか落とせないか。重要なのはそれだけだった。
(睦月は……落とせないな。確実に)
彼がどういう性癖をしているのかは知らないが、間違いなく男の甘言になど乗らない。そんな遊びなどしない。
(だから俺の相手にはならないって事だ)
速水はちゃんと理解していた。これは自分が普段相手にしているようなのとは違う。遊ぶ事も出来ないし、そもそも見えている風景も使っている言語も立っている場所も何もかもが違う。そんなのに正面から関わる愚など犯せない。なのに――
「おい、どうしたんだ?」
下から顔を覗き込まれて勝手に速水の頬が熱くなる。
顔が近い。長い睫毛の羽ばたきが聴こえそうで、吐息が届きそうで心から震える。
見た目はもっさい身形の研究者だが、速水には葵の伸び放題の髪すら手を伸ばしたくて触ってみたくて仕方がない。
「……何でも無い。早く行った方がいいんじゃないか」
「ああ、ケンヂが待ってるんだった」
慌てたように立ち上がった葵に速水は思わず手を伸ばした。けれども彼に触れる前に自ら指を握り込んだ。
葵は速水の事など一顧だにせず部屋を出て行った。
(俺が洗った服を着て別の男に会いに行く……)
葵は勿論そんな事は知らない。彼はただ一番上に置いてあった服を手に取っただけだ。
洗濯は着られる服が無くなったらするもので、誰かが代わりにしているなどと気付きもしない。
速水は家にじっとしていたらろくでもない事を考えそうで、久し振りに街に遊びに出掛けた。けれども葵がいつ帰ってくるかと心配で、結局は早々に帰ってきてしまった。
そして掃除をしたり煮込みハンバーグの仕込みをしたりステレオの分解手入れまでして待っていたら葵が帰って来た。但し酔っ払って、ケンヂに背負われてだ。
「速水さん、こんな時間にゴメンナサイ」
ケンヂが申し訳なさそうに謝りつつ部屋に上がってきた。
「……潰したのかい?」
葵を引き取ろうと速水が手を差し出したら、ケンヂに拒否された。
「葵さん、酔っ払うとおぶさってくるから――慣れてるので、俺が運びますよ」
「…………そう」
(何だって君は嬉しそうなのかな? ただの後輩なんだろう? 俺を牽制するような真似は何のつもりだ)
速水はかなり腹立たしくそう思った。思ったけれど怒りのままにそれをぶちまけては拙い。自分らしくないし、まるで妬いているみたいじゃないか。
速水は何気ない素振りでケンヂに付いて行き、彼が葵をベッドに降ろすのを確かめてからリビングに誘った。
「珈琲でもどうだい?」
「戴きます」
速水は手際よく豆を挽いてハンドドリップで珈琲を淹れた。馥郁たる香りが部屋中に広がる。
「おいし。こんなに美味しいのに、葵さんは珈琲が苦手で勿体無いな」
自分ならば毎朝強請っちゃうかも、と悪戯っぽく笑ったケンヂの可愛らしい顔を速水が窺うように見た。
「葵は珈琲が苦手なのかい?」
「ええ、そうですよ。あの人は好き嫌いが本当に多くて、刺身とか寿司は食べる癖に他の日本食は全滅だし、甘いのが嫌いだから砂糖の入った料理もほぼ食べないし、あと野菜もレタスは苦いから嫌いとかほうれん草は土臭いとかゴボウは筋っぽくて苦手とか子供みたいな理由で食べませんしね。あの人の食生活は本当にどうにかしたいんだけど」
自分の手には余る、と言ったケンヂに速水は上の空で頷いた。
(日本食が全滅って、それじゃあ俺が出す料理を食べない筈だよ! あと野菜も食べられないって? 他に何が駄目なんだ?)
もっと詳しく聞き出したくてじりじりしている速水に、ケンヂの方から遠慮がちに持ち掛けた。
「あの、たまにで良いんですけど……お豆腐とか、レバニラ炒めとか、ついでがあったらちょこっと食べさせてあげて欲しいなって……」
「好きなのかい?」
速水の言葉にケンヂが首を横に振る。
「豆腐は特に好きじゃないけど食べてくれるから。レバニラ炒めは多分、好きですね。あとラーメンと餃子と――中華料理は大体が口に合うみたいです」
「つまりは辛くて脂っこい料理という事?」
「まぁ、そうですね」
速水は素早く考えを巡らせる。
中華料理は好きだが毎日食べるなら食べ飽きない家庭料理であるべきだろう。葵の身体の為にも。
(直ぐに知り合いの中国人経営者に家庭料理を教えてくれる人を紹介して貰おう)
「構わないよ。ついでに他にも好きなものを教えてくれたら作るけど」
「ええと……おにぎり、ですね」
「おにぎり? どうして?」
確かにそれだけはちゃんと食べてくれたけれど、何か理由があるのかと速水が訊ねた。
「片手で食べやすいんだと思います。あと、手作りが嬉しいって言ってましたね」
「……君が作ってあげたのかい?」
「ええ。お弁当までは無理ですけど、おにぎりくらいなら俺にも作れるし……米は実家から沢山送られて来ますしね」
「へぇ」
ケンヂの言葉に速水の胸がざら付いた。
『手作りが嬉しい』と葵が言ったのか。自分には何一つ要望など、感想すら言わない彼がケンヂには嬉しいと。
(俺の作ったおにぎりを食べながら君は誰を想っていた? 味が違うと思ったか? 本当は彼を頼りたいと思っていたのじゃないか?)
葵の胸の内を勝手に想像して速水は苦々しさを噛み締めた。
自分ではない。葵が気を許している人間は自分ではない。
「ケンヂは葵とは年が離れているのに、どうしてそんなに親しくなったの?」
「え……それは――ヒミツです」
ケンヂのはにかんだ笑みを以前の速水なら可愛いと思っただろう。けれども今は腹立ちしか感じない。
言えない理由でもあるのか、それとも言いたくないのか。
「なら彼に直接に聞くよ」
速水はにっこりと笑ってケンヂにそう言った。そのちっとも笑っていない目を見て、ケンヂはぶるりと身体を震わせた。
オーナーがただの親切な大人では無い事を今更に思い出したのだった。
速水はもう長い事オカマ以外の男を抱いていない。人を好きになる事すら無かった。
欲望のままに互いに後腐れの無い関係を持つ。口説き落とせるか落とせないか。重要なのはそれだけだった。
(睦月は……落とせないな。確実に)
彼がどういう性癖をしているのかは知らないが、間違いなく男の甘言になど乗らない。そんな遊びなどしない。
(だから俺の相手にはならないって事だ)
速水はちゃんと理解していた。これは自分が普段相手にしているようなのとは違う。遊ぶ事も出来ないし、そもそも見えている風景も使っている言語も立っている場所も何もかもが違う。そんなのに正面から関わる愚など犯せない。なのに――
「おい、どうしたんだ?」
下から顔を覗き込まれて勝手に速水の頬が熱くなる。
顔が近い。長い睫毛の羽ばたきが聴こえそうで、吐息が届きそうで心から震える。
見た目はもっさい身形の研究者だが、速水には葵の伸び放題の髪すら手を伸ばしたくて触ってみたくて仕方がない。
「……何でも無い。早く行った方がいいんじゃないか」
「ああ、ケンヂが待ってるんだった」
慌てたように立ち上がった葵に速水は思わず手を伸ばした。けれども彼に触れる前に自ら指を握り込んだ。
葵は速水の事など一顧だにせず部屋を出て行った。
(俺が洗った服を着て別の男に会いに行く……)
葵は勿論そんな事は知らない。彼はただ一番上に置いてあった服を手に取っただけだ。
洗濯は着られる服が無くなったらするもので、誰かが代わりにしているなどと気付きもしない。
速水は家にじっとしていたらろくでもない事を考えそうで、久し振りに街に遊びに出掛けた。けれども葵がいつ帰ってくるかと心配で、結局は早々に帰ってきてしまった。
そして掃除をしたり煮込みハンバーグの仕込みをしたりステレオの分解手入れまでして待っていたら葵が帰って来た。但し酔っ払って、ケンヂに背負われてだ。
「速水さん、こんな時間にゴメンナサイ」
ケンヂが申し訳なさそうに謝りつつ部屋に上がってきた。
「……潰したのかい?」
葵を引き取ろうと速水が手を差し出したら、ケンヂに拒否された。
「葵さん、酔っ払うとおぶさってくるから――慣れてるので、俺が運びますよ」
「…………そう」
(何だって君は嬉しそうなのかな? ただの後輩なんだろう? 俺を牽制するような真似は何のつもりだ)
速水はかなり腹立たしくそう思った。思ったけれど怒りのままにそれをぶちまけては拙い。自分らしくないし、まるで妬いているみたいじゃないか。
速水は何気ない素振りでケンヂに付いて行き、彼が葵をベッドに降ろすのを確かめてからリビングに誘った。
「珈琲でもどうだい?」
「戴きます」
速水は手際よく豆を挽いてハンドドリップで珈琲を淹れた。馥郁たる香りが部屋中に広がる。
「おいし。こんなに美味しいのに、葵さんは珈琲が苦手で勿体無いな」
自分ならば毎朝強請っちゃうかも、と悪戯っぽく笑ったケンヂの可愛らしい顔を速水が窺うように見た。
「葵は珈琲が苦手なのかい?」
「ええ、そうですよ。あの人は好き嫌いが本当に多くて、刺身とか寿司は食べる癖に他の日本食は全滅だし、甘いのが嫌いだから砂糖の入った料理もほぼ食べないし、あと野菜もレタスは苦いから嫌いとかほうれん草は土臭いとかゴボウは筋っぽくて苦手とか子供みたいな理由で食べませんしね。あの人の食生活は本当にどうにかしたいんだけど」
自分の手には余る、と言ったケンヂに速水は上の空で頷いた。
(日本食が全滅って、それじゃあ俺が出す料理を食べない筈だよ! あと野菜も食べられないって? 他に何が駄目なんだ?)
もっと詳しく聞き出したくてじりじりしている速水に、ケンヂの方から遠慮がちに持ち掛けた。
「あの、たまにで良いんですけど……お豆腐とか、レバニラ炒めとか、ついでがあったらちょこっと食べさせてあげて欲しいなって……」
「好きなのかい?」
速水の言葉にケンヂが首を横に振る。
「豆腐は特に好きじゃないけど食べてくれるから。レバニラ炒めは多分、好きですね。あとラーメンと餃子と――中華料理は大体が口に合うみたいです」
「つまりは辛くて脂っこい料理という事?」
「まぁ、そうですね」
速水は素早く考えを巡らせる。
中華料理は好きだが毎日食べるなら食べ飽きない家庭料理であるべきだろう。葵の身体の為にも。
(直ぐに知り合いの中国人経営者に家庭料理を教えてくれる人を紹介して貰おう)
「構わないよ。ついでに他にも好きなものを教えてくれたら作るけど」
「ええと……おにぎり、ですね」
「おにぎり? どうして?」
確かにそれだけはちゃんと食べてくれたけれど、何か理由があるのかと速水が訊ねた。
「片手で食べやすいんだと思います。あと、手作りが嬉しいって言ってましたね」
「……君が作ってあげたのかい?」
「ええ。お弁当までは無理ですけど、おにぎりくらいなら俺にも作れるし……米は実家から沢山送られて来ますしね」
「へぇ」
ケンヂの言葉に速水の胸がざら付いた。
『手作りが嬉しい』と葵が言ったのか。自分には何一つ要望など、感想すら言わない彼がケンヂには嬉しいと。
(俺の作ったおにぎりを食べながら君は誰を想っていた? 味が違うと思ったか? 本当は彼を頼りたいと思っていたのじゃないか?)
葵の胸の内を勝手に想像して速水は苦々しさを噛み締めた。
自分ではない。葵が気を許している人間は自分ではない。
「ケンヂは葵とは年が離れているのに、どうしてそんなに親しくなったの?」
「え……それは――ヒミツです」
ケンヂのはにかんだ笑みを以前の速水なら可愛いと思っただろう。けれども今は腹立ちしか感じない。
言えない理由でもあるのか、それとも言いたくないのか。
「なら彼に直接に聞くよ」
速水はにっこりと笑ってケンヂにそう言った。そのちっとも笑っていない目を見て、ケンヂはぶるりと身体を震わせた。
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